第92話 一年の歳月
◇
工場建設が始まって、三ヶ月——
リーゼは、建設現場で設計図を広げていた。
「培養棟の換気システムですが——」と技師が説明する。「この設計だと、室温が安定しません」
「そうですか……」とリーゼは考え込んだ。
培養には——一定の温度と湿度が必要だ。わずかな変動でも、放線菌の生育に影響が出る。
「では——」とリーゼは設計図に書き込んだ。「二重壁構造にして、間に空気層を作りましょう。そうすれば、外気温の影響を減らせます」
「なるほど……」と技師が感心した。「さすがです、先生」
でも——リーゼは思った。
(まだまだ、課題は山積みだわ……)
◇
その頃——王立医学アカデミーの講義室。
「皆さん」とリーゼは、十五名の研修生の前に立っていた。「今日は、無菌操作の基礎を学びます」
研修生たち——二十代から三十代の、医師や薬剤師たち。彼らは、将来の工場技術者として選ばれた人材だった。
「微生物を扱う上で、最も重要なこと——」とリーゼは説明した。「それは、汚染を防ぐことです」
彼女は、アルコールランプを点火した。
「火の近くで作業すれば——」とリーゼは実演する。「上昇気流が生まれ、空気中の雑菌が入りにくくなります」
研修生たちが、熱心にメモを取る。
「では、実際にやってみましょう」
一人の研修生——
ヨーゼフという名の薬剤師が、試験管を手に取った。
でも——
彼の手つきは、不安定だった。
試験管の蓋を開ける時——
火から離れすぎている。
「ヨーゼフさん」とリーゼが指摘した。「もっと火の近くで作業してください」
「は、はい……」とヨーゼフは緊張しながら、やり直した。
でも——今度は、試験管を火に近づけすぎて——培地が沸騰してしまった。
「あっ……!」
「大丈夫です」とリーゼは優しく言った。「失敗は、学びの一部ですから」
ヨーゼフは、申し訳なさそうに頭を下げた。
(人材育成は……思った以上に大変だわ)とリーゼは思った。(でも、諦めるわけにはいかない)
◇
五ヶ月後——建設現場には、三つの建物の骨組みが立ち上がっていた。
「順調ですね」とエルヴィンが報告した。「あと四ヶ月で、完成します」
「そうね」とリーゼは微笑んだ。
でも——彼女の表情は、疲れていた。
毎日——建設現場の監督、研修生の指導、設計変更の対応——十六歳の少女には、重すぎる責任だった。
「リーゼ」とエリーゼが心配そうに言った。
「少し休んだら?」
「あなた、最近ずっと働きっぱなしよ」
「大丈夫」とリーゼは答えた。「まだ、やることがたくさんあるから」
でも——その夜、リーゼは部屋で倒れた。
「リーゼ!」とエリーゼが駆け寄る。
「大丈夫……ちょっと、めまいがしただけ……」
「無理しすぎよ!」とエリーゼは叱った。「あなた、ちゃんと食べてる? 寝てる?」
リーゼは——答えられなかった。
この数ヶ月——ろくに食事も睡眠も取らずに、働き続けていた。
「今日は、もう休みなさい」とエリーゼは、リーゼをベッドに寝かせた。
「でも——」
「いいから!」とエリーゼは強く言った。「あなたが倒れたら、すべてが止まってしまうのよ」
リーゼは——エリーゼの言葉に、ようやく気づいた。
(そうだ……私一人で抱え込んではいけない……)
そして——リーゼは、自分自身との約束も決めた。
(毎日、一時間は散歩する)(仲間と一緒に、お茶を飲む時間を作る)(ちゃんと食べて、ちゃんと寝る)
前世の佐藤美咲は——自分を犠牲にして、働き続けて、倒れた。
でも、もう——同じ過ちは繰り返さない。
(自分を大切にすることも、責任の一つなんだわ)
◇
翌日——
リーゼは、研修生たちに提案した。
「皆さん」と彼女は言った。「これからは、各自に担当分野を割り振ります」
研修生たちが、顔を見合わせた。
「ヨーゼフさんは、培養工程の責任者」とリーゼは続けた。「マルティンさんは、抽出工程。アンナさんは、精製工程」
研修生たちに——それぞれの役割を与えていく。
「私一人では、すべてを管理できません」とリーゼは正直に言った。「皆さんの力が、必要なんです」
ヨーゼフが——
驚いた顔で尋ねた。
「先生……私たちに、そんな責任を……?」
「はい」とリーゼは頷いた。「あなたたちは、もう十分な知識を持っています。後は、実践あるのみです」
「でも……失敗したら……」
「失敗してもいいんです」とリーゼは微笑んだ。「その時は、一緒に考えましょう。大切なのは、挑戦することです」
研修生たちの目に——決意の光が宿った。
◇
七ヶ月後——建物の外観が、ほぼ完成していた。
内部では——培養槽や抽出装置の設置が進んでいる。
「リーゼ先生」とヨーゼフが報告に来た。「培養槽のテストが完了しました」
「どうだった?」
「温度は、二十五度で安定しています」とヨーゼフは嬉しそうに言った。
「湿度も、六十パーセントを維持できました」
「素晴らしいわ!」とリーゼは喜んだ。
ヨーゼフは——半年前の不安定な手つきが嘘のように、自信に満ちていた。
「先生のおかげです」とヨーゼフは頭を下げた。「私、最初は自信がありませんでした。でも、先生が信じてくださったから……」
「あなたが、頑張ったからよ」とリーゼは微笑んだ。
◇
九ヶ月後——リーゼは、十七歳の誕生日を迎えた。
アレクサンダー王子が、小さな祝宴を開いてくれた。
「おめでとう、リーゼ」と王子は、花束を贈った。
「ありがとうございます、殿下」
「この一年——」と王子は言った。「君は、本当によく頑張ったな」
「はい……」とリーゼは頷いた。「大変でしたけど……充実していました」
「工場は、あと二ヶ月で完成だ」と王子は続けた。「もう少しだな」
「そうですね」
でも——リーゼの心には、まだ不安があった。
「殿下」
「何だ?」
「私……主任研究員として、やっていけるでしょうか……」とリーゼは弱音を吐いた。
「どうしてそんなことを?」と王子が驚いた。
「だって……私、まだ十七歳ですよ」とリーゼは続けた。「研修生の皆さんは、みんな年上で経験豊富です」
「私なんかが、指導していいのかって……」
王子は——リーゼの頭を優しく撫でた。
「リーゼ」
「はい……」
「年齢じゃない」と王子は言った。「大切なのは、君が何を成し遂げたかだ」
リーゼは、王子を見上げた。
「君は——」と王子は続けた。「ペニシリンを発見し、改良した。ストレプトマイシンを改良し、臨床試験を成功させた。そして今、量産体制を築こうとしている」
王子の言葉が——リーゼの心に、温かく響いた。
「これだけの実績を持つ医師は——」と王子は微笑んだ。「この国に、君以外いない」
「殿下……」
「自信を持て、リーゼ」と王子は言い切った。「君は、素晴らしい医師だ。そして——」
王子は、リーゼの手を取った。
「私の、大切な人だ」
リーゼの目に——涙が浮かんだ。
「ありがとうございます……」
二人は——静かに抱き合った。
◇
その翌日——リーゼは、アカデミーの図書室で資料を整理していた。
ふと——違和感が、胸をよぎった。
(そういえば……)とリーゼは気づいた。
(この半年……教会からの妨害が、まったくない……)
かつては——薬への毒混入、倉庫の爆破、様々な妨害工作があった。
でも——工場建設が始まってから、目立った妨害はない。
(嵐の前の静けさ……?)とリーゼは、不安を感じた。
(それとも、諦めたのかしら……)
いや——彼女の直感が、否定する。
(バルタザール神父は……そんな人間じゃない)
リーゼは、窓の外を見つめた。
(きっと、何か企んでいる。もっと大きな、決定的な一撃を……)
背筋に、冷たいものが走った。
でも——
「リーゼ先生」とヨーゼフが、報告書を持ってきた。「培養槽のデータ、まとまりました」
「ありがとう」とリーゼは微笑んだ。
(不安を抱えていても、前に進むしかない)
彼女は、報告書に目を通した。
(そして——警戒だけは、怠らないようにしないと)
◇
十一ヶ月後——工場の設備が、すべて搬入された。
巨大な培養槽——複雑な配管——精密な抽出装置——
「すごい……」と研修生たちが、感嘆の声を上げた。
「さあ、皆さん」とリーゼは言った。「最終テストを始めましょう」
研修生たちは——それぞれの持ち場に散った。
ヨーゼフが、培養槽に培地を注入する。
マルティンが、抽出装置の配管を確認する。
アンナが、精製装置のバルブを調整する。
全員が——自分の役割を、完璧に理解していた。
(この一年で……みんな、本当に成長したわ)とリーゼは、誇らしく思った。
「先生、準備完了です!」とヨーゼフが報告した。
「では——」とリーゼは深呼吸した。「テスト稼働を開始します。水門を開いて!」
ヨーゼフが、水車への導水路の水門レバーを引く。
ゴォォォ——
川の水が流れ込み、巨大な水車が回り始めた。水車の動力が歯車を通じて伝わり、機械が動き出す。培養槽がゆっくりと回転し、ポンプが作動し、配管を通って液体が流れていく。
「温度計を確認!培養槽、安定しています!」とヨーゼフが報告する。
「配管の圧力計、正常値です!」とマルティンが続く。
「液体の流れ、順調です!」とアンナが叫んだ。
「成功よ……!」とリーゼは歓声を上げた。
研修生たち全員が——抱き合って、喜んだ。
◇
一年後——ついに、完成式典の日を迎えた。
リーゼは——完成した工場を見上げた。
この一年——設計の失敗、技術的な問題、人材育成の苦労——数え切れないほどの困難があった。
何度も——諦めそうになった。
でも——仲間たちが支えてくれた。
アレクサンダー王子が、励ましてくれた。
そして——ついに、ここまで来た。
「先生」とヨーゼフが、研修生を代表して言った。「この一年、本当にありがとうございました」
「いいえ」とリーゼは微笑んだ。「私こそ、皆さんに感謝しています」
「先生がいなければ——」とアンナが続けた。「私たち、ここまで来られませんでした」
「これからが、本当のスタートよ」とリーゼは言った。「この工場で作る薬を——一人でも多くの患者さんに届けましょう」
「はい!」
研修生たち全員が——力強く頷いた。
◇
式典の準備が整い——国王陛下を迎える時が来た。
リーゼは——緊張と期待で、胸がいっぱいだった。
この一年の歳月——十六歳から十七歳へ。
少女から——一人の研究者、指導者へと成長した。
まだまだ、未熟だと思う。
でも——この一年で学んだことは、計り知れない。
失敗から学ぶこと。仲間を信じること。自分を信じること。
(私は、もう一人じゃない)とリーゼは思った。
(たくさんの仲間がいる。支えてくれる人たちがいる)
そして——
(愛してくれる人がいる)
アレクサンダー王子の顔が、浮かんだ。
(だから、私は戦える)
リーゼは、決意を新たにした。
工場の門が開き——国王の馬車が、入ってくる。
式典が——始まろうとしていた。
◇
一年の歳月——十六歳から十七歳へ。リーゼは少女から研究者、指導者へと成長した。
失敗と挑戦の日々——それらすべてが、今日につながっている。
仲間たちと共に歩んだ道のり。アレクサンダー王子の支え。そして——今日、ついにその成果を世に示す時が来た。
リーゼは深呼吸をした。
そして今、国王陛下を迎える式典が始まろうとしている。
一年の歳月——その全てが、この瞬間のために。
(私は、もう迷わない)とリーゼは決意を新たにした。
式典会場へ——新しい未来へと、一歩を踏み出す。




