第91話 量産への道と新たな障壁
◇
臨床試験成功から三日後——
リーゼは、王立医学アカデミーの会議室で計画を説明していた。
「改良株ストレプトマイシンの量産には——」
彼女は、資料を示した。
「三つの課題があります」
会議室には、アカデミー長、エルヴィン、エリーゼ、そしてアレクサンダー王子が座っていた。
「まず、原料の確保です」
リーゼは説明を続けた。
「放線菌を大量に培養するには、培地が必要です」
「麦芽エキス、ペプトン、寒天——これらを安定して供給できる体制を作らなければなりません」
「どれくらいの量が必要なんだ?」
王子が尋ねた。
「現在、王都だけで結核患者は約五百名います」
リーゼは答えた。
「一人あたり二週間の治療で、約百グラムの薬が必要です」
「つまり——」
アカデミー長が計算した。
「五万グラム——五十キログラムか」
「はい」
リーゼは頷いた。
「そして、これは王都だけの数字です」
「全国では、おそらく一万人以上の患者さんがいるでしょう」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
「一トン以上……」
エルヴィンが呟いた。
「二つ目の課題は——」
リーゼは続けた。
「製造設備です」
彼女は、設計図を広げた。
「大型の培養槽、抽出装置、精製装置——」
「これらを備えた専用の工場が必要です」
「費用は?」
王子が尋ねた。
「概算で——」
リーゼは書類を示した。
「建設費だけで、金貨五千枚」
「五千枚……!」
アカデミー長が驚いた。
「そして、三つ目の課題は——」
リーゼは真剣な表情で言った。
「人材です」
「人材?」
「はい」
リーゼは頷いた。
「製造工程を管理し、品質を保証できる技術者が必要です」
「微生物学の知識を持ち、無菌操作ができる人材——」
「現在、この国にはほとんどいません」
会議室が、再び沈黙した。
「つまり——」
王子がまとめた。
「原料、設備、人材——すべてをゼロから作り上げなければならないということか」
「はい」
リーゼは答えた。
「でも——」
彼女は、決意を込めて続けた。
「やり遂げます」
「どんなに困難でも、この薬を必要としている人々のために」
王子は、リーゼの目を見つめた。
「分かった」
彼は頷いた。
「資金は、王室が支援する」
「父上にも相談しよう」
「ありがとうございます、殿下」
「それから——」
アカデミー長が言った。
「人材育成は、アカデミーが担当しましょう」
「微生物学の講座を開設し、技術者を養成します」
「お願いします」
リーゼは深く頭を下げた。
「原料の供給については——」
エルヴィンが提案した。
「商人組合に協力を依頼してはどうでしょうか?」
「良い案ね」
エリーゼが頷いた。
「では——」
リーゼは立ち上がった。
「さっそく準備を始めましょう」
◇
その頃——
王宮の貴族会議室。
三十名を超える貴族たちが、集まっていた。
「本日の議題は——」
宮廷大臣エドゥアルト・フォン・ヴァルトシュタインが、演台に立った。
「王家の血統保護に関する法令についてです」
貴族たちが、ざわめいた。
「近年——」
エドゥアルトは続けた。
「王子殿下が、辺境の弱小貴族出身の小娘と親密な関係にあることは、皆様もご存知でしょう」
リーゼ・フォン・ハイムダル——
その名前は、誰もが知っていた。
「彼女は、確かに優秀な医師です」
エドゥアルトは認めた。
「でも、所詮は成り上がりの娘です」
貴族たちが、頷いた。
「もし——」
エドゥアルトは声を低めた。
「もし、王子殿下が彼女と結婚されるようなことがあれば——」
会議室が、静まり返った。
「王家の血統が、汚されます」
その言葉に——
多くの貴族が同意の声を上げた。
「そうだ!」
「辺境の弱小貴族との結婚など、あってはならない!」
「王家の威厳が損なわれる!」
「だからこそ——」
エドゥアルトは、書類を掲げた。
「この法令を提案します」
彼は、読み上げた。
「『王族の婚姻資格に関する法令』」
貴族たちが、どよめいた。
「この法令により——」
エドゥアルトは説明した。
「王族は、公爵家または伯爵家以上の家柄としか結婚できなくなります」
「辺境伯や子爵といった下位貴族との婚姻は——」
彼は言葉を区切った。
「認められません」
「素晴らしい!」
「これこそ、王国の伝統を守る法だ!」
「賛成する!」
多くの貴族が、賛同の声を上げた。
「では——」
エドゥアルトは微笑んだ。
「採決を行います」
挙手——
三十名中、二十五名が賛成した。
「可決です」
エドゥアルトは宣言した。
「この法令を、国王陛下に上奏いたします」
会議室に、拍手が響いた。
エドゥアルトは——
冷たく微笑んでいた。
(これで——)
彼は思った。
(アレクサンダー王子と、あの小娘の関係は終わりだ)
◇
その報告は——
すぐに王子の耳に入った。
「何だと!?」
アレクサンダー王子は、怒りで立ち上がった。
「はい」
側近が報告した。
「貴族会議で可決されました」
「『王族の婚姻資格に関する法令』です」
「王族は、公爵家または伯爵家以上としか婚姻できないという内容です」
「そんな法令……!」
王子は拳を握りしめた。
「国王陛下への上奏は、明日行われる予定です」
側近は続けた。
「父上が、これを承認するとは思えない」
王子は言った。
「ですが——」
側近は心配そうに言った。
「貴族会議の総意です」
「陛下も、無視はできないかもしれません」
王子は、窓の外を見つめた。
(リーゼ……)
彼女のことが、頭に浮かんだ。
もし、この法令が通れば——
自分とリーゼの関係は、法的に認められなくなる。
(そんなこと……)
王子は、決意した。
(絶対に、認めない)
◇
リーゼは——
この法令のことを、まだ知らなかった。
彼女は、工場建設の予定地を視察していた。
「ここが、建設予定地です」
アカデミー長が説明した。
王都の郊外——
広大な空き地が広がっている。
「十分な広さがありますね」
リーゼは頷いた。
「ええ」
アカデミー長は続けた。
「ここに、培養棟、抽出棟、精製棟——三つの建物を建てます」
「水源は?」
「川が近くにあります」
アカデミー長が指差した。
「清潔な水を、安定して供給できます」
「完璧です」
リーゼは微笑んだ。
「では、さっそく建設を——」
その時——
ドォン!
遠くで、爆発音が響いた。
「何!?」
リーゼが振り返る。
王都の方向——
黒い煙が上がっていた。
「あれは……」
エリーゼが呟いた。
「商業地区の方向……」
「まさか……!」
リーゼの顔色が変わった。
商業地区——
そこには、麦芽エキスを供給してくれる商人の倉庫があった。
「急いで戻りましょう!」
◇
商業地区——
倉庫が、炎に包まれていた。
「火事だ!」
「水を持ってこい!」
「逃げろ!」
人々が、パニックになっている。
リーゼたちが到着した時——
すでに倉庫は、半分以上焼け落ちていた。
「これは……」
リーゼは呆然と立ち尽くした。
倉庫の主人が、顔を真っ黒にして駆け寄ってきた。
「リーゼ先生……!」
彼は絶望的な表情で言った。
「すべて……すべて燃えてしまいました……」
「原料が……」
リーゼは唇を噛んだ。
「麦芽エキス、ペプトン——」
倉庫主は泣きそうな顔で続けた。
「一ヶ月分の在庫が、すべて……」
リーゼは、燃え盛る倉庫を見つめた。
(これは……偶然じゃない……)
彼女は、直感した。
(妨害工作だ……)
◇
その夜——
近衛隊の調査で、真相が明らかになった。
「放火です」
隊長が報告した。
「倉庫の裏口に、油が撒かれた痕跡がありました」
「やはり……」
アレクサンダー王子は唇を噛んだ。
「目撃者はいるか?」
「はい」
隊長は続けた。
「近所の住人が、黒い服の男を見たと証言しています」
「黒い服……」
リーゼは呟いた。
「教会の……」
「おそらく、そうでしょう」
隊長は頷いた。
「許せん……」
王子は怒りを抑えきれない。
「リーゼの研究を妨害するだけでなく、無関係な商人まで巻き込むとは……」
リーゼは、静かに言った。
「殿下」
「何だ?」
「怒っても、仕方ありません」
リーゼは続けた。
「今必要なのは、代替の原料を見つけることです」
王子は、リーゼの冷静さに驚いた。
「君は……怒らないのか?」
「怒っています」
リーゼは答えた。
「でも、怒りで問題は解決しません」
彼女は、前を向いた。
「他の商人を探します」
「原料の供給ルートを、複数確保します」
「一箇所が潰されても、他で補えるように」
王子は——
リーゼの強さに、改めて感動した。
「分かった」
彼は頷いた。
「私も、協力する」
◇
翌日——
アレクサンダー王子は、国王に謁見していた。
「父上」
王子は膝をついた。
「お願いがあります」
「何だ、アレクサンダー」
国王ハインリヒ四世が尋ねた。
「貴族会議が上奏した法令——」
王子は真剣な表情で言った。
「『王族の婚姻資格に関する法令』について」
「ああ……」
国王は深くため息をついた。
「あの法令か」
「父上、どうかこれを——」
王子は懇願した。
「否決してください」
「アレクサンダー」
国王は、息子の目を見つめた。
「お前は、リーゼ・フォン・ハイムダルと——」
「はい」
王子は即答した。
「私は、彼女を愛しています」
国王は、長い沈黙の後——
「分かっている」
彼は静かに言った。
「お前の気持ちは、見ていれば分かる」
「では——」
「だが」
国王は厳しい表情で続けた。
「貴族会議の総意を無視することは、できない」
「父上……」
「王とは——」
国王は言った。
「個人の感情だけで動いてはならない」
「国全体のバランスを、考えなければならない」
王子は、唇を噛んだ。
「では、父上はこの法令を承認されるのですか?」
国王は、長い沈黙の後——
「一週間、待て」
彼は答えた。
「一週間……?」
「その間に、考えさせてくれ」
国王は続けた。
「貴族たちとも、話し合いの場を持つ」
王子は——
わずかな希望を見出した。
「ありがとうございます、父上」
王子は、深く頭を下げた。
◇
リーゼは——
商人たちと交渉を続けていた。
「麦芽エキスの供給——可能でしょうか?」
「うーん……」
商人は困った顔をした。
「正直、難しいですね」
「なぜですか?」
「最近、原料の価格が高騰しているんです」
商人は説明した。
「それに——」
彼は声を低めた。
「教会の圧力もあります」
「教会の……?」
「ええ」
商人は頷いた。
「『リーゼ先生に協力する商人は、破門する』と脅されているんです」
リーゼは、愕然とした。
(そこまで……)
教会は——
あらゆる手段で、彼女を潰そうとしている。
「すみません、先生」
商人は頭を下げた。
「私も、生活がありますので……」
「いいえ」
リーゼは微笑んだ。
「分かります」
「無理は言いません」
商人が去った後——
エリーゼが心配そうに言った。
「リーゼ、どうするの?」
「他を探すわ」
リーゼは答えた。
「諦めない」
「でも——」
「エリーゼ」
リーゼは、親友の肩を抱いた。
「大丈夫」
「必ず、道は開ける」
エリーゼは——
リーゼの強さに、涙が出そうになった。
「リーゼ……」
◇
三日後——
リーゼは、ついに協力者を見つけた。
それは——
南部地方の商人組合だった。
「私たちは、教会の圧力には屈しません」
組合長が力強く言った。
「リーゼ先生の研究は、人々を救うものです」
「それを支援することが、私たちの誇りです」
リーゼの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとうございます……」
「原料は、安定して供給します」
組合長は続けた。
「麦芽エキス、ペプトン、寒天——すべて、月に一度の定期便で届けます」
「本当に……ありがとうございます……」
リーゼは、何度も頭を下げた。
◇
その夜——
リーゼは、アレクサンダー王子に報告した。
「原料の供給ルートが、確保できました」
「本当か!」
王子は喜んだ。
「良かった……」
「南部商人組合が、協力してくれることになりました」
リーゼは微笑んだ。
「素晴らしい」
王子は、リーゼの頭を撫でた。
でも——
王子の表情は、どこか暗かった。
「殿下……?」
リーゼが心配そうに尋ねた。
「リーゼ」
王子は、真剣な表情で言った。
「話がある」
「はい」
「貴族会議で——」
王子は、法令のことを説明した。
リーゼは——
言葉を失った。
「王族は……公爵家または伯爵家以上としか……?」
「そうだ」
王子は頷いた。
「お前は辺境伯の娘だから——」
「この法令が通れば、私とお前の関係を、法的に断つことになる」
リーゼの胸が、痛んだ。
「それは……」
「父上は、まだ決断していない」
王子は続けた。
「でも、貴族会議の圧力は強い」
リーゼは、下を向いた。
「私のせいで……」
彼女は震える声で言った。
「私のせいで、殿下が……」
「違う」
王子は、リーゼの肩を抱いた。
「お前のせいじゃない」
「でも——」
「これは、古い考えに縛られた貴族たちの問題だ」
王子は言い切った。
「お前は、何も悪くない」
リーゼは、王子の胸に顔を埋めた。
涙が、止まらなかった。
「殿下……」
「リーゼ」
王子は、優しく背中をさすった。
「私は、お前を諦めない」
「でも……法律が……」
「法律は、変えられる」
王子は力強く言った。
「そのために、私は戦う」
リーゼは、王子を見上げた。
「殿下……」
「お前は、医学で世界を変えている」
王子は微笑んだ。
「なら、私は政治で世界を変える」
「お前と一緒にいられる世界を、作る」
リーゼの心が——
温かくなった。
「ありがとうございます……殿下……」
二人は——
しばらく抱き合っていた。
◇
一週間後——
国王ハインリヒ四世は、決断を下した。
謁見の間——
貴族たちが集まっていた。
「貴族会議が上奏した法令について——」
国王が厳かに言った。
「朕は、これを否決する」
会議室が、どよめいた。
「陛下!」
エドゥアルト大臣が立ち上がった。
「なぜです!?」
「理由は、三つある」
国王は答えた。
「第一に——」
彼は続けた。
「この法令は、遡及的に既存の婚姻関係にも影響を与える」
「それは、法の公平性に反する」
貴族たちが、顔を見合わせた。
「第二に——」
国王は続けた。
「下位貴族からの人材登用を阻害する」
「優秀な者を、生まれた家の格だけで排除することは、国の損失だ」
「ですが——」
エドゥアルトが食い下がった。
「第三に——」
国王は、鋭い目でエドゥアルトを見た。
「これは、特定の個人を標的にした法令だ」
会議室が、静まり返った。
「リーゼ・フォン・ハイムダルという、一人の少女を排除するための法令——」
国王は言い切った。
「そのような卑劣な法を、朕は認めない」
貴族たちが、息を呑んだ。
「以上だ」
国王は立ち上がった。
「この件は、これで終わりとする」
そう言い残して——
国王は、退出していった。
エドゥアルトは——
拳を握りしめて、震えていた。
(くそ……くそ……!)
彼の計画は——
完全に潰された。
◇
その報告を聞いて——
アレクサンダー王子は、安堵の表情を浮かべた。
「父上……」
国王の決断に——
彼は、深く感謝した。
「リーゼ」
王子は、リーゼの手を取った。
「良かった……本当に良かった……」
「殿下……」
リーゼも——
涙を流していた。
でも、それは——
悲しみの涙ではなく、喜びの涙だった。
「ありがとうございます……」
リーゼは何度も言った。
「本当に……ありがとうございます……」
「これで、堂々とお前を愛せる」
王子は微笑んだ。
リーゼは——
顔を真っ赤にして、頷いた。
◇
それから——
工場の建設が、本格的に始まった。
原料の供給も安定し——
人材育成も進んでいる。
リーゼは——
毎日、建設現場を訪れて、進捗を確認した。
「順調ですね」
エルヴィンが報告した。
「あと二ヶ月で、完成します」
「そうね」
リーゼは微笑んだ。
でも——
彼女の心には、まだ不安があった。
教会の妨害——
それは、まだ終わっていない。
いつか、また——
彼らは襲ってくるだろう。
(でも——)
リーゼは決意した。
(私は負けない)
どんな困難があっても——
人を救うという使命を、諦めない。
そして——
愛する人との未来を、守り抜く。




