第89話 新たな挑戦と古い脅威
◇
主任研究員就任から、一週間——
リーゼの日々は、これまで以上に忙しくなっていた。
「先生、培養プレートの準備ができました」
エルヴィンが報告した。
「ありがとう、エルヴィン」
リーゼは顕微鏡から目を離した。
微生物学研究部門——
それは、リーゼが新たに設立した部門だ。
研究室には、最新の設備が整えられている。
顕微鏡、培養器、蒸留装置——
そして、リーゼが設計した抽出装置。
「今日は、ストレプトマイシンの量産プロセスを試みるわ」
リーゼは、培養液を手に取った。
放線菌——
この微生物が作り出すストレプトマイシンは、結核菌を殺す。
ペスト治療で使った時は、少量を丁寧に抽出した。
でも、結核患者全員を治療するには——
大量生産できる方法が必要だ。
「まず、培養液をろ過します」
リーゼは説明しながら作業を進めた。
エルヴィンが、メモを取りながら見守っている。
ろ過した液体を、蒸留装置にかける。
ゆっくりと加熱し、揮発性の成分を除いていく。
「次に、沈殿させて——」
リーゼは、試薬を加えた。
液体の中に、白い沈殿が現れる。
「これが……ストレプトマイシン……」
エルヴィンが息を呑んだ。
「まだ確認が必要よ」
リーゼは慎重に答えた。
「純度と収量を測定しないと。量産化には、安定した品質が不可欠だから」
沈殿を回収し、精製水に溶かす。
「さあ——」
リーゼは、結核菌を培養したプレートを用意した。
その上に、抽出した溶液を数滴垂らす。
「これで、一晩待ちましょう」
リーゼは言った。
「明日の朝、結果が分かるわ」
◇
王宮——
貴族たちの会議室。
「あの小娘が、主任研究員だと? しかも、十五歳だぞ!」
老貴族の一人が、不満げに言った。
「王立医学アカデミーの威信が損なわれる。陛下は、いったい何をお考えなのだ」
別の貴族が嘆息した。
「ギースリング枢機卿の逮捕といい——あの娘の影響力が、強くなりすぎている。何とかせねばならん」
三人目の貴族が重々しく言った。
その時——
「諸君」
部屋の奥から、声が響いた。
貴族たちが振り返る。
そこには——
宮廷大臣、エドゥアルト・フォン・ヴァルトシュタインが立っていた。
「大臣閣下……」
貴族たちが頭を下げた。
「リーゼ・フォン・ハイムダル——」
大臣は冷たい声で言った。
「確かに、彼女の存在は問題だ」
「閣下も、そうお考えですか」
「当然だ。辺境の弱小貴族の小娘が王子殿下に接近している——これは、王家の血統を汚す行為だ」
大臣は頷いた。
貴族たちが、ざわめいた。
「では——」
「しかし、彼女を直接攻撃することはできない」
大臣は手を上げた。
「国王陛下が彼女を庇護している上に、民衆の間での人気も高い。ペスト治療、港町の熱病——彼女は英雄視されているからな」
「では、どうすればいいのです?」
「時間をかけて、彼女の評判を落とす。彼女の研究が失敗すれば——人々は、彼女を見限るだろう」
大臣は冷たく微笑んだ。
「それまでは、静かに見守る。チャンスを待つのだ」
◇
その頃——
教会本部の地下室。
黒い服の男たちが、集まっていた。
「ギースリング猊下は、まだ獄中だ。リーゼ・フォン・ハイムダルのせいで——」
一人が言った。
「あの娘を、このまま放置するわけにはいかない」
別の男が続けた。
「だが、警備が厳重になっている。講演会での失敗以来、近衛隊が常に彼女を監視しているからな」
三人目が言った。
「ならば——」
部屋の奥から、声が響いた。
男たちが振り返る。
そこには——
フードを被った人物が立っていた。
「誰だ、貴様は!」
「私は——」
人物がフードを脱いだ。
それは——
若い神父だった。
「バルタザール神父……!」
男たちが驚いた。
「お前、まだこの国にいたのか」
「ああ」
バルタザールは冷たく微笑んだ。
「ギースリング猊下の意志を継ぐために」
彼は、テーブルに地図を広げた。
「直接攻撃は、もう通用しない」
バルタザールは説明した。
「では、どうするか——」
彼の指が、地図上のある場所を指した。
「彼女の研究を、妨害する」
「研究を……?」
「そうだ」
バルタザールは頷いた。
「彼女が結核の治療薬を開発しようとしている」
「それを、失敗させるのだ」
「どうやって?」
「王立医学アカデミーには、我々の協力者がいる」
バルタザールは言った。
「研究資料を盗む、実験を妨害する——」
「方法はいくらでもある」
男たちの目が、険しくなった。
「分かった」
一人が言った。
「協力しよう」
「では、計画を始める」
バルタザールは微笑んだ。
その笑みは——
邪悪な光を帯びていた。
◇
翌朝——
リーゼは、いつもより早く研究室に来た。
廊下で——
掃除をしている中年の男性とすれ違った。
「おはようございます、リーゼ先生」
男性が笑顔で挨拶した。
「おはようございます」
リーゼも挨拶を返した。
その男性——フランツ——は、いつもアカデミーの廊下を丁寧に掃除している。
真面目で気の良い人物だと、皆が言っていた。
リーゼは研究室に入り——
「さあ、結果はどうかしら……」
彼女は、昨日準備した培養プレートを手に取った。
そして——
「これは……!」
リーゼの目が輝いた。
結核菌を培養したプレート——
抽出液を垂らした部分だけ、菌の増殖が完全に止まっていた。
「成功……量産化プロセスが確立できたわ!」
リーゼは思わず叫んだ。
「先生!」
エルヴィンが駆けつけてきた。
「どうしたんですか!?」
「見て、エルヴィン!」
リーゼは培養プレートを示した。
「新しい抽出プロセスで作ったストレプトマイシン——純度も収量も、以前の三倍よ!」
エルヴィンも、プレートを見て目を見開いた。
「本当だ……菌が完全に死んでいる……しかも効果が強い……」
「これで——」
リーゼは興奮を抑えきれない。
「これで、大量の結核患者を治療できるわ!」
二人は、喜びを分かち合った。
◇
リーゼは、すぐにアレクサンダー王子に報告した。
「本当か、リーゼ!」
王子も、喜びを隠せない。
「はい!」
リーゼは培養プレートを見せた。
「ストレプトマイシンの量産化プロセスが確立できました。以前の三倍の収量で、純度も向上しています」
王子は、プレートを見つめた。
「三倍……それだけあれば……」
彼は呟いた。
「多くの結核患者を治療できるな」
「はい。ペスト治療では少量しか使えませんでしたが、これで結核患者全員に投与できます」
リーゼは説明した。
「次の段階は、結核患者への臨床試験です。安全な投与量を確定し、治療プロトコルを確立します」
「順調に進んでいるんだな」
「はい」
リーゼは頷いた。
「確実に、前進しています」
王子は、リーゼの頭を撫でた。
「よくやった、リーゼ」
「ありがとうございます、殿下」
「これは、国王陛下にも報告しなければならない」
王子は言った。
「今夜、謁見の場を設けよう」
「はい」
◇
その夜——
王宮の謁見の間。
国王陛下——ハインリヒ四世が、玉座に座っていた。
「リーゼ・フォン・ハイムダル、参上いたしました」
リーゼは深々と頭を下げた。
「顔を上げよ」
国王の声が響いた。
リーゼは顔を上げる。
国王——五十代半ばの、威厳ある男性。
深い青い目が、リーゼを見つめている。
「アレクサンダーから聞いた」
国王が言った。
「結核の治療薬、ストレプトマイシンの量産化に成功したと」
「はい、陛下」
リーゼは答えた。
「新しい抽出プロセスにより、以前の三倍の収量と高純度を実現いたしました」
「ほう……」
国王は興味深そうに身を乗り出した。
「では——結核患者全員を治療できるのか?」
「まだ、結核への臨床試験が必要です」
リーゼは正直に答えた。
「ペスト治療では効果を確認していますが、結核への最適な投与量と治療期間を確定しなければなりません」
「なるほど」
国王は頷いた。
しばらく沈黙が続いた。
そして——
「リーゼ・フォン・ハイムダル」
国王が厳かに言った。
「そなたの研究は、この国——いや、世界中の人々を救う可能性がある」
「恐れ入ります、陛下」
「だが」
国王の表情が険しくなった。
「そなたには、敵も多い」
リーゼは、息を呑んだ。
「教会の保守派——彼らは、そなたを異端視している」
国王は続けた。
「貴族の中にも、そなたの影響力を快く思わない者がいる」
「存じております……」
「だから——」
国王は、真剣な眼差しでリーゼを見つめた。
「気をつけよ」
「そなたの命を狙う者がいるかもしれん」
「はい……」
「アレクサンダー」
国王は、王子を見た。
「リーゼを守れ」
「はい、父上」
王子は深く頭を下げた。
「リーゼ」
国王が再びリーゼに視線を戻した。
「そなたの研究を、全力で支援する」
「必要な資金、設備、人員——すべて用意しよう」
「ありがとうございます、陛下!」
リーゼは感激して頭を下げた。
「さあ、下がってよい」
国王は手を振った。
「そして、研究を続けよ」
「多くの人々が、そなたに希望を託している」
「はい!」
リーゼは、深く一礼して退出した。
◇
謁見の間を出ると——
リーゼは大きく息をついた。
「緊張したな」
アレクサンダー王子が、隣で微笑んだ。
「はい……」
リーゼは正直に答えた。
「陛下の前は、やはり緊張します」
「でも、よくやった」
王子は、リーゼの肩に手を置いた。
「父上も、君を認めている」
「ありがとうございます」
二人が廊下を歩いていると——
「アレクサンダー王子殿下」
声がかかった。
振り返ると——
宮廷大臣、エドゥアルト・フォン・ヴァルトシュタインが立っていた。
「大臣閣下」
王子が会釈した。
「リーゼ・フォン・ハイムダル嬢も、ご一緒とは」
大臣は、冷たい目でリーゼを見た。
「はい」
王子は答えた。
「彼女の研究成果を、父上に報告したところです」
「そうですか」
大臣は、表面的な笑みを浮かべた。
「素晴らしいことですね」
でも、その目は笑っていなかった。
「では、失礼します」
王子は、リーゼを促して歩き出した。
大臣は、二人の背中を見送りながら——
冷たく微笑んだ。
(あの小娘め……)
彼の目には、明確な敵意が宿っていた。
◇
数日後——
リーゼは、研究室で次の実験の準備をしていた。
「先生、動物実験の準備ができました」
エルヴィンが報告した。
「ありがとう」
リーゼは頷いた。
次の段階——
それは、大規模臨床試験の準備だ。
アンナさんの治療は成功した。
でも、一人の成功例だけでは不十分だ。
より多くの患者で、安全性と有効性を確認する必要がある。
「臨床試験プロトコルを作成しましょう」
リーゼは言った。
「対象患者の選定基準、投与量の設定、経過観察の方法——すべて厳密に定めます」
「はい!」
二人が作業を始めようとした、その時——
ガシャン! 廊下で、何かが割れる音がした。
「何!?」
リーゼとエルヴィンが飛び出す。
廊下には、培養プレートが散乱していた。それは、彼女が培養していた放線菌のプレートだった。すべて、床に叩きつけられて壊れている。
「誰がこんなことを……」
エルヴィンが呆然と呟いた。
リーゼは、廊下の奥を見た。そこには、黒い影が逃げていくのが見えた。
「待ちなさい!」
リーゼが叫んだが、影はすでに曲がり角を曲がり、姿を消していた。
「先生……これは、妨害工作です……」
エルヴィンが震える声で言った。
「そうね……」
リーゼは唇を噛んだ。床に散乱した培養プレート——一週間かけて育てた貴重なサンプルが、すべて無駄になった。
「でも——諦めないわ。培養プレートは、また作り直せばいい」
リーゼは前を向いた。
「私たちの知識と技術は、誰にも奪えない」
エルヴィンの目に、涙が浮かんだ。
「はい……!」
二人は、床を片付け始めた。
◇
その夜——
リーゼは、アレクサンダー王子に事件を報告した。
「妨害工作だと……!」
王子の表情が険しくなった。
「はい」
リーゼは頷いた。
「培養プレートが、すべて破壊されました」
「犯人は?」
「分かりません。黒い影を見ただけです」
リーゼは首を振った。
王子は、拳を握りしめた。
「許せん……近衛兵を配置したばかりだというのに——」
彼は怒りを抑えきれない。
「もしかすると、アカデミー内部に教会の協力者がいるのかもしれません。掃除人や下級研究員の中に、警備の目を盗んで研究室に侵入できる者が」
リーゼが考え込んだ。
「つまり——我々の内側に、敵がいると」
王子の表情が、さらに険しくなった。
「その可能性は、否定できません。でも殿下、怒っても仕方ありません。それよりも、対策を考えましょう。犯人は、また来るかもしれませんから」
リーゼは静かに答えた。
王子は、深呼吸して冷静さを取り戻した。
「そうだな……研究室の警備を強化しよう。それから、重要なサンプルは複数の場所に保管する。一箇所が破壊されても、他で復元できるように」
「良い案です」
リーゼは微笑んだ。
王子は、リーゼの手を取った。
「リーゼ、君は強いな」
「え?」
「こんなことがあっても、諦めない」
王子は言った。
「その強さが、私は好きだ」
リーゼの顔が、赤くなった。
「殿下……」
「必ず、君を守る」
王子は真剣な目で言った。
「君の研究も、君自身も」
「ありがとうございます……」
リーゼは、王子の手を握り返した。
温かい——
その温もりが、彼女に勇気を与えた。
◇
翌日——
研究室には、近衛兵が配置された。
「これで、少しは安心ね」
エリーゼが言った。
「ええ」
リーゼは頷いた。
彼女は、新しい培養プレートを準備していた。
昨日破壊されたサンプル——
それを、一から作り直す。
「リーゼ」
エリーゼが心配そうに言った。
「本当に、大丈夫?」
「大丈夫よ」
リーゼは微笑んだ。
「こんなことで、諦めたりしないわ」
「でも、敵が多すぎるわ……」
エリーゼは暗い表情で続けた。
「教会、貴族——みんなが、あなたを狙っている」
「分かってるわ」
リーゼは静かに答えた。
「でも、だからこそ——」
彼女は、培養プレートを見つめた。
「だからこそ、成功させなければならないの」
「リーゼ……」
「この研究が成功すれば——」
リーゼは続けた。
「結核で苦しむ人々を救える」
「それが、私の使命だから」
エリーゼは、親友の横顔を見つめた。
その目には——
揺るぎない決意が宿っていた。
「分かったわ」
エリーゼは微笑んだ。
「なら、私も全力で協力する」
「ありがとう、エリーゼ」
二人は、作業を再開した。
◇
一週間後——
破壊されたサンプルは、完全に復元された。
「よし……」
リーゼは満足げに頷いた。
そして——
臨床試験の準備を本格的に開始した。
まず、対象患者の選定基準を決める。
結核と診断された患者で、従来の治療法が効かない者。
ただし、重篤すぎず、治療に耐えられる体力がある者。
次に、投与プロトコルを確立する。
アンナさんの治療経験から、最適な投与量と投与間隔を設定。
副作用のモニタリング方法も、詳細に定める。
一週間、二週間——
そして、三週間後——
「先生……!」
エルヴィンが興奮して報告した。
「臨床試験の準備が整いました!」
「本当!?」
リーゼは、完成した臨床試験プロトコルを確認した。
そこには——
詳細な手順、安全基準、評価方法が記されていた。
「これで……大規模な治療を始められる……!」
リーゼの目に、涙が溢れた。
アンナさん一人だけでなく——
多くの結核患者を、救える。
「量産化も成功して、臨床試験の準備も整った……」
エルヴィンも、感動で声が震えている。
「エルヴィン」
リーゼは決意を込めて言った。
「次は、本格的な臨床試験よ。多くの命を救いましょう」
「はい!」
二人は、希望に満ちた表情で頷き合った。
◇
その夜——
リーゼは、臨床試験プロトコルの最終確認をしていた。
コンコン。
ノックの音。
「はい?」
「私だ」
アレクサンダー王子が入ってきた。
「殿下……」
「成功したそうだな」
王子は微笑んだ。
「はい!」
リーゼは嬉しそうに報告した。
「臨床試験の準備が整いました!」
「素晴らしい」
王子は、リーゼの頭を撫でた。
「本当に、よくやった」
「これで、本格的な治療を始められます」
リーゼは続けた。
「アンナさん一人だけでなく、多くの患者を救えます」
「リーゼ」
王子が、真剣な表情で言った。
「君は、本当にすごい」
「え……?」
「妨害工作があっても、諦めなかった」
王子は続けた。
「そして、成功させた」
「その強さと、情熱——」
彼は、リーゼの両手を取った。
「私は、心から尊敬している」
リーゼの顔が、赤くなった。
「殿下……」
「これからも、一緒に戦おう」
王子は微笑んだ。
「君の研究を守り、君の夢を叶えるために」
「はい……!」
リーゼは、王子の手を握り返した。
その時——
窓の外から——
黒い影が、二人を見つめていた。
冷たい、憎悪に満ちた目で——
◇
教会本部の地下室——
「動物実験が、成功しただと……!」
バルタザール神父が、報告を聞いて顔を歪めた。
「はい」
黒服の男が答えた。
「培養プレートを破壊しましたが、彼女は諦めませんでした」
「くそ……」
バルタザールは拳を握りしめた。
「どうしますか?」
別の男が尋ねた。
「次は——」
バルタザールは、冷たく微笑んだ。
「もっと決定的な妨害をする」
「決定的な……?」
「そうだ」
バルタザールは頷いた。
「臨床試験を、失敗させる」
「どうやって?」
「患者に、別の毒物を混ぜる」
バルタザールは説明した。
「リーゼの薬が原因で患者が死んだように見せかけるのだ」
男たちの顔が、引きつった。
「それは……あまりにも……」
「ギースリング猊下の名誉のためだ」
バルタザールは冷たく言い放った。
「犠牲は、やむを得ん」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
◇
一方——
宮廷大臣エドゥアルトの執務室。
「動物実験が成功したそうですな」
貴族の一人が報告した。
「ふむ……」
エドゥアルトは、窓の外を見つめた。
「あの小娘、なかなか諦めないな」
「どうなさいますか?」
「まだ、様子を見る。臨床試験は動物実験よりも難しい——失敗する可能性もある」
エドゥアルトは答えた。
「なるほど……」
「もし成功したら、その時は別の手を打つ。王子殿下とあの娘の関係を問題視するのだ」
エドゥアルトは、冷たく微笑んだ。
「身分違いの交際は王家の威厳を損なう——辺境の弱小貴族の娘など、王妃にふさわしくない。そう主張すれば、貴族たちも賛同するだろう。それに、王子殿下にはもっとふさわしい相手がいる。たとえば北方公爵家のエリザベート令嬢、あるいは東方王国との政略結婚もある」
「なるほど……王家の血統を守り、かつ国益にも適う」
貴族が感心した。
「その通りだ。辺境の弱小貴族の娘など——王妃の器ではない」
エドゥアルトは冷たく微笑んだ。
「さすがです、閣下」
貴族が頭を下げた。
エドゥアルトは、窓の外の夜空を見つめた。
(リーゼ・フォン・ハイムダル——)
彼の目には、冷たい計算が宿っていた。
(教会の過激派は、直接的な妨害を繰り返している)
(だが、それは愚かだ)
エドゥアルトは心の中で冷笑した。
(焦って動けば、証拠を残す)
(私は違う——)
(じっくりと、彼女の評判が落ちるのを待つ)
(そして、決定的な瞬間に——政治的圧力で潰す)
彼は、グラスのワインを口に含んだ。
(暴力ではなく、政治で勝つ)
(それこそが、真の権力者のやり方だ)
(お前の野心を、私が許すとでも思ったか?)
◇
リーゼの部屋——
彼女は、ベッドに横になっていた。
今日一日を振り返る。
動物実験の成功——
次は、人への臨床試験。
でも——
(本当に、これでいいのだろうか……)
リーゼは、心の奥に葛藤を感じていた。
(前世では、臨床試験には厳格なルールがあった)
(インフォームド・コンセント——患者に十分な説明をし、同意を得ること)
(副作用のリスクを明示すること)
(いつでも試験を中止できる権利を保証すること)
でも、この世界には——
そんな概念すら、まだ存在しない。
(治るかどうか分からない薬を、人に投与する)
(もし——失敗したら……)
(患者さんの命を、危険に晒すことになる)
リーゼは、唇を噛んだ。
(でも、何もしなければ——)
(結核患者は、確実に死んでいく)
動物実験は成功した。
理論的には、人間にも効くはずだ。
(私は、医師として——)
(この薬を、試す義務がある)
それでも——
(患者さんには、ちゃんと説明しよう)
(リスクも、可能性も、すべて正直に)
(そして、本人の意思で決めてもらう)
リーゼは、自分に言い聞かせた。
(それが、私にできる——)
(せめてもの誠実さだ)
そして、もう一つの不安——
(妨害が、また来るかもしれない)
リーゼは、外部からの脅威も感じていた。
敵は多い。
教会、貴族——
彼女を排除しようとする勢力。
(怖い……)
正直に、彼女は恐れていた。
でも——
(それでも、諦められない)
リーゼは、決意を新たにした。
結核で苦しむ人々——
彼らを救うために。
そして——
アレクサンダー王子の期待に、応えるために。




