第9話 体の鍛錬 ②
訓練を始めて一週間が経った。
毎日、朝は剣術、午後は縫合の練習。
私は少しでも早く、前世の技術を取り戻そうと必死だった。
その日の朝も、いつものように裏庭で素振りをしていた。
六十回、七十回、八十回——
「リーゼ、そこまで!」
エーリヒが止めに入った。
彼は私の肩に手を置いた。
「君は一週間で大人になろうとしている。でも、体は正直だ。時間をかけて、ゆっくり育てていこう」
その言葉に、ようやく冷静さを取り戻した。
午後は、別の訓練。
診療所の片隅で、縫合の練習をした。
布を用意し、針と糸で縫っていく。
何千回、何万回と繰り返してきた動作。
でも、この小さな手では、思うように動かない。
針を持つ指が震える。
……落ち着け。基本に戻るんだ。
深呼吸をして、もう一度挑戦する。
針先を布の断面に対して垂直に当てる。
刺入角度90度。
ゆっくりと貫通させる。
糸を引く。張力に気をつけて。強すぎれば布が裂け、弱すぎれば縫合が緩む。
外科結びで固定。
一針、縫えた。
でも、あの頃なら一秒でできた動作に、十秒以上かかっている。
……まだまだだ。
二針目。
針を刺す。
しかし、角度を間違えた。針が斜めに入り、布の表面に飛び出してしまう。
「ちっ…」
やり直し。
三針目。
今度は糸を引きすぎた。布が寄れてしまう。
「違う……」
声が漏れた。
目の前の布が、まるで"救えなかった患者"のように見えた。
……集中しろ。感情を入れるな。
四針目。五針目。
少しずつ、感覚が戻ってくる。
いや、戻るのではない。
新しく、作り上げているのだ。
この十歳の手で。
時間の感覚が消える。
針を刺す。糸を引く。結ぶ。
繰り返し、繰り返し。
窓の外の光が、だんだんと傾いていく。
気づけば、窓の外は夕暮れ色に染まっていた。
「リーゼ様、お夕食の時間です」
エマが呼びに来た。
「あ…もう、こんな時間」
布を見る。五十針ほど縫えていた。
でも、縫い目は不揃い。針の間隔もバラバラだ。
前の私なら、決して許さないレベルの粗雑さ。
悔しさが込み上げる。
そして、気づく。
右手の人差し指から、血が滲んでいる。
何度も針を刺してしまったらしい。
痛みを感じる余裕もなかった。
「リーゼ様!」
エマが駆け寄り、私の手を取った。
「お体を大切に」
エマが優しく声をかける。
「はい…でも、まだ練習したくて」
「お気持ちは分かりますが、体を壊しては元も子もありません」
エマの声は優しいのに、少し震えていた。
心から心配してくれているのが分かった。
その言葉に、はっとした。
東京の救命センターで倒れた時のことを思い出す。
体を酷使しすぎて、命を落とした。
同じ過ちを繰り返してはいけない。
「分かりました。今日はここまでにします」
針と糸を片付け、立ち上がる。
足がふらついた。長時間座りっぱなしだったせいだ。
エマが腕を支えてくれた。
夕食の席で、母が心配そうに言った。
「リーゼ、顔色が悪いわよ」
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
父が厳しい顔で言う。
「リーゼ、無理をしすぎるな。お前はまだ子供なんだ」
その言葉が、胸に刺さった。
子供。
そうだ、この体は子供だ。
でも、中身は二十八年生きた大人だ。
この矛盾が、私を焦らせる。
「ごめんなさい。でも、私…早く立派な医師になりたいんです」
父の表情が和らいだ。
「その気持ちは立派だ。でも、健康あってこそだ。分かるな?」
「はい」
エーリヒが明るく言った。
「リーゼ、明日の朝練は少し軽めにしよう。ちゃんと休息も必要だから」
「うん、ありがとう」
その夜、ベッドに横になると、全身が痛んだ。
筋肉痛。久しぶりの感覚だ。
研修医時代を思い出す。
あの頃も、こんな風に体中が痛かった。
長時間の手術、夜勤、睡眠不足。
でも、それを乗り越えて、私は救急救命医になった。
……今度も、乗り越えられる。
暗闇の中、自分の手を見る。
小さな手。まだ未熟な手。
でも、この手を鍛えれば——
いや、本当にそうか?
前世と同じように、体を壊すだけじゃないのか?
月明かりが差し込み、小さな手の影が壁に映った。




