第88話 見えない敵と見える絆
◇
リーゼが目を覚ましたのは、三時間後だった。
「ん……」
彼女は体を起こした。
体にかけられた毛布が、ずり落ちる。
「殿下……」
アレクサンダー王子は、窓辺で書類を読んでいた。
「起きたか」
王子は振り返った。
「顔色が少し良くなったな」
「すみません、眠ってしまって……」
「謝ることはない」
王子は微笑んだ。
「必要な休息だ」
リーゼは立ち上がり、顕微鏡に向かった。
「患者さんたちの状態は?」
「安定している者もいれば、悪化している者もいる」
王子は報告した。
「ただ——新たな感染者が、また五名出た」
「五名……」
リーゼは唇を噛んだ。
感染は、止まっていない。
「リーゼ、あの病原体について——何か分かったのか?」
王子が尋ねた。
「はい」
リーゼは顕微鏡を示した。
「これを見てください」
王子が覗き込む。
「これは……細胞が壊れているように見えるな」
「そうです。これは患者さんの血液から採取した細胞です」
リーゼは説明した。
「ご覧の通り、細胞が破壊されています。細菌感染なら、細菌そのものが見えるはずなのですが——この標本には、細菌が見当たりません」
「では……何が細胞を壊しているんだ?」
王子が訝しげに尋ねた。
「細菌よりもはるかに小さな病原体です」
リーゼは真剣な表情で答えた。
「前世——いえ、私の知識では、これを『ウイルス』と呼びます」
「ウイルス……」
王子は聞き慣れない言葉を繰り返した。
「しかし、見えないのなら、どうやって存在を確認したんだ?」
「細胞の破壊パターンと、症状の特徴から推測しました」
リーゼは答えた。
「ウイルスは、あまりにも小さすぎるんです——光学顕微鏡では、見えません。細菌とは違い、生物の細胞の中でしか増殖できないため、人の体内に侵入し、細胞を乗っ取って増殖します」
「それは……厄介だな」
「はい」
リーゼは暗い表情で頷いた。
「そして、もっと厄介なことがあります。細菌感染には抗菌薬が効きますが——ウイルスには、抗菌薬が効かないんです」
王子の表情が、険しくなった。
「では、治癒魔法は? 魔法なら、病を癒せるだろう?」
「それも——難しいんです」
リーゼは申し訳なさそうに答えた。
「治癒魔法は体全体の生命力を高めることはできますが、ウイルスだけを狙い撃ちすることはできません。ウイルスはあまりにも小さすぎる上に、人の細胞の中で増殖するため、魔法で攻撃しようとすれば人の細胞も傷つけてしまう可能性があります」
王子は、深刻な表情で頷いた。
「つまり……治療法がない、ということか?」
「直接ウイルスを殺す薬はありませんし、魔法も万能ではありません」
リーゼは言った。
「でも——人の体には、『免疫』という防御システムがあります。ウイルスと戦う力を、体が持っているんです」
「免疫……」
「そうです」
リーゼは頷いた。
「私たちにできることは、患者さんの免疫力を支えることです。体がウイルスと戦えるように、栄養と水分を補給し、症状を和らげる——」
「それで、ウイルスを倒せるのか?」
「倒すのは、患者さん自身の体です。私たちは、その戦いを支援するだけ」
リーゼは真剣な表情で答えた。
王子は、リーゼの真剣な眼差しを見つめた。
「分かった。では、どうすればいい?」
「まず、水分補給を徹底します」
リーゼは指示を出し始めた。
「高熱で脱水症状になっている患者さんが多い」
「経口補水液を作って、定期的に飲ませてください」
「経口補水液……?」
「水に、塩と砂糖を適量混ぜたものです」
リーゼは説明した。
「体液のバランスを整え、脱水を防ぎます」
「分かった。すぐに準備させる」
「それから、解熱対策も必要です」
リーゼは続けた。
「高熱が続くと、体力を消耗します」
「柳の樹皮を煎じた薬——解熱作用があります」
「柳の樹皮か……」
王子はメモを取った。
「そして、何より重要なのは——隔離です」
リーゼは真剣な表情で言った。
「ウイルスは、人から人へ感染します」
「患者さんを隔離し、接触を最小限にすることが必要です」
「隔離は、すでに行っているが——」
「もっと厳重にしなければなりません」
リーゼは言った。
「看護する者も、マスクと手袋を着用すること」
「患者さんに触れた後は、必ず手を洗うこと」
「分かった」
王子は頷いた。
「すぐに指示を出す」
◇
その日から——
リーゼたちの戦いが本格的に始まった。
臨時病院では、厳重な感染対策が敷かれた。
看護師たちは、マスクと手袋を着用し——
患者ごとに、手洗いを徹底する。
経口補水液が、患者たち全員に配られた。
「少しずつでいいから、飲んでください」
リーゼは患者の一人に声をかけた。
中年の男性——港の労働者だ。
全身に赤い発疹が広がり、高熱に苦しんでいる。
「先生……」
男性が弱々しく言った。
「俺は……助かるんでしょうか……」
「必ず助けます」
リーゼは男性の手を握った。
「あなたの体は、今ウイルスと戦っています」
「その戦いを、私たちが支えます」
「ウイルス……」
「見えない敵です」
リーゼは優しく言った。
「でも、あなたの体は強い」
「きっと勝てます」
男性の目に、涙が浮かんだ。
「ありがとうございます……先生……」
リーゼは、男性の額に冷たい布を当てた。
「ゆっくり休んでください」
◇
夜——
リーゼは、カルテを整理していた。
患者の数——三百二十七名。
死者——二十五名。
回復者——十二名。
「回復者が出始めた……」
リーゼは、わずかな希望を見出した。
経口補水液と解熱薬——
そして、厳重な感染対策。
それらの効果が、少しずつ現れ始めている。
「リーゼ」
エリーゼが入ってきた。
「エリーゼ……」
「また徹夜?」
エリーゼは呆れたように言った。
「あなた、本当に自分の体を大切にしないわね」
「でも……」
「でも、じゃないわ」
エリーゼは、リーゼの手からペンを取り上げた。
「今日はもう休みなさい」
「エリーゼ……」
「私が代わりに見回りをするから」
エリーゼは微笑んだ。
「あなたは休んで」
「でも、あなたもまだ完全には——」
「大丈夫よ」
エリーゼは手を振った。
「もう、ペストの時とは違うわ」
「ちゃんと、体力も戻ってきてる」
リーゼは、親友の笑顔を見つめた。
「ありがとう、エリーゼ」
「お互い様よ」
エリーゼは言った。
「あなたは、私の命を救ってくれたんだから」
リーゼは、エリーゼを抱きしめた。
「本当に……ありがとう」
「さあ、休みなさい」
エリーゼは優しく背中を押した。
◇
リーゼは、宿舎の部屋に戻った。
ベッドに倒れ込む。
体が、鉛のように重い。
(疲れた……)
でも、心は満たされていた。
回復者が出始めている。
治療法が、少しずつ形になってきている。
(もう少し……もう少しで……)
コンコン。
ノックの音。
「はい……」
リーゼは疲れた声で答えた。
「私だ」
アレクサンダー王子の声。
「殿下……?」
リーゼは起き上がろうとした。
「いや、そのままでいい」
王子が部屋に入ってきた。
「休んでいるところを邪魔してすまない」
「いえ……」
王子は、リーゼのベッドサイドに座った。
「報告だ」
彼は言った。
「今日、新たな回復者が五名出た」
「五名……!」
リーゼの目が輝いた。
「そうだ」
王子は微笑んだ。
「君の治療法が、効いている」
「でも、まだ死者も……」
「分かっている」
王子は頷いた。
「でも、回復する人が増えているのは事実だ」
「希望が見えてきた」
リーゼは、少しだけ安心した。
「リーゼ」
王子が真剣な表情で言った。
「君は、本当にすごい」
「え……?」
「見えない敵と戦っている」
王子は続けた。
「普通の医師なら、諦めるところだ」
「でも、君は——決して諦めない」
リーゼは、頬を染めた。
「私は……ただ、医師として当然のことを……」
「いや、当然ではない」
王子は首を振った。
「君は、特別だ」
彼は、リーゼの手を取った。
「だから、私は君を守りたいと思う」
リーゼの心臓が、大きく跳ねた。
「殿下……」
「無理をしすぎるな」
王子は優しく言った。
「君が倒れたら、誰がこの人々を救うんだ?」
「それは……」
「だから、休むときは休め」
王子は、リーゼの額に手を当てた。
「約束してくれ」
リーゼは、王子の温かい手に——
心が溶けそうになった。
「はい……約束します」
「よし」
王子は微笑んだ。
そして、彼はリーゼの額に——
軽く口づけた。
「え……!?」
リーゼは、真っ赤になった。
「おやすみ、リーゼ」
王子は立ち上がった。
「明日も、また一緒に戦おう」
そう言い残して、彼は部屋を出ていった。
リーゼは——
呆然と、額に手を当てた。
まだ、王子の唇の感触が残っている。
「殿下……」
彼女の顔は、耳まで真っ赤になっていた。
◇
翌朝——
リーゼは、いつもより早く起きた。
昨夜のことが、頭から離れない。
(殿下が……私に……)
額に触れるたびに、心臓が跳ねる。
「落ち着きなさい、リーゼ・フォン・ハイムダル!」
彼女は自分に言い聞かせた。
「今は、患者さんたちのことを考えなきゃ!」
深呼吸して——
彼女は臨時病院に向かった。
◇
病院では、エリーゼが患者たちの世話をしていた。
「おはよう、リーゼ」
エリーゼは笑顔で迎えた。
「よく眠れた?」
「う、うん……」
リーゼは曖昧に答えた。
「顔が赤いわよ?」
エリーゼが不思議そうに言った。
「熱でもある?」
「だ、大丈夫!」
リーゼは慌てて否定した。
エリーゼは、何か察したように微笑んだ。
「そう……」
彼女は意味深に言った。
「昨夜、王子様が訪ねてきたって聞いたけど……」
「そ、それは業務連絡で!」
リーゼは必死に言い訳した。
「ふーん……」
エリーゼはニヤニヤしている。
「エリーゼ!」
「冗談よ、冗談」
エリーゼは笑った。
「さあ、仕事を始めましょう」
◇
その日——
さらに八名の患者が回復した。
熱が下がり、発疹も薄くなっている。
「先生……ありがとうございます……」
回復した港の労働者が、リーゼに頭を下げた。
「いいえ」
リーゼは微笑んだ。
「あなた自身の体が、ウイルスと戦ったんです」
「私は、少し手伝っただけです」
「でも、先生がいなかったら……」
男性の目に涙が浮かんだ。
「俺は、死んでいたかもしれない」
「もう大丈夫です」
リーゼは優しく言った。
「ゆっくり体力を回復させてくださいね」
「はい!」
リーゼは、回復した患者たちを見つめた。
(良かった……)
見えない敵——ウイルス。
それに対抗する手段は限られている。
でも——
人の体の持つ力を信じ、支える。
それが、今できる最善の治療だ。
◇
一週間後——
感染の拡大は、徐々に収まってきた。
新規感染者——三日間ゼロ。
回復者——百二十名を超えた。
死者——三十二名で増加が止まった。
「ようやく……峠を越えたな」
アレクサンダー王子が、報告書を見ながら言った。
「はい」
リーゼは頷いた。
「でも、まだ油断はできません」
彼女は、カルテを整理しながら続けた。
「回復した患者さんたちも、しばらくは経過観察が必要です」
「それに——」
「それに?」
「この病気の正体を、もっと詳しく調べる必要があります」
リーゼは言った。
「どこから来たのか、どう広がったのか——」
「そうだな」
王子は頷いた。
「再発を防ぐためにも、情報を集めなければ」
◇
その日の午後——
リーゼは、最初に感染した船員たちを訪ねた。
「あなたたちは、南の大陸のどこから来たんですか?」
リーゼは尋ねた。
「カリマンタ諸島です」
船長が答えた。
「香辛料の交易で訪れました」
「カリマンタ諸島……」
リーゼは地図を広げた。
赤道に近い、熱帯の島々。
「そこで、何か変わったことはありましたか?」
「変わったこと……」
船長は考え込んだ。
「そういえば、島の村で、似たような病気が流行していました」
「似たような病気?」
「高熱と、体中の発疹です」
船長は説明した。
「現地の人々は、それを『悪魔の斑点』と呼んでいました」
「悪魔の斑点……」
リーゼは眉をひそめた。
「その病気は、島で常にあるものなんですか?」
「いいえ」
船長は首を振った。
「今回が初めてだと、現地の人々は言っていました」
「つまり——」
リーゼは考えた。
「新しく発生した病気……」
「ただ——」
船長が続けた。
「島には、たくさんの猿がいました」
「猿の中にも、病気で死んでいるものがいたと聞きました」
「猿……」
リーゼは、ある可能性を考えた。
動物由来の感染症——
人獣共通感染症。
「猿から人に……そして人から人へ……」
リーゼは呟いた。
これは、重要な情報だ。
「ありがとうございます」
リーゼは船長に頭を下げた。
「とても役に立つ情報です」
◇
リーゼは、王子とエリーゼを集めて報告した。
「この病気は、おそらく猿から人に感染したものです」
リーゼは説明した。
「動物が持っていたウイルスが、何らかの形で人に移った」
「動物から人へ……」
王子が繰り返した。
「そうです」
リーゼは頷いた。
「そして、一度人に感染すると、人から人へも広がる」
「それは……厄介だな」
「はい」
リーゼは地図を示した。
「南の大陸——特に熱帯地方には、未知のウイルスがまだたくさんあるかもしれません」
「では、貿易船を止めるべきか?」
王子が尋ねた。
「いいえ」
リーゼは首を振った。
「貿易を止めることはできません」
「でも——」
彼女は続けた。
「到着した船の検疫を、厳重に行う必要があります」
「検疫……?」
「船員の健康チェックです」
リーゼは説明した。
「発熱や発疹がないか、到着時に確認する」
「もし症状がある場合は、隔離して治療する」
「なるほど」
王子は頷いた。
「それなら、貿易も続けられるし、感染も防げる」
「はい」
リーゼは微笑んだ。
「予防こそ、最良の治療です」
◇
二週間後——
港町エルネスタは、完全に回復していた。
患者の大半が退院し、街にも活気が戻ってきた。
リーゼたちは、王都に戻る準備をしていた。
「先生!」
回復した人々が、見送りに集まっていた。
「ありがとうございました!」
「先生のおかげで、命が助かりました!」
「本当に、ありがとうございます!」
人々の感謝の言葉が、リーゼを包む。
「いいえ」
リーゼは笑顔で答えた。
「皆さん自身の体が、ウイルスと戦ったんです」
「私は、少しお手伝いしただけです」
「でも——」
港の労働者が言った。
「先生がいなかったら、俺たちは諦めていました」
「希望を、ありがとうございます」
リーゼの目に、涙が浮かんだ。
「こちらこそ、ありがとうございます」
彼女は深々と頭を下げた。
「皆さんが諦めずに戦ってくれたから、私も頑張れました」
人々は、大きな拍手を送った。
◇
馬車の中——
「良い顔をしているな」
アレクサンダー王子が、リーゼを見て微笑んだ。
「え?」
「医師としての顔だ」
王子は言った。
「人を救った後の、満足げな顔」
リーゼは頬を染めた。
「そんな顔、してましたか?」
「ああ」
王子は頷いた。
「とても、美しい顔だった」
リーゼの顔が、さらに赤くなった。
「殿下……」
「リーゼ」
王子が真剣な表情で言った。
「今回、君は見えない敵と戦った」
「そして、勝利した」
「いえ、私一人では——」
「そうだ」
王子は頷いた。
「君一人ではなかった」
「エリーゼ、看護師たち、そして私——」
「みんなで戦った」
彼は、リーゼの手を取った。
「でも、その中心にいたのは君だ」
「殿下……」
「これからも、一緒に戦おう」
王子は微笑んだ。
「見えない敵も、見える敵も——」
「すべてに立ち向かおう」
リーゼは、王子の手を握り返した。
「はい」
彼女は笑顔で答えた。
「一緒に」
エリーゼは、二人の様子を見て——
くすくすと笑っていた。
「あら、お二人とも、いい雰囲気ね」
「エリーゼ!」
リーゼが真っ赤になって抗議した。
三人の笑い声が、馬車の中に響いた。
◇
王都——
馬車が王立医学アカデミーに到着した。
「お帰りなさい、リーゼ先生!」
エルヴィンが駆け寄ってきた。
「ただいま、エルヴィン」
リーゼは笑顔で答えた。
「港町での治療、成功したと聞きました!」
エルヴィンは興奮気味に言った。
「ウイルスという新しい病原体を発見されたとか!」
「ええ」
リーゼは頷いた。
「詳しいことは、後で報告するわ」
「それから——」
エルヴィンが、封筒を差し出した。
「これが届いています」
「これは……?」
リーゼは封筒を開いた。
それは——
王立医学アカデミーからの正式な任命書だった。
『リーゼ・フォン・ハイムダル殿
このたび、あなたを王立医学アカデミー主任研究員に任命する。
微生物学研究部門の責任者として、今後の研究を統括されたし。
アカデミー長 ヨハン・フリードリヒ』
「主任研究員……?」
リーゼは目を見開いた。
「おめでとう、リーゼ」
アレクサンダー王子が言った。
「君の功績が、正式に認められたんだ」
「でも、私はまだ十五歳で……」
「年齢は関係ない」
王子は微笑んだ。
「君の能力と実績が、すべてだ」
リーゼは、任命書を見つめた。
主任研究員——
微生物学研究部門の責任者。
(こんなに大きな責任を……)
「不安か?」
王子が尋ねた。
「少し……」
リーゼは正直に答えた。
「でも——」
彼女は決意を込めて続けた。
「やります」
「この責任を、受け止めます」
「それでこそ、リーゼだ」
王子は頭を撫でた。
エリーゼが拍手した。
「おめでとう、リーゼ!」
「ありがとう、エリーゼ」
リーゼは、仲間たちの顔を見渡した。
アレクサンダー王子——彼女を守ってくれる人。
エリーゼ——かけがえのない親友。
エルヴィン——優秀な研究助手。
そして、王立医学アカデミーという場所。
(ここから——)
リーゼは思った。
(ここから、もっと多くの人を救える)
見えない敵——ウイルス、細菌、病気。
それらと戦うための、知識と技術。
そして——
見える絆——仲間たち、信頼、愛。
(私は、一人じゃない)
リーゼは、微笑んだ。
「さあ、研究を再開しましょう」
彼女は前を向いた。
「放線菌の研究——まだまだやることがたくさんあるわ」
「はい!」
エルヴィンが元気よく答えた。
リーゼは、研究棟に向かって歩き出した。
新しい地位、新しい責任——
でも、彼女の目標は変わらない。
人を救うこと。
この世界の医学を、前に進めること。
そして——
信頼できる仲間たちと、共に歩むこと。
◇
その夜——
リーゼは、研究室で放線菌の培養を確認していた。
「順調に育っているわね……」
彼女は満足げに頷いた。
コンコン。
ノックの音。
「はい?」
「私だ」
アレクサンダー王子が入ってきた。
「殿下……こんな夜遅くに」
「君がまだ起きているだろうと思ってな」
王子は苦笑した。
「すみません……」
「謝ることはない」
王子は、リーゼの隣に座った。
「君の情熱は、素晴らしいものだ」
彼は、培養プレートを見つめた。
「これが——結核を治す薬になるのか」
「そうです」
リーゼは頷いた。
「まだ時間はかかりますが、必ず実現させます」
「信じているよ」
王子は微笑んだ。
しばらく、二人は黙って培養プレートを見つめていた。
「リーゼ」
王子が静かに言った。
「港町で、君に口づけをしたこと——覚えているか?」
リーゼの顔が、一気に赤くなった。
「お、覚えて……います……」
「あれは——」
王子は、少し照れたように続けた。
「君への、私の気持ちだ」
「気持ち……?」
「そうだ」
王子は、リーゼの手を取った。
「私は、君を大切に思っている」
「医師として、研究者として——」
「そして、一人の人として」
リーゼの心臓が、激しく鳴った。
「殿下……」
「今はまだ、君は若い」
王子は優しく言った。
「だから、答えを急がせるつもりはない」
「でも——」
彼は、リーゼの目を見つめた。
「いつか、君が大人になったら——」
「私の隣に、いてほしい」
リーゼは、言葉が出なかった。
ただ——
涙が、頬を伝った。
「殿下……」
「泣かなくていい」
王子は、優しく涙を拭った。
「今は、君の夢を追いかけてくれ」
「私は、それを支え続ける」
リーゼは、こくりと頷いた。
「ありがとうございます……」
王子は、リーゼの額に——
再び、優しく口づけた。
「おやすみ、リーゼ」
「おやすみなさい……殿下」
王子が部屋を出て行った後——
リーゼは、胸に手を当てた。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が、止まらない。
(殿下の隣に……)
それは——
遠い未来の、約束。
でも、確かな約束。
リーゼは、窓の外の星空を見上げた。
(私、頑張る)
医師として。
研究者として。
そして——
一人の人として。
(いつか、殿下の隣に立てるように)
彼女は、決意を新たにした。
見えない敵と戦いながら——
見える絆を、大切に育てながら。




