第87話 公開講演と見えざる刃
◇
三週間——
リーゼにとって、それは嵐の前の静けさだった。
王立医学アカデミーの新研究棟。
リーゼは、実験室と講演準備の間を行き来する日々を送っていた。
「リーゼ先生、スライド用の図版が完成しました」
エルヴィンが、顕微鏡で観察した像を精密に描いた図面を差し出した。
「ありがとう、エルヴィン」
リーゼはそれを受け取り、講演原稿と照らし合わせる。
放線菌の糸状構造——
結核菌への抗菌作用——
土壌からの分離培養——
「これで、一般の医師たちにも理解してもらえるはず……」
リーゼは呟いた。
公開医学講演会。
それは、王立医学アカデミーが主催する、年に一度の大規模な学術集会だ。
全国から医師、薬剤師、研究者が集まり、最新の医学知見を共有する。
そして今年——
リーゼは、特別講演者として招待されていた。
「『土壌微生物による新たな治療法の可能性』……か」
リーゼは講演タイトルを見つめた。
この講演で、彼女は放線菌研究の成果を発表する。
そして——
結核治療の新たな希望を、医学界全体に示す。
「先生」
エルヴィンが心配そうに言った。
「街では、教会の説教師たちが……」
「分かっているわ」
リーゼは静かに答えた。
教会の街頭説教——
それは日に日に激しさを増していた。
『神の教えに背く異端の医師!』
『病を商売の道具にする悪魔の娘!』
『子供の姿で人々を欺く魔女!』
街角で、広場で、説教師たちは叫び続けている。
「でも、私は逃げない」
リーゼは講演原稿を握りしめた。
「この研究を、正しく伝えなければ」
◇
王宮——
「警備を三倍にしろ」
アレクサンダー王子は、近衛隊長に命じた。
「講演会当日、会場周辺を完全に封鎖する」
「はっ!」
隊長が敬礼する。
「それから——」
王子は地図を広げた。
「入場者の身元確認を厳重に行え」
「特に、教会関係者には注意しろ」
「教会の……妨害を懸念されているのですか?」
「妨害だけなら、まだいい」
王子の表情が険しくなる。
「私が恐れているのは——」
彼は言葉を切った。
暗殺——
その言葉を、彼は口に出さなかった。
「分かりました」
隊長は頷いた。
「万全の体制で臨みます」
王子は窓の外を見つめた。
遠くに、王立医学アカデミーの新研究棟が見える。
(リーゼ……)
彼女の決意は固い。
だからこそ、自分が守らなければならない。
「準備を急げ」
王子は静かに命じた。
「講演会まで、あと三週間しかない」
◇
教会本部——
「計画は、順調に進んでいるのか?」
暗い部屋で、声が響いた。
「はい、枢機卿猊下」
黒い服の男が跪いている。
「講演会当日、我々の者を会場に潜入させます」
「証拠は残すな」
枢機卿——正確には、元枢機卿ギースリングの側近——の声が冷たい。
「あの娘を黙らせろ」
「だが、教会の関与を悟られてはならぬ」
「承知しております」
男は頭を垂れた。
「ギースリング猊下は、不当な逮捕により投獄されている」
側近が続けた。
「我々は、猊下の名誉を取り戻さねばならない」
「そのためには、あの異端の娘を——」
「排除する」
男が静かに言った。
「そうだ」
側近が頷いた。
「神の正義のために」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
◇
二週間後——
リーゼは、研究室で最終確認をしていた。
「培養プレートの図版は……これで全部ね」
彼女は図版を並べる。
放線菌のコロニー——
抗菌活性試験の結果——
結核菌の増殖抑制効果——
「データは完璧だわ」
リーゼは満足げに頷いた。
「先生!」
エリーゼが駆け込んできた。
「大変です!」
「どうしたの?」
「南の港町——エルネスタで、熱病がさらに広がっています!」
エリーゼは報告書を差し出した。
リーゼは素早く目を通す。
感染者数——二百名を超えた。
死者——十五名。
症状——高熱、頭痛、筋肉痛、発疹……
「これは……」
リーゼは眉をひそめた。
ペストとは症状が違う。
もっと別の感染症——
「先生、どうしますか?」
エリーゼが尋ねた。
リーゼは考え込んだ。
講演会まで、あと一週間。
準備は最終段階に入っている。
でも——
港町の人々は、今も苦しんでいる。
「……講演会が終わったら、すぐに港町に向かうわ」
リーゼは決断した。
「今は、この研究を発表することが優先よ」
「放線菌の可能性を医学界に示せば、より多くの人を救える」
「分かりました」
エリーゼが頷いた。
リーゼは窓の外を見つめた。
(あと一週間……)
長いようで、短い。
◇
講演会前日——
王立医学アカデミー大講堂。
五百人を収容できる、壮麗な建物だ。
「準備は整っています」
アカデミー長が、リーゼに説明した。
「演台、照明、資料配布——すべて万全です」
「ありがとうございます」
リーゼは深々と頭を下げた。
大講堂は、明日の講演会に向けて整えられていた。
座席が整然と並び、演台には講演用の設備が設置されている。
「リーゼ先生」
アカデミー長が真剣な表情で言った。
「明日、全国から三百名以上の医師が集まります」
「あなたの研究は、この国の医学を変える可能性があります」
「はい」
リーゼは頷いた。
「ただし——」
アカデミー長が続けた。
「反対派もいることを、覚悟してください」
「反対派……?」
「教会系の医師たちです」
アカデミー長は説明した。
「彼らは、伝統的な治療法を重視しています」
「あなたの『新しい医学』を、異端視する者もいるでしょう」
リーゼは静かに頷いた。
「それでも、私は伝えます」
彼女は演台を見つめた。
「真実を、正しく」
◇
その夜——
リーゼは自室で、講演原稿を読み返していた。
何度も、何度も。
言葉の選び方、説明の順序、データの示し方——
すべてを確認する。
コンコン。
ノックの音が響いた。
「はい?」
「私だ」
アレクサンダー王子の声だった。
「殿下……?」
リーゼは驚いて扉を開けた。
「こんな夜遅くに……」
「明日のことで、話がある」
王子は部屋に入り、真剣な表情でリーゼを見つめた。
「リーゼ、約束してほしい」
「約束……?」
「明日、もし何か異常があったら——すぐに演台から離れろ」
リーゼは目を見開いた。
「殿下、何か情報が……?」
「確証はない」
王子は首を振った。
「だが、教会が何かを企んでいる可能性がある」
彼は、リーゼの肩に手を置いた。
「私は、会場に近衛隊を配置した」
「入場者の身元確認も、厳重に行う」
「でも……?」
「それでも、万全とは言えない」
王子は言った。
「だから、もし——もし何かあったら、迷わず逃げてくれ」
リーゼは、王子の真剣な眼差しを見つめた。
「殿下は……私のことを、そんなに心配してくださるんですか?」
「当然だ」
王子は即答した。
「あなたは、この国の宝だ」
「いや——」
彼は少し頬を染めた。
「私にとって、かけがえのない人だ」
リーゼの心臓が、大きく跳ねた。
「殿下……」
「講演は大切だ」
王子は続けた。
「でも、あなたの命はもっと大切だ」
「だから、約束してくれ」
リーゼは少し迷ってから——頷いた。
「分かりました」
「でも、私は逃げません」
「リーゼ——」
「逃げませんが、注意はします」
彼女は微笑んだ。
「殿下が守ってくださるなら、大丈夫ですよね?」
王子は、苦笑した。
「まったく……」
「あなたは、本当に頑固だな」
「すみません」
リーゼは笑った。
王子は、リーゼの頭に手を置いた。
「明日、私も会場にいる」
「何があっても、あなたを守る」
「ありがとうございます、殿下」
二人は、しばらく見つめ合った。
そして——
「さあ、もう休め」
王子は優しく言った。
「明日は、大事な日だ」
「はい」
王子が部屋を出て行った後——
リーゼは、胸に手を当てた。
ドクン、ドクンと、心臓が鳴っている。
(殿下……)
彼の言葉が、心に響いていた。
『私にとって、かけがえのない人だ』
リーゼは頬を染めて、ベッドに倒れ込んだ。
(明日……頑張らなきゃ)
緊張と、期待と、少しの不安——
それらが混じり合った気持ちで、彼女は眠りについた。
◇
講演会当日——
王立医学アカデミー大講堂。
開場時刻の一時間前から、医師たちが集まり始めていた。
「リーゼ・フォン・ハイムダル先生の講演だぞ」
「あのペスト治療を成し遂げた——」
「十五歳の天才医師か」
「いや、彼女はもっと深い何かを持っている」
医師たちの会話が飛び交う。
入口では、近衛隊が厳重な身元確認を行っていた。
「お名前と所属をお願いします」
「招待状を拝見させていただきます」
一人ひとり、丁寧に確認していく。
そして——
「次の方、どうぞ」
黒い服の男が、招待状を差し出した。
「ブルーノ・シュミット。聖マルティヌス修道院付属診療所の医師です」
「確認しました。どうぞお入りください」
男は、会場に入っていった。
彼の目は——冷たく、鋭かった。
◇
控室——
「リーゼ先生、そろそろお時間です」
スタッフが声をかけた。
「はい」
リーゼは深呼吸した。
白い医師服。
整えられた髪。
手には、講演原稿。
「大丈夫、大丈夫……」
彼女は自分に言い聞かせた。
コンコン。
ノックの音。
「リーゼ」
エリーゼが入ってきた。
「応援してるわ」
「ありがとう、エリーゼ」
「先生なら、絶対にうまくいくわ」
エリーゼは笑顔で言った。
リーゼは、親友の言葉に勇気をもらった。
「それじゃあ——行ってきます」
◇
大講堂——
三百名を超える医師たちが、席を埋めていた。
ざわざわと、期待に満ちた空気が流れている。
「では、これより特別講演を開始いたします」
アカデミー長が演台に立った。
「本日の講演者は、リーゼ・フォン・ハイムダル先生です」
拍手が起こった。
「彼女は、わずか十五歳でありながら、結核治療、ペスト対策において目覚ましい成果を上げられました」
アカデミー長が続ける。
「本日は、『土壌微生物による新たな治療法の可能性』と題して、最新の研究成果を発表していただきます」
拍手が大きくなった。
「それでは、リーゼ先生、どうぞ」
リーゼは、深呼吸して——
演台に向かって歩き出した。
三百を超える視線が、彼女に注がれる。
リーゼは演台に立ち、会場を見渡した。
最前列に、アレクサンダー王子が座っている。
彼は、静かに頷いた。
(大丈夫——)
リーゼは、講演原稿を開いた。
「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
彼女の声が、大講堂に響いた。
「私は、リーゼ・フォン・ハイムダルと申します」
会場が静まり返る。
「本日は、私が最近発見した、土壌微生物による新たな治療法の可能性について、お話しさせていただきます」
リーゼは、最初の図版を示した。
「これは、顕微鏡で観察した土壌微生物——放線菌の姿です」
会場から、驚きの声が漏れた。
「この微生物は、糸状の構造を持ち——」
リーゼは説明を始めた。
放線菌の特徴。
土壌からの分離方法。
培養技術。
そして——
「この放線菌の培養液を、結核菌に作用させたところ——」
彼女は次の図版を示した。
「結核菌の増殖が、完全に停止しました」
会場がざわついた。
「これは……本当なのか?」
「結核菌を抑制する物質……?」
「信じられない……」
医師たちの驚きの声が広がる。
「現在、この物質の抽出と精製を進めております」
リーゼは続けた。
「将来的には、結核の治療薬として実用化できる可能性があります」
会場が、大きくどよめいた。
「結核の——治療薬だと?」
「そんなものが、本当に可能なのか?」
「質問してもよろしいでしょうか?」
会場の後方から、声が上がった。
「はい、どうぞ」
リーゼは答えた。
黒い服の男が立ち上がった。
「ブルーノ・シュミットと申します」
男は言った。
「聖マルティヌス修道院の医師です」
リーゼは、わずかに緊張した。
教会系の医師——
「先生のおっしゃる『土壌微生物』とやらは、神の創造された清浄な人体に、『汚れた土』の産物を入れるということですか?」
会場が、静まり返った。
「それは——」
リーゼが答えようとした瞬間——
ガシャン!
会場の後方で、何かが割れる音がした。
煙が立ち上る。
「火事だ!」
「いや——煙幕か!?」
会場が混乱し始めた。
「リーゼ!」
アレクサンダー王子が立ち上がった。
煙の中から——
黒い影が、演台に向かって駆け出した。
手には——刃が光っている。
「先生!」
エリーゼが叫んだ。
リーゼは——
固まって動けなかった。
黒い影が、演台に迫る。
その瞬間——
ガキン!
金属音が響いた。
アレクサンダー王子が、剣を抜いて刺客の刃を受け止めていた。
「貴様——!」
王子の剣が、刺客の武器を弾き飛ばす。
「捕らえろ!」
近衛隊が会場に飛び込んできた。
刺客は逃げようとしたが——
すぐに取り押さえられた。
「リーゼ、大丈夫か!?」
王子がリーゼに駆け寄った。
「は、はい……」
リーゼは震えながら答えた。
会場は、完全な混乱に陥っていた。
「全員、その場を動かないでください!」
近衛隊長が叫んだ。
「身元を再確認します!」
医師たちは、恐怖と困惑の表情で立ちすくんでいた。
「リーゼ」
王子がリーゼの肩を抱いた。
「もう大丈夫だ」
リーゼは、王子の胸に顔を埋めた。
体が、止まらなく震えていた。
(暗殺……?)
(私を、殺そうと……?)
現実が、じわじわと理解されてくる。
「大丈夫、もう安全だ」
王子が優しく背中をさすった。
リーゼは、ようやく息を整えた。
「殿下……」
「ここにいる」
王子の温かさが、彼女を落ち着かせた。
◇
講演会は、中止となった。
刺客——ブルーノ・シュミットと名乗った男は、近衛隊に連行された。
そして——
「教会の差し金だ」
アレクサンダー王子が、調査報告を読み上げた。
王宮の一室。
リーゼ、エリーゼ、王子、そしてアカデミー長が集まっていた。
「ブルーノ・シュミットは偽名です」
王子が続けた。
「本名はマルクス・ヴォルフ。元ギースリング枢機卿の護衛騎士でした」
「やはり……」
リーゼは唇を噛んだ。
「教会は、あなたを黙らせようとした」
王子が言った。
「あなたの研究が、彼らの権威を脅かすから」
「でも——」
リーゼが震える声で言った。
「私は、ただ人を救いたいだけなのに……」
「分かっている」
王子は優しく言った。
「だからこそ、私たちはあなたを守る」
「リーゼ先生」
アカデミー長が言った。
「講演会は中止になりましたが、あなたの研究は素晴らしいものでした」
「でも、伝えられませんでした……」
「いいえ」
アカデミー長は首を振った。
「会場にいた医師たちは、皆あなたの話を聞きました」
「放線菌による結核治療の可能性——その衝撃は、必ず医学界に広がります」
「本当に……?」
「ええ」
アカデミー長は頷いた。
「あなたの研究は、もう止められません」
リーゼは、少し安心した。
◇
その頃——
教会本部。
「マルクス・ヴォルフが捕らえられた」
元枢機卿の側近が、暗い表情で報告を受けていた。
「致命的だ……」
側近の一人が呟いた。
「彼が我々の関与を証言すれば——」
「いや」
別の側近が冷たく言った。
「マルクスは、昨夜、獄中で急死した」
部屋が静まり返った。
「急死……?」
「ああ。心臓発作だそうだ」
側近は冷笑した。
「非常に——都合の良い心臓発作だ」
誰もが、その意味を理解していた。
口封じ——
「それから」
側近が続けた。
「教会は、公式見解を発表する」
「見解……?」
「『マルクス・ヴォルフは、個人的な狂信によって暴走した異端者である』と」
側近は文書を読み上げた。
「『教会本部は一切関与しておらず、この蛮行を強く非難する』——だそうだ」
トカゲの尻尾切り——
完璧な責任回避。
「ギースリング猊下の名は?」
「一切出さない」
側近は冷たく答えた。
「猊下は、あくまで『不当に投獄された被害者』だ」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
「だが——」
側近の一人が言った。
「あの娘は、まだ生きている」
「ああ」
別の側近が頷いた。
「次の機会を待つしかない」
「今度は、もっと慎重に——」
「もっと、確実に——」
暗い部屋に、不穏な空気が漂っていた。
◇
リーゼたちの会議室——
「それに——」
王子が言った。
「この事件で、教会の悪行が明るみに出た」
「もう、彼らはあなたを公然と攻撃できない」
「でも……」
リーゼは窓の外を見つめた。
街では、今も説教師たちが叫んでいるだろう。
そして、南の港町では、人々が熱病に苦しんでいる。
「私、行かなければなりません」
リーゼが言った。
「どこに?」
「南の港町——エルネスタです」
リーゼは決意を込めて言った。
「新しい熱病が広がっています」
「放っておけません」
「リーゼ——」
王子が止めようとした。
「殿下」
リーゼは王子を見つめた。
「私は医師です」
「人々を救うことが、私の使命です」
「でも、危険すぎる」
「危険でも、行きます」
リーゼは言い切った。
「それに——」
彼女は微笑んだ。
「殿下が守ってくださるんですよね?」
王子は、一瞬呆然として——
それから、苦笑した。
「まったく……」
「本当に、頑固だな」
「すみません」
「いいだろう」
王子は頷いた。
「ならば、私も一緒に行く」
「あなたを一人にはさせない」
リーゼの目が、輝いた。
「ありがとうございます、殿下」
◇
その夜——
リーゼは自室で、港町行きの準備をしていた。
医療器具、薬品、顕微鏡——
必要な物資をリストアップしていく。
コンコン。
ノックの音。
「はい?」
「私よ」
エリーゼが入ってきた。
「エリーゼ……」
「私も一緒に行くわ」
エリーゼは言った。
「でも、あなたはまだ完全には回復して——」
「大丈夫」
エリーゼは微笑んだ。
「もう、杖もいらないくらいに元気よ」
「でも……」
「リーゼ」
エリーゼは親友の手を取った。
「あなたは、私の命を救ってくれた」
「今度は、私があなたを支える番よ」
リーゼの目に、涙が浮かんだ。
「エリーゼ……ありがとう」
二人は、抱き合った。
「さあ、準備を手伝うわ」
エリーゼは袖をまくった。
「明日には出発でしょう?」
「うん」
二人は、夜遅くまで準備を続けた。
◇
翌朝——
王立医学アカデミーの前に、馬車が用意されていた。
「リーゼ先生、お気をつけて」
アカデミー長が見送りに来ていた。
「はい、ありがとうございます」
エルヴィンも来ていた。
「先生、これを」
彼は、改良型顕微鏡の図面を渡した。
「港町でも、観察が必要になるでしょう」
「ありがとう、エルヴィン」
リーゼは図面を受け取った。
「研究室のこと、頼んだわよ」
「はい!」
エルヴィンは力強く頷いた。
「リーゼ、準備はいいか?」
アレクサンダー王子が馬車に乗り込んできた。
「はい」
リーゼとエリーゼも乗り込む。
「では、出発!」
馬車が動き出した。
王都を離れ——
南へ、南へと向かっていく。
窓から見える景色が、徐々に変わっていく。
「リーゼ」
王子が言った。
「今度こそ、必ずあなたを守る」
「はい」
リーゼは微笑んだ。
「信じています」
馬車は、港町エルネスタへ向けて走り続けた。
新たな脅威が待つ場所へ——
でも、リーゼは恐れなかった。
なぜなら——
信頼できる仲間たちが、共にいるから。
(今度こそ、この熱病の正体を突き止める)
リーゼは決意を新たにした。
医師として——
そして、この世界を変える者として。
◇
港町エルネスタ——
馬車が到着したのは、夕暮れ時だった。
「着いたぞ」
王子が馬車を降りた。
リーゼとエリーゼも降りる。
港町は——静かだった。
不気味なほどに。
「人がいない……」
エリーゼが呟いた。
通常なら賑やかなはずの港が、閑散としている。
「隔離措置が取られているようだな」
王子が言った。
その時——
「誰だ!」
警備兵が駆けつけてきた。
「私は、アレクサンダー王子だ」
王子が身分証を示した。
「そして、こちらはリーゼ・フォン・ハイムダル医師だ」
「リーゼ先生!?」
兵士の顔が明るくなった。
「来てくださったのですか!」
「状況を教えてください」
リーゼが尋ねた。
「はい……」
兵士は暗い表情になった。
「感染者は三百名を超えました」
「死者は……二十三名です」
「症状は?」
「高熱、頭痛、筋肉痛——」
兵士は説明した。
「そして、三日目あたりから、体に発疹が現れます」
「赤い斑点が、全身に広がって……」
リーゼは考え込んだ。
高熱、筋肉痛、発疹——
(これは……もしかして……)
「すぐに、患者を診せてください」
リーゼは言った。
「はい、こちらへ」
兵士に案内されて——
リーゼたちは、臨時病院へ向かった。
その中で——
リーゼは見た。
苦しむ人々。
全身に広がる赤い発疹。
高熱に呻く患者たち。
(やはり……)
リーゼは、ある病気を思い浮かべていた。
前世の知識——
熱帯地方で流行する、致死率の高い感染症。
(天然痘……?)
(いや、違う……)
(でも、似ている……)
「リーゼ」
王子が心配そうに声をかけた。
「分かるのか?」
「まだ確定はできません」
リーゼは答えた。
「でも——」
彼女は、患者の一人に近づいた。
顕微鏡で血液を観察する必要がある。
そして——
「検体を採取させてください」
リーゼは看護師に頼んだ。
夜通しの検査が、始まった。
◇
翌朝——
リーゼは、顕微鏡を覗き続けていた。
疲労で目がかすむが、止められない。
血液サンプル、組織サンプル——
あらゆるものを観察する。
そして——
「これは……!」
顕微鏡の視野に、奇妙な構造が映った。
それは——
球形の、微小な何か。
細菌よりも小さい。
でも、確かに存在している。
(ウイルス……?)
リーゼは息を呑んだ。
前世の知識——
細菌よりも小さな病原体。
ウイルス。
でも——
この世界の言葉で、何と呼べばいいのだろう?
(前世では「ウイルス」と呼んでいた)
(でも、この世界の医学用語には、そんな概念すらない……)
リーゼは考えた。
細菌は「微小生物ミクロビウム」と呼ばれている。
では、それよりも小さな——
細菌ですら見えない、極微の存在は——?
(「超微小病原体ウルトラ・ミクロパトゲン」……?)
(いや、長すぎる)
(「見えざる毒ミアズマ・インビジブル」……?)
(それじゃあ、瘴気と混同される)
リーゼは唇を噛んだ。
(そうだ——)
(「微小毒ミクロトクシン」……いや、それだと毒素と混同される)
(ならば——「霊的微粒子」?)
(いや、それは魔法的すぎる……)
リーゼは深呼吸した。
(とりあえず、仮の名前でいい)
(細菌より小さい——「亜細菌サブ・バクテリア」)
(いや——もっと正確に……)
彼女は、前世の知識を思い出した。
ラテン語で「毒」を意味する「virus」。
(この世界にも、古代語がある)
(魔法の呪文に使われる、神聖語……)
リーゼは決めた。
「これを——『微小毒ウィールス』と呼ぼう」
神聖語で「毒」を意味する「ウィール」。
それに接尾辞「ス」をつけた造語。
前世の「ウイルス」と音も似ている。
でも、この世界の顕微鏡では、本来見えないはずだ。
(エルヴィンの改良……それに、魔法の照明……)
それらの組み合わせで、かろうじて観察できるようになった。
「これは——新しい感染症だわ」
リーゼは震える声で呟いた。
「南の大陸から来た、未知の『微小毒ウィールス』性疾患……」
扉が開いた。
「リーゼ、徹夜か?」
王子が入ってきた。
「殿下……」
「顔色が悪いぞ。少し休め」
「でも——」
「休め」
王子は有無を言わさぬ口調で言った。
「倒れたら、元も子もないだろう」
リーゼは、ようやく顕微鏡から目を離した。
「……はい」
王子は、リーゼに毛布をかけた。
「少しだけでいい。眠れ」
「でも、患者さんたちが……」
「交代の医師が来ている」
王子は言った。
「あなた一人で、すべてを背負う必要はない」
リーゼは、王子の優しさに涙が出そうになった。
「ありがとうございます……」
彼女は、その場で眠りに落ちた。
王子は、リーゼの寝顔を静かに見つめた。
(この子は——本当に、自分を犠牲にしすぎる)
彼は、リーゼの頭を優しく撫でた。
「だから、私が守らなければ」
窓の外——
港町に、朝日が昇っていた。
新たな戦いが、始まろうとしていた。
◇
数時間後——
リーゼは目を覚ました。
「あ、リーゼ!」
エリーゼが駆け寄ってきた。
「少しは休めた?」
「うん……ありがとう」
リーゼは体を起こした。
「ねえ、エリーゼ」
リーゼは真剣な表情で言った。
「昨夜、とても重要な発見をしたの」
「発見……?」
「この熱病の原因——細菌じゃないわ」
リーゼは顕微鏡を指さした。
「もっと小さな、細菌より遥かに小さな病原体なの」
「細菌より……小さい?」
エリーゼは驚いた。
「そんなものが、存在するの?」
「ええ」
リーゼは頷いた。
「私は、これを『微小毒ウィールス』と名付けることにしたわ」
「ウィールス……?」
「神聖語で『毒』を意味する言葉よ」
リーゼは説明した。
「細菌——『微小生物ミクロビウム』よりも、さらに小さい」
「目に見えない、極限まで小さな毒——だから『微小毒ウィールス』」
エリーゼは、顕微鏡を覗き込んだ。
「これが……?」
「そう」
リーゼは言った。
「そして——この『微小毒ウィールス』には、抗生物質が効かないの」
「え……!?」
エリーゼの顔が青ざめた。
「じゃあ、どうやって治療するの?」
「まだ、分からない」
リーゼは正直に答えた。
「でも——必ず、方法を見つけるわ」
彼女の目には、強い決意が宿っていた。
「エリーゼ、これから医療スタッフを集めて」
リーゼは立ち上がった。
「みんなに、この『微小毒ウィールス』について説明するわ」
「新しい敵と戦うには——まず、その正体を知らなければ」
「分かったわ!」
エリーゼは頷いた。
二人は、臨時病院の会議室へと向かった。
そこで、リーゼは集まった医師たちに——
人類史上初めて「ウイルス」の概念を説明することになる。
それは、医学の新たな地平を開く、歴史的な瞬間だった。
◇◇◇
次回:第088話「見えない敵と見える絆」
南の大陸から来た未知の熱病——
それは、『微小毒ウィールス』性疾患だった。
細菌よりも小さく、治療が困難な病原体。
リーゼは、この見えない敵と戦うため——
新たな戦略を立てなければならない。
でも、彼女は一人ではなかった。
アレクサンダー王子、エリーゼ、そして多くの仲間たちが——
共に戦ってくれる。
人と人との絆が、見えない敵に立ち向かう力となる。




