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転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~  作者: NN
転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~

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第87話 公開講演と見えざる刃




 三週間——


 リーゼにとって、それは嵐の前の静けさだった。



 王立医学アカデミーの新研究棟。


 リーゼは、実験室と講演準備の間を行き来する日々を送っていた。



「リーゼ先生、スライド用の図版が完成しました」


 エルヴィンが、顕微鏡で観察した像を精密に描いた図面を差し出した。


「ありがとう、エルヴィン」


 リーゼはそれを受け取り、講演原稿と照らし合わせる。



 放線菌の糸状構造——

 結核菌への抗菌作用——

 土壌からの分離培養——



「これで、一般の医師たちにも理解してもらえるはず……」


 リーゼは呟いた。



 公開医学講演会。


 それは、王立医学アカデミーが主催する、年に一度の大規模な学術集会だ。


 全国から医師、薬剤師、研究者が集まり、最新の医学知見を共有する。



 そして今年——


 リーゼは、特別講演者として招待されていた。



「『土壌微生物による新たな治療法の可能性』……か」


 リーゼは講演タイトルを見つめた。



 この講演で、彼女は放線菌研究の成果を発表する。


 そして——

 結核治療の新たな希望を、医学界全体に示す。



「先生」


 エルヴィンが心配そうに言った。


「街では、教会の説教師たちが……」


「分かっているわ」


 リーゼは静かに答えた。



 教会の街頭説教——


 それは日に日に激しさを増していた。



『神の教えに背く異端の医師!』

『病を商売の道具にする悪魔の娘!』

『子供の姿で人々を欺く魔女!』



 街角で、広場で、説教師たちは叫び続けている。



「でも、私は逃げない」


 リーゼは講演原稿を握りしめた。


「この研究を、正しく伝えなければ」





 王宮——



「警備を三倍にしろ」


 アレクサンダー王子は、近衛隊長に命じた。


「講演会当日、会場周辺を完全に封鎖する」



「はっ!」


 隊長が敬礼する。



「それから——」


 王子は地図を広げた。


「入場者の身元確認を厳重に行え」

「特に、教会関係者には注意しろ」



「教会の……妨害を懸念されているのですか?」


「妨害だけなら、まだいい」


 王子の表情が険しくなる。


「私が恐れているのは——」



 彼は言葉を切った。



 暗殺——


 その言葉を、彼は口に出さなかった。



「分かりました」


 隊長は頷いた。


「万全の体制で臨みます」



 王子は窓の外を見つめた。


 遠くに、王立医学アカデミーの新研究棟が見える。



(リーゼ……)



 彼女の決意は固い。


 だからこそ、自分が守らなければならない。



「準備を急げ」


 王子は静かに命じた。


「講演会まで、あと三週間しかない」





 教会本部——



「計画は、順調に進んでいるのか?」


 暗い部屋で、声が響いた。



「はい、枢機卿猊下」


 黒い服の男が跪いている。


「講演会当日、我々の者を会場に潜入させます」



「証拠は残すな」


 枢機卿——正確には、元枢機卿ギースリングの側近——の声が冷たい。


「あの娘を黙らせろ」

「だが、教会の関与を悟られてはならぬ」



「承知しております」


 男は頭を垂れた。



「ギースリング猊下は、不当な逮捕により投獄されている」


 側近が続けた。


「我々は、猊下の名誉を取り戻さねばならない」

「そのためには、あの異端の娘を——」



「排除する」


 男が静かに言った。



「そうだ」


 側近が頷いた。


「神の正義のために」



 部屋に、重い沈黙が落ちた。





 二週間後——



 リーゼは、研究室で最終確認をしていた。



「培養プレートの図版は……これで全部ね」


 彼女は図版を並べる。



 放線菌のコロニー——

 抗菌活性試験の結果——

 結核菌の増殖抑制効果——



「データは完璧だわ」


 リーゼは満足げに頷いた。



「先生!」


 エリーゼが駆け込んできた。


「大変です!」



「どうしたの?」


「南の港町——エルネスタで、熱病がさらに広がっています!」


 エリーゼは報告書を差し出した。



 リーゼは素早く目を通す。



 感染者数——二百名を超えた。

 死者——十五名。

 症状——高熱、頭痛、筋肉痛、発疹……



「これは……」


 リーゼは眉をひそめた。



 ペストとは症状が違う。


 もっと別の感染症——



「先生、どうしますか?」


 エリーゼが尋ねた。



 リーゼは考え込んだ。



 講演会まで、あと一週間。


 準備は最終段階に入っている。



 でも——


 港町の人々は、今も苦しんでいる。



「……講演会が終わったら、すぐに港町に向かうわ」


 リーゼは決断した。


「今は、この研究を発表することが優先よ」

「放線菌の可能性を医学界に示せば、より多くの人を救える」



「分かりました」


 エリーゼが頷いた。



 リーゼは窓の外を見つめた。



(あと一週間……)



 長いようで、短い。





 講演会前日——



 王立医学アカデミー大講堂。


 五百人を収容できる、壮麗な建物だ。



「準備は整っています」


 アカデミー長が、リーゼに説明した。


「演台、照明、資料配布——すべて万全です」



「ありがとうございます」


 リーゼは深々と頭を下げた。



 大講堂は、明日の講演会に向けて整えられていた。


 座席が整然と並び、演台には講演用の設備が設置されている。



「リーゼ先生」


 アカデミー長が真剣な表情で言った。


「明日、全国から三百名以上の医師が集まります」

「あなたの研究は、この国の医学を変える可能性があります」



「はい」


 リーゼは頷いた。



「ただし——」


 アカデミー長が続けた。


「反対派もいることを、覚悟してください」


「反対派……?」


「教会系の医師たちです」


 アカデミー長は説明した。


「彼らは、伝統的な治療法を重視しています」

「あなたの『新しい医学』を、異端視する者もいるでしょう」



 リーゼは静かに頷いた。



「それでも、私は伝えます」


 彼女は演台を見つめた。


「真実を、正しく」





 その夜——



 リーゼは自室で、講演原稿を読み返していた。



 何度も、何度も。



 言葉の選び方、説明の順序、データの示し方——


 すべてを確認する。



 コンコン。


 ノックの音が響いた。



「はい?」


「私だ」



 アレクサンダー王子の声だった。



「殿下……?」


 リーゼは驚いて扉を開けた。



「こんな夜遅くに……」


「明日のことで、話がある」



 王子は部屋に入り、真剣な表情でリーゼを見つめた。



「リーゼ、約束してほしい」


「約束……?」


「明日、もし何か異常があったら——すぐに演台から離れろ」



 リーゼは目を見開いた。



「殿下、何か情報が……?」


「確証はない」


 王子は首を振った。


「だが、教会が何かを企んでいる可能性がある」



 彼は、リーゼの肩に手を置いた。



「私は、会場に近衛隊を配置した」

「入場者の身元確認も、厳重に行う」


「でも……?」


「それでも、万全とは言えない」


 王子は言った。


「だから、もし——もし何かあったら、迷わず逃げてくれ」



 リーゼは、王子の真剣な眼差しを見つめた。



「殿下は……私のことを、そんなに心配してくださるんですか?」


「当然だ」


 王子は即答した。


「あなたは、この国の宝だ」

「いや——」



 彼は少し頬を染めた。



「私にとって、かけがえのない人だ」



 リーゼの心臓が、大きく跳ねた。



「殿下……」


「講演は大切だ」


 王子は続けた。


「でも、あなたの命はもっと大切だ」

「だから、約束してくれ」



 リーゼは少し迷ってから——頷いた。



「分かりました」

「でも、私は逃げません」



「リーゼ——」


「逃げませんが、注意はします」


 彼女は微笑んだ。


「殿下が守ってくださるなら、大丈夫ですよね?」



 王子は、苦笑した。



「まったく……」

「あなたは、本当に頑固だな」



「すみません」


 リーゼは笑った。



 王子は、リーゼの頭に手を置いた。



「明日、私も会場にいる」

「何があっても、あなたを守る」



「ありがとうございます、殿下」



 二人は、しばらく見つめ合った。



 そして——



「さあ、もう休め」


 王子は優しく言った。


「明日は、大事な日だ」



「はい」



 王子が部屋を出て行った後——


 リーゼは、胸に手を当てた。



 ドクン、ドクンと、心臓が鳴っている。



(殿下……)



 彼の言葉が、心に響いていた。



『私にとって、かけがえのない人だ』



 リーゼは頬を染めて、ベッドに倒れ込んだ。



(明日……頑張らなきゃ)



 緊張と、期待と、少しの不安——


 それらが混じり合った気持ちで、彼女は眠りについた。





 講演会当日——



 王立医学アカデミー大講堂。



 開場時刻の一時間前から、医師たちが集まり始めていた。



「リーゼ・フォン・ハイムダル先生の講演だぞ」

「あのペスト治療を成し遂げた——」

「十五歳の天才医師か」

「いや、彼女はもっと深い何かを持っている」



 医師たちの会話が飛び交う。



 入口では、近衛隊が厳重な身元確認を行っていた。



「お名前と所属をお願いします」

「招待状を拝見させていただきます」



 一人ひとり、丁寧に確認していく。



 そして——



「次の方、どうぞ」


 黒い服の男が、招待状を差し出した。



「ブルーノ・シュミット。聖マルティヌス修道院付属診療所の医師です」



「確認しました。どうぞお入りください」



 男は、会場に入っていった。



 彼の目は——冷たく、鋭かった。





 控室——



「リーゼ先生、そろそろお時間です」


 スタッフが声をかけた。



「はい」


 リーゼは深呼吸した。



 白い医師服。

 整えられた髪。

 手には、講演原稿。



「大丈夫、大丈夫……」


 彼女は自分に言い聞かせた。



 コンコン。


 ノックの音。



「リーゼ」


 エリーゼが入ってきた。


「応援してるわ」



「ありがとう、エリーゼ」



「先生なら、絶対にうまくいくわ」


 エリーゼは笑顔で言った。



 リーゼは、親友の言葉に勇気をもらった。



「それじゃあ——行ってきます」





 大講堂——



 三百名を超える医師たちが、席を埋めていた。



 ざわざわと、期待に満ちた空気が流れている。



「では、これより特別講演を開始いたします」


 アカデミー長が演台に立った。



「本日の講演者は、リーゼ・フォン・ハイムダル先生です」



 拍手が起こった。



「彼女は、わずか十五歳でありながら、結核治療、ペスト対策において目覚ましい成果を上げられました」


 アカデミー長が続ける。


「本日は、『土壌微生物による新たな治療法の可能性』と題して、最新の研究成果を発表していただきます」



 拍手が大きくなった。



「それでは、リーゼ先生、どうぞ」



 リーゼは、深呼吸して——


 演台に向かって歩き出した。



 三百を超える視線が、彼女に注がれる。



 リーゼは演台に立ち、会場を見渡した。



 最前列に、アレクサンダー王子が座っている。


 彼は、静かに頷いた。



(大丈夫——)



 リーゼは、講演原稿を開いた。



「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」



 彼女の声が、大講堂に響いた。



「私は、リーゼ・フォン・ハイムダルと申します」



 会場が静まり返る。



「本日は、私が最近発見した、土壌微生物による新たな治療法の可能性について、お話しさせていただきます」



 リーゼは、最初の図版を示した。



「これは、顕微鏡で観察した土壌微生物——放線菌の姿です」



 会場から、驚きの声が漏れた。



「この微生物は、糸状の構造を持ち——」



 リーゼは説明を始めた。



 放線菌の特徴。

 土壌からの分離方法。

 培養技術。



 そして——



「この放線菌の培養液を、結核菌に作用させたところ——」



 彼女は次の図版を示した。



「結核菌の増殖が、完全に停止しました」



 会場がざわついた。



「これは……本当なのか?」

「結核菌を抑制する物質……?」

「信じられない……」



 医師たちの驚きの声が広がる。



「現在、この物質の抽出と精製を進めております」


 リーゼは続けた。


「将来的には、結核の治療薬として実用化できる可能性があります」



 会場が、大きくどよめいた。



「結核の——治療薬だと?」

「そんなものが、本当に可能なのか?」



「質問してもよろしいでしょうか?」


 会場の後方から、声が上がった。



「はい、どうぞ」


 リーゼは答えた。



 黒い服の男が立ち上がった。



「ブルーノ・シュミットと申します」


 男は言った。


「聖マルティヌス修道院の医師です」



 リーゼは、わずかに緊張した。



 教会系の医師——



「先生のおっしゃる『土壌微生物』とやらは、神の創造された清浄な人体に、『汚れた土』の産物を入れるということですか?」



 会場が、静まり返った。



「それは——」


 リーゼが答えようとした瞬間——



 ガシャン!



 会場の後方で、何かが割れる音がした。



 煙が立ち上る。



「火事だ!」

「いや——煙幕か!?」



 会場が混乱し始めた。



「リーゼ!」


 アレクサンダー王子が立ち上がった。



 煙の中から——


 黒い影が、演台に向かって駆け出した。



 手には——刃が光っている。



「先生!」


 エリーゼが叫んだ。



 リーゼは——


 固まって動けなかった。



 黒い影が、演台に迫る。



 その瞬間——



 ガキン!



 金属音が響いた。



 アレクサンダー王子が、剣を抜いて刺客の刃を受け止めていた。



「貴様——!」



 王子の剣が、刺客の武器を弾き飛ばす。



「捕らえろ!」



 近衛隊が会場に飛び込んできた。



 刺客は逃げようとしたが——


 すぐに取り押さえられた。



「リーゼ、大丈夫か!?」


 王子がリーゼに駆け寄った。



「は、はい……」


 リーゼは震えながら答えた。



 会場は、完全な混乱に陥っていた。



「全員、その場を動かないでください!」


 近衛隊長が叫んだ。


「身元を再確認します!」



 医師たちは、恐怖と困惑の表情で立ちすくんでいた。



「リーゼ」


 王子がリーゼの肩を抱いた。


「もう大丈夫だ」



 リーゼは、王子の胸に顔を埋めた。



 体が、止まらなく震えていた。



(暗殺……?)


(私を、殺そうと……?)



 現実が、じわじわと理解されてくる。



「大丈夫、もう安全だ」


 王子が優しく背中をさすった。



 リーゼは、ようやく息を整えた。



「殿下……」


「ここにいる」



 王子の温かさが、彼女を落ち着かせた。





 講演会は、中止となった。



 刺客——ブルーノ・シュミットと名乗った男は、近衛隊に連行された。



 そして——



「教会の差し金だ」


 アレクサンダー王子が、調査報告を読み上げた。



 王宮の一室。


 リーゼ、エリーゼ、王子、そしてアカデミー長が集まっていた。



「ブルーノ・シュミットは偽名です」


 王子が続けた。


「本名はマルクス・ヴォルフ。元ギースリング枢機卿の護衛騎士でした」



「やはり……」


 リーゼは唇を噛んだ。



「教会は、あなたを黙らせようとした」


 王子が言った。


「あなたの研究が、彼らの権威を脅かすから」



「でも——」


 リーゼが震える声で言った。


「私は、ただ人を救いたいだけなのに……」



「分かっている」


 王子は優しく言った。


「だからこそ、私たちはあなたを守る」



「リーゼ先生」


 アカデミー長が言った。


「講演会は中止になりましたが、あなたの研究は素晴らしいものでした」



「でも、伝えられませんでした……」


「いいえ」


 アカデミー長は首を振った。


「会場にいた医師たちは、皆あなたの話を聞きました」

「放線菌による結核治療の可能性——その衝撃は、必ず医学界に広がります」



「本当に……?」


「ええ」


 アカデミー長は頷いた。


「あなたの研究は、もう止められません」



 リーゼは、少し安心した。





 その頃——


 教会本部。



「マルクス・ヴォルフが捕らえられた」


 元枢機卿の側近が、暗い表情で報告を受けていた。



「致命的だ……」


 側近の一人が呟いた。


「彼が我々の関与を証言すれば——」



「いや」


 別の側近が冷たく言った。


「マルクスは、昨夜、獄中で急死した」



 部屋が静まり返った。



「急死……?」


「ああ。心臓発作だそうだ」


 側近は冷笑した。


「非常に——都合の良い心臓発作だ」



 誰もが、その意味を理解していた。


 口封じ——



「それから」


 側近が続けた。


「教会は、公式見解を発表する」



「見解……?」


「『マルクス・ヴォルフは、個人的な狂信によって暴走した異端者である』と」


 側近は文書を読み上げた。


「『教会本部は一切関与しておらず、この蛮行を強く非難する』——だそうだ」



 トカゲの尻尾切り——


 完璧な責任回避。



「ギースリング猊下の名は?」


「一切出さない」


 側近は冷たく答えた。


「猊下は、あくまで『不当に投獄された被害者』だ」



 部屋に、重い沈黙が落ちた。



「だが——」


 側近の一人が言った。


「あの娘は、まだ生きている」



「ああ」


 別の側近が頷いた。


「次の機会を待つしかない」


「今度は、もっと慎重に——」


「もっと、確実に——」



 暗い部屋に、不穏な空気が漂っていた。





 リーゼたちの会議室——



「それに——」


 王子が言った。


「この事件で、教会の悪行が明るみに出た」

「もう、彼らはあなたを公然と攻撃できない」



「でも……」


 リーゼは窓の外を見つめた。



 街では、今も説教師たちが叫んでいるだろう。


 そして、南の港町では、人々が熱病に苦しんでいる。



「私、行かなければなりません」


 リーゼが言った。



「どこに?」


「南の港町——エルネスタです」


 リーゼは決意を込めて言った。


「新しい熱病が広がっています」

「放っておけません」



「リーゼ——」


 王子が止めようとした。



「殿下」


 リーゼは王子を見つめた。


「私は医師です」

「人々を救うことが、私の使命です」



「でも、危険すぎる」


「危険でも、行きます」


 リーゼは言い切った。


「それに——」



 彼女は微笑んだ。



「殿下が守ってくださるんですよね?」



 王子は、一瞬呆然として——


 それから、苦笑した。



「まったく……」

「本当に、頑固だな」



「すみません」



「いいだろう」


 王子は頷いた。


「ならば、私も一緒に行く」

「あなたを一人にはさせない」



 リーゼの目が、輝いた。



「ありがとうございます、殿下」





 その夜——



 リーゼは自室で、港町行きの準備をしていた。



 医療器具、薬品、顕微鏡——


 必要な物資をリストアップしていく。



 コンコン。


 ノックの音。



「はい?」


「私よ」



 エリーゼが入ってきた。



「エリーゼ……」


「私も一緒に行くわ」


 エリーゼは言った。



「でも、あなたはまだ完全には回復して——」


「大丈夫」


 エリーゼは微笑んだ。


「もう、杖もいらないくらいに元気よ」



「でも……」


「リーゼ」


 エリーゼは親友の手を取った。


「あなたは、私の命を救ってくれた」

「今度は、私があなたを支える番よ」



 リーゼの目に、涙が浮かんだ。



「エリーゼ……ありがとう」



 二人は、抱き合った。



「さあ、準備を手伝うわ」


 エリーゼは袖をまくった。


「明日には出発でしょう?」



「うん」



 二人は、夜遅くまで準備を続けた。





 翌朝——



 王立医学アカデミーの前に、馬車が用意されていた。



「リーゼ先生、お気をつけて」


 アカデミー長が見送りに来ていた。



「はい、ありがとうございます」



 エルヴィンも来ていた。



「先生、これを」


 彼は、改良型顕微鏡の図面を渡した。


「港町でも、観察が必要になるでしょう」



「ありがとう、エルヴィン」


 リーゼは図面を受け取った。


「研究室のこと、頼んだわよ」



「はい!」


 エルヴィンは力強く頷いた。



「リーゼ、準備はいいか?」


 アレクサンダー王子が馬車に乗り込んできた。



「はい」



 リーゼとエリーゼも乗り込む。



「では、出発!」



 馬車が動き出した。



 王都を離れ——


 南へ、南へと向かっていく。



 窓から見える景色が、徐々に変わっていく。



「リーゼ」


 王子が言った。


「今度こそ、必ずあなたを守る」



「はい」


 リーゼは微笑んだ。


「信じています」



 馬車は、港町エルネスタへ向けて走り続けた。



 新たな脅威が待つ場所へ——


 でも、リーゼは恐れなかった。



 なぜなら——


 信頼できる仲間たちが、共にいるから。



(今度こそ、この熱病の正体を突き止める)



 リーゼは決意を新たにした。



 医師として——


 そして、この世界を変える者として。





 港町エルネスタ——



 馬車が到着したのは、夕暮れ時だった。



「着いたぞ」


 王子が馬車を降りた。



 リーゼとエリーゼも降りる。



 港町は——静かだった。


 不気味なほどに。



「人がいない……」


 エリーゼが呟いた。



 通常なら賑やかなはずの港が、閑散としている。



「隔離措置が取られているようだな」


 王子が言った。



 その時——



「誰だ!」


 警備兵が駆けつけてきた。



「私は、アレクサンダー王子だ」


 王子が身分証を示した。


「そして、こちらはリーゼ・フォン・ハイムダル医師だ」



「リーゼ先生!?」


 兵士の顔が明るくなった。


「来てくださったのですか!」



「状況を教えてください」


 リーゼが尋ねた。



「はい……」


 兵士は暗い表情になった。


「感染者は三百名を超えました」

「死者は……二十三名です」



「症状は?」


「高熱、頭痛、筋肉痛——」


 兵士は説明した。


「そして、三日目あたりから、体に発疹が現れます」

「赤い斑点が、全身に広がって……」



 リーゼは考え込んだ。



 高熱、筋肉痛、発疹——



(これは……もしかして……)



「すぐに、患者を診せてください」


 リーゼは言った。



「はい、こちらへ」



 兵士に案内されて——


 リーゼたちは、臨時病院へ向かった。



 その中で——


 リーゼは見た。



 苦しむ人々。

 全身に広がる赤い発疹。

 高熱に呻く患者たち。



(やはり……)



 リーゼは、ある病気を思い浮かべていた。



 前世の知識——


 熱帯地方で流行する、致死率の高い感染症。



(天然痘……?)


(いや、違う……)


(でも、似ている……)



「リーゼ」


 王子が心配そうに声をかけた。


「分かるのか?」



「まだ確定はできません」


 リーゼは答えた。


「でも——」



 彼女は、患者の一人に近づいた。



 顕微鏡で血液を観察する必要がある。


 そして——



「検体を採取させてください」


 リーゼは看護師に頼んだ。



 夜通しの検査が、始まった。





 翌朝——



 リーゼは、顕微鏡を覗き続けていた。



 疲労で目がかすむが、止められない。



 血液サンプル、組織サンプル——


 あらゆるものを観察する。



 そして——



「これは……!」



 顕微鏡の視野に、奇妙な構造が映った。



 それは——


 球形の、微小な何か。



 細菌よりも小さい。


 でも、確かに存在している。



(ウイルス……?)



 リーゼは息を呑んだ。



 前世の知識——


 細菌よりも小さな病原体。


 ウイルス。



 でも——


 この世界の言葉で、何と呼べばいいのだろう?



(前世では「ウイルス」と呼んでいた)


(でも、この世界の医学用語には、そんな概念すらない……)



 リーゼは考えた。



 細菌は「微小生物ミクロビウム」と呼ばれている。


 では、それよりも小さな——


 細菌ですら見えない、極微の存在は——?



(「超微小病原体ウルトラ・ミクロパトゲン」……?)


(いや、長すぎる)


(「見えざる毒ミアズマ・インビジブル」……?)


(それじゃあ、瘴気と混同される)



 リーゼは唇を噛んだ。



(そうだ——)


(「微小毒ミクロトクシン」……いや、それだと毒素と混同される)


(ならば——「霊的微粒子」?)


(いや、それは魔法的すぎる……)



 リーゼは深呼吸した。



(とりあえず、仮の名前でいい)


(細菌より小さい——「亜細菌サブ・バクテリア」)


(いや——もっと正確に……)



 彼女は、前世の知識を思い出した。


 ラテン語で「毒」を意味する「virusウイルス」。



(この世界にも、古代語がある)


(魔法の呪文に使われる、神聖語……)



 リーゼは決めた。



「これを——『微小毒ウィールス』と呼ぼう」



 神聖語で「毒」を意味する「ウィール」。


 それに接尾辞「ス」をつけた造語。


 前世の「ウイルス」と音も似ている。



 でも、この世界の顕微鏡では、本来見えないはずだ。



(エルヴィンの改良……それに、魔法の照明……)



 それらの組み合わせで、かろうじて観察できるようになった。



「これは——新しい感染症だわ」



 リーゼは震える声で呟いた。



「南の大陸から来た、未知の『微小毒ウィールス』性疾患……」



 扉が開いた。



「リーゼ、徹夜か?」


 王子が入ってきた。



「殿下……」


「顔色が悪いぞ。少し休め」


「でも——」


「休め」


 王子は有無を言わさぬ口調で言った。


「倒れたら、元も子もないだろう」



 リーゼは、ようやく顕微鏡から目を離した。



「……はい」



 王子は、リーゼに毛布をかけた。



「少しだけでいい。眠れ」



「でも、患者さんたちが……」


「交代の医師が来ている」


 王子は言った。


「あなた一人で、すべてを背負う必要はない」



 リーゼは、王子の優しさに涙が出そうになった。



「ありがとうございます……」



 彼女は、その場で眠りに落ちた。



 王子は、リーゼの寝顔を静かに見つめた。



(この子は——本当に、自分を犠牲にしすぎる)



 彼は、リーゼの頭を優しく撫でた。



「だから、私が守らなければ」



 窓の外——


 港町に、朝日が昇っていた。



 新たな戦いが、始まろうとしていた。





 数時間後——


 リーゼは目を覚ました。



「あ、リーゼ!」


 エリーゼが駆け寄ってきた。


「少しは休めた?」



「うん……ありがとう」


 リーゼは体を起こした。



「ねえ、エリーゼ」


 リーゼは真剣な表情で言った。


「昨夜、とても重要な発見をしたの」



「発見……?」



「この熱病の原因——細菌じゃないわ」


 リーゼは顕微鏡を指さした。


「もっと小さな、細菌より遥かに小さな病原体なの」



「細菌より……小さい?」


 エリーゼは驚いた。


「そんなものが、存在するの?」



「ええ」


 リーゼは頷いた。


「私は、これを『微小毒ウィールス』と名付けることにしたわ」



「ウィールス……?」



「神聖語で『毒』を意味する言葉よ」


 リーゼは説明した。


「細菌——『微小生物ミクロビウム』よりも、さらに小さい」


「目に見えない、極限まで小さな毒——だから『微小毒ウィールス』」



 エリーゼは、顕微鏡を覗き込んだ。



「これが……?」



「そう」


 リーゼは言った。


「そして——この『微小毒ウィールス』には、抗生物質が効かないの」



「え……!?」


 エリーゼの顔が青ざめた。


「じゃあ、どうやって治療するの?」



「まだ、分からない」


 リーゼは正直に答えた。


「でも——必ず、方法を見つけるわ」



 彼女の目には、強い決意が宿っていた。



「エリーゼ、これから医療スタッフを集めて」


 リーゼは立ち上がった。


「みんなに、この『微小毒ウィールス』について説明するわ」


「新しい敵と戦うには——まず、その正体を知らなければ」



「分かったわ!」


 エリーゼは頷いた。



 二人は、臨時病院の会議室へと向かった。


 そこで、リーゼは集まった医師たちに——


 人類史上初めて「ウイルス」の概念を説明することになる。



 それは、医学の新たな地平を開く、歴史的な瞬間だった。



◇◇◇



次回:第088話「見えない敵と見える絆」



 南の大陸から来た未知の熱病——


 それは、『微小毒ウィールス』性疾患だった。



 細菌よりも小さく、治療が困難な病原体。



 リーゼは、この見えない敵と戦うため——


 新たな戦略を立てなければならない。



 でも、彼女は一人ではなかった。



 アレクサンダー王子、エリーゼ、そして多くの仲間たちが——


 共に戦ってくれる。



 人と人との絆が、見えない敵に立ち向かう力となる。

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