第086話 希望と暗雲
王都の朝は、いつもと変わらぬ静けさだった。
リーゼは研究室の窓から、街並みを眺めていた。
ペスト危機から一ヶ月半。
長い回復期間だった。
リーゼ自身、結核からの回復と極度の過労で、最初の三週間は寝たきり同然だった。
高熱、咳、悪夢——
体が、限界を超えていたのだ。
でも、ようやく体調が安定してきた。
咳もほとんど出なくなり、体力も戻りつつある。
港町エルネスタも復興が進み、王都も完全に日常を取り戻していた。
でも——
リーゼは胸の奥に、漠然とした不安を感じていた。
嵐の前の静けさ。
そんな言葉が、脳裏をよぎる。
「リーゼ先生」
エルヴィンの声で、リーゼは我に返った。
「改良型顕微鏡の準備ができました」
「ありがとう」
リーゼは微笑んで、実験台に向かった。
◇
改良型顕微鏡——
リーゼが残した設計図を元に、エルヴィンたちが完成させた二段階レンズ構成の顕微鏡。
対物レンズと接眼レンズの組み合わせで、従来の約二倍の拡大率を実現している。
「では、観察を始めます」
リーゼは新しいサンプルをスライドに載せた。
これは、先週ルーカスが近郊の森から採取してきた土壌サンプルだ。
ストレプトマイシン——
リーゼがかつて発見した、結核を治す奇跡の薬。
しかし、問題があった。
副作用だ。
聴神経への影響。
耳鳴り、めまい、そして最悪の場合は難聴。
アンナの治療では、投与量を慎重に調整することで軽度に抑えられた。
でも、すべての患者が同じように幸運とは限らない。
より副作用の少ない株——
より効果的で、より安全な放線菌の株が、土壌のどこかにあるはずだ。
前世の知識によれば、同じ抗生物質を産生する菌でも、株によって効力や副作用が異なる。
より優れた株を見つけることが、医療の質を向上させる。
リーゼは顕微鏡を覗き込んだ。
レンズの向こうに、微小な世界が広がる。
土壌粒子の間に、無数の微生物。
細菌、糸状菌、原生動物——
「これは……」
リーゼは息を呑んだ。
改良された照明と拡大率のおかげで、以前より遥かに鮮明に見える。
細菌一つ一つの形態が、はっきりと観察できる。
「すごい……」
そして——
リーゼは、特徴的な形をした微生物を見つけた。
細長い糸状の菌体。
枝分かれする構造。
これは——放線菌だ。
「また新しい株が……!」
◇
「新しい株ですか!」
エリーゼが駆け寄ってきた。
彼女も、ようやく杖なしで歩けるようになった。
ペストからの回復には時間がかかった。
最初の一ヶ月は、ほとんどベッドで過ごしていた。
でも今は、ゆっくりとした動きながらも、自力で研究室に通えるまでになった。
「また放線菌を発見したんですか?」
「ええ」
リーゼは頷いた。
「でも、これが現在の株より優れているかどうかは、まだ分からないわ」
「どうやって確かめるんですか?」
エルヴィンが尋ねた。
「培養して、結核菌の増殖を抑制できるか試すの」
リーゼは説明した。
「放線菌を寒天培地で培養する」
「その培養液を濾過して、結核菌と混ぜる」
「もし結核菌の増殖が止まれば——」
「その放線菌が、抗生物質を作っているということですね」
エルヴィンが理解した。
「その通り」
リーゼは培養皿を取り出した。
「時間はかかるけど、一つずつ試していきましょう」
◇
その午後——
リーゼは医学院長室に呼ばれた。
院長の他に、ヴィルヘルム先生とアレクサンダー王子が同席している。
「お呼びでしょうか?」
リーゼは緊張しながら尋ねた。
「ああ、リーゼ先生」
院長が重々しく口を開いた。
「実は、重要な報告がある」
彼は一枚の書類を差し出した。
「教会から、正式な抗議文が届いた」
リーゼの背筋に、冷たいものが走った。
「抗議……ですか?」
「ギースリング枢機卿の逮捕について、だ」
ヴィルヘルム先生が説明した。
「教会は『証拠が不十分である』『王権が教会の自治権を侵害した』と主張している」
「でも、放火の実行犯が自白したんですよね?」
「ああ」
アレクサンダー王子が答えた。
「しかし、教会側は『実行犯の証言は拷問によるものだ』と主張している」
「拷問なんて、していないのに……」
「分かっている」
王子は頷いた。
「これは、単なる口実だ」
「教会の保守派は、科学的医療の発展を阻止したいのだ」
院長が深いため息をついた。
「そして、教会は次の一手を打ってきた」
彼は別の書類を見せた。
「『リーゼ・フォン・ハイムダル医師による医療行為の一時停止を求める』——だそうだ」
リーゼは言葉を失った。
「なぜ……私が?」
「理由は複数挙げられている」
ヴィルヘルム先生が書類を読み上げた。
「顕微鏡による『悪魔の観察』」
「神の意志に反する『生命の操作』」
「若年で未熟な医師による危険な実験」
「全て、言いがかりです!」
リーゼは抗議した。
「私は、人々を救うために——」
「我々も、それは理解している」
院長が手を上げた。
「しかし、教会の影響力は大きい」
「特に地方では、まだ教会の権威が絶対だ」
◇
沈黙が流れた。
リーゼは拳を握りしめた。
せっかく、改良株の手がかりを見つけたばかりなのに——
「リーゼ」
アレクサンダー王子が声をかけた。
「心配するな」
彼は力強く言った。
「父上——国王陛下は、あなたの味方だ」
「教会の要求は却下される」
「でも……」
「ただし」
王子は真剣な表情になった。
「教会との全面対決は避けたい」
「国が二つに割れてしまう」
彼は窓の外を見つめた。
「だから、慎重に対応する必要がある」
「具体的には?」
「まず、あなたの研究成果を公開する」
王子が提案した。
「顕微鏡が『悪魔の道具』ではなく、人々を救う技術であることを証明する」
「そして、医学会で公式に発表する」
「医学会……」
「次回の王立医学会は、三週間後だ」
ヴィルヘルム先生が言った。
「そこで、あなたの全ての研究成果を発表しなさい」
「顕微鏡、消毒法、抗生物質——全てを」
「一般市民も参加できる公開講演会の形式にしよう」
院長が付け加えた。
「民衆の支持を得られれば、教会も無視できない」
◇
会議が終わり、リーゼは廊下を歩いていた。
心は重く、足取りも重い。
三週間後の発表——
それまでに、どれだけの成果を示せるだろうか。
「リーゼ」
後ろから、アレクサンダー王子が追いかけてきた。
「王子殿下」
「今、時間はあるか?」
「はい」
「少し、話がしたい」
王子はリーゼを中庭に誘った。
◇
中庭の噴水のそばで、二人は並んで座った。
初秋の風が、心地よく吹いている。
「リーゼ」
王子が静かに言った。
「あの時は、ありがとう」
「あの時……?」
「カールのことだ」
王子は微笑んだ。
「弟は、今では完全に健康になった」
「馬に乗り、剣を振り、毎日を楽しんでいる」
「それは……よかったです」
リーゼも微笑んだ。
「あなたのおかげだ」
王子は真剣な目でリーゼを見つめた。
「あなたは、不可能を可能にした」
「医学の常識を覆し、多くの命を救った」
「私は……ただ、知っていることをしただけです」
「それが、どれほど素晴らしいことか」
王子はリーゼの手を取った。
「リーゼ、あなたは特別だ」
「この世界を変える力を持っている」
リーゼは頬が熱くなるのを感じた。
「王子殿下……」
「だから——」
王子は言葉を選びながら続けた。
「教会が、あなたを恐れるのも無理はない」
彼は空を見上げた。
「変化を恐れる者は、常に存在する」
「既存の秩序を守ろうとする者は、新しいものを排除しようとする」
「でも、それは間違っています」
リーゼは反論した。
「医学の進歩は、人々のためです」
「病気で苦しむ人を減らすためです」
「分かっている」
王子は頷いた。
「だから、私はあなたを守る」
彼はリーゼの手を強く握った。
「どんな圧力があろうとも、あなたの研究を守る」
「それが、私の役目だ」
リーゼは王子の目を見つめた。
そこには、強い決意があった。
「ありがとうございます」
リーゼは心から感謝した。
「でも、私も戦います」
彼女は拳を握った。
「医学の力で、教会の誤解を解きます」
「顕微鏡が救った命を、皆に知ってもらいます」
「ああ」
王子は微笑んだ。
「それが、あなたらしい」
◇
その夜——
リーゼは自室で、発表の準備を始めた。
三週間後の医学会。
全ての研究成果を発表する。
顕微鏡の原理と応用。
消毒法の効果。
抗生物質の可能性。
そして——
リーゼはペンを走らせた。
ペストの治療記録も含めよう。
百七十名の犠牲者のデータも。
全てを正直に発表する。
成功も、失敗も、犠牲も。
それが、科学者としての誠実さだ。
◇
翌日——
研究室では、放線菌の培養が進んでいた。
「リーゼ先生」
エルヴィンが報告に来た。
「十二株の放線菌を分離できました」
「素晴らしいわ」
リーゼは培養皿を確認した。
寒天培地の上に、白い放線菌のコロニーが広がっている。
「これから、一つずつ培養液を作って、抗結核活性を試験するのね」
「時間がかかりそうですね」
「ええ」
リーゼは頷いた。
「でも、急ぐわけにはいかない」
「丁寧に、確実に」
その時——
「リーゼ!」
ルーカスが慌てて入ってきた。
「大変だ!」
「どうしたの?」
「教会の説教師が、街で説法を始めた」
ルーカスは息を切らしながら言った。
「『顕微鏡は悪魔の道具』『科学は神への冒涜』だと——」
リーゼの顔色が変わった。
「民衆を、扇動している」
◇
リーゼたちは街へ急いだ。
中央広場には、黒い法衣を着た説教師が立っていた。
その周りに、数十人の民衆が集まっている。
「皆さん!」
説教師が声を張り上げた。
「神は、我々に肉眼で見えるものだけを与えられた!」
「それ以上を見ようとすることは、傲慢です!」
民衆の一部が、頷いている。
「顕微鏡という悪魔の道具で、神の領域を覗き見ることは罪です!」
「そんな……」
リーゼは拳を握りしめた。
「若き医師リーゼは、神の意志に背き、禁断の技術を用いています!」
説教師はリーゼを指さした。
「彼女が見ているのは、悪魔です!」
「病を引き起こす『微小な悪魔』を見て、それを殺すなど——」
「生命の尊厳を冒涜する行為です!」
民衆の中から、囁き声が広がる。
「本当なのか?」
「悪魔を見ているって……」
リーゼは前に出ようとした。
でも、ルーカスが止めた。
「待て」
「でも!」
「今、反論すれば火に油を注ぐだけだ」
ルーカスは冷静だった。
「三週間後の発表まで待て」
「そこで、正式に反論するんだ」
リーゼは唇を噛んだ。
ルーカスの言う通りだ。
今、感情的に反論しても、逆効果かもしれない。
「でも……」
リーゼは民衆の顔を見た。
不安そうな表情。
疑いの目。
ペストで救った人々も、この中にいるはずなのに——
その時、リーゼは群衆の中に見覚えのある顔を見つけた。
中年の男性——
港町エルネスタで、リーゼが治療した患者だ。
重症の腺ペストで、一時は死を覚悟していた。
でも、サルファ剤とストレプトマイシンの併用療法で回復した。
男性は、リーゼと目が合った。
彼の表情が、一瞬歪んだ。
感謝——
そして、恐怖。
男性は視線を逸らし、群衆の中に消えていった。
リーゼは胸が痛んだ。
彼は、私に救われたことを——
教会の前では、言えないのだ。
教会を敵に回すことを、恐れているのだ。
◇
その夜——
リーゼは落ち込んでいた。
「なぜ、分かってもらえないんだろう」
彼女は呟いた。
「私は、ただ人々を救いたいだけなのに」
「リーゼ」
エリーゼが隣に座った。
「あなたは、正しいことをしている」
「でも、民衆は教会の言葉を信じてる」
「それは、仕方ないわ」
エリーゼは優しく言った。
「人々は、昔から教会を信じてきた」
「突然現れた若い医師の言葉より、長年の信仰を選ぶのは当然よ」
「じゃあ、どうすれば……」
「時間をかけて、証明するしかない」
エリーゼはリーゼの手を取った。
「あなたの医学が、本当に人々を救うことを」
「一人ずつ、少しずつ、理解してもらうの」
リーゼは頷いた。
「そうね……」
「それに」
エリーゼは微笑んだ。
「あなたには、仲間がいる」
彼女は部屋の外を指さした。
廊下では、エルヴィンと若い研究者たちが、夜遅くまで実験を続けていた。
「みんな、あなたを信じている」
「エリーゼ……」
「だから、諦めないで」
エリーゼは力強く言った。
「私たちは、あなたと一緒に戦うわ」
◇
翌週——
放線菌の培養液を使った抗菌試験が始まった。
十二株の放線菌から、それぞれ培養液を作る。
濾過して、菌体を除去する。
その液体に、結核菌を混ぜる——
「どうかな……」
リーゼは顕微鏡を覗いた。
最初の株——効果なし。
結核菌は元気に増殖している。
二番目——効果なし。
三番目——わずかに増殖が遅いが、決定的ではない。
四番目——
「これは……!」
リーゼは息を呑んだ。
結核菌の数が、明らかに減っている。
「効いてる……」
彼女は何度も確認した。
間違いない。
四番目の放線菌の培養液には、結核菌の増殖を抑える物質が含まれている。
「みんな!」
リーゼは叫んだ。
「成功したわ!」
◇
研究室に、歓声が上がった。
エルヴィン、エリーゼ、ルーカス——
みんなが集まってきた。
「本当ですか!」
「ええ」
リーゼは顕微鏡を見せた。
「この放線菌が作る物質——」
「おそらく、これが改良型のストレプトマイシンよ」
「副作用が少なく、より効果的な株かもしれない」
「すごい……」
エリーゼが涙を浮かべた。
「結核を治せるかもしれないのね」
「まだ、確実じゃないわ」
リーゼは冷静に言った。
「培養液の中に、目的の物質が含まれているだけ」
「これを精製して、純粋な化合物にして、毒性を調べて——」
「まだまだ、長い道のりがある」
「でも、第一歩よね」
「ええ」
リーゼは頷いた。
「大きな、第一歩」
◇
リーゼは、さっそく抗生物質の精製を始めた。
「エルヴィン、『魔力分離マナ・セパレーション』の準備をお願い」
「はい!」
エルヴィンが魔法陣を描く。
これは、第85話でサルファ剤の合成に使った技術の応用だ。
「培養液には、目的の抗生物質以外にも、様々な不純物が含まれています」
リーゼが説明する。
「タンパク質、糖、脂質——これらを取り除かなければ、純粋な薬にならない」
「通常の濾過では?」
「不十分よ」
リーゼは首を振った。
「分子レベルで分離する必要がある」
「そこで、魔法の出番」
エルヴィンが魔力を注ぎ込む。
「『魔力波長調整マナ・チューニング』!」
培養液が、淡い光を帯び始めた。
「特定の波長の魔力を当てることで、目的の物質だけを共鳴させるんです」
エルヴィンが解説する。
「共鳴した物質は、魔力の流れに乗って分離される——」
培養液が、層状に分かれていく。
上層には透明な液体。
中層には白濁した液体。
下層には沈殿物。
「中層の白濁部分——これが目的の抗生物質です」
リーゼが慎重に採取する。
「すごい……」
エリーゼが感嘆した。
「魔法がなければ、何日もかかる精製作業が、数分で……」
「これが、魔導医療の強みです」
リーゼは微笑んだ。
「科学の知識と、魔法の技術を組み合わせれば——」
「前世では不可能だったことも、この世界なら可能になる」
◇
その日の午後——
アレクサンダー王子がリーゼを訪ねてきた。
「リーゼ、良い知らせがある」
「何でしょう?」
「父上が、医学会の予算を増額することを決定された」
王子は微笑んだ。
「研究施設の拡充、顕微鏡の量産、新薬開発——」
「全て、国が支援する」
「本当ですか!」
リーゼは驚いた。
「ああ」
王子は頷いた。
「父上は言われた」
「『科学の発展は、国の繁栄につながる』と」
「ありがとうございます……」
「それだけではない」
王子は続けた。
「医学院に、新しい研究棟を建設することが決まった」
「そして、そこの主任研究員に——」
彼はリーゼを見つめた。
「あなたを任命したい」
リーゼは言葉を失った。
「私が……主任研究員……?」
「若すぎると思うか?」
「いえ、そんなことは……」
リーゼは混乱していた。
「ただ、私なんかで……」
「あなた以外にいない」
王子は断言した。
「この国の医学を、次の時代に導けるのは、あなただけだ」
◇
その夜——
リーゼは研究室で一人、考え込んでいた。
主任研究員——
大きな責任だ。
重い役職だ。
でも——
これは、チャンスでもある。
より多くの研究者を集め、より大きな予算で研究できる。
顕微鏡を量産し、全国の病院に配布できる。
新薬を開発し、より多くの命を救える。
「先生」
リーゼは、ゼンメルワイスの古医学書を開いた。
「私、決めました」
彼女は本に語りかけた。
「この役職を受けます」
「そして、あなたの夢を実現します」
窓の外には、星空。
その中の一つが、特に明るく輝いているように見えた。
まるで、ゼンメルワイス先生が応援してくれているように——
◇
翌日——
リーゼは王子に、正式に受諾の意思を伝えた。
「ありがとう、リーゼ」
王子は嬉しそうだった。
「これで、医学の未来が明るくなる」
「精一杯、努めます」
「私も、できる限り支援する」
王子は約束した。
「政治的な面からも、あなたを守る」
その時——
急使が駆け込んできた。
「王子殿下! 大変です!」
「何事だ?」
「港町から、緊急の報告が!」
急使は息を切らしながら言った。
「南の大陸から来た貿易船の船員たちが、原因不明の熱病に倒れています!」
「南の大陸……!」
王子の顔色が変わった。
「症状は?」
リーゼが鋭く尋ねた。
「え、えっと——」
急使は報告書を広げた。
「高熱、四十度以上が続いています」
「しかし——」
彼は困惑した表情で続けた。
「奇妙なことに、ペストのようなリンパ節の腫れはありません」
「結核のような咳もありません」
「ただ、高熱と——」
「何だ?」
「皮膚に、奇妙な斑紋が現れるそうです」
「斑紋?」
リーゼは眉をひそめた。
「赤い発疹か? それとも紫斑?」
「いえ……報告によれば——」
急使は声を低めた。
「青白く光る、魔力を帯びたような斑紋だと……」
「魔力を……帯びた?」
リーゼは息を呑んだ。
前世の知識にある、どの疫病にも当てはまらない。
麻疹——皮膚に発疹は出るが、魔力など帯びるはずがない。
天然痘——膿疱はできるが、光ることはない。
チフス——発疹チフスという病気はあるが、青白く光る斑紋など聞いたことがない。
「船員は何名だ?」
王子が尋ねた。
「二十名ほどです」
「そのうち十名以上が高熱で倒れ、三名がすでに——」
急使の声が震えた。
「さらに、港の労働者にも感染が広がっている模様です」
「感染者の中には、『声が聞こえる』と譫妄状態になる者もいると……」
「声……?」
リーゼと王子は、顔を見合わせた。
まさか——
これは、単なる細菌性の疾患ではない。
ウイルス性でもない。
もしかすると、この世界特有の——
魔法的な要素を含んだ、未知の疫病なのか——?
◇
リーゼは即座に決断した。
「すぐに現地に向かいます」
「待て、リーゼ」
王子が止めた。
「あなたは、まだ完全に回復していない」
「でも、放置できません」
「私が先遣隊を送る」
王子は言った。
「まず状況を調査させる」
「それから、対策を考えよう」
リーゼは逡巡したが、頷いた。
「分かりました」
「それに」
王子は真剣な表情になった。
「三週間後の医学会まで、あなたは王都にいるべきだ」
「そこで、民衆の信頼を取り戻す」
「それが、最優先だ」
◇
その夜——
リーゼは不安で眠れなかった。
南の港町の熱病。
教会の扇動。
三週間後の発表。
すべてが、同時に押し寄せてくる。
でも——
リーゼは拳を握りしめた。
一つずつ、対処していくしかない。
まず、改良株の精製と試験を進める。
次に、医学会の発表準備を完璧にする。
そして、南の熱病の情報を集める。
「私には、仲間がいる」
リーゼは自分に言い聞かせた。
エリーゼ、ルーカス、エルヴィン。
アレクサンダー王子、ヴィルヘルム先生。
そして——
リーゼは窓の外の星を見上げた。
ゼンメルワイス先生が、きっと見守ってくれている。
「私は、負けない」
彼女は決意を新たにした。
「どんな困難があっても、医学の道を進む」
◇
翌朝——
研究室には、いつもの笑顔が戻っていた。
「さあ、今日も頑張りましょう」
リーゼが言った。
「改良株の精製と試験を進めます」
「そして、医学会の発表資料も作ります」
「はい!」
みんなが応えた。
嵐が近づいている。
教会の圧力。
未知の疫病。
でも——
ここには、希望がある。
新しい抗生物質。
仲間の絆。
科学への信念。
リーゼは顕微鏡を覗き込んだ。
レンズの向こうには、微小な命。
そして、その命を脅かす微小な敵。
この戦いは、まだ始まったばかりだ。
でも、リーゼは信じている。
科学の力で、必ず勝てると——




