第85話 代償と希望
第085話 代償と希望
翌朝——
研究室で、サルファ剤の合成が始まった。
エルヴィンと若い魔法使いたちが、薬品庫から集めた材料をテーブルに並べている。
アニリン、硫酸、亜硝酸ナトリウム——
昨夜リーゼがリストアップした、全ての化学物質。
「準備ができました」
エルヴィンが報告した。
リーゼは車椅子に座り、震える手で指示書を握りしめていた。
まだ体が回復していない。
高熱の後遺症で、手の震えが止まらない。
でも——
指示を出すことはできる。
「では、始めましょう」
リーゼは震える声で言った。
「エリーゼを救うために」
◇
サルファ剤の合成は、想像以上に困難だった。
リーゼの指示に従い、エルヴィンが慎重に薬品を混ぜ合わせる。
「温度管理が難しい……」
エルヴィンが額の汗を拭う。
「リーゼ先生の指示通り、反応温度を五度以内に保たなければ……」
「少しでもずれると、失敗してしまう」
「『炎制御』を使って」
リーゼが指示を出した。
「昨夜話した通り、魔法で精密に温度を調整するのよ」
「はい!」
若い魔法使いの一人が前に出た。
彼女が杖を振ると、フラスコの下の炎が安定した。
温度が一定に保たれる。
「完璧……」
リーゼは安堵のため息をついた。
「魔法と化学の融合……昨夜の計画通りだわ……!」
◇
三日三晩の作業の末——
白い結晶が、フラスコの底に析出した。
「これが……サルファ剤……?」
エルヴィンが慎重に結晶を取り出す。
「純度を確認しないと……」
リーゼは顕微鏡と試薬を使って、物質を分析した。
融点測定。
溶解度テスト。
結晶構造の観察。
「……間違いない」
リーゼは震える声で言った。
「スルファニルアミドよ」
「サルファ剤の合成に成功した……!」
研究室に歓声が上がった。
◇
でも、喜んでいる暇はない。
リーゼはすぐに動物実験を開始した。
ネズミにペスト菌を感染させ、サルファ剤を投与する。
二十四時間後——
「効果が出ている……!」
リーゼは顕微鏡を覗きながら叫んだ。
「菌の数が減っている!」
「ストレプトマイシンと併用すれば、相乗効果で——」
彼女は計算した。
サルファ剤単独での効果は60%程度。
ストレプトマイシン単独では70%程度。
でも、併用すれば——90%以上の効果が期待できる。
「急いで量産しないと……!」
リーゼは立ち上がろうとして、ふらついた。
「リーゼ先生!」
エルヴィンが支える。
「無理をしないでください」
「量産は私たちに任せてください」
「でも、エリーゼが……」
リーゼの目に涙が浮かぶ。
「エリーゼが死んじゃう……!」
「大丈夫です」
エルヴィンが力強く言った。
「私たちは、あなたから学びました」
「あなたを信じて、あなたを支えます」
「だから、あなたも私たちを信じてください」
◇
その日の夜——
研究室は不夜城と化した。
魔法使いたちが総出で、サルファ剤を量産する。
魔法で温度を調整し、魔法で結晶を精製し、魔法で純度を高める。
科学と魔法の完全な融合。
「百人分できました!」
「いえ、まだ足りません! もっと!」
彼らは休むことなく働き続けた。
リーゼは車椅子に座りながら、指示を出し続けた。
「温度を二度下げて!」
「結晶が析出し始めたら、すぐに濾過して!」
「純度が95%以上じゃないと使えないわ!」
◇
翌朝——
三百人分のサルファ剤が完成した。
「これを……これを港町に……!」
リーゼは薬を抱きしめた。
「待ってて、エリーゼ……!」
アレクサンダー王子が研究室に入ってきた。
「リーゼ、準備はできたか?」
「はい!」
「よし。最速の馬車を用意した」
「私も同行する」
「何としても、エリーゼを救おう」
◇
馬車は全速力で港町へ向かった。
通常なら一日かかる道のりを、半日で走破する。
馬は何頭も乗り換え、休むことなく走り続けた。
リーゼは馬車の中で、薬箱を抱きしめていた。
(エリーゼ……待ってて……)
(絶対に、絶対に助ける……!)
祈るような気持ちだった。
◇
港町エルネスタに到着したのは、夕暮れ時だった。
街は、さらに荒廃していた。
通りには遺体が並べられ、白い布で覆われている。
生存者は家に閉じこもり、街は静まり返っている。
「エリーゼは! エリーゼはどこ!」
リーゼは車椅子から飛び降りようとした。
ルーカスが駆け寄ってくる。
「リーゼ!」
彼の顔は憔悴しきっていた。
目は赤く腫れ、髭も伸び放題。
「エリーゼは……」
ルーカスの声が震える。
「まだ……生きてる……」
「でも、もう……」
彼は言葉を続けられなかった。
◇
臨時病院のテント——
入る前に、アレクサンダー王子がリーゼを止めた。
「待ってください」
彼は防護具の入った箱を差し出した。
「マスク、手袋、白衣です」
「ありがとう……」
リーゼは震える手で、マスクを装着した。
布製のマスクを顔に当て、紐を結ぶ。
次に、手袋——厚手の布製手袋をはめる。
最後に、清潔な白衣を羽織った。
「リーゼ」
王子が静かに言った。
「あなたはまだ、結核から回復したばかりです」
「体力も免疫力も、通常の半分以下でしょう」
彼は真剣な目でリーゼを見つめた。
「ペストに感染したら、助からないかもしれない」
「本当に、中に入るのですか?」
リーゼは頷いた。
「エリーゼは、私の代わりに戦って倒れたんです」
彼女の目には、強い決意があった。
「私が助けなければ、誰が助けるんですか」
王子は何も言わず、ただ頷いた。
リーゼは車椅子を進めて、テントの中に入った。
そこで、彼女は親友の姿を見た。
「エリーゼ……!」
ベッドに横たわるエリーゼは、別人のようだった。
頬はこけ、肌は蒼白。
首のリンパ節は腫れ上がり、呼吸は浅い。
全身に黒い斑点が広がっている。
「エリーゼ……」
リーゼは手袋をした手で、親友の手を取った。
手袋越しでも分かる——冷たい。
リーゼは息を呑んだ。
高熱なのに、手が冷たい。
これは——末梢循環不全。
敗血症性ショックの兆候だ。
体の中心は燃えるように熱いのに、血液が手足まで届いていない。
重症感染で心臓の機能が低下し、末端への血流が途絶えている。
これは——死の直前の症状。
「エリーゼ……!」
リーゼの目から涙が溢れた。
「ごめん……ごめんね……」
「もっと早く来ていれば……」
リーゼは泣き崩れた。
「私のせいで……私が倒れたせいで……」
エリーゼの瞼が、かすかに動いた。
唇が、わずかに開く。
「リー……ゼ……?」
か細い、か細い声。
「エリーゼ!」
リーゼは叫んだ。
「大丈夫! 薬を持ってきた!」
「新しい薬よ! 絶対に助けるから!」
◇
リーゼは消毒液でエリーゼの腕を拭った。
手袋をした手で、震えながら注射器を準備する。
サルファ剤とストレプトマイシンの併用療法。
重症患者用に確保されていた最後のストレプトマイシンを、エリーゼのために使う。
前世の知識にある、最も効果的なペスト治療法。
マスク越しに、リーゼは祈った。
「お願い……効いて……!」
リーゼは注射針を刺した。
薬液が、エリーゼの体内に流れ込む。
注射を終えて、針を抜く。
消毒綿で軽く押さえる。
「あとは……あとは祈るしかない……」
リーゼは手袋をした手で、エリーゼの手を握った。
しばらくそうしていると——
「リーゼ先生」
看護師が声をかけた。
「あなたも休んでください」
「お薬を投与しましたから、あとは体が回復するのを待つだけです」
「でも……」
リーゼは親友の手を握りしめた。
「まだ……まだ容態が安定していないわ……」
「大丈夫です。私たちが一時間ごとに確認します」
看護師が優しく言った。
「何か変化があれば、すぐにお呼びします」
その時、アレクサンダー王子がテントに入ってきた。
「リーゼ」
彼は有無を言わさぬ口調で言った。
「今すぐ休んでください。それは命令です」
「でも、エリーゼが——」
「あなたが倒れたら、誰がエリーゼを、そして他の患者たちを救うのですか」
王子は厳しい目でリーゼを見つめた。
「あなたはまだ結核から回復したばかりです」
「三日三晩、薬の合成をして、長距離を移動して、もう限界のはずだ」
「これ以上ペスト病棟にいたら、あなた自身が感染します」
リーゼは唇を噛んだ。
王子の言う通りだ。
医師として、自分の体調管理も責任の一つ。
でも——
「……分かりました」
リーゼはゆっくりと立ち上がろうとして——
膝から力が抜けた。
「リーゼ!」
王子が彼女を支える。
「やはり……もう限界じゃないか」
リーゼは王子に支えられながら、エリーゼを振り返った。
「お願い……エリーゼを……」
「任せてください」
看護師が頷いた。
「必ず、見守ります」
◇
リーゼは仮眠室に運ばれた。
ベッドに横になった瞬間——
意識が落ちた。
疲労の限界を、とうに超えていた。
◇
明け方——
「リーゼ先生!」
看護師の声で、リーゼは目を覚ました。
「エリーゼ様の容態が……!」
リーゼは飛び起きた。
まさか——悪化したのか!?
慌ててテントに駆け込む。
そして、体温計を手に取った。
三十九度五分——
リーゼは目を見張った。
昨夜は四十一度だった。
わずか二度だが、確実に下がっている。
「熱が……下がってる……!」
「効いてる……薬が効いてる……!」
リーゼは涙を流した。
さらに六時間後——
エリーゼの意識が戻った。
「……リーゼ?」
彼女がゆっくりと目を開けた。
「エリーゼ!」
リーゼは思わず抱きしめようとして——
止まった。
まだだ。
まだエリーゼの体内には、ペスト菌が残っている。
抱きしめたら、感染リスクが——
でも——
「リーゼ……」
エリーゼが弱々しく手を伸ばした。
もう我慢できなかった。
リーゼはエリーゼの手を両手で握りしめた。
手袋越しに、親友の温もりを感じる。
「よかった……よかった……!」
リーゼは泣き崩れた。
「私……生きてるの……?」
エリーゼが弱々しく尋ねた。
「もう、ダメだと思ってた……」
「大丈夫! 大丈夫よ!」
リーゼは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら笑った。
「新しい薬が効いたの!」
「あなたは助かったわ!」
「もう少ししたら……もう少ししたら、ちゃんと抱きしめるから……!」
◇
その日から、状況は急速に好転した。
ストレプトマイシンの在庫は尽きていたため、患者たちにはサルファ剤のみを投与した。
併用療法より効果は劣るが、それでも多くの患者が次々と回復していく。
重症だった港湾労働者——回復。
死の淵にいた妊婦——母子ともに無事。
絶望していた家族たち——希望を取り戻す。
「奇跡だ……」
「リーゼ先生が救ってくれた……」
「新しい薬が、ペストを止めた……」
人々の喜びの声が、街に響いた。
◇
でも——
全てが完璧に解決したわけではなかった。
ペストで死亡した人の数——百五十三名。
教会の低純度聖水で死亡した人の数——十七名。
合計百七十名の命が、失われた。
リーゼは、犠牲者の名簿を見つめた。
名前、年齢、職業、家族構成。
一人一人に、人生があった。
愛する家族がいた。
夢があった。
「私が……もっと早く対策していれば……」
リーゼは呟いた。
「もっと早く薬を作っていれば……」
「培養施設の警備を強化していれば……」
「お前のせいじゃない」
ルーカスが言った。
「これは、枢機卿の陰謀だ」
「お前は、できる限りのことをした」
「でも……」
「でも、じゃない」
ルーカスが強い口調で言った。
「お前が倒れてもなお、薬を作り続けた」
「エリーゼを、そして何百人もの命を救った」
「それは誇るべきことだ」
◇
アレクサンダー王子が報告に来た。
「枢機卿の陰謀の証拠を掴んだ」
彼は書類を広げた。
「汚染された培養施設を、エルヴィンたちが徹底的に調査した」
「顕微鏡で培養液を分析したところ——」
王子は報告書を指差した。
「混入していた異物の中に、極めて特殊な物質が検出された」
「教会の高位神官が結界を張る際に用いる、聖別された香油の成分だ」
「本当に……」
リーゼは息を呑んだ。
「香油……?」
「そうだ。一般には流通していない、教会の奥義に使われる特殊な調合だ」
王子が続けた。
「エルヴィンの魔導顕微鏡と、リーゼの化学分析を組み合わせた結果、その成分は教会の秘儀でしか作られないものだと判明した」
「つまり——」
リーゼは震える声で言った。
「これは事故ではなく、教会の誰かが意図的に培養液を汚染したという……」
「科学的証拠だ」
王子が頷いた。
「顕微鏡は嘘をつかない。魔法による鑑定も同じ結果を示した」
「教会は『偶然の事故』と主張していたが、この証拠の前では言い逃れできない」
「枢機卿を逮捕できるの?」
「できる」
王子が力強く頷いた。
「科学と魔法が証明した、動かしようのない証拠だ」
「父上——国王陛下は、この証拠を見て激怒しておられる」
「教会との関係悪化は避けられないが、民衆の命を危険にさらした罪は見過ごせない」
◇
三日後——
ギースリング枢機卿は、大聖堂で逮捕された。
罪状:培養施設への意図的な汚染、殺人教唆、医療技術の窃盗、公共の安全を脅かす行為。
彼は最後まで罪を認めなかったが、科学的証拠は動かしようがなかった。
顕微鏡が示した教会特有の香油の成分——それが、彼の言い逃れを許さなかった。
枢機卿の地位は剥奪され、終身刑が宣告された。
◇
でも、リーゼの心は晴れなかった。
「勝ったのよ、リーゼ」
回復しつつあるエリーゼが言った。
「枢機卿は捕まったわ」
「ペストも収束した」
「私たちは勝ったのよ」
「でも……」
リーゼは窓の外を見つめた。
「百七十人が死んだ」
彼女の目に涙が浮かぶ。
「私が、もっと強ければ……」
「もっと賢ければ……」
「陰謀を見抜いて、対策していれば……」
「リーゼ」
エリーゼが親友の手を取った。
「あなたは完璧じゃない」
「私たちは、神様じゃない」
彼女が優しく言った。
「全ての命を救うことはできない」
「でも、できる限りのことをした」
「それで十分よ」
◇
その後の一週間——
リーゼは港町に留まり、患者たちの治療を続けた。
サルファ剤の効果は絶大だった。
次々と患者が回復していく。
死の淵にいた人々が、笑顔を取り戻していく。
でも、リーゼ自身の体調は思わしくなかった。
結核の後遺症と極度の疲労で、毎日微熱に悩まされた。
咳も止まらない。
夜は悪夢にうなされる。
「リーゼ先生、もう王都に戻って休んでください」
ルーカスが何度も説得した。
「でも、まだ患者が……」
「もう峠は越えました」
彼は強い口調で言った。
「他の医師たちで十分対応できます」
「あなたがこれ以上無理をしたら、本当に倒れます」
その時、アレクサンダー王子が訪れた。
「リーゼ」
彼は真剣な表情で言った。
「来週、犠牲者の追悼式を行います」
「国王陛下の名代として、私が主催します」
リーゼは頷いた。
「ついては——」
王子は少し言いよどんだ。
「あなたに、頼みたいことがあるのです」
「何でしょうか?」
「追悼式で、言葉を述べてほしい」
リーゼは目を見開いた。
「私が……ですか?」
「そうです」
王子は頷いた。
「でも、私は……」
リーゼは戸惑った。
「追悼式は、王族や高官が言葉を述べるものでは……」
「私のような若輩者が、壇上に立つなど……」
「あなたこそが、ふさわしい」
王子は言った。
「あなたは命をかけて、人々を救った」
「自分が倒れても、薬を作り続けた」
「そのあなたの言葉こそ、遺族の心を慰めることができる」
リーゼは俯いた。
自分に、そんな資格があるだろうか。
百七十人もの命を救えなかった自分に——
「私は……多くの人を救えませんでした」
リーゼは震える声で言った。
「もっと早く動いていれば……」
「もっと賢ければ……」
「リーゼ」
王子が彼女の肩に手を置いた。
「完璧な人間などいません」
「大切なのは、できる限りのことをしたかどうかです」
彼は優しく言った。
「そして、あなたはそれをした」
「だから、あなたの言葉を聞きたいと思っている人が、大勢いるのです」
リーゼは涙を拭った。
「……考えさせてください」
「もちろんです」
王子は頷いた。
「無理にとは言いません」
「ですが——」
彼は窓の外、港町の人々を見つめた。
「遺族たちは、真実を知りたがっています」
「何が起きたのか」
「なぜ愛する人が死んだのか」
「そして、その死は無駄ではなかったのかを」
リーゼは、王子の言葉を胸に刻んだ。
◇
その夜、リーゼはエリーゼと話した。
「追悼式で、演説をしてほしいと言われたの」
「すごいじゃない」
エリーゼが微笑んだ。
「でも……私なんかが……」
「リーゼ」
エリーゼが親友の手を取った。
「あなたは、私の命を救ってくれた」
「何百人もの命を救ってくれた」
彼女は力強く言った。
「あなたには、語る資格がある」
「いいえ——語る義務がある」
リーゼは、親友の目を見つめた。
そこには、強い信頼があった。
「……分かったわ」
リーゼは決意した。
「やってみる」
◇
一週間後——
港町エルネスタで、犠牲者の追悼式が行われた。
広場には、百七十本の白いろうそくが灯された。
遺族たちが、涙を流しながら祈っている。
壇上には、国旗と喪章。
アレクサンダー王子、地方総督、そしてリーゼ。
リーゼは、まだ完全には回復していなかった。
体はまだ重く、時折咳が出る。
でも——
彼女は、ここに立つことを決めた。
これは、医師としての責任だ。
生き残った者の、義務だ。
王子が開会の辞を述べた後、リーゼの番が来た。
「それでは、今回の救援活動の中心となったリーゼ・フォン・ハイムダル先生に、お言葉をいただきます」
リーゼは深呼吸をして、壇上の中央に進み出た。
何百もの視線が、彼女に注がれる。
リーゼは、壇上に立った。
「今回の悲劇で、多くの方が亡くなりました」
彼女の声が、広場に響く。
「私は医師として、全ての命を救えなかったことを、深く悔やんでいます」
彼女は深く頭を下げた。
「でも、ここで誓います」
リーゼは顔を上げた。
「二度と、このような悲劇を繰り返さないと」
「疫病に備え、医療を充実させ、全ての人が治療を受けられる社会を作ると」
彼女は拳を握りしめた。
「亡くなった方々の無念を、決して無駄にしません」
「彼らの死が、未来の人々を救う礎となるように」
「私は、戦い続けます」
広場に、静かな拍手が広がった。
遺族たちも、涙を拭いながら拍手していた。
◇
その夜——
リーゼは、エリーゼとルーカスと三人で、海を見ていた。
港町の防波堤。
波の音が、静かに響いている。
「疲れたわね」
エリーゼが呟いた。
「ああ」
ルーカスが頷いた。
「お前たち二人とも、よく頑張った」
リーゼは、二人の手を取った。
「ありがとう」
彼女は静かに言った。
「二人がいなかったら、私は何もできなかった」
「お互い様よ」
エリーゼが微笑んだ。
「私たちは、チームだもの」
◇
翌日——
リーゼたちは王都へ帰還した。
汚染された培養施設の浄化と再建が始まっていた。
今度は、供給業者の審査を厳格化し、複数の場所に分散して建設される。
汚染を免れた施設では、ストレプトマイシンとペニシリンの培養が細々と再開されていた。
研究室では、エルヴィンたちが新しい実験を始めていた。
魔導レントゲンの改良、新しい抗生物質の探索、ワクチンの研究。
「お帰りなさい、リーゼ先生」
エルヴィンが笑顔で迎えた。
「あなたがいない間、私たちは研究を進めました」
「見てください、これを」
彼は新しい顕微鏡を見せた。
「先生が残していった設計図の通り、レンズを追加しました」
「設計図……?」
リーゼは思い出した。
そういえば、港町に行く前、改良案のメモを残していた。
二段階のレンズ構成で、より高い拡大率を——
「実現してくれたのね……!」
「それだけではありません」
エルヴィンが誇らしげに言った。
「照明も改良したんです」
「『光輝』の魔法で、より明るく安定した光を当てられるようにしました」
リーゼは顕微鏡を覗いた。
確かに——以前より明るく、鮮明に見える。
レンズの改良で拡大率が上がり、照明の改善で細部まで観察できる。
「すごい……!」
リーゼは感嘆した。
「これで、もっと小さな細菌も見られるわ!」
「みんな、本当に成長してる……!」
◇
その夜、リーゼは自室でゼンメルワイス先生の古医学書を開いた。
先生の手書きの文字。
百六十年前、孤独の中で消えていった天才の叫び。
先生——
私は、また壁にぶつかりました。
自分の無力さを思い知りました。
全ての命を救えないことを、痛感しました。
でも——
私は一人じゃありません。
エリーゼ、ルーカス、エルヴィン、そして多くの仲間がいます。
彼らと共に、私は前に進みます。
あなたが夢見た世界を、実現するために。
リーゼは本を閉じた。
窓の外には、星空。
静かに眠る王都。
今回の危機で、多くのものを失った。
でも、同時に多くのものを得た。
仲間の絆。
新しい知識。
そして、前に進む決意。
◇
翌朝——
リーゼは白衣を着て、研究室に向かった。
まだ体は完全には回復していない。
エリーゼも、まだ歩くのがやっと。
ルーカスも、疲労が残っている。
でも、彼らは笑顔だった。
「さあ、始めましょう」
リーゼが言った。
「新しい医学を作りましょう」
「この世界の全ての人が、病気から解放される日を目指して」
三人は、研究室のドアを開けた。
そこには、明るい未来が待っているはずだった。
でも、彼らはまだ知らない。
新たな敵が、すでに動き始めていることを。
教会の保守派は、枢機卿の逮捕に激怒している。
彼らは、リーゼへの復讐を誓っている。
そして、遥か南の大陸から、未知の疫病が——
でも、それはまた、別の物語。
◇
今は、ただ前を向く。
失ったものを悼み、得たものに感謝し、そして前に進む。
これが、医師としての道。
リーゼ・フォン・ハイムダルは、まだ若い。
まだ未熟で、まだ弱い。
でも、彼女には仲間がいる。
知識がある。
そして、諦めない心がある。
その全てを武器に、彼女は戦い続ける。
全ての命を救うために——
――完――




