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転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~  作者: NN
転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~

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第84話 選択の重み

 王都の医務室で、リーゼは生死の境を彷徨っていた。


 高熱は四十度を超え、喀血は止まらない。


 ストレプトマイシンを投与しているが、過労で衰弱しきった体は薬に耐えられるかどうか——


「呼吸が浅くなっている……」


 侍医が額の汗を拭う。




「このままでは……」




 エリーゼは、親友のベッドサイドで祈っていた。


 でも、祈る時間さえ、今は許されない。




「エリーゼ!」




 ルーカスが部屋に飛び込んできた。




「港町から緊急の要請だ!」


「医師が全く足りない!」


「患者が殺到して、医療崩壊寸前だ!」




 エリーゼは、リーゼの手を握る。


 温かい——いや、熱すぎる手。




「リーゼ……ごめんね」




 彼女は立ち上がった。




「私、行かなきゃ」







 港町エルネスタ。




 かつては活気に満ちた貿易港だったこの街は、今や死の街と化していた。




 通りには倒れた人々。


 家々からは、苦しみの声。


 至る所に、黒い斑点に覆われた遺体。




「ひどい……」




 エリーゼは息を呑んだ。




 街の中央広場に、臨時の野戦病院が設置されていた。


 テントが何十も並び、その全てが患者で埋め尽くされている。




「お医者様!」


「助けてください!」


「息子が、娘が!」




 人々がエリーゼに縋りついてくる。


 彼女は白衣を着て、マスクを装着した。




「落ち着いてください!」




 エリーゼが叫んだ。




「順番に診察します!」


「まず、症状を教えてください!」







 地獄だった。




 最初の患者は、三十代の男性。


 港湾労働者だという。




「四日前から高熱が……」




 男性の首を診る。


 リンパ節が腫れ上がり、鶏卵ほどの大きさになっている。




「リンパ節炎……」




 エリーゼは診断した。




「腺ペストです」




 ペストには三種類ある。


 腺ペスト——リンパ節が腫れる。致死率50%。


 肺ペスト——肺に感染。致死率90%以上。


 敗血症型——血液に菌が入る。致死率100%。




「治療法は?」




 男性の妻が尋ねる。




「ストレプトマイシンを投与します」




 エリーゼは薬箱を開けた。




 中には、わずか十人分のストレプトマイシン。


 王都の重症患者とリーゼの治療で在庫が減り、港町に回せたのはこれだけだった。


 それが、彼女が持ってきた全てだった。




「でも……」




 エリーゼは周囲を見渡した。




 患者は何百人もいる。


 薬は、十人分しかない。




 誰を治療するか——


 その選択が、彼女に委ねられている。







 「トリアージ」。


 災害医療における、患者の優先順位付け。




 リーゼから習った概念だ。


 限られた医療資源で、最大多数を救うための手法。




 でも、頭で理解していることと、実際に選択することは——


 全く違う。




「次の患者さん」




 エリーゼは声を震わせた。




 六十代の女性。


 全身に黒い斑点、呼吸困難。


 敗血症型ペスト——手遅れだ。




「ごめんなさい……」




 エリーゼは女性の手を握った。




「もう、できることは……」




「そんな……」




 女性の娘が叫んだ。




「リーゼ先生なら! リーゼ先生なら助けてくれたはずよ!」


「あなたには無理なのね!」




 その言葉が、エリーゼの胸に突き刺さる。




 そうだ——私は、リーゼじゃない。


 私には、リーゼのような知識も、決断力もない。




 でも——


 今、ここで私がやらなければ、誰がやる?







 次の患者。


 十歳の少年。


 初期の腺ペスト。




 次の患者。


 二十代の妊婦。


 高熱とリンパ節の腫れ。




 次の患者。


 四十代の男性。


 すでに意識不明。




 エリーゼは、震える手で記録をつけた。




 少年——治療可能。優先度:高。


 妊婦——治療可能。ただし妊娠中、薬のリスクあり。優先度:中。


 男性——回復の見込み低い。優先度:低。




 この選択が、人の生死を分ける。




「お願いします! 父を助けてください!」




 男性の娘が泣き叫ぶ。




「まだ若いんです! まだ四十三歳なんです!」




 エリーゼは、目を伏せた。




「ごめんなさい……薬が足りないの……」




 娘は地面に崩れ落ちて、泣き続けた。




 エリーゼは涙を堪えて、次の患者へと向かった。







 夕方。


 エリーゼは一人、テントの外に座り込んでいた。




 手が震える。


 涙が止まらない。




 今日、私は何人の命を見捨てた?


 十人? 二十人?




 ルーカスが隣に座った。




「お前のせいじゃない」




 彼が静かに言った。




「薬が足りない。医師が足りない」


「これは、システムの問題だ」




「でも……」




 エリーゼは声を震わせた。




「私が選んだのよ……」


「誰を生かして、誰を見捨てるか……」




 ルーカスは何も言わず、ただ彼女の背を撫でた。




「リーゼなら……」




 エリーゼは呟いた。




「リーゼなら、もっと上手くやれたのに……」







 その夜——




 新たな問題が発生した。




「先生! 大変です!」




 看護師が飛び込んできた。




「患者の一人が、別の薬を飲んでいたと!」




「別の薬?」




 エリーゼが眉をひそめた。




「教会が『神の恵みの聖水』を無償で配布しているらしいんです!」


「ペストに効く奇跡の薬だって……リーゼ先生の薬より効果があると宣伝していて……」




 エリーゼの背筋に悪寒が走った。




「聖水……? 見せて」




 看護師が小瓶を差し出した。


 透明な液体が入っている。




 エリーゼは慎重に匂いを嗅ぎ、成分を確認した。


 そして——顕微鏡で観察する。




「これ……ストレプトマイシン!?」




 彼女は驚愕した。




 確かに、抗生物質の成分が含まれている。


 しかし——純度が低い。


 リーゼが作ったものの半分以下の純度だ。




「教会が……どうやって……」







 すぐに調査が始まった。




 街の広場では、教会の神官たちが列を作って「聖水」を配布していた。


 無償で。


 「神の恵み」として。




「なぜ……」




 エリーゼは拳を握りしめた。




「こんな時に、こんなことを……!」




 ルーカスが報告書を持ってきた。




「教会の動きを調べた」




 彼の顔は怒りに歪んでいた。




「ギースリング枢機卿の指示で、教会の薬師たちが独自に抗生物質を製造している」


「おそらく、リーゼの施設から技術を盗んだか、あるいは研究員を買収して製法を入手したんだ」




「なぜ……」




 エリーゼは震えた。




「人が死んでいるのに……なぜそんなことを……」




「リーゼの医学を横取りするためだ」




 ルーカスが吐き捨てるように言った。




「教会は、科学の成果を『神の奇跡』として民衆に見せている」


「『リーゼの薬は高価で危険だが、教会の聖水は無償で安全だ』と宣伝しているんだ」


「民衆の支持をリーゼから教会へ奪い返すつもりだ」




 それは、卑劣な陰謀だった。


 でも、効果的でもあった。




「低純度の薬で……悪化した患者は?」




 エリーゼが尋ねた。




「……十一名」




 ルーカスが答えた。




「純度が低いせいで、十分な効果が得られなかった」


「重症患者にとっては、低純度の薬では手遅れだ」


「救えたはずの命が、教会の聖水のせいで失われた」


「しかし民衆は、『神の聖水を飲んでも助からなかった。やはりペストは神罰なのだ』と信じ込まされている」







 エリーゼは、怒りで体が震えた。




 十一名。


 救えたはずの十一名が、教会の低純度の聖水のせいで死んだ。




 その家族は、リーゼの薬ではなく教会の聖水を信じた。


 そして——教会は民衆に、科学ではなく神を信じるよう誘導している。




「許さない……」




 エリーゼは呟いた。




「絶対に、許さない……」




 彼女は立ち上がった。




「街の人たちに真実を伝えないと」


「教会の聖水が、実はリーゼの医学を盗んだものだと——」




 ルーカスが止めようとした。




「お前、もう三日も寝ていないぞ」


「少しは休め」




「休んでいる暇なんてない!」




 エリーゼが叫んだ。




「今この瞬間も、人が死んでいるのよ!」


「リーゼが倒れた今、私がやらなきゃ!」




 彼女は走り出した。


 街の広場へ。


 人々に警告するために。







 翌日。




 エリーゼは、朝から晩まで働き続けた。




 患者の診察。


 トリアージ。


 教会の聖水の真実を伝える活動。


 遺体の処理。




 休む暇もない。


 食事も喉を通らない。


 睡眠は一日二時間。




「エリーゼ、本当に大丈夫か?」




 ルーカスが心配そうに尋ねた。




「大丈夫よ」




 エリーゼは笑顔を作った。




「まだ、動けるもの」




 でも、その笑顔は引きつっていた。


 顔色は青白く、目の下には深いクマ。




「無理するなよ」




 ルーカスが肩に手を置いた。




「お前がリーゼみたいに倒れたら、誰が患者を診るんだ?」




「分かってるわ」




 エリーゼは頷いた。




 でも、止まれない。


 止まったら、また誰かが死ぬ。







 その日の午後——




 エリーゼは、重症の肺ペスト患者を診察していた。




 四十代の女性。


 激しい咳、血痰、呼吸困難。




「大丈夫……大丈夫よ……」




 エリーゼは女性の手を握った。




 その時——




 女性が激しく咳き込んだ。


 血を含んだ飛沫が、エリーゼの顔にかかった。




「あっ……」




 エリーゼは反射的に顔を拭った。




 マスクはしていた。


 でも、目は無防備だった。




 肺ペストは、飛沫感染する。


 ペストの中で最も致死率が高く、感染力も強い。




「まずい……」




 エリーゼは青ざめた。




 でも、目の前の患者を放置するわけにはいかない。


 彼女は治療を続けた。







 その夜——




 エリーゼは、寒気を感じた。




「ちょっと寒いわね……」




 彼女は毛布を巻いた。




 でも、寒気は消えない。


 むしろ、どんどん強くなる。




「大丈夫……疲れてるだけ……」




 彼女は自分に言い聞かせた。




 でも、医師としての知識が警告する。


 これは——




 ゾクゾクと、悪寒が全身を駆け巡る。


 額に手を当てると、熱い。




「嘘……」




 エリーゼは震えた。




 体温計を取り出して測ると——


 三十九度二分。




「まさか……」




 鏡を見る。


 顔は青白く、唇は乾いている。




 そして——


 首のリンパ節に、小さな腫れ。




「ペスト……?」




 エリーゼの膝から力が抜けた。




 床に崩れ落ちる。


 視界がぼやける。




「誰か……」




 彼女は呟いた。




「誰か……助けて……」




 でも、声は出なかった。







 翌朝——




 エリーゼが倒れているのを、ルーカスが発見した。




「エリーゼ!」




 彼は彼女を抱き上げた。




 高熱。


 リンパ節の腫脹。


 呼吸困難。




「ペストだ……」




 ルーカスの顔が青ざめた。




「エリーゼが、ペストに……!」




 彼は叫んだ。




「誰か! 医師を! 薬を!」




 でも——


 ストレプトマイシンの在庫は、底をついていた。




 培養施設は汚染され、新しい薬は作れない。


 残りの薬は、重症患者のために取ってある。




 エリーゼを救う薬は——


 ない。







 同じ頃、王都の医務室。




 リーゼの意識が、ゆっくりと戻ってきた。




「……ここは?」




 か細い声で呟く。




 侍医が駆け寄った。




「リーゼ先生! 意識が戻られたのですね!」




「私……どのくらい……」




「数日間、危険な状態が続いていました」




 侍医が答えた。




「ストレプトマイシンが効いて、峠を越えられました」




「よかった……」




 リーゼは安堵のため息をついた。




 でも、すぐに思い出す。


 ペストの流行。


 培養施設の汚染。




「港町は?」




 リーゼが尋ねた。




「エリーゼたちは、無事?」




 侍医の顔が曇った。




「それが……」




 彼は言いよどんだ。




「エリーゼ様が……倒れられました」




 リーゼの心臓が止まりそうになった。




「何……?」




「ペストに感染して……」




 侍医が続けた。




「現在、港町で治療中ですが……」


「薬が……薬がないのです……」







 リーゼは、ベッドから飛び起きようとした。




 でも、体が動かない。


 まだ衰弱しきっている。




「エリーゼ……エリーゼ!」




 リーゼは叫んだ。




「私を港町に連れて行って!」


「私が、私が彼女を救わなきゃ!」




「無理です!」




 侍医が止めた。




「あなたはまだ回復していません!」


「今動けば、命に関わります!」




「そんなこと、どうだっていい!」




 リーゼは涙を流した。




「エリーゼが死んだら、私は……私は……!」




 彼女は泣き崩れた。




 親友が、自分の代わりに戦って、倒れた。


 そして今、死に瀕している。




 薬がないから——


 私が作った培養施設が焼かれたから——




 全て、私のせいだ。







 廊下で、国王陛下とアレクサンダー王子が話していた。




「状況は最悪だ」




 王子が報告する。




「患者数は三百人を超えた」


「死者は百人以上」


「薬の在庫はゼロ」


「培養施設の再建には最低でも一ヶ月」




 国王陛下が重々しく頷いた。




「リーゼは?」




「意識を取り戻しましたが、まだ動けません」




「エリーゼは?」




「……厳しい状況です」




 王子が目を伏せた。




「薬がなければ、あと数日……」




 沈黙が流れた。




「枢機卿の仕業か?」




 国王陛下が尋ねた。




「間違いありません」




 王子が答えた。




「聖水と称した技術の窃盗、培養施設の汚染……全て計画的です」




「畜生……!」




 国王陛下が拳を握りしめた。




「教会を敵に回しても、枢機卿を告発するべきか……」




「証拠が不十分です」




 王子が答えた。




「それに、今は疫病対策が最優先です」







 医務室で、リーゼは天井を見つめていた。




 涙が、頬を伝う。




(エリーゼ……ごめん……)




 全てが裏目に出た。


 医学を広めようとして、敵を作った。


 敵に狙われて、仲間が犠牲になった。




(私が……私が倒れなければ……)


(私が、もっとちゃんと対策していれば……)




 自責の念が押し寄せる。




 でも——


 今、自分を責めても何も変わらない。




 リーゼは歯を食いしばった。




(立ち上がらなきゃ……)


(エリーゼを救わなきゃ……)




 彼女は、震える手で点滴の針を抜いた。




「先生! 何をしているんですか!」




 侍医が止めようとする。




「私を……」




 リーゼは震える声で言った。




「私を、研究室に連れて行ってください」




「無理です! あなたはまだ——」




「薬を作るの!」




 リーゼが叫んだ。




「エリーゼを救う薬を!」




 侍医は、リーゼの目を見た。


 そこには、狂気に近い決意があった。




「……分かりました」




 侍医は折れた。




「ですが、車椅子です」


「それ以上は認められません」




「ありがとう……」




 リーゼは涙を拭った。







 研究室に運ばれたリーゼは、震える手で資料を開いた。




 ペストの治療。


 ストレプトマイシン以外の選択肢。




 前世の記憶を辿る。


 ペストに効果的な抗生物質は——




「ストレプトマイシン、ドキシサイクリン、シプロフロキサシン……」




 でも、後者二つは合成が困難だ。


 この世界の技術では作れない。




「他に……他に何か……!」




 リーゼは資料を漁った。




 その時——


 ふと、別の可能性が浮かんだ。




「抗菌薬の組み合わせ……」




 ストレプトマイシン単独では効果が弱くても、他の薬と組み合わせれば——




「サルファ剤……!」




 リーゼは叫んだ。




「サルファ剤なら、この世界でも作れるかもしれない!」




 彼女は震える手でペンを取った。




 合成手順を書き出す。


 必要な材料をリストアップする。




 前世の記憶を辿りながら、リーゼはペンを走らせた。




 サルファ剤——正式名称、スルファニルアミド。


 ペニシリンより前の時代、人類が手にした最初の化学合成抗菌薬。




 合成は複雑だが、この世界でも可能なはずだ。




「必要なのは……」




 リーゼは呟きながら、リストを作った。




 アニリン——芳香族アミン。


 硫酸——強酸。


 塩化スルホニル——


 いや、待って。塩化スルホニルは、この世界にあるかしら?




 彼女は考えた。




 前世の記憶によれば、アニリンは石炭タールから作られる。


 染料の原料として、十九世紀には工業的に生産されていた。




 この世界にも、染料研究はある。


 ということは——




「医学院の薬品庫に、あるかもしれない……!」




 リーゼは車椅子を動かして、研究室の棚を開けた。




 薬品台帳。


 医学院が保有している化学物質のリスト。




 彼女は震える指でページをめくる。




「あった……!」




 アニリン——医学院に五百グラム、染料工場にはさらに在庫があるはず。


 用途:染料合成研究用。




 硫酸——医学院に十リットル、工房や研究施設にも大量在庫。


 用途:一般試薬。




 亜硝酸ナトリウム——医学院に二百グラム、食品貯蔵庫にはもっとあるはず。


 用途:肉の塩漬け保存、防腐剤。




「待って……亜硝酸ナトリウム?」




 リーゼは目を見張った。




 これは食品保存用の試薬だ。


 でも、前世の知識では——化学合成にも使える。




「そうだわ……この試薬を使えば……!」




 リーゼは興奮した。




 食品保存用の試薬が、高度な有機化学反応にも使える。


 この世界の人々は、まだそれに気づいていない。




「これだけあれば……合成できる……!」




 リーゼは涙を拭った。




 でも——


 問題がある。




 彼女の手は、まだ震えている。


 体は衰弱しきっていて、薬品を扱える状態ではない。




 一歩間違えれば、爆発や中毒の危険がある。




「誰かに……手伝ってもらわないと……」




 リーゼは考えた。




 エルヴィンなら——


 あの真面目な魔法使いなら、正確に作業してくれるはずだ。




 彼女は震える手で、呼び鐘を鳴らした。







 三十分後——




 エルヴィンと若い魔法使いたちが、研究室に集まった。




「リーゼ先生!」




 エルヴィンが駆け寄ってくる。




「もう起きて大丈夫なんですか!?」




「大丈夫じゃないわ」




 リーゼは正直に答えた。




「でも、起きなきゃいけないの」




 彼女は、リストを差し出した。




「これを見て」




 エルヴィンが紙を受け取る。


 そこには、化学物質の名前と、複雑な合成手順が書かれていた。




「これは……」




「サルファ剤よ」




 リーゼが説明した。




「ペストに効く、新しい抗菌薬」


「ストレプトマイシンと併用すれば、効果が飛躍的に上がるはず」




「でも、どうやって作るんですか?」




 若い魔法使いの一人が尋ねた。




「複雑な化学反応が必要よ」




 リーゼは震える声で言った。




「アニリンをジアゾ化して——」




 彼女は合成手順を説明し始めた。




 専門用語が飛び交う。


 魔法使いたちは、必死にメモを取る。




「温度管理が最も重要」




 リーゼは強調した。




「反応温度が五度違うだけで、失敗する」


「爆発の危険もある」




「魔法で温度を制御できませんか?」




 エルヴィンが尋ねた。




「『炎制御フレーム・コントロール』の魔法を使えば、精密な温度調整が可能です」




「それよ!」




 リーゼの目が輝いた。




「魔法と化学の融合……それなら、この世界でも合成できる……!」




 彼女は咳き込んだ。


 まだ体が本調子ではない。




「先生、無理をしないでください」




 エルヴィンが心配そうに言った。




「合成は、私たちに任せてください」


「先生は指示を出すだけでいい」




「でも……」




「信じてください」




 エルヴィンが力強く言った。




「あなたから学んだことを、私たちは実践できます」


「だから、私たちを信じてください」




 リーゼは、彼らの目を見た。




 真剣な眼差し。


 強い決意。




「……ありがとう」




 彼女は頷いた。




「じゃあ、まず薬品庫から材料を集めて」




 リーゼはリストを指さした。




「アニリン、硫酸、亜硝酸ナトリウム……」


「全て、医学院の薬品庫にあるはず」




「分かりました!」




 若い魔法使いたちが走り出した。




 エルヴィンがリーゼの横に座った。




「必ず、成功させます」




 彼が静かに言った。




「エリーゼ先生を、救いましょう」




 リーゼは頷いた。




 その時——




 ふと、思いついた。




「そうだ、エルヴィン」




 リーゼは震える手で、紙とペンを取った。




「もし……もし私が戻れなかったら」




「先生!」




 エルヴィンが慌てて止めようとした。




「縁起でもないことを——」




「いいえ、聞いて」




 リーゼは真剣な目で言った。




「港町はペストが流行している」


「私はまだ結核から完全に回復していない」




 彼女はペンを走らせ始めた。




「何が起きるか、分からないわ」




 紙に、簡単な図を描く。


 円を二つ、縦に並べて——




「これは、顕微鏡の改良案よ」




 リーゼは説明した。




「今の顕微鏡は、レンズが一段階だけ」


「でも、レンズを二段階にすれば、拡大率をもっと上げられる」




 彼女は図に説明を書き込んでいく。




「対物レンズと接眼レンズ——」


「二つのレンズの組み合わせで、より高倍率の観察が可能になるわ」




「先生……」




 エルヴィンは、リーゼの書く図を見つめた。




「レンズの研磨は、魔法で精度を上げられるはず」


「温度制御ができるなら、ガラスの加工もできる」




 リーゼは設計図を完成させた。




「もし私が戻れなくても、研究は続けて」




 彼女はエルヴィンに紙を渡した。




「この世界の医学を、前に進めて」




 エルヴィンは震える手で、設計図を受け取った。




 彼の目には、涙が浮かんでいた。




「……必ず、先生をお待ちしています」




 彼は力強く言った。




「そして、先生が戻られたら——」




 エルヴィンは設計図を胸に抱いた。




「完成した顕微鏡を、お見せします」




 リーゼは微笑んだ。




「ありがとう、エルヴィン」




 リーゼは涙を拭って、気持ちを切り替えた。




 今は——エリーゼを救うことだけを考えなければ。




「さあ、サルファ剤の合成を始めましょう」




 彼女は震える手で、合成手順の紙を広げた。




「これなら……これなら、間に合うかもしれない……!」







 希望の光が、見えた。




 でも、時間がない。


 エリーゼの命は、刻一刻と削られている。




 リーゼは涙を拭って、作業を続けた。




 絶対に——


 絶対に、親友を救う。




 たとえこの身が朽ちても。

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