第84話 選択の重み
王都の医務室で、リーゼは生死の境を彷徨っていた。
高熱は四十度を超え、喀血は止まらない。
ストレプトマイシンを投与しているが、過労で衰弱しきった体は薬に耐えられるかどうか——
「呼吸が浅くなっている……」
侍医が額の汗を拭う。
「このままでは……」
エリーゼは、親友のベッドサイドで祈っていた。
でも、祈る時間さえ、今は許されない。
「エリーゼ!」
ルーカスが部屋に飛び込んできた。
「港町から緊急の要請だ!」
「医師が全く足りない!」
「患者が殺到して、医療崩壊寸前だ!」
エリーゼは、リーゼの手を握る。
温かい——いや、熱すぎる手。
「リーゼ……ごめんね」
彼女は立ち上がった。
「私、行かなきゃ」
◇
港町エルネスタ。
かつては活気に満ちた貿易港だったこの街は、今や死の街と化していた。
通りには倒れた人々。
家々からは、苦しみの声。
至る所に、黒い斑点に覆われた遺体。
「ひどい……」
エリーゼは息を呑んだ。
街の中央広場に、臨時の野戦病院が設置されていた。
テントが何十も並び、その全てが患者で埋め尽くされている。
「お医者様!」
「助けてください!」
「息子が、娘が!」
人々がエリーゼに縋りついてくる。
彼女は白衣を着て、マスクを装着した。
「落ち着いてください!」
エリーゼが叫んだ。
「順番に診察します!」
「まず、症状を教えてください!」
◇
地獄だった。
最初の患者は、三十代の男性。
港湾労働者だという。
「四日前から高熱が……」
男性の首を診る。
リンパ節が腫れ上がり、鶏卵ほどの大きさになっている。
「リンパ節炎……」
エリーゼは診断した。
「腺ペストです」
ペストには三種類ある。
腺ペスト——リンパ節が腫れる。致死率50%。
肺ペスト——肺に感染。致死率90%以上。
敗血症型——血液に菌が入る。致死率100%。
「治療法は?」
男性の妻が尋ねる。
「ストレプトマイシンを投与します」
エリーゼは薬箱を開けた。
中には、わずか十人分のストレプトマイシン。
王都の重症患者とリーゼの治療で在庫が減り、港町に回せたのはこれだけだった。
それが、彼女が持ってきた全てだった。
「でも……」
エリーゼは周囲を見渡した。
患者は何百人もいる。
薬は、十人分しかない。
誰を治療するか——
その選択が、彼女に委ねられている。
◇
「トリアージ」。
災害医療における、患者の優先順位付け。
リーゼから習った概念だ。
限られた医療資源で、最大多数を救うための手法。
でも、頭で理解していることと、実際に選択することは——
全く違う。
「次の患者さん」
エリーゼは声を震わせた。
六十代の女性。
全身に黒い斑点、呼吸困難。
敗血症型ペスト——手遅れだ。
「ごめんなさい……」
エリーゼは女性の手を握った。
「もう、できることは……」
「そんな……」
女性の娘が叫んだ。
「リーゼ先生なら! リーゼ先生なら助けてくれたはずよ!」
「あなたには無理なのね!」
その言葉が、エリーゼの胸に突き刺さる。
そうだ——私は、リーゼじゃない。
私には、リーゼのような知識も、決断力もない。
でも——
今、ここで私がやらなければ、誰がやる?
◇
次の患者。
十歳の少年。
初期の腺ペスト。
次の患者。
二十代の妊婦。
高熱とリンパ節の腫れ。
次の患者。
四十代の男性。
すでに意識不明。
エリーゼは、震える手で記録をつけた。
少年——治療可能。優先度:高。
妊婦——治療可能。ただし妊娠中、薬のリスクあり。優先度:中。
男性——回復の見込み低い。優先度:低。
この選択が、人の生死を分ける。
「お願いします! 父を助けてください!」
男性の娘が泣き叫ぶ。
「まだ若いんです! まだ四十三歳なんです!」
エリーゼは、目を伏せた。
「ごめんなさい……薬が足りないの……」
娘は地面に崩れ落ちて、泣き続けた。
エリーゼは涙を堪えて、次の患者へと向かった。
◇
夕方。
エリーゼは一人、テントの外に座り込んでいた。
手が震える。
涙が止まらない。
今日、私は何人の命を見捨てた?
十人? 二十人?
ルーカスが隣に座った。
「お前のせいじゃない」
彼が静かに言った。
「薬が足りない。医師が足りない」
「これは、システムの問題だ」
「でも……」
エリーゼは声を震わせた。
「私が選んだのよ……」
「誰を生かして、誰を見捨てるか……」
ルーカスは何も言わず、ただ彼女の背を撫でた。
「リーゼなら……」
エリーゼは呟いた。
「リーゼなら、もっと上手くやれたのに……」
◇
その夜——
新たな問題が発生した。
「先生! 大変です!」
看護師が飛び込んできた。
「患者の一人が、別の薬を飲んでいたと!」
「別の薬?」
エリーゼが眉をひそめた。
「教会が『神の恵みの聖水』を無償で配布しているらしいんです!」
「ペストに効く奇跡の薬だって……リーゼ先生の薬より効果があると宣伝していて……」
エリーゼの背筋に悪寒が走った。
「聖水……? 見せて」
看護師が小瓶を差し出した。
透明な液体が入っている。
エリーゼは慎重に匂いを嗅ぎ、成分を確認した。
そして——顕微鏡で観察する。
「これ……ストレプトマイシン!?」
彼女は驚愕した。
確かに、抗生物質の成分が含まれている。
しかし——純度が低い。
リーゼが作ったものの半分以下の純度だ。
「教会が……どうやって……」
◇
すぐに調査が始まった。
街の広場では、教会の神官たちが列を作って「聖水」を配布していた。
無償で。
「神の恵み」として。
「なぜ……」
エリーゼは拳を握りしめた。
「こんな時に、こんなことを……!」
ルーカスが報告書を持ってきた。
「教会の動きを調べた」
彼の顔は怒りに歪んでいた。
「ギースリング枢機卿の指示で、教会の薬師たちが独自に抗生物質を製造している」
「おそらく、リーゼの施設から技術を盗んだか、あるいは研究員を買収して製法を入手したんだ」
「なぜ……」
エリーゼは震えた。
「人が死んでいるのに……なぜそんなことを……」
「リーゼの医学を横取りするためだ」
ルーカスが吐き捨てるように言った。
「教会は、科学の成果を『神の奇跡』として民衆に見せている」
「『リーゼの薬は高価で危険だが、教会の聖水は無償で安全だ』と宣伝しているんだ」
「民衆の支持をリーゼから教会へ奪い返すつもりだ」
それは、卑劣な陰謀だった。
でも、効果的でもあった。
「低純度の薬で……悪化した患者は?」
エリーゼが尋ねた。
「……十一名」
ルーカスが答えた。
「純度が低いせいで、十分な効果が得られなかった」
「重症患者にとっては、低純度の薬では手遅れだ」
「救えたはずの命が、教会の聖水のせいで失われた」
「しかし民衆は、『神の聖水を飲んでも助からなかった。やはりペストは神罰なのだ』と信じ込まされている」
◇
エリーゼは、怒りで体が震えた。
十一名。
救えたはずの十一名が、教会の低純度の聖水のせいで死んだ。
その家族は、リーゼの薬ではなく教会の聖水を信じた。
そして——教会は民衆に、科学ではなく神を信じるよう誘導している。
「許さない……」
エリーゼは呟いた。
「絶対に、許さない……」
彼女は立ち上がった。
「街の人たちに真実を伝えないと」
「教会の聖水が、実はリーゼの医学を盗んだものだと——」
ルーカスが止めようとした。
「お前、もう三日も寝ていないぞ」
「少しは休め」
「休んでいる暇なんてない!」
エリーゼが叫んだ。
「今この瞬間も、人が死んでいるのよ!」
「リーゼが倒れた今、私がやらなきゃ!」
彼女は走り出した。
街の広場へ。
人々に警告するために。
◇
翌日。
エリーゼは、朝から晩まで働き続けた。
患者の診察。
トリアージ。
教会の聖水の真実を伝える活動。
遺体の処理。
休む暇もない。
食事も喉を通らない。
睡眠は一日二時間。
「エリーゼ、本当に大丈夫か?」
ルーカスが心配そうに尋ねた。
「大丈夫よ」
エリーゼは笑顔を作った。
「まだ、動けるもの」
でも、その笑顔は引きつっていた。
顔色は青白く、目の下には深いクマ。
「無理するなよ」
ルーカスが肩に手を置いた。
「お前がリーゼみたいに倒れたら、誰が患者を診るんだ?」
「分かってるわ」
エリーゼは頷いた。
でも、止まれない。
止まったら、また誰かが死ぬ。
◇
その日の午後——
エリーゼは、重症の肺ペスト患者を診察していた。
四十代の女性。
激しい咳、血痰、呼吸困難。
「大丈夫……大丈夫よ……」
エリーゼは女性の手を握った。
その時——
女性が激しく咳き込んだ。
血を含んだ飛沫が、エリーゼの顔にかかった。
「あっ……」
エリーゼは反射的に顔を拭った。
マスクはしていた。
でも、目は無防備だった。
肺ペストは、飛沫感染する。
ペストの中で最も致死率が高く、感染力も強い。
「まずい……」
エリーゼは青ざめた。
でも、目の前の患者を放置するわけにはいかない。
彼女は治療を続けた。
◇
その夜——
エリーゼは、寒気を感じた。
「ちょっと寒いわね……」
彼女は毛布を巻いた。
でも、寒気は消えない。
むしろ、どんどん強くなる。
「大丈夫……疲れてるだけ……」
彼女は自分に言い聞かせた。
でも、医師としての知識が警告する。
これは——
ゾクゾクと、悪寒が全身を駆け巡る。
額に手を当てると、熱い。
「嘘……」
エリーゼは震えた。
体温計を取り出して測ると——
三十九度二分。
「まさか……」
鏡を見る。
顔は青白く、唇は乾いている。
そして——
首のリンパ節に、小さな腫れ。
「ペスト……?」
エリーゼの膝から力が抜けた。
床に崩れ落ちる。
視界がぼやける。
「誰か……」
彼女は呟いた。
「誰か……助けて……」
でも、声は出なかった。
◇
翌朝——
エリーゼが倒れているのを、ルーカスが発見した。
「エリーゼ!」
彼は彼女を抱き上げた。
高熱。
リンパ節の腫脹。
呼吸困難。
「ペストだ……」
ルーカスの顔が青ざめた。
「エリーゼが、ペストに……!」
彼は叫んだ。
「誰か! 医師を! 薬を!」
でも——
ストレプトマイシンの在庫は、底をついていた。
培養施設は汚染され、新しい薬は作れない。
残りの薬は、重症患者のために取ってある。
エリーゼを救う薬は——
ない。
◇
同じ頃、王都の医務室。
リーゼの意識が、ゆっくりと戻ってきた。
「……ここは?」
か細い声で呟く。
侍医が駆け寄った。
「リーゼ先生! 意識が戻られたのですね!」
「私……どのくらい……」
「数日間、危険な状態が続いていました」
侍医が答えた。
「ストレプトマイシンが効いて、峠を越えられました」
「よかった……」
リーゼは安堵のため息をついた。
でも、すぐに思い出す。
ペストの流行。
培養施設の汚染。
「港町は?」
リーゼが尋ねた。
「エリーゼたちは、無事?」
侍医の顔が曇った。
「それが……」
彼は言いよどんだ。
「エリーゼ様が……倒れられました」
リーゼの心臓が止まりそうになった。
「何……?」
「ペストに感染して……」
侍医が続けた。
「現在、港町で治療中ですが……」
「薬が……薬がないのです……」
◇
リーゼは、ベッドから飛び起きようとした。
でも、体が動かない。
まだ衰弱しきっている。
「エリーゼ……エリーゼ!」
リーゼは叫んだ。
「私を港町に連れて行って!」
「私が、私が彼女を救わなきゃ!」
「無理です!」
侍医が止めた。
「あなたはまだ回復していません!」
「今動けば、命に関わります!」
「そんなこと、どうだっていい!」
リーゼは涙を流した。
「エリーゼが死んだら、私は……私は……!」
彼女は泣き崩れた。
親友が、自分の代わりに戦って、倒れた。
そして今、死に瀕している。
薬がないから——
私が作った培養施設が焼かれたから——
全て、私のせいだ。
◇
廊下で、国王陛下とアレクサンダー王子が話していた。
「状況は最悪だ」
王子が報告する。
「患者数は三百人を超えた」
「死者は百人以上」
「薬の在庫はゼロ」
「培養施設の再建には最低でも一ヶ月」
国王陛下が重々しく頷いた。
「リーゼは?」
「意識を取り戻しましたが、まだ動けません」
「エリーゼは?」
「……厳しい状況です」
王子が目を伏せた。
「薬がなければ、あと数日……」
沈黙が流れた。
「枢機卿の仕業か?」
国王陛下が尋ねた。
「間違いありません」
王子が答えた。
「聖水と称した技術の窃盗、培養施設の汚染……全て計画的です」
「畜生……!」
国王陛下が拳を握りしめた。
「教会を敵に回しても、枢機卿を告発するべきか……」
「証拠が不十分です」
王子が答えた。
「それに、今は疫病対策が最優先です」
◇
医務室で、リーゼは天井を見つめていた。
涙が、頬を伝う。
(エリーゼ……ごめん……)
全てが裏目に出た。
医学を広めようとして、敵を作った。
敵に狙われて、仲間が犠牲になった。
(私が……私が倒れなければ……)
(私が、もっとちゃんと対策していれば……)
自責の念が押し寄せる。
でも——
今、自分を責めても何も変わらない。
リーゼは歯を食いしばった。
(立ち上がらなきゃ……)
(エリーゼを救わなきゃ……)
彼女は、震える手で点滴の針を抜いた。
「先生! 何をしているんですか!」
侍医が止めようとする。
「私を……」
リーゼは震える声で言った。
「私を、研究室に連れて行ってください」
「無理です! あなたはまだ——」
「薬を作るの!」
リーゼが叫んだ。
「エリーゼを救う薬を!」
侍医は、リーゼの目を見た。
そこには、狂気に近い決意があった。
「……分かりました」
侍医は折れた。
「ですが、車椅子です」
「それ以上は認められません」
「ありがとう……」
リーゼは涙を拭った。
◇
研究室に運ばれたリーゼは、震える手で資料を開いた。
ペストの治療。
ストレプトマイシン以外の選択肢。
前世の記憶を辿る。
ペストに効果的な抗生物質は——
「ストレプトマイシン、ドキシサイクリン、シプロフロキサシン……」
でも、後者二つは合成が困難だ。
この世界の技術では作れない。
「他に……他に何か……!」
リーゼは資料を漁った。
その時——
ふと、別の可能性が浮かんだ。
「抗菌薬の組み合わせ……」
ストレプトマイシン単独では効果が弱くても、他の薬と組み合わせれば——
「サルファ剤……!」
リーゼは叫んだ。
「サルファ剤なら、この世界でも作れるかもしれない!」
彼女は震える手でペンを取った。
合成手順を書き出す。
必要な材料をリストアップする。
前世の記憶を辿りながら、リーゼはペンを走らせた。
サルファ剤——正式名称、スルファニルアミド。
ペニシリンより前の時代、人類が手にした最初の化学合成抗菌薬。
合成は複雑だが、この世界でも可能なはずだ。
「必要なのは……」
リーゼは呟きながら、リストを作った。
アニリン——芳香族アミン。
硫酸——強酸。
塩化スルホニル——
いや、待って。塩化スルホニルは、この世界にあるかしら?
彼女は考えた。
前世の記憶によれば、アニリンは石炭タールから作られる。
染料の原料として、十九世紀には工業的に生産されていた。
この世界にも、染料研究はある。
ということは——
「医学院の薬品庫に、あるかもしれない……!」
リーゼは車椅子を動かして、研究室の棚を開けた。
薬品台帳。
医学院が保有している化学物質のリスト。
彼女は震える指でページをめくる。
「あった……!」
アニリン——医学院に五百グラム、染料工場にはさらに在庫があるはず。
用途:染料合成研究用。
硫酸——医学院に十リットル、工房や研究施設にも大量在庫。
用途:一般試薬。
亜硝酸ナトリウム——医学院に二百グラム、食品貯蔵庫にはもっとあるはず。
用途:肉の塩漬け保存、防腐剤。
「待って……亜硝酸ナトリウム?」
リーゼは目を見張った。
これは食品保存用の試薬だ。
でも、前世の知識では——化学合成にも使える。
「そうだわ……この試薬を使えば……!」
リーゼは興奮した。
食品保存用の試薬が、高度な有機化学反応にも使える。
この世界の人々は、まだそれに気づいていない。
「これだけあれば……合成できる……!」
リーゼは涙を拭った。
でも——
問題がある。
彼女の手は、まだ震えている。
体は衰弱しきっていて、薬品を扱える状態ではない。
一歩間違えれば、爆発や中毒の危険がある。
「誰かに……手伝ってもらわないと……」
リーゼは考えた。
エルヴィンなら——
あの真面目な魔法使いなら、正確に作業してくれるはずだ。
彼女は震える手で、呼び鐘を鳴らした。
◇
三十分後——
エルヴィンと若い魔法使いたちが、研究室に集まった。
「リーゼ先生!」
エルヴィンが駆け寄ってくる。
「もう起きて大丈夫なんですか!?」
「大丈夫じゃないわ」
リーゼは正直に答えた。
「でも、起きなきゃいけないの」
彼女は、リストを差し出した。
「これを見て」
エルヴィンが紙を受け取る。
そこには、化学物質の名前と、複雑な合成手順が書かれていた。
「これは……」
「サルファ剤よ」
リーゼが説明した。
「ペストに効く、新しい抗菌薬」
「ストレプトマイシンと併用すれば、効果が飛躍的に上がるはず」
「でも、どうやって作るんですか?」
若い魔法使いの一人が尋ねた。
「複雑な化学反応が必要よ」
リーゼは震える声で言った。
「アニリンをジアゾ化して——」
彼女は合成手順を説明し始めた。
専門用語が飛び交う。
魔法使いたちは、必死にメモを取る。
「温度管理が最も重要」
リーゼは強調した。
「反応温度が五度違うだけで、失敗する」
「爆発の危険もある」
「魔法で温度を制御できませんか?」
エルヴィンが尋ねた。
「『炎制御フレーム・コントロール』の魔法を使えば、精密な温度調整が可能です」
「それよ!」
リーゼの目が輝いた。
「魔法と化学の融合……それなら、この世界でも合成できる……!」
彼女は咳き込んだ。
まだ体が本調子ではない。
「先生、無理をしないでください」
エルヴィンが心配そうに言った。
「合成は、私たちに任せてください」
「先生は指示を出すだけでいい」
「でも……」
「信じてください」
エルヴィンが力強く言った。
「あなたから学んだことを、私たちは実践できます」
「だから、私たちを信じてください」
リーゼは、彼らの目を見た。
真剣な眼差し。
強い決意。
「……ありがとう」
彼女は頷いた。
「じゃあ、まず薬品庫から材料を集めて」
リーゼはリストを指さした。
「アニリン、硫酸、亜硝酸ナトリウム……」
「全て、医学院の薬品庫にあるはず」
「分かりました!」
若い魔法使いたちが走り出した。
エルヴィンがリーゼの横に座った。
「必ず、成功させます」
彼が静かに言った。
「エリーゼ先生を、救いましょう」
リーゼは頷いた。
その時——
ふと、思いついた。
「そうだ、エルヴィン」
リーゼは震える手で、紙とペンを取った。
「もし……もし私が戻れなかったら」
「先生!」
エルヴィンが慌てて止めようとした。
「縁起でもないことを——」
「いいえ、聞いて」
リーゼは真剣な目で言った。
「港町はペストが流行している」
「私はまだ結核から完全に回復していない」
彼女はペンを走らせ始めた。
「何が起きるか、分からないわ」
紙に、簡単な図を描く。
円を二つ、縦に並べて——
「これは、顕微鏡の改良案よ」
リーゼは説明した。
「今の顕微鏡は、レンズが一段階だけ」
「でも、レンズを二段階にすれば、拡大率をもっと上げられる」
彼女は図に説明を書き込んでいく。
「対物レンズと接眼レンズ——」
「二つのレンズの組み合わせで、より高倍率の観察が可能になるわ」
「先生……」
エルヴィンは、リーゼの書く図を見つめた。
「レンズの研磨は、魔法で精度を上げられるはず」
「温度制御ができるなら、ガラスの加工もできる」
リーゼは設計図を完成させた。
「もし私が戻れなくても、研究は続けて」
彼女はエルヴィンに紙を渡した。
「この世界の医学を、前に進めて」
エルヴィンは震える手で、設計図を受け取った。
彼の目には、涙が浮かんでいた。
「……必ず、先生をお待ちしています」
彼は力強く言った。
「そして、先生が戻られたら——」
エルヴィンは設計図を胸に抱いた。
「完成した顕微鏡を、お見せします」
リーゼは微笑んだ。
「ありがとう、エルヴィン」
リーゼは涙を拭って、気持ちを切り替えた。
今は——エリーゼを救うことだけを考えなければ。
「さあ、サルファ剤の合成を始めましょう」
彼女は震える手で、合成手順の紙を広げた。
「これなら……これなら、間に合うかもしれない……!」
◇
希望の光が、見えた。
でも、時間がない。
エリーゼの命は、刻一刻と削られている。
リーゼは涙を拭って、作業を続けた。
絶対に——
絶対に、親友を救う。
たとえこの身が朽ちても。




