第83話 崩壊の序曲
異端審問という最大の危機を乗り越え、私の周囲は激変した。
国王陛下より「王立医学院・魔導医療研究室」の設立が認可され、私がその室長に任命されたのだ。
メンバーは、親友のエリーゼ、頼れるルーカス先輩、そして審問会で助け舟を出してくれた宮廷魔導師のエルヴィンさんだ。
「すごいですね、リーゼ先生。この部屋、お城の一角ですよ」
エルヴィンさんが、新設された研究室を見渡して目を輝かせている。
そこには、最新の顕微鏡だけでなく、様々な魔道具や試薬が所狭しと並べられていた。
城の東棟、三階。
大きな窓からは王都の街並みが一望できる。
研究室には五つの作業台、薬品棚、実験動物を飼育する部屋まである。
「これだけの設備があれば、何でもできそうですね」
エリーゼが興奮気味に言う。
「でも、それだけ期待もされているってことよ」
私は白衣の袖をまくり上げた。
「感心している暇はありませんよ、エルヴィンさん」
「教会との対立はひとまず収まりましたが、私たちは結果を出し続けなければなりません」
「科学と魔法の融合——次なる発明品を作ります」
◇
私たちが取り組んでいるのは、前世で言う「レントゲン(X線撮影装置)」の魔導版だ。
外科手術や骨折の治療において、皮膚の下にある骨や臓器の状態を見ることは不可欠だ。
しかし、X線を発生させる真空管を作る技術は、まだこの世界にはない。
そこで、魔法の力を借りる。
「理論はこうです」
私は黒板に図を描いた。
「エルヴィンさんの使う『透過光ペネトレイト・ライト』の魔法。これは壁の向こうを透視する魔法ですが、これを微弱にして人体に照射します」
「そして、背後に『感光紙』——特殊な薬品を塗った紙を置きます」
「なるほど」
エルヴィンさんが顎に手を当てた。
「骨は魔力を通しにくく、筋肉や内臓は通しやすい。その差を影絵のように紙に焼き付けるわけですね」
「その通りです!」
私は図に書き込みを加えた。
「前世——いえ、私の知識によれば、これで骨折の位置、臓器の腫瘍、肺の病変など、様々なものが見えるはずです」
「素晴らしい発想です」
エルヴィンさんが感嘆の声を上げた。
「魔法は戦闘や探索にしか使えないと思っていましたが、医療にこんな応用ができるとは」
◇
開発は困難を極めた。
魔力が強すぎれば被曝ひばくのように体に害が出るし、弱すぎれば何も映らない。
エリーゼとエルヴィンさんが魔力の波長を調整し、私が感光紙の調合を繰り返す。
最初の試作品は、魔力が強すぎて実験用のネズミが死んでしまった。
「ダメだ……出力を下げないと」
二回目は、魔力が弱すぎて何も映らなかった。
「紙の感度を上げるか、魔力の波長を変えるか……」
三回目、四回目、五回目——
連日の徹夜作業。
食事も研究室でパンをかじるだけの日々。
「リーゼ、少し休んだらどうだ?」
ルーカス先輩が心配そうにコーヒーを淹れてくれた。
「顔色が悪いぞ。目の下にクマもできてる」
「大丈夫です。あと少しなんです」
私は咳を飲み込み、笑顔を作った。
「ゴホッ、ゴホッ……」
最近、咳が出るようになった。
喉がいがらっぽい。
微熱も続いている。
疲れが溜まっているのだろうか。
それとも——
嫌な予感が頭をよぎったが、私は振り払った。
今は研究に集中しなければ。
「今ここで止めるわけにはいきません。この装置が完成すれば、切開せずに病気を見つけられるんですから」
◇
そして二週間後。
ついに試作品が完成した。
実験台は、腕を骨折して運び込まれてきた兵士だ。
訓練中に落馬して、右腕を痛めたという。
「痛みはどうですか?」
私が尋ねると、兵士は苦笑した。
「かなり痛いです、先生」
「でも、リーゼ先生の新しい装置の実験に協力できるなら光栄です」
「ありがとうございます」
私は患部に装置を当てた。
エルヴィンさんが慎重に魔力を流す。
感光紙が淡く光る。
「出力は安定しています」
エルヴィンさんが額の汗を拭う。
「魔力の流れは一定です」
「紙への焼き付けも進んでいます」
三十秒ほどの照射。
私は感光紙を取り出した。
「現像します!」
私は紙を薬液に浸した。
じわりと、黒い影が浮き上がってくる。
筋肉の薄い影の中に、くっきりと白い骨の影。
そして、その骨が——
橈骨が完全に骨折し、断端がずれている。
尺骨にもヒビが入っている様子が、鮮明に映し出されていた。
「成功だ……!」
研究室に歓声が上がった。
「見えた! 本当に見えた!」
エリーゼが興奮して叫ぶ。
「骨折の位置が完璧に分かるわ!」
「これなら、骨のズレを正確に把握して整復できる」
ルーカス先輩が画像を凝視している。
「切開せずに診断できる……革命的だな」
「素晴らしい……まるで神の目のようだ」
エルヴィンさんが震える手で写真を持っている。
「治癒魔法使いにとっても、これは福音です」
「骨折の整復を魔法で行う際、正確な位置が分かれば成功率が格段に上がります」
患者の兵士も、自分の骨の写真を見て驚愕している。
「これが……俺の腕の中なのか……」
「信じられない……」
◇
エリーゼが私に抱きついてきた。
「やったわね、リーゼ! これでまた医学が進歩するわ!」
「ええ……本当によかっ……」
その時だった。
ズキン、と胸の奥に鋭い痛みが走った。
視界がぐらりと揺れる。
天地がひっくり返るような目眩。
「……リーゼ?」
エリーゼの声が遠くに聞こえる。
私は机に手をつこうとして、そのまま崩れ落ちた。
「おい、リーゼ!」
ルーカス先輩が駆け寄ってくるのが見えた。
喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
反射的に口元を抑え、咳き込む。
ゴホッ、ゴホッ、ゴボッ……!
手のひらに、温かくて粘り気のある感触。
ゆっくりと手を開く。
そこには、鮮やかな赤色が広がっていた。
喀血かっけつ。
◇
「血……!?」
「嘘でしょ、リーゼ!」
研究室がパニックになる。
エリーゼが私を抱きかかえる。
ルーカス先輩が治癒魔法を唱える。
「『治癒ヒール』!」
淡い光が私を包む。
でも——傷が治るだけで、病気には効果が薄い。
魔法の限界を、私は誰よりも知っている。
私の意識は急速に薄れていく。
なぜ?
どうして?
私は、結核の治療法を確立したはずなのに。
アンナさんの治療中も、予防策を取っていたはずなのに。
薄れゆく意識の中で、私は自分の症状を冷静に分析していた。
微熱、倦怠感、咳、そして喀血。
間違いなく、結核の症状だ。
そうか……あの時か。
アンナさんの喀痰検査で、顕微鏡を覗いた時。
連日の過労で免疫が落ちていたところに、わずかな菌を吸い込んでしまったのかもしれない。
医師の不養生——
皮肉なことだ。
(まさか……私が、結核に……?)
最も恐れていた可能性が頭をよぎったところで、私の世界は暗転した。
◇
目が覚めたのは、王城の医務室だった。
天井が白い。
消毒薬の匂い。
シーツの感触。
「……ここは?」
か細い声で呟くと、隣で誰かが動いた。
「リーゼ! 目が覚めたのね!」
エリーゼだった。
目が赤く腫れている。
泣いていたのだろう。
「どのくらい……」
「三日間よ。ずっと高熱で意識不明だった」
エリーゼが私の手を握る。
その手が震えている。
「検査したわ。喀痰、血液、顕微鏡検査……全て」
彼女の声が震える。
「結核菌が検出された。それも、かなりの数……」
やはり——
私は目を閉じた。
医師として予想していた診断だったが、実際に告げられると、重い。
「ストレプトマイシンは?」
私は尋ねた。
「すぐに投与を始めたわ」
エリーゼが答える。
「でも、リーゼ……あなたは過労で衰弱しきっている」
「薬の副作用に耐えられるかどうか……」
彼女の目に涙が溢れる。
「怖いのよ……あなたが、アンナさんと同じように苦しむのを見るのが……」
◇
「大丈夫」
私は微笑もうとした。
でも、顔の筋肉が動かない。
「私は、この薬の効果を知っている」
「きっと、治る……」
その時——
ドアが勢いよく開いた。
「リーゼ先生!」
息を切らせて飛び込んできたのは、若い衛兵だった。
「大変です! 港町のエルネスタから緊急の伝令が!」
「港町?」
ルーカス先輩が眉をひそめた。
「落ち着け。何があった?」
「謎の病気が流行しています!」
衛兵が叫んだ。
「高熱、リンパ節の腫れ、皮膚の黒い斑点……」
「既に数十人が倒れ、十人以上が死亡したと!」
私の背筋に冷たいものが走った。
高熱——
リンパ節の腫れ——
黒い斑点——
「まさか……」
私は震える声で呟いた。
「ペスト……黒死病……?」
◇
会議室に、緊急招集された医師たちと魔法使いたちが集まっていた。
私はエリーゼに支えられて、何とか椅子に座っている。
高熱で意識が朦朧とするが、この場にいなければならない。
「港町エルネスタの状況を報告する」
国王陛下の側近が地図を広げた。
「三日前から原因不明の高熱患者が発生」
「症状は、四十度を超える高熱、首や脇の下のリンパ節の腫脹、皮膚の黒い斑点」
「現在、確認されている患者数は八十七名、死者は二十三名」
会議室がざわめく。
「致死率が高すぎる……」
「これは普通の病気じゃない……」
「さらに悪いことに」
側近が続けた。
「この病気は急速に拡大している」
「港町から隣の村へ、さらに王都への街道沿いへ……」
「このまま放置すれば、一週間以内に王都に到達する可能性がある」
「対策は?」
国王陛下が重々しく尋ねた。
「隔離しか……」
別の医師が答えた。
「感染者を隔離し、健康な人との接触を断つ」
「しかし、既に広範囲に拡散しています」
「完全な封じ込めは困難かと……」
◇
「リーゼ先生」
国王陛下が私を見た。
「そなたはこの病を知っているか?」
全員の視線が私に集中する。
私は震える手で立ち上がった。
高熱でふらつくが、エリーゼが支えてくれる。
「ペストです」
私は言った。
「別名、黒死病」
会議室が静まり返る。
「私の知識によれば、これは歴史上最悪の疫病の一つです」
「古代の記録では、大流行した際に人口の三分の一が死亡したとあります」
「三分の一だと!?」
誰かが叫んだ。
「原因は細菌です」
私は続けた。
「ペスト菌という病原体が、ネズミに寄生するノミを介して人間に感染します」
私は地図を指差した。
「港町から発生したということは、船に乗ったネズミが持ち込んだ可能性が高い」
「治療法は?」
国王陛下が尋ねた。
「ストレプトマイシンが……」
私は言いかけて、躊躇した。
「効果はあります。ですが——」
私は苦しい真実を告げなければならない。
「この規模の流行には、ストレプトマイシンだけでは対応しきれません」
「他の治療手段も併用する必要があります」
「それに……」
私は部屋を見渡した。
「現在の在庫では、せいぜい五十人分しかありません」
「既に八十七人の患者がいて、さらに増え続けている……」
◇
絶望的な沈黙が流れた。
「培養を急げば?」
誰かが尋ねた。
「抗生物質製造施設がある」
「そこで増産すれば——」
その時——
再び扉が開いた。
今度は青ざめた顔をした衛兵が飛び込んできた。
「緊急報告です!」
衛兵が叫んだ。
「王都郊外の抗生物質製造施設から異常の報告が!」
私の心臓が止まりそうになった。
「異常? 何があった?」
ルーカス先輩が立ち上がった。
「培養中のカビに異変が……」
衛兵が報告する。
「本来の色とは違う、黒ずんだ菌が混入しているとのことです!」
「さらに——製造されたストレプトマイシンを投与された患者から、通常とは異なる副作用の報告が相次いでいると!」
「副作用……?」
「激しい嘔吐、めまい、皮膚の発疹……」
衛兵の声が震える。
「まるで、薬ではなく——毒を飲んだかのような症状だと……」
◇
私の頭が真っ白になった。
ペストの流行。
薬の在庫不足。
そして培養施設の汚染——製造された薬そのものが毒に変わっている。
全てが最悪のタイミングで重なった。
「偶然……じゃない……」
私は呟いた。
「これは……仕組まれた……」
「リーゼ?」
エリーゼが心配そうに私を見る。
「枢機卿……」
私は震える声で言った。
「ギースリング枢機卿の……復讐……」
審問会で面目を潰された枢機卿。
あの憎悪に満ちた目。
彼は機会を待っていたのだ。
私が病に倒れ、無力化された今。
疫病が流行し、民衆がパニックになる今。
薬を毒に変えれば——「リーゼの医学は人を殺す」という噂が広がり、私の信頼は地に落ちる。
「畜生……!」
ルーカス先輩が拳で壁を殴った。
「今すぐ枢機卿を捕らえろ!」
「証拠がありません」
側近が冷静に答えた。
「疑いはあっても、教会の高位聖職者を告発するには確たる証拠が必要です」
「それに、今はそれどころではありません」
側近が地図を指差した。
「患者は時々刻々と増えています」
「今この瞬間も、人が死んでいる」
「陰謀を暴くのは後回しです。今は疫病を止めなければ」
◇
私は椅子にもたれかかった。
全身から力が抜けていく。
医師として、リーダーとして、私が指揮を執らなければならない。
でも——
高熱で意識が朦朧とする。
喀血で衰弱しきっている。
立ち上がることさえ困難だ。
「リーゼ、無理しないで……」
エリーゼが私を抱きしめる。
「あなたは休んで。私たちが何とかするから」
「でも……」
私は抗議しようとした。
でも、言葉が出ない。
視界がぼやける。
また意識が遠のいていく。
(こんな時に……こんな時に私が倒れるなんて……)
無力感が押し寄せる。
涙が溢れそうになる。
「リーゼ先生」
エルヴィンさんが私の肩に手を置いた。
「あなたは私たちに知識を授けてくれました」
「細菌の存在、病気のメカニズム、治療の理論……」
「今度は、私たちがあなたの教えを実践する番です」
彼が真剣な目で私を見つめる。
「あなたは治療に専念してください」
「疫病対策は、私たちに任せてください」
「でも……薬が……」
「何とかします」
ルーカス先輩が言った。
「培養施設の一部は汚染されたが、まだ無事な区画もある」
「そこで急いで増産すれば、何とか間に合うかもしれない」
「それに、他の方法も探す。お前は俺たちを信じろ」
◇
私は二人を見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
信じるしかない。
私一人で全てを解決できるわけじゃない。
仲間を信じて、任せるしかない。
「お願い……します……」
私は力なく呟いた。
「みんなを……救って……」
その言葉を最後に、私の意識は再び闇に沈んだ。
栄光の絶頂から、突如として奈落へ。
医師が患者となり、指導者が無力化され、そして疫病が王国を襲う。
これは、全ての崩壊の序曲だった。
◇
エリーゼは、眠るリーゼを医務室のベッドに運んだ。
彼女の額は熱く、呼吸は浅い。
「しっかりして、リーゼ……」
エリーゼは親友の手を握った。
涙が頬を伝う。
廊下では、ルーカスとエルヴィンが対策を協議している。
「まず、港町の患者を隔離する」
ルーカスが言った。
「それと同時に、王都への流入を防ぐために街道を封鎖する」
「薬の確保も急務です」
エルヴィンが続けた。
「汚染されていない区画で急いで増産を——」
その時、医務室の窓から、夕日が差し込んだ。
赤く染まった空。
まるで血のような色。
不吉な予感が、全員の心を覆っていた。
これは、長く苦しい戦いの始まりに過ぎない。
ペストという見えない敵。
枢機卿の陰謀。
そして、倒れた指導者。
絶望的な状況の中で、残された者たちは立ち上がらなければならない。
◇
その夜——
大聖堂の奥深く、秘密の執務室。
黒いローブを纏ったギースリング枢機卿が、報告書を読んでいた。
「順調だ……」
枢機卿が、満足げに呟いた。
「培養液への混入は成功した」
「副作用の報告も相次いでいる」
「民衆は、リーゼの医学に疑念を抱き始めている」
彼の目は、狂気に輝いていた。
「神の奇跡を否定した報いを受けるがいい」
「そなたの医学が民を救えぬどころか、民を殺すことを——この目で見届けてやろう」
彼は報告書を閉じた。
「薬は毒に変わり、指導者は病に倒れ、疫病だけが広がる……」
彼は嗤った。
「リーゼ・フォン・ハイムダル……そなたは自らの傲慢の代償を、死の床で噛み締めるがいい」
窓の外には、何も知らずに眠る王都の街並み。
月も星も見えない、暗い夜だった。
災厄の幕が、上がった。
◇
翌朝——
港町エルネスタからの報告。
患者数:百三十二名。
死者:三十八名。
そして、最も恐ろしい報告が届いた。
「街道沿いの村でも発症者が出ました」
「王都まで、あと三日の距離です」
時間がない。
絶望的に、時間がない。
リーゼは高熱で意識不明。
薬の在庫は底をついた。
培養施設は汚染され、製造された薬は使えない。
そして、ペストは確実に王都へと迫っていた。
エリーゼは、窓の外を見つめた。
街は平和そうに見える。
人々は笑い、子供たちは遊び、商人たちは商売をしている。
でも、この平和は——
あと数日で、終わる。
「私が……」
エリーゼは拳を握りしめた。
「私が、リーゼの代わりに……」
彼女の目に、決意の光が宿った。
親友が倒れた今、自分が立ち上がらなければならない。
たとえ力不足でも、知識不足でも。
誰かがやらなければ、全てが終わる。
「待ってて、リーゼ」
エリーゼは、眠る親友に囁いた。
「あなたが教えてくれたことを、私が実践するから」
「絶対に、みんなを救ってみせる」
彼女は白衣を着て、研究室へと向かった。
崩壊の序曲は、終わった。
そして今、反撃の準備が始まる。
長く苦しい戦いが——
幕を開けようとしていた。




