第81話 神の領域への侵犯
アンナの退院から一週間後。
私は研究室で、次のストレプトマイシン製造の準備をしていた。
一人の患者を救えた。
でも、それで終わりではない。
王国中、いや世界中には、何千万人もの結核患者がいる。
彼らすべてを救うには、薬を量産しなければならない。
「リーゼ、見て!」
エリーゼが新聞を持って駆け込んできた。
「王都新聞の一面よ!」
新聞の見出しには、大きな文字で書かれていた。
『不治の病、結核が治った! 少女医師の奇跡』
そして、私の似顔絵が載っている。
「うわぁ……」
私は顔を覆った。
「恥ずかしい……」
◇
でも、これは始まりに過ぎなかった。
翌日の新聞には、より詳細な記事が載った。
『死の淵から生還した少女、アンナさん(14)の証言』
『「先生が命を救ってくれました」涙の感謝』
アンナへのインタビュー記事だ。
◇
そして、その翌日。
アンナは母親と共に、王都の大聖堂を訪れた。
命を救われた感謝を、神に捧げるために。
「お母さん、久しぶりね、外を歩くの」
アンナが嬉しそうに言った。
頬にはまだ少し痩せた跡が残っているが、顔色は良い。
呼吸も楽そうだ。
「本当に、奇跡だわ……」
母親が涙ぐんだ。
「三週間前は、もう諦めていたのに」
二人は大聖堂の石段を登った。
重厚な扉をくぐり、礼拝堂へ入る。
◇
礼拝堂には、数十人の信徒が祈りを捧げていた。
アンナと母親は祭壇の前に進み、跪いた。
「神様」
母親が祈る。
「娘の命を救ってくださり、ありがとうございます」
そして、アンナも小さく祈った。
「ありがとうございます」
しばらく祈りを捧げた後、アンナたちは立ち上がった。
その時、白い法衣を着た神官が近づいてきた。
「お嬢さん」
神官が優しく微笑んだ。
「お元気そうですね。何か良いことがありましたか?」
「はい!」
アンナが明るく答えた。
「結核が治ったんです!」
◇
その言葉に、周囲の空気が変わった。
祈っていた信徒たちが、一斉にアンナを見た。
「結核……が、治った?」
神官が驚いた顔をした。
「はい! リーゼ先生が、ストレプトマイシンっていう薬で治してくれました!」
アンナが嬉しそうに説明した。
「三週間前は、もう死ぬって言われてたんです」
「でも、先生が注射してくれて——」
「待ちなさい」
神官が手を上げて、アンナの言葉を遮った。
「その……リーゼという医者が、治したと?」
「はい!」
「神の御加護ではなく?」
神官の声が、わずかに硬くなった。
◇
アンナは首を傾げた。
「神様の加護も、あったかもしれません」
「でも、先生が薬をくれなかったら、私は死んでました」
母親も頷いた。
「そうなんです、神父様」
「三つの病院で『手遅れだ』と言われて——」
「でも、リーゼ先生だけが『治せる』と言ってくれました」
「それは……」
神官が言葉に詰まった。
周囲の信徒たちが、ざわめき始めた。
「結核が治る薬があるのか?」
「不治の病だと思っていたのに」
「あの少女医師が……?」
ざわめきが、どんどん大きくなっていく。
◇
別の神官——年配の、位の高そうな者——が近づいてきた。
「皆さん、お静かに」
その神官が厳かに言った。
「結核が治ったのは、神の奇跡です」
「医者はただの道具に過ぎません」
「でも——」
アンナが反論しようとしたが、母親が慌てて制した。
「そうですね、神父様」
母親が頭を下げた。
「神様のお導きがあったからこそ、リーゼ先生に出会えました」
母親はアンナの手を引いて、急いで大聖堂を出ようとした。
何か、空気が悪い。
このままいると、良くないことが起こりそうな予感がした。
◇
しかし、すでに遅かった。
大聖堂の外では、アンナたちの会話を聞いた信徒たちが集まり始めていた。
「結核が治る薬があるって本当か!」
「王立医学院の少女医師が作ったらしい」
「神の奇跡じゃなくて、人間の薬で治ったんだって」
噂は、瞬く間に広がった。
教会で祈るよりも、病院へ行ったほうが助かる。
その認識が、人々の間に広まり始めた。
そして、その噂は教会の上層部にも届いた。
ギースリング枢機卿の耳に。
◇
さらに次の日。
『王立医学院、新薬「ストレプトマイシン」の詳細を発表』
『動物実験で100%の治療成功率』
技術的な解説記事も出た。
そして、その次の日——
『各地から患者が殺到 王立医学院、対応に追われる』
医学院の門前には、朝から長い行列ができていた。
◇
「先生! 私の娘を診てください!」
「息子が血を吐いているんです!」
「お願いします、助けてください!」
絶望的な顔をした人々が、門を押し開けようとしている。
守衛たちが必死に制止しているが、人波に押されている。
「落ち着いてください!」
「順番に診察しますから!」
ヴィルヘルム先生が大声で呼びかけるが、声は群衆の叫びに掻き消される。
私は門の前に立った。
「皆さん!」
私の声に、人々の動きが止まった。
「お静かに!」
◇
群衆が静まる。
数百人の視線が、私に集中した。
「私はリーゼ・フォン・ハイムダルです」
私は深呼吸をして、大きな声で言った。
「皆さんのご家族を、必ず診察します」
「ただし、順番を守ってください」
私は看護師たちに指示を出した。
「整理券を配ってください」
「重症度の高い方から優先します」
そして、群衆に向き直った。
「薬には限りがあります」
「今すぐ全員を治療することはできません」
人々の顔に失望の色が浮かぶ。
「でも、諦めないでください」
私は力強く言った。
「私たちは今、薬を増産しています」
「必ず、皆さんの元へ届けます」
◇
その日から、医学院は戦場と化した。
外来診察室は患者で溢れかえった。
廊下にまで担架が並び、看護師たちは走り回っている。
私も朝から晩まで、診察を続けた。
咳き込む老人。
血を吐く若者。
高熱で苦しむ子供たち。
全員が、同じ敵と戦っている。
結核という、白い悪魔と。
「次の方、どうぞ」
私は何十人目かの患者を呼んだ。
聴診器を当てる。
喀痰を採取する。
顕微鏡で確認する。
そして、ストレプトマイシンを処方する。
単調な作業の繰り返し。
でも、一人ひとりが、かけがえのない命だ。
◇
しかし、光が強ければ、影もまた濃くなる。
五日目の夕方。
ルーカス先輩が、険しい顔で報告に来た。
「リーゼ、街で妙な噂が流れている」
「噂?」
「ああ」
先輩が声を潜めた。
「『あの女医は、悪魔と契約して死神を追い払っている』だとか」
「『目に見えない菌などという怪物は、黒魔術の使い魔だ』だとか」
私の背筋が凍った。
その言葉は——
百六十年前、ゼンメルワイス先生を葬った言葉と、全く同じものだった。
◇
「誰が、そんな噂を……?」
「分からない」
先輩が首を振った。
「でも、広まってる」
「特に、信心深い老人たちの間で」
「教会か……」
私は呟いた。
結核治療の成功は、教会の権威を脅かす。
この世界の医療は、二極化している。
教会に属する神官や聖女が使う「治癒魔法」。
これは傷を塞ぐには劇的な効果があるが、病気——特に感染症には効果が薄い。
魔力の消費も激しく、高額な寄付ができる貴族しか受けられない。
対して、私が広めている医学は、安価で、誰にでも効果がある。
それが教会の特権を脅かしているのだ。
◇
「気をつけろ、リーゼ」
ヴィルヘルム先生が警告してくれた。
「お前の成功を妬む者は多い」
「特に、既得権益を持つ者たちは」
「分かっています」
私は頷いた。
「でも、止められません」
「目の前に苦しんでいる人がいるのに」
「……そうだな」
先生が苦笑した。
「お前らしい」
でも、先生の目には心配の色が浮かんでいた。
◇
そして、運命の日が訪れた。
医学院の正門に、物々しい一行が現れた。
白と金の法衣をまとい、重厚な杖を持った男たち。
胸には、炎と剣を組み合わせた紋章が輝いている。
中央教会の中でも、教義の監視を司る「異端審問局」の司祭たちだ。
門の前に集まっていた患者たちが、道を開ける。
恐怖に満ちた顔で、後ずさる。
異端審問局。
その名は、この国で最も恐れられている組織の一つだ。
魔女狩り、異端者の処刑、禁書の焼却。
彼らの権限は絶大で、時には王権さえも脅かす。
◇
一行の先頭に立つのは、年老いた男だった。
背は高く、痩せている。
鷲のような鋭い目。
薄い唇。
そして、冷たく威圧的な雰囲気。
ギースリング枢機卿。
王国の宗教界で絶大な権力を持つ、保守派の重鎮だ。
彼は医学院の門をくぐり、中庭へと進んだ。
学生たちが息を呑んで見守る中、枢機卿は立ち止まった。
「リーゼ・フォン・ハイムダル医師はいるか」
厳かな、しかし冷たい声が響く。
◇
私は白衣を整え、彼らの前に進み出た。
心臓が激しく鼓動している。
でも、顔には出さない。
「私がハイムダルです」
私は最大限の礼儀を尽くして頭を下げた。
「枢機卿猊下、本日はどのようなご用件でしょうか」
枢機卿は私を見下ろし、侮蔑の色を隠そうともしなかった。
その目には、明確な敵意が宿っていた。
「そなたか」
枢機卿が静かに言った。
「神の定めた生死の理を乱す者は」
◇
中庭に、緊張が走った。
学生たちが固唾を呑んで見守っている。
「結核は、神が人間に与えた試練であり、罰である」
枢機卿が杖で地面を突いた。
「それを人間の浅知恵でねじ曲げるとは、何たる傲慢か」
その言葉に、私は静かに反論した。
「猊下」
私は顔を上げて、枢機卿を見つめた。
「病が試練であるなら、それを乗り越えるための知恵もまた、神が人間に与えた恵みではないでしょうか」
枢機卿の眉がぴくりと動いた。
「私たちは神の創造した薬草や、土の中の恵みを使って、命を救っているに過ぎません」
「口が減らない娘だ」
枢機卿が不快そうに言った。
◇
「ならば問う」
枢機卿が私に向き直った。
「そなたが使う『顕微鏡』なる筒。あれは何だ?」
枢機卿が顕微鏡を指差す。
「目に見えぬものを見るなど、神の御業を盗み見る行為に他ならぬ」
周囲の学生たちがざわめく。
「あの筒の中に映る『細菌』とやらは、そなたの魔術が生み出した幻影ではないのか?」
科学の結晶である顕微鏡を、魔術呼ばわりされた。
私は努めて冷静に説明しようとした。
「それは誤解です、猊下」
「誤解?」
「はい。顕微鏡はレンズの屈折を利用した光学機器です」
私は理論を説明し始めた。
「魔術ではありません。誰が覗いても同じものが見えます」
◇
「黙れ!」
枢機卿が一喝した。
その声に、私の言葉が遮られる。
「最近、信徒たちの間で不安が広がっている」
枢機卿が冷たい目で私を睨んだ。
「『教会へ行って祈るよりも、病院へ行って白い粉を貰ったほうが助かる』とな」
枢機卿が杖を握りしめた。
「そなたの行いは、人々の信仰心を揺るがし、教会への帰依を妨げている」
ああ、と私は思った。
本音が漏れた。
彼らが恐れているのは「神の領域の侵犯」ではない。
「教会の権威の失墜」だ。
医学が発達し、病気が「祈り」ではなく「科学」で治るようになれば、教会への寄付や依存が減る。
それを危惧しているのだ。
◇
「これは看過できぬ重罪だ」
枢機卿が宣告した。
「枢機卿猊下」
ヴィルヘルム先生が割って入ろうとしたが、枢機卿はそれを手で制した。
「リーゼ・フォン・ハイムダル」
枢機卿の声が、雷のように響いた。
「そなたに『異端嫌疑』がかけられている」
異端嫌疑。
その言葉の重みに、場が凍りついた。
もし異端と認定されれば、医師免許の剥奪どころか、最悪の場合は処刑もあり得る。
火刑。
絞首刑。
斬首刑。
異端審問局の歴史は、血塗られている。
◇
「目に見えぬ魔物を使役し、人々の魂を惑わせた罪だ」
枢機卿が続けた。
「来週、中央大聖堂にて『審問会』を開く」
私の心臓が凍りついた。
「そこでそなたの医学が、神の御心に沿うものか、それとも悪魔の所業かを見極める」
枢機卿が私を睨みつけた。
「それまでは、一切の医療行為を禁ずる」
「なっ……!」
私は絶句した。
医療行為の禁止。
それは、今治療中の患者たちを見殺しにしろという意味だ。
◇
「待ってください!」
私は叫んだ。
「今、治療を必要としている患者がいるんです!」
中庭の外では、何十人もの患者が待っている。
咳き込む人々。
血を吐く人々。
高熱で苦しむ人々。
「薬を止めれば、彼らは死んでしまいます!」
「その死もまた、神の定めた運命だ」
枢機卿は冷酷に言い放った。
「魂が汚れたまま生き長らえるより、清らかに神の元へ召されるほうが幸せであろう」
その言葉に、私の中で何かが切れた。
◇
「それは違います!」
私は枢機卿を睨みつけた。
「命を救うことが、どうして魂を汚すことになるんですか!」
「リーゼ!」
ヴィルヘルム先生が私を止めようとしたが、私は構わず続けた。
「神は、本当にそんなことを望んでいるんですか?」
「苦しむ人を見捨てることが、神の教えなんですか?」
枢機卿の顔が、怒りで歪んだ。
「不敬である!」
枢機卿が杖を振り上げた。
「異端の徒め! 神を冒涜するか!」
◇
「私は神を冒涜していません」
私は一歩も引かなかった。
「ただ、神が創られた命を、神が与えた知恵で救おうとしているだけです」
枢機卿の目が、憎悪に燃えた。
「来週の審問会で、その傲慢な舌を引き抜いてやる」
枢機卿が踵を返した。
「覚悟するがいい」
そして、一行は去っていった。
白と金の法衣が、夕日に照らされて輝いていた。
◇
残されたのは、絶望的な静寂だった。
「なんてことだ……」
ルーカス先輩が拳を壁に叩きつけた。
「王家の承認を得た顕微鏡を、教会の権威で潰しに来るとは」
「どうすればいいの……」
エリーゼが青ざめている。
学生たちも、恐怖に怯えている。
異端審問局の恐ろしさを、誰もが知っている。
過去に何人もの学者が、「異端」のレッテルを貼られて処刑された。
その中には、何の罪もない人も多かった。
◇
私は震える手で白衣の裾を握りしめた。
悔しい。
怒りと、恐怖と、無力感が混ざり合っている。
目の前に助けられる命があるのに。
科学的な手段はあるのに。
「迷信」と「権力」がそれを阻む。
ゼンメルワイス先生も、この壁にぶつかったのだ。
「手を洗え」という単純な真理が、宗教的観念や伝統に押し潰されたように。
先生は、孤独の中で敗れた。
迫害され、追放され、失意のうちに死んだ。
◇
でも、私は違う。
私には仲間がいる。
私が救った患者たちがいる。
そして、科学という武器がある。
私は顔を上げた。
「……戦いましょう」
周囲が静まり返った。
「審問会に出て、証明してみせます」
私は拳を握りしめた。
「科学は信仰の敵ではなく、隣人であると」
「そして、命を救うことこそが、最大の祈りであると」
◇
「リーゼ……」
エリーゼが不安そうに言った。
「でも、相手は異端審問局よ」
「勝ち目なんて……」
「あります」
私は断言した。
「私には証拠があります」
「科学的な、誰にでも確認できる証拠が」
私は顕微鏡を指差した。
「顕微鏡で見せます」
「結核菌が本当に存在すること」
「そして、ストレプトマイシンがそれを殺すこと」
「でも、彼らは聞く耳を持たないわ」
「なら、聞かせます」
私は言った。
「魔法で証明してみせます」
◇
「魔法?」
ルーカス先輩が首を傾げた。
「ああ、そうだ」
私は閃いた。
「この世界には、魔法がある」
「『生命感知』という魔法があるはずです」
私は説明した。
「あれは、生命の気配を感知する魔法」
「もし細菌が本当に生き物なら、魔法に反応するはず」
「なるほど……」
ヴィルヘルム先生が頷いた。
「教会の魔法で、細菌の存在を証明するわけか」
「その通りです」
私は立ち上がった。
「彼らの武器で、彼らを説得するんです」
◇
「でも、誰が魔法を使うんだ?」
ルーカス先輩が尋ねた。
「エルヴィンさん」
私は答えた。
エルヴィン——宮廷魔法学会の治癒魔法部門に所属する、中堅の魔導師だ。
以前、医学院の講義に興味を持って参加していた。
「彼なら、協力してくれるかもしれません」
私は希望を感じ始めていた。
「すぐに連絡を取りましょう」
◇
その夜、私は一人、研究室に残っていた。
机の上には、ゼンメルワイス先生の古医学書が開かれていた。
最後のページ。
先生の遺言が記されたページ。
『もし、この本を読んでいる未来の医師がいるなら、伝えたい』
『諦めるな』
『たとえ世界中が敵に回っても、真実を信じろ』
『科学は、必ず勝つ』
私は涙が溢れてきた。
「先生……」
私は呟いた。
「あなたは孤独でした」
「でも、私は違います」
私は窓の外を見た。
満月が、静かに輝いている。
「私には仲間がいます」
「あなたの遺志を継ぐ者たちが」
◇
「そして、証明してみせます」
私は古医学書を胸に抱いた。
「科学と信仰は、共存できると」
「命を救うことが、最も神聖な行為だと」
来週の審問会。
そこで、私は運命と対峙する。
医学と宗教。
人類史上、何度も繰り返されてきた対立の歴史。
その最前線に、私は立たされた。
でも、恐れない。
なぜなら——
「真実は一つしかないから」
私は拳を握りしめた。
ゼンメルワイス先生の言葉を、胸に刻む。
『科学は、必ず勝つ』
◇
翌朝、私は行動を開始した。
まず、エルヴィンさんを訪ねた。
宮廷魔法学会の研究棟。
立派な石造りの建物だ。
受付で名前を告げると、すぐにエルヴィンさんが出てきてくれた。
「リーゼ先生!」
彼は驚いた顔をした。
「噂は聞きました。異端審問局が……」
「はい」
私は頷いた。
「お願いがあって、来ました」
◇
エルヴィンさんの研究室で、私は事情を説明した。
「『生命感知』の魔法で、細菌の存在を証明したいんです」
「なるほど……」
エルヴィンさんが考え込んだ。
「確かに、あの魔法は生命の気配を感知します」
「細菌が本当に生き物なら、反応するはずですが……」
彼が不安そうな顔をした。
「でも、異端審問局を相手にするのは、危険です」
「もし失敗したら、私も巻き添えになるかもしれない」
私は頭を下げた。
「分かっています」
「でも、お願いします」
「リーゼ先生……」
◇
エルヴィンさんは長い間、黙っていた。
窓の外を見つめ、何かを考えている。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……私には、疑問がありました」
「疑問?」
「はい」
エルヴィンさんが私を見た。
「私は三十年、治癒魔法を研究してきました」
彼の目に、真剣な光が宿った。
「でも、ずっと疑問がありました」
「なぜ治癒魔法は傷を塞ぐことはできても、疫病には効果が薄いのか」
彼が顕微鏡を見つめた。
「先生の講義を聞いて、その答えが分かりました」
「我々は敵の姿を見ていなかったのです」
◇
「だから」
エルヴィンさんが立ち上がった。
「協力させていただきます」
「本当ですか!」
「はい」
彼が微笑んだ。
「真実を知りたいんです」
「そして、もし先生が正しいなら、私は先生の味方です」
私は涙が溢れてきた。
「ありがとうございます……」
「礼を言うのは早いですよ」
エルヴィンさんが苦笑した。
「これから、命がけの戦いになりますから」
◇
審問会まで、あと五日。
私たちは準備を進めた。
顕微鏡のプレパラートを用意する。
結核菌の標本。
ストレプトマイシンで処理した標本。
対照実験用の標本。
エルヴィンさんは『生命感知』の魔法を練習した。
エリーゼとルーカス先輩は、光学式投影装置を改良してくれた。
審問会の大聖堂で、全員に細菌の姿を見せるために。
ヴィルヘルム先生は、国王陛下に直訴してくれた。
審問会に王族が出席できるように。
みんなが、私のために動いてくれた。
◇
審問会前日。
私は一人、大聖堂を下見に行った。
巨大な建物。
天井まで届くステンドグラス。
厳かな雰囲気。
ここで、明日、運命が決まる。
私は祭壇の前で、静かに祈った。
神様。
もしあなたが本当にいるなら。
どうか、真実が勝ちますように。
科学が、人々を救う力となりますように。
そして——
ゼンメルワイス先生の無念が、晴れますように。
◇
祈りを終えて顔を上げると、誰かが後ろに立っていた。
「……アレクサンダー王子」
私は驚いて振り返った。
第一王子が、優しく微笑んでいた。
「頑張ってください、リーゼ先生」
王子が私の肩に手を置いた。
「あなたは、間違っていません」
「命を救うことは、決して罪ではありません」
「王子……」
「明日、私も出席します」
王子が力強く言った。
「そして、証人として証言します」
「あなたの医学が、どれだけ多くの命を救ったかを」
私は涙をこらえた。
「ありがとうございます」
◇
その夜、私は眠れなかった。
ベッドの中で、何度も寝返りを打った。
明日。
すべてが決まる。
勝てば、医学は認められる。
科学と信仰の共存への道が開ける。
負ければ——
異端として処刑されるかもしれない。
医学の発展は、何十年も遅れるだろう。
でも、後悔はない。
私は正しいことをしている。
そう信じて、目を閉じた。
明日、真実が何であるか、世界に示してやる。




