第80話 白き悪魔との決戦
十五歳になった私は、ついにストレプトマイシンの精製に成功した。
その三日後、いつもと変わらない午後だった。
研究室で培養液の経過観察をしていると、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「リーゼ先生! リーゼ先生!」
若い看護師が、息を切らして駆け込んできた。
「外来に急患です!」
私は立ち上がった。
「どんな症状?」
「若い女性で、激しい咳と喀血があります!」
看護師の声が震えている。
「他の病院では『手遅れ』だと言われたそうで……」
「結核の末期患者だと思われます!」
その瞬間、私の心臓が跳ね上がった。
◇
私とヴィルヘルム先生、そしてエリーゼとルーカス先輩が駆けつけた外来診療室には、既に人だかりができていた。
学生たちが心配そうに見守っている。
担架の上には、骨と皮だけになった少女が横たわっていた。
「道を開けて!」
ヴィルヘルム先生の一声で、学生たちが左右に分かれた。
私は患者の元へ駆け寄る。
そして、その姿を見た瞬間、息を呑んだ。
◇
少女は、私と同じくらいの年齢に見えた。
十五歳、いや、もう少し若いかもしれない。
しかし、その体は見る影もなく痩せ細っていた。
頬はこけ、目は落ち窪んでいる。
鎖骨が皮膚の下で浮き出し、腕は枝のように細い。
呼吸をするたびに、胸がヒューヒュー、ゴロゴロと異常な音を立てていた。
まるで、肺の中で水が煮えたぎっているような音だ。
そして、少女の手に握られたハンカチには、鮮血がべっとりと付着している。
「先生……助けて……ください……」
付き添いの女性——おそらく母親——が、私の白衣の裾を掴んだ。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。
「三つの病院で診てもらったんです」
「でも、どこでも『もう手遅れだ』と言われて……」
「最後の希望だと思って、ここに……」
母親が泣き崩れる。
少女——後で名前を聞くと、アンナという——の目は虚ろだった。
高熱のために意識が朦朧としている。
焦点が合わず、ただ天井を見つめているだけだ。
「まず、診察室へ運びましょう」
私は看護師たちに指示を出した。
◇
診察室のベッドに、アンナを寝かせる。
私は聴診器を手に取った。
「失礼します」
やせ細った胸に聴診器を当てる。
聞こえてきたのは、正常な肺音ではなかった。
ゴロゴロ、ヒューヒュー、ザーザー。
湿性ラ音、喘鳴、そして——空洞音。
結核が進行し、肺に空洞ができている証拠だ。
「呼吸数は?」
「毎分三十二回です」
エリーゼが答えた。
正常な成人の呼吸数は毎分十二から二十回。
アンナは、酸素不足で必死に呼吸している。
「体温は?」
「四十度二分です」
ルーカス先輩が額に手を当てて眉をひそめた。
「これは……相当進行している」
「脈拍は?」
「毎分百二十。頻脈です」
ヴィルヘルム先生が腕時計を見ながら言った。
◇
私はアンナの手を取った。
細く、冷たく、そして震えている。
「アンナさん、聞こえますか?」
アンナの瞳がわずかに動いた。
「痰を……出していただけますか?」
アンナがかすかに頷く。
そして、苦しそうに咳き込んだ。
ゴホッ、ゴホッ、ゴボッ……!
口から出てきたのは、血の混じった黄色い痰だった。
私はそれを滅菌容器に採取した。
「顕微鏡で確認します」
◇
研究室に戻り、急いで標本を作る。
スライドガラスに痰を薄く塗り広げる。
乾燥させる。
固定する。
そして、私が開発した結核菌専用の染色液を垂らす。
結核菌の細胞壁には「ミコール酸」という特殊な脂質がある。
通常の染色では染まらないが、加熱しながら石炭酸フクシン液で染色すると——
酸で脱色しても、結核菌だけは赤く染まったまま残る。
赤い染色液が、スライドを覆う。
火であぶりながら、じっくりと染み込ませる。
一定時間待つ。
脱色液で洗う。
対比染色として青い液を加える。
そして、顕微鏡にセットする。
深呼吸。
レンズを覗き込む。
焦点を合わせる。
倍率を上げる。
そして——
「……いた」
私の声が震えた。
視野いっぱいに、赤く染色された細長い棒状の細菌が見えた。
結核菌。
マイコバクテリウム・ツベルクローシス。
それも、無数に。
視野を埋め尽くすほど大量に。
猛烈な勢いで増殖している証拠だ。
◇
「末期だ……」
私は呟いた。
これだけの菌量。
これだけの症状。
従来の医学では、もう手立てがない。
放っておけば、あと数日——いや、もしかしたら数時間の命かもしれない。
でも。
私の目は、机の上に置かれた小瓶へと向いた。
透明なガラスの中に入った、白い粉末。
ストレプトマイシン。
結核菌を殺す、人類初の武器。
動物実験では成功した。
ネズミたちは、この薬で結核から回復した。
でも、人間には——まだ使ったことがない。
副作用がある。
聴神経を傷つけ、難聴を引き起こす可能性がある。
腎臓にも負担をかける。
もし失敗したら?
もし副作用で患者を苦しめてしまったら?
もし、効果がなかったら?
不安が、暗闇のように心を覆う。
でも。
私は机を叩いた。
「やるしかない」
何もしなければ、アンナは確実に死ぬ。
ならば、わずかでも可能性があるなら、賭けるべきだ。
◇
診察室に戻ると、母親が不安そうに立ち上がった。
「先生、娘は……」
私は母親の手を握り、真剣な眼差しで告げた。
「お母さん、正直に申し上げます」
母親の顔が強張る。
「アンナさんは、重度の結核です」
私は顕微鏡のスケッチを見せた。
そこには、無数の赤い棒状の細菌が描かれている。
「これが、病気の原因です」
「結核菌という細菌が、肺の中で増殖しています」
母親が震える手で、スケッチを見つめる。
「従来の医学では、もう手立てがありません」
その言葉に、母親が絶望に顔を歪める。
「そんな……」
「ですが」
私は続けた。
「私には一つだけ、希望があります」
私は白衣のポケットから、小瓶を取り出した。
白い粉末が入った、小さなガラス瓶。
◇
「これは『ストレプトマイシン』」
私は瓶を光にかざした。
「私が開発した新しい薬です」
「薬……?」
母親が希望の光を宿した目で見つめる。
「はい。動物実験では、結核菌を殺す効果が確認されています」
私は実験ノートも見せた。
そこには、結核に感染したネズミの治療データが記されている。
「対照群は全滅しました。でも、この薬を投与したグループは全員生存しました」
「では……!」
母親が身を乗り出した。
「しかし」
私は真剣な表情で続けた。
「人間には、まだ使ったことがありません」
母親の表情が揺れる。
「アンナさんが、最初の患者になります」
◇
私は隠さずに、すべてのリスクを伝えた。
「強い薬です」
「副作用があります」
私は紙に図を描いて説明した。
「この薬は、細菌のタンパク質合成を阻害します」
「それによって細菌は死にますが、人間の細胞にも少し影響があります」
「特に、聴神経——耳の神経に負担をかけます」
「治療中に耳鳴りがしたり、めまいがしたりすることがあります」
「最悪の場合、難聴になる可能性もあります」
母親が息を呑む。
「また、腎臓にも負担をかけます」
「尿の量が減ったり、体がむくんだりすることがあります」
私は母親の目を真っ直ぐに見つめた。
「それでも、このまま何もしなければ彼女は助かりません」
沈黙が流れた。
重苦しい、長い沈黙。
◇
母親は小瓶を見つめ、そして娘の顔を見た。
苦しそうに息をする娘。
骨と皮だけになった、愛しい娘。
選択肢は、本当は一つしかなかった。
「……お願いします」
母親が深く頭を下げた。
「娘を……アンナを助けてください」
母親の声が震えている。
「どんな後遺症が残っても、生きていてほしいんです」
「耳が聞こえなくなっても」
「腎臓が悪くなっても」
「生きていてくれさえすれば……」
母親が泣き崩れた。
「分かりました」
私は母親の肩を抱いた。
「必ず、助けます」
◇
準備を始める。
「エリーゼ、ルーカス先輩、手伝ってください」
二人が頷く。
まず、生理食塩水を準備する。
私は蒸留水の入ったフラスコを手に取った。
正確に計量する——十ミリリットル。
そこに、精製した塩化ナトリウムを0.9パーセントの濃度で溶解する。
体内の浸透圧と同じ、安全な溶媒。
そこに、ストレプトマイシンの粉末を加える。
体重と症状から計算した、最適な投与量。
多すぎれば毒になる。
少なすぎれば菌に耐性ができてしまう。
微妙なバランス。
白い粉末が、生理食塩水に溶けていく。
透明な溶液になる。
「濃度、確認します」
私は一滴を取り、濃度計で測定する。
「問題なし」
◇
注射器を手に取る。
針を取り付ける。
空気を抜く。
そして、薬液を吸い上げる。
透明な液体が、注射器の中に入っていく。
この液体が、アンナの命を救う。
そう信じるしかない。
「先生」
ヴィルヘルム先生が私の肩に手を置いた。
「大丈夫だ。お前なら、できる」
「はい」
私は深呼吸をした。
覚悟を決める。
これが、人類初の結核治療だ。
歴史的な瞬間だ。
でも、そんなことはどうでもいい。
私はただ、目の前の少女を救いたい。
◇
「アンナさん」
私はベッドの脇に座った。
アンナの虚ろな目が、わずかに私を見た。
「少しチクッとしますが、我慢してくださいね」
アンナがかすかに頷く。
私は横向きに寝かせた。
痩せたお尻の筋肉を確認する。
注射する場所を決める。
アルコールで消毒する。
そして——
針を刺した。
チクリ。
アンナが小さく身じろぎした。
「大丈夫です。もうすぐ終わりますよ」
ゆっくりと、慎重に、薬液を注入していく。
透明な液体が、注射器から消えていく。
アンナの体内へ。
血管へ。
そして、全身へ。
結核菌との戦いが、今、始まった。
◇
注射器を抜く。
綿球で押さえる。
「終わりました」
私はアンナを仰向けに戻した。
「頼む、効いてくれ」
心の中で祈る。
ゼンメルワイス先生、力を貸してください。
あなたの娘、マリアさんを救えなかった無念を、今ここで晴らさせてください。
◇
その日から、私はアンナの病室に泊まり込んだ。
ベッドの脇に椅子を置き、一晩中見守る。
エリーゼとルーカス先輩が交代で看護に入ってくれた。
一時間ごとに、バイタルサインを確認する。
体温、脈拍、呼吸数、血圧。
すべてを記録していく。
一日目。
変化なし。
体温は四十度を超えたまま。
呼吸は荒く、苦しそう。
意識は朦朧としている。
私は額の汗を拭い、水で唇を湿らせた。
「頑張って、アンナさん」
でも、アンナは反応しない。
夜になっても、熱は下がらない。
不安が募る。
本当に効くのだろうか?
投与量は正しかったのだろうか?
もう手遅れだったのではないか?
私は実験ノートを何度も読み返した。
動物実験では、三日目から効果が現れ始めた。
人間も、同じはずだ。
そう信じるしかない。
◇
二日目。
まだ熱は下がらない。
体温計は、四十度一分を示している。
わずかに下がった?
いや、誤差の範囲かもしれない。
呼吸音を確認する。
相変わらず、ゴロゴロと異音がする。
喀痰を採取し、顕微鏡で確認する。
レンズを覗く。
結核菌——まだいる。
数は、減っていない気がする。
いや、少し減ったかもしれない。
でも、確信が持てない。
「リーゼ、少し休んだら?」
エリーゼが心配そうに言った。
「大丈夫」
私は首を振った。
「目を離せません」
「でも、あなたも倒れてしまうわ」
「大丈夫だから」
私は無理に笑顔を作った。
でも、心の中では焦っていた。
効いてくれ。
頼む、効いてくれ。
◇
三日目の朝。
窓から朝日が差し込んできた。
私は椅子で仮眠していたが、エリーゼの声で目が覚めた。
「先生、熱が……!」
「えっ?」
私は飛び起きた。
エリーゼが体温計を持っている。
その目が、輝いている。
「見てください!」
私は体温計を受け取った。
目盛りを確認する。
三十八度五分。
私の心臓が跳ね上がった。
「下がってる……!」
入院時は四十度を超えていた熱が、明らかに下がっている。
これは——
◇
「咳も減っています!」
ルーカス先輩が記録ノートを見せてくれた。
昨夜の咳の回数:一時間に十五回。
今朝の咳の回数:一時間に八回。
半分近くに減っている。
「聴診器!」
私はすぐに聴診器を手に取った。
アンナの胸に当てる。
耳を澄ます。
ゴロゴロという湿性ラ音——まだある。
でも、昨日よりクリアになっている気がする。
空気の通り道が、少し開けてきた。
「喀痰検査を」
私は新しいサンプルを採取した。
急いで標本を作る。
染色する。
顕微鏡にセットする。
レンズを覗く。
焦点を合わせる。
そして——
「……減ってる」
私の声が震えた。
視野を埋め尽くしていた赤い悪魔たちが、明らかに減少していた。
昨日の半分くらいになっている。
菌が死滅し始めているのだ。
◇
「効いてる……!」
私は顕微鏡から顔を上げた。
「効いてるわ!」
エリーゼが私の手を握った。
「本当に!?」
「ええ! 見て!」
私はエリーゼに顕微鏡を覗かせた。
「確かに……減ってる!」
エリーゼの目から涙が溢れた。
「やったわ、リーゼ! やったわ!」
私たちは抱き合った。
喜びと安堵で、涙が止まらない。
ストレプトマイシンは、本当に効く。
人間にも、効く。
結核は、もう不治の病ではない。
◇
四日目。
体温は三十七度八分まで下がった。
呼吸も楽になってきた。
呼吸数は毎分二十四回。
まだ正常値より多いが、確実に改善している。
そして、アンナの意識が戻り始めた。
「……ここは……?」
アンナが目を開けた。
「病院です」
私は優しく微笑んだ。
「気分はどうですか?」
「少し……楽に……なった……気がします」
アンナの声は弱々しいが、確かに意識がある。
「よかった」
私は涙をこらえた。
「もう大丈夫ですよ」
◇
しかし、試練は終わらなかった。
五日目の朝。
意識がはっきりしてきたアンナが、不安そうに訴えた。
「先生……」
「どうしました?」
「耳の中で……キーンって音がするんです」
私の表情が強張った。
来た。
副作用だ。
「それに、なんだか目が回るというか……」
アンナが額に手を当てた。
「立ち上がれそうにありません」
ストレプトマイシンの副作用。
聴神経への影響。
耳鳴り、めまい、そして——難聴。
◇
私は葛藤した。
このまま投与を続ければ、アンナの聴力は失われるかもしれない。
でも、今やめれば、生き残った結核菌が再び増殖する。
そして今度は、薬に耐性を持った菌が現れる。
もう二度と、この薬は効かなくなる。
そうなれば、アンナは確実に死ぬ。
究極の選択。
命か、聴力か。
私はアンナの手を握った。
「アンナさん、正直に言います」
アンナが私を見つめる。
「この薬は、あなたの命を救っています」
「でも、同時に耳に負担をかけています」
私は説明した。
「治療を続ければ、耳鳴りやめまいがひどくなるかもしれません」
「最悪の場合、耳が聞こえにくくなる可能性もあります」
アンナの顔が青ざめる。
「でも、やめれば……」
私は続けた。
「病気がぶり返します」
「そして今度は、薬が効かなくなってしまいます」
◇
十四歳の少女に、あまりにも重い決断を迫っている。
私は自分の非情さに、心が痛んだ。
でも、これは患者本人が決めるべきことだ。
アンナは長い間、黙っていた。
窓の外を見つめ、何かを考えている。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……先生」
「はい」
「私、生きたいです」
アンナの目に、強い光が宿っていた。
「もっと本を読みたい」
「お母さんと話したい」
「美味しいものを食べたい」
「友達と遊びたい」
アンナが私の手を握り返した。
「耳が少し悪くなってもいい」
「私、生きたいです」
◇
「……分かりました」
私は涙をこらえ、頷いた。
「私が調整します」
私は誓った。
「なるべく耳を守りながら、菌を根絶やしにします」
「私を信じて」
「信じます」
アンナが微笑んだ。
その笑顔を見て、私は決意を新たにした。
投与量を微調整する。
わずかに減らして、聴神経への負担を軽減する。
でも、菌を殺すには十分な量を保つ。
投与間隔も工夫する。
一日二回から、一日三回に分けて、一回あたりの量を減らす。
腎臓の数値を毎日チェックする。
水分補給を徹底する。
綱渡りのような治療が続いた。
◇
六日目、七日目、八日目。
アンナの体温は、徐々に平熱に近づいていった。
三十七度五分。
三十七度二分。
三十六度九分。
呼吸も楽になった。
咳の回数も減った。
顕微鏡で確認すると、結核菌の数は日に日に減少していた。
でも、耳鳴りとめまいは続いていた。
アンナは時折、苦しそうに顔をしかめる。
「大丈夫ですか?」
「はい……我慢できます」
アンナは強い子だった。
弱音を吐かず、ただ前を向いて戦っていた。
◇
十日目。
アンナがベッドの上で体を起こせるようになった。
「すごい……」
アンナが自分の手を見つめた。
「力が入る」
そして、深呼吸をした。
「呼吸が……楽」
目に涙が浮かんでいる。
「本当に……治ってきてるんですね」
「ええ」
私は微笑んだ。
「頑張りましたね、アンナさん」
◇
二週間後。
アンナはベッドの上に座って、リンゴを食べていた。
母親が剥いてくれたリンゴを、一口一口、大切そうに食べている。
「美味しい……」
アンナが涙を流していた。
「こんなに美味しいものだったんだ、リンゴって」
顔色には赤みが戻っていた。
頬もふっくらとし始めた。
目には生気が宿っている。
熱は完全に平熱になっていた。
三十六度五分。
耳鳴りは少し残ったものの、会話には支障がないレベルで留めることができた。
「アンナ、聞こえる?」
母親が小声で尋ねた。
「うん、聞こえるよお母さん」
アンナが微笑んだ。
母親が安堵の涙を流した。
◇
私は喀痰検査の結果を確認した。
顕微鏡を覗く。
視野内の結核菌——激減していた。
入院時の百分の一以下。
急性症状は抑え込めた。
「アンナさん」
私はベッドの脇に座った。
「良くなりましたね」
「はい!」
アンナが元気に頷いた。
「でも」
私は真剣な表情で続けた。
「完全に治すには、このまま治療を最低でも半年は続ける必要があります」
アンナの表情が少し曇った。
「まだ、体の中には少しだけ菌が残っています」
「ここでやめてしまうと、菌がぶり返して、今度は薬が効かなくなってしまいます」
「分かりました」
アンナが力強く頷いた。
「先生の言う通りにします」
「絶対に、完治させます」
◇
そして、退院の日。
三週間の入院生活を経て、アンナは自分の足で歩けるようになっていた。
まだ少し痩せているが、顔色は良い。
笑顔も戻った。
「先生、ありがとうございました」
母親が深々と頭を下げた。
「本当に、本当にありがとうございました」
母親の目から、感謝の涙が溢れている。
「娘が生きて、笑って、歩いている」
「奇跡です」
「先生は、神様です」
「いえ」
私は首を振った。
「神様ではありません」
「ただの医者です」
「でも——」
その時、アンナが私に駆け寄ろうとした。
「あ、待って」
私は手を上げて、優しく制した。
「アンナさん、まだ完全には治っていません」
私は説明した。
「体の中には、まだ少し菌が残っています」
「咳やくしゃみで、他の人にうつしてしまう可能性があるんです」
アンナが悲しそうな顔をした。
「ごめんなさい……」
「いえ、謝ることじゃありません」
私は一歩前に出て、アンナの両手を握った。
「これも治療の一部です」
「半年間、週に二回通院してください」
「注射を受けて、経過を確認します」
「そして、マスクをつけて、咳エチケットを守ってください」
「そうすれば、完全に治ります」
アンナが私の手を握り返した。
「先生、ありがとうございます」
アンナの声が震えている。
「私、先生がいなかったら死んでました」
「でも、先生が救ってくれました」
アンナが涙を流しながら、私の目を見つめた。
その目には、強い光が宿っていた。
「私、大人になったら先生みたいな医者になりたいです」
「そして、先生みたいに、たくさんの人を助けたいです」
その言葉を聞いた瞬間——
張り詰めていた糸が切れた。
私はその場に泣き崩れてしまった。
◇
嬉しくて。
安堵して。
誇らしくて。
涙が止まらなかった。
三週間の緊張。
不安。
葛藤。
責任。
すべてが、涙となって溢れ出た。
「リーゼ……」
エリーゼが私を抱きしめてくれた。
「よく頑張ったわ」
ルーカス先輩も、ヴィルヘルム先生も、優しく微笑んでいた。
◇
アンナと母親が去った後。
私は一人、空を見上げた。
青く澄んだ、美しい空。
白い雲が、ゆっくりと流れていく。
どこかで見ているだろうか。
ゼンメルワイス先生。
あなたの娘、マリアさん。
(先生)
私は心の中で語りかけた。
(勝ちましたよ)
涙が、再び溢れてきた。
(私たちはついに、あの白い悪魔に勝ちました)
風が、優しく髪を撫でた。
(もう、結核で子供が死ぬことはありません)
(あなたの無念は、今日、希望へと変わりました)
まるで、先生が「よくやった」と言ってくれているようだった。
◇
その日の夕方。
医学院の大講堂で、緊急の報告会が開かれた。
詰めかけた教授たち、学生たち。
そして、噂を聞きつけた貴族や市民たち。
講堂は人で溢れかえっていた。
私は教壇に立ち、報告した。
「本日、人類初の結核治療に成功しました」
会場がざわめく。
「患者は十四歳の少女」
「末期の結核で、従来の医学では手立てがありませんでした」
私はアンナの治療データを示した。
体温の変化のグラフ。
結核菌の数の推移。
症状の改善過程。
「ストレプトマイシンの投与により、結核菌は激減しました」
「患者は回復し、本日退院しました」
会場が静まり返った。
そして——
爆発的な拍手が起こった。
「すごい!」
「不治の病が治った!」
「リーゼ先生は天才だ!」
歓声と拍手が、講堂全体を包んだ。
◇
でも、私は知っていた。
これは、始まりに過ぎない。
アンナを救えたのは、早期に発見できたからだ。
そして、集中的な治療ができたからだ。
でも、世界中には何千万人もの結核患者がいる。
彼らすべてを救うには——
ストレプトマイシンを量産しなければならない。
安価に、大量に。
そして、正しい治療法を広めなければならない。
まだまだ、やることがある。
でも、今日は——
今日だけは、この勝利を喜ぼう。
◇
百六十年前、ゼンメルワイス先生は孤独の中で敗れた。
娘を救えず、自らも追放され、失意のうちに死んだ。
でも、先生が残した知識は、百六十年の時を超えて私に届いた。
そして今日、その知識が新しい命を救った。
先生の無念は、希望へと書き換えられた。
結核という白い悪魔は、もう無敵ではない。
人類は、新しい武器を手に入れた。
ストレプトマイシンの成功は、瞬く間に王国中、いや大陸中へと広がっていくことになる。
それは、「不治の病の時代の終わり」を告げる鐘の音だった。




