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転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~  作者: NN
転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~

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第80話 白き悪魔との決戦

 十五歳になった私は、ついにストレプトマイシンの精製に成功した。

 その三日後、いつもと変わらない午後だった。


 研究室で培養液の経過観察をしていると、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。


「リーゼ先生! リーゼ先生!」


 若い看護師が、息を切らして駆け込んできた。


「外来に急患です!」


 私は立ち上がった。


「どんな症状?」


「若い女性で、激しい咳と喀血があります!」


 看護師の声が震えている。


「他の病院では『手遅れ』だと言われたそうで……」

「結核の末期患者だと思われます!」


 その瞬間、私の心臓が跳ね上がった。



 私とヴィルヘルム先生、そしてエリーゼとルーカス先輩が駆けつけた外来診療室には、既に人だかりができていた。


 学生たちが心配そうに見守っている。


 担架の上には、骨と皮だけになった少女が横たわっていた。


「道を開けて!」


 ヴィルヘルム先生の一声で、学生たちが左右に分かれた。


 私は患者の元へ駆け寄る。


 そして、その姿を見た瞬間、息を呑んだ。



 少女は、私と同じくらいの年齢に見えた。

 十五歳、いや、もう少し若いかもしれない。


 しかし、その体は見る影もなく痩せ細っていた。

 頬はこけ、目は落ち窪んでいる。

 鎖骨が皮膚の下で浮き出し、腕は枝のように細い。


 呼吸をするたびに、胸がヒューヒュー、ゴロゴロと異常な音を立てていた。

 まるで、肺の中で水が煮えたぎっているような音だ。


 そして、少女の手に握られたハンカチには、鮮血がべっとりと付着している。


「先生……助けて……ください……」


 付き添いの女性——おそらく母親——が、私の白衣の裾を掴んだ。


 その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。


「三つの病院で診てもらったんです」

「でも、どこでも『もう手遅れだ』と言われて……」

「最後の希望だと思って、ここに……」


 母親が泣き崩れる。


 少女——後で名前を聞くと、アンナという——の目は虚ろだった。

 高熱のために意識が朦朧としている。

 焦点が合わず、ただ天井を見つめているだけだ。


「まず、診察室へ運びましょう」


 私は看護師たちに指示を出した。



 診察室のベッドに、アンナを寝かせる。


 私は聴診器を手に取った。


「失礼します」


 やせ細った胸に聴診器を当てる。


 聞こえてきたのは、正常な肺音ではなかった。


 ゴロゴロ、ヒューヒュー、ザーザー。

 湿性ラ音、喘鳴、そして——空洞音。


 結核が進行し、肺に空洞ができている証拠だ。


「呼吸数は?」


「毎分三十二回です」


 エリーゼが答えた。

 正常な成人の呼吸数は毎分十二から二十回。

 アンナは、酸素不足で必死に呼吸している。


「体温は?」


「四十度二分です」


 ルーカス先輩が額に手を当てて眉をひそめた。


「これは……相当進行している」


「脈拍は?」


「毎分百二十。頻脈です」


 ヴィルヘルム先生が腕時計を見ながら言った。



 私はアンナの手を取った。

 細く、冷たく、そして震えている。


「アンナさん、聞こえますか?」


 アンナの瞳がわずかに動いた。


「痰を……出していただけますか?」


 アンナがかすかに頷く。

 そして、苦しそうに咳き込んだ。


 ゴホッ、ゴホッ、ゴボッ……!


 口から出てきたのは、血の混じった黄色い痰だった。


 私はそれを滅菌容器に採取した。


「顕微鏡で確認します」



 研究室に戻り、急いで標本を作る。


 スライドガラスに痰を薄く塗り広げる。

 乾燥させる。

 固定する。

 そして、私が開発した結核菌専用の染色液を垂らす。


 結核菌の細胞壁には「ミコール酸」という特殊な脂質がある。

 通常の染色では染まらないが、加熱しながら石炭酸フクシン液で染色すると——

 酸で脱色しても、結核菌だけは赤く染まったまま残る。


 赤い染色液が、スライドを覆う。

 火であぶりながら、じっくりと染み込ませる。

 一定時間待つ。

 脱色液で洗う。

 対比染色として青い(メチレンブルー)を加える。


 そして、顕微鏡にセットする。


 深呼吸。

 レンズを覗き込む。


 焦点を合わせる。

 倍率を上げる。


 そして——


「……いた」


 私の声が震えた。


 視野いっぱいに、赤く染色された細長い棒状の細菌が見えた。


 結核菌。


 マイコバクテリウム・ツベルクローシス。


 それも、無数に。

 視野を埋め尽くすほど大量に。


 猛烈な勢いで増殖している証拠だ。



「末期だ……」


 私は呟いた。


 これだけの菌量。

 これだけの症状。


 従来の医学では、もう手立てがない。

 放っておけば、あと数日——いや、もしかしたら数時間の命かもしれない。


 でも。


 私の目は、机の上に置かれた小瓶へと向いた。


 透明なガラスの中に入った、白い粉末。


 ストレプトマイシン。


 結核菌を殺す、人類初の武器。


 動物実験では成功した。

 ネズミたちは、この薬で結核から回復した。


 でも、人間には——まだ使ったことがない。


 副作用がある。

 聴神経を傷つけ、難聴を引き起こす可能性がある。

 腎臓にも負担をかける。


 もし失敗したら?

 もし副作用で患者を苦しめてしまったら?

 もし、効果がなかったら?


 不安が、暗闇のように心を覆う。


 でも。


 私は机を叩いた。


「やるしかない」


 何もしなければ、アンナは確実に死ぬ。

 ならば、わずかでも可能性があるなら、賭けるべきだ。



 診察室に戻ると、母親が不安そうに立ち上がった。


「先生、娘は……」


 私は母親の手を握り、真剣な眼差しで告げた。


「お母さん、正直に申し上げます」


 母親の顔が強張る。


「アンナさんは、重度の結核です」


 私は顕微鏡のスケッチを見せた。

 そこには、無数の赤い棒状の細菌が描かれている。


「これが、病気の原因です」

「結核菌という細菌が、肺の中で増殖しています」


 母親が震える手で、スケッチを見つめる。


「従来の医学では、もう手立てがありません」


 その言葉に、母親が絶望に顔を歪める。


「そんな……」


「ですが」


 私は続けた。


「私には一つだけ、希望があります」


 私は白衣のポケットから、小瓶を取り出した。


 白い粉末が入った、小さなガラス瓶。



「これは『ストレプトマイシン』」


 私は瓶を光にかざした。


「私が開発した新しい薬です」


「薬……?」


 母親が希望の光を宿した目で見つめる。


「はい。動物実験では、結核菌を殺す効果が確認されています」


 私は実験ノートも見せた。

 そこには、結核に感染したネズミの治療データが記されている。


「対照群は全滅しました。でも、この薬を投与したグループは全員生存しました」


「では……!」


 母親が身を乗り出した。


「しかし」


 私は真剣な表情で続けた。


「人間には、まだ使ったことがありません」


 母親の表情が揺れる。


「アンナさんが、最初の患者になります」



 私は隠さずに、すべてのリスクを伝えた。


「強い薬です」

「副作用があります」


 私は紙に図を描いて説明した。


「この薬は、細菌のタンパク質合成を阻害します」

「それによって細菌は死にますが、人間の細胞にも少し影響があります」


「特に、聴神経——耳の神経に負担をかけます」

「治療中に耳鳴りがしたり、めまいがしたりすることがあります」

「最悪の場合、難聴になる可能性もあります」


 母親が息を呑む。


「また、腎臓にも負担をかけます」

「尿の量が減ったり、体がむくんだりすることがあります」


 私は母親の目を真っ直ぐに見つめた。


「それでも、このまま何もしなければ彼女は助かりません」


 沈黙が流れた。


 重苦しい、長い沈黙。



 母親は小瓶を見つめ、そして娘の顔を見た。


 苦しそうに息をする娘。

 骨と皮だけになった、愛しい娘。


 選択肢は、本当は一つしかなかった。


「……お願いします」


 母親が深く頭を下げた。


「娘を……アンナを助けてください」


 母親の声が震えている。


「どんな後遺症が残っても、生きていてほしいんです」

「耳が聞こえなくなっても」

「腎臓が悪くなっても」

「生きていてくれさえすれば……」


 母親が泣き崩れた。


「分かりました」


 私は母親の肩を抱いた。


「必ず、助けます」



 準備を始める。


「エリーゼ、ルーカス先輩、手伝ってください」


 二人が頷く。


 まず、生理食塩水を準備する。


 私は蒸留水の入ったフラスコを手に取った。

 正確に計量する——十ミリリットル。


 そこに、精製した塩化ナトリウムを0.9パーセントの濃度で溶解する。

 体内の浸透圧と同じ、安全な溶媒。


 そこに、ストレプトマイシンの粉末を加える。

 体重と症状から計算した、最適な投与量。


 多すぎれば毒になる。

 少なすぎれば菌に耐性ができてしまう。


 微妙なバランス。


 白い粉末が、生理食塩水に溶けていく。

 透明な溶液になる。


「濃度、確認します」


 私は一滴を取り、濃度計で測定する。


「問題なし」



 注射器を手に取る。


 針を取り付ける。

 空気を抜く。


 そして、薬液を吸い上げる。


 透明な液体が、注射器の中に入っていく。


 この液体が、アンナの命を救う。

 そう信じるしかない。


「先生」


 ヴィルヘルム先生が私の肩に手を置いた。


「大丈夫だ。お前なら、できる」


「はい」


 私は深呼吸をした。


 覚悟を決める。


 これが、人類初の結核治療だ。

 歴史的な瞬間だ。


 でも、そんなことはどうでもいい。


 私はただ、目の前の少女を救いたい。



「アンナさん」


 私はベッドの脇に座った。


 アンナの虚ろな目が、わずかに私を見た。


「少しチクッとしますが、我慢してくださいね」


 アンナがかすかに頷く。


 私は横向きに寝かせた。


 痩せたお尻の筋肉を確認する。

 注射する場所を決める。


 アルコールで消毒する。


 そして——


 針を刺した。


 チクリ。


 アンナが小さく身じろぎした。


「大丈夫です。もうすぐ終わりますよ」


 ゆっくりと、慎重に、薬液を注入していく。


 透明な液体が、注射器から消えていく。

 アンナの体内へ。

 血管へ。

 そして、全身へ。


 結核菌との戦いが、今、始まった。



 注射器を抜く。

 綿球で押さえる。


「終わりました」


 私はアンナを仰向けに戻した。


「頼む、効いてくれ」


 心の中で祈る。


 ゼンメルワイス先生、力を貸してください。

 あなたの娘、マリアさんを救えなかった無念を、今ここで晴らさせてください。



 その日から、私はアンナの病室に泊まり込んだ。


 ベッドの脇に椅子を置き、一晩中見守る。

 エリーゼとルーカス先輩が交代で看護に入ってくれた。


 一時間ごとに、バイタルサインを確認する。


 体温、脈拍、呼吸数、血圧。

 すべてを記録していく。


 一日目。


 変化なし。


 体温は四十度を超えたまま。

 呼吸は荒く、苦しそう。

 意識は朦朧としている。


 私は額の汗を拭い、水で唇を湿らせた。


「頑張って、アンナさん」


 でも、アンナは反応しない。


 夜になっても、熱は下がらない。


 不安が募る。


 本当に効くのだろうか?

 投与量は正しかったのだろうか?

 もう手遅れだったのではないか?


 私は実験ノートを何度も読み返した。


 動物実験では、三日目から効果が現れ始めた。

 人間も、同じはずだ。


 そう信じるしかない。



 二日目。


 まだ熱は下がらない。


 体温計は、四十度一分を示している。


 わずかに下がった?

 いや、誤差の範囲かもしれない。


 呼吸音を確認する。


 相変わらず、ゴロゴロと異音がする。


 喀痰を採取し、顕微鏡で確認する。


 レンズを覗く。


 結核菌——まだいる。

 数は、減っていない気がする。


 いや、少し減ったかもしれない。

 でも、確信が持てない。


「リーゼ、少し休んだら?」


 エリーゼが心配そうに言った。


「大丈夫」


 私は首を振った。


「目を離せません」


「でも、あなたも倒れてしまうわ」


「大丈夫だから」


 私は無理に笑顔を作った。


 でも、心の中では焦っていた。


 効いてくれ。

 頼む、効いてくれ。



 三日目の朝。


 窓から朝日が差し込んできた。


 私は椅子で仮眠していたが、エリーゼの声で目が覚めた。


「先生、熱が……!」


「えっ?」


 私は飛び起きた。


 エリーゼが体温計を持っている。

 その目が、輝いている。


「見てください!」


 私は体温計を受け取った。


 目盛りを確認する。


 三十八度五分。


 私の心臓が跳ね上がった。


「下がってる……!」


 入院時は四十度を超えていた熱が、明らかに下がっている。


 これは——



「咳も減っています!」


 ルーカス先輩が記録ノートを見せてくれた。


 昨夜の咳の回数:一時間に十五回。

 今朝の咳の回数:一時間に八回。


 半分近くに減っている。


「聴診器!」


 私はすぐに聴診器を手に取った。


 アンナの胸に当てる。


 耳を澄ます。


 ゴロゴロという湿性ラ音——まだある。

 でも、昨日よりクリアになっている気がする。


 空気の通り道が、少し開けてきた。


「喀痰検査を」


 私は新しいサンプルを採取した。


 急いで標本を作る。

 染色する。

 顕微鏡にセットする。


 レンズを覗く。


 焦点を合わせる。


 そして——


「……減ってる」


 私の声が震えた。


 視野を埋め尽くしていた赤い悪魔たちが、明らかに減少していた。


 昨日の半分くらいになっている。


 菌が死滅し始めているのだ。



「効いてる……!」


 私は顕微鏡から顔を上げた。


「効いてるわ!」


 エリーゼが私の手を握った。


「本当に!?」


「ええ! 見て!」


 私はエリーゼに顕微鏡を覗かせた。


「確かに……減ってる!」


 エリーゼの目から涙が溢れた。


「やったわ、リーゼ! やったわ!」


 私たちは抱き合った。


 喜びと安堵で、涙が止まらない。


 ストレプトマイシンは、本当に効く。

 人間にも、効く。


 結核は、もう不治の病ではない。



 四日目。


 体温は三十七度八分まで下がった。


 呼吸も楽になってきた。

 呼吸数は毎分二十四回。

 まだ正常値より多いが、確実に改善している。


 そして、アンナの意識が戻り始めた。


「……ここは……?」


 アンナが目を開けた。


「病院です」


 私は優しく微笑んだ。


「気分はどうですか?」


「少し……楽に……なった……気がします」


 アンナの声は弱々しいが、確かに意識がある。


「よかった」


 私は涙をこらえた。


「もう大丈夫ですよ」



 しかし、試練は終わらなかった。


 五日目の朝。


 意識がはっきりしてきたアンナが、不安そうに訴えた。


「先生……」


「どうしました?」


「耳の中で……キーンって音がするんです」


 私の表情が強張った。


 来た。


 副作用だ。


「それに、なんだか目が回るというか……」


 アンナが額に手を当てた。


「立ち上がれそうにありません」


 ストレプトマイシンの副作用。

 聴神経への影響。


 耳鳴り、めまい、そして——難聴。



 私は葛藤した。


 このまま投与を続ければ、アンナの聴力は失われるかもしれない。


 でも、今やめれば、生き残った結核菌が再び増殖する。

 そして今度は、薬に耐性を持った菌が現れる。

 もう二度と、この薬は効かなくなる。


 そうなれば、アンナは確実に死ぬ。


 究極の選択。


 命か、聴力か。


 私はアンナの手を握った。


「アンナさん、正直に言います」


 アンナが私を見つめる。


「この薬は、あなたの命を救っています」

「でも、同時に耳に負担をかけています」


 私は説明した。


「治療を続ければ、耳鳴りやめまいがひどくなるかもしれません」

「最悪の場合、耳が聞こえにくくなる可能性もあります」


 アンナの顔が青ざめる。


「でも、やめれば……」


 私は続けた。


「病気がぶり返します」

「そして今度は、薬が効かなくなってしまいます」



 十四歳の少女に、あまりにも重い決断を迫っている。


 私は自分の非情さに、心が痛んだ。


 でも、これは患者本人が決めるべきことだ。


 アンナは長い間、黙っていた。


 窓の外を見つめ、何かを考えている。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「……先生」


「はい」


「私、生きたいです」


 アンナの目に、強い光が宿っていた。


「もっと本を読みたい」

「お母さんと話したい」

「美味しいものを食べたい」

「友達と遊びたい」


 アンナが私の手を握り返した。


「耳が少し悪くなってもいい」

「私、生きたいです」



「……分かりました」


 私は涙をこらえ、頷いた。


「私が調整します」


 私は誓った。


「なるべく耳を守りながら、菌を根絶やしにします」

「私を信じて」


「信じます」


 アンナが微笑んだ。


 その笑顔を見て、私は決意を新たにした。


 投与量を微調整する。

 わずかに減らして、聴神経への負担を軽減する。


 でも、菌を殺すには十分な量を保つ。


 投与間隔も工夫する。

 一日二回から、一日三回に分けて、一回あたりの量を減らす。


 腎臓の数値を毎日チェックする。

 水分補給を徹底する。


 綱渡りのような治療が続いた。



 六日目、七日目、八日目。


 アンナの体温は、徐々に平熱に近づいていった。


 三十七度五分。

 三十七度二分。

 三十六度九分。


 呼吸も楽になった。

 咳の回数も減った。


 顕微鏡で確認すると、結核菌の数は日に日に減少していた。


 でも、耳鳴りとめまいは続いていた。


 アンナは時折、苦しそうに顔をしかめる。


「大丈夫ですか?」


「はい……我慢できます」


 アンナは強い子だった。


 弱音を吐かず、ただ前を向いて戦っていた。



 十日目。


 アンナがベッドの上で体を起こせるようになった。


「すごい……」


 アンナが自分の手を見つめた。


「力が入る」


 そして、深呼吸をした。


「呼吸が……楽」


 目に涙が浮かんでいる。


「本当に……治ってきてるんですね」


「ええ」


 私は微笑んだ。


「頑張りましたね、アンナさん」



 二週間後。


 アンナはベッドの上に座って、リンゴを食べていた。


 母親が剥いてくれたリンゴを、一口一口、大切そうに食べている。


「美味しい……」


 アンナが涙を流していた。


「こんなに美味しいものだったんだ、リンゴって」


 顔色には赤みが戻っていた。

 頬もふっくらとし始めた。

 目には生気が宿っている。


 熱は完全に平熱になっていた。

 三十六度五分。


 耳鳴りは少し残ったものの、会話には支障がないレベルで留めることができた。


「アンナ、聞こえる?」


 母親が小声で尋ねた。


「うん、聞こえるよお母さん」


 アンナが微笑んだ。


 母親が安堵の涙を流した。



 私は喀痰検査の結果を確認した。


 顕微鏡を覗く。


 視野内の結核菌——激減していた。


 入院時の百分の一以下。


 急性症状は抑え込めた。


「アンナさん」


 私はベッドの脇に座った。


「良くなりましたね」


「はい!」


 アンナが元気に頷いた。


「でも」


 私は真剣な表情で続けた。


「完全に治すには、このまま治療を最低でも半年は続ける必要があります」


 アンナの表情が少し曇った。


「まだ、体の中には少しだけ菌が残っています」

「ここでやめてしまうと、菌がぶり返して、今度は薬が効かなくなってしまいます」


「分かりました」


 アンナが力強く頷いた。


「先生の言う通りにします」

「絶対に、完治させます」



 そして、退院の日。


 三週間の入院生活を経て、アンナは自分の足で歩けるようになっていた。


 まだ少し痩せているが、顔色は良い。

 笑顔も戻った。


「先生、ありがとうございました」


 母親が深々と頭を下げた。


「本当に、本当にありがとうございました」


 母親の目から、感謝の涙が溢れている。


「娘が生きて、笑って、歩いている」

「奇跡です」

「先生は、神様です」


「いえ」


 私は首を振った。


「神様ではありません」

「ただの医者です」


「でも——」


 その時、アンナが私に駆け寄ろうとした。


「あ、待って」


 私は手を上げて、優しく制した。


「アンナさん、まだ完全には治っていません」


 私は説明した。


「体の中には、まだ少し菌が残っています」

「咳やくしゃみで、他の人にうつしてしまう可能性があるんです」


 アンナが悲しそうな顔をした。


「ごめんなさい……」


「いえ、謝ることじゃありません」


 私は一歩前に出て、アンナの両手を握った。


「これも治療の一部です」

「半年間、週に二回通院してください」

「注射を受けて、経過を確認します」

「そして、マスクをつけて、咳エチケットを守ってください」

「そうすれば、完全に治ります」


 アンナが私の手を握り返した。


「先生、ありがとうございます」


 アンナの声が震えている。


「私、先生がいなかったら死んでました」

「でも、先生が救ってくれました」


 アンナが涙を流しながら、私の目を見つめた。


 その目には、強い光が宿っていた。


「私、大人になったら先生みたいな医者になりたいです」

「そして、先生みたいに、たくさんの人を助けたいです」


 その言葉を聞いた瞬間——


 張り詰めていた糸が切れた。


 私はその場に泣き崩れてしまった。



 嬉しくて。

 安堵して。

 誇らしくて。


 涙が止まらなかった。


 三週間の緊張。

 不安。

 葛藤。

 責任。


 すべてが、涙となって溢れ出た。


「リーゼ……」


 エリーゼが私を抱きしめてくれた。


「よく頑張ったわ」


 ルーカス先輩も、ヴィルヘルム先生も、優しく微笑んでいた。



 アンナと母親が去った後。


 私は一人、空を見上げた。


 青く澄んだ、美しい空。


 白い雲が、ゆっくりと流れていく。


 どこかで見ているだろうか。


 ゼンメルワイス先生。


 あなたの娘、マリアさん。


(先生)


 私は心の中で語りかけた。


(勝ちましたよ)


 涙が、再び溢れてきた。


(私たちはついに、あの白い悪魔に勝ちました)


 風が、優しく髪を撫でた。


(もう、結核で子供が死ぬことはありません)

(あなたの無念は、今日、希望へと変わりました)


 まるで、先生が「よくやった」と言ってくれているようだった。



 その日の夕方。


 医学院の大講堂で、緊急の報告会が開かれた。


 詰めかけた教授たち、学生たち。


 そして、噂を聞きつけた貴族や市民たち。


 講堂は人で溢れかえっていた。


 私は教壇に立ち、報告した。


「本日、人類初の結核治療に成功しました」


 会場がざわめく。


「患者は十四歳の少女」

「末期の結核で、従来の医学では手立てがありませんでした」


 私はアンナの治療データを示した。


 体温の変化のグラフ。

 結核菌の数の推移。

 症状の改善過程。


「ストレプトマイシンの投与により、結核菌は激減しました」

「患者は回復し、本日退院しました」


 会場が静まり返った。


 そして——


 爆発的な拍手が起こった。


「すごい!」

「不治の病が治った!」

「リーゼ先生は天才だ!」


 歓声と拍手が、講堂全体を包んだ。



 でも、私は知っていた。


 これは、始まりに過ぎない。


 アンナを救えたのは、早期に発見できたからだ。

 そして、集中的な治療ができたからだ。


 でも、世界中には何千万人もの結核患者がいる。


 彼らすべてを救うには——


 ストレプトマイシンを量産しなければならない。

 安価に、大量に。


 そして、正しい治療法を広めなければならない。


 まだまだ、やることがある。


 でも、今日は——


 今日だけは、この勝利を喜ぼう。



 百六十年前、ゼンメルワイス先生は孤独の中で敗れた。

 娘を救えず、自らも追放され、失意のうちに死んだ。


 でも、先生が残した知識は、百六十年の時を超えて私に届いた。


 そして今日、その知識が新しい命を救った。


 先生の無念は、希望へと書き換えられた。


 結核という白い悪魔は、もう無敵ではない。


 人類は、新しい武器を手に入れた。


 ストレプトマイシンの成功は、瞬く間に王国中、いや大陸中へと広がっていくことになる。


 それは、「不治の病の時代の終わり」を告げる鐘の音だった。

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― 新着の感想 ―
抗生剤を、蒸留水で溶かして注射するのは、危険だと思います。ちょっと調べましたが、生理食塩水か5%ぶどう糖液で希釈するのが一般のようです。注射液の量が少なければ患者への影響も少ないとは思いますが、ただで…
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