第79話 小さな命の重み
灰色の放線菌から有効成分を取り出す作業は、繊細さを極めた。
巨大なタンクで菌を培養する。
培養液が淡い灰色に濁ったら、それをろ過する。
活性炭で不純物を吸着させ、有機溶媒で抽出する。
pH調整、濃縮、再結晶。
ペニシリンよりも化学的な工程が多い。
一つでも手順を間違えれば、毒性が強すぎて薬にならない。
逆に精製しすぎると、有効成分まで失われてしまう。
微妙なバランス。
それを見極めるのに、私たちは二週間を費やした。
「リーゼ、これで何回目の精製?」
エリーゼが、疲れた顔で尋ねた。
「十二回目です」
私は答えた。
「でも、ようやく理想的な純度に近づいてきました」
フリーデリケ教授が、精製した粉末を顕微鏡で観察する。
結晶は均一で美しい針状を呈しており、不純物の混濁はほとんど見られない。
「純度、九十五パーセント」
教授が満足そうに頷いた。
「これなら、医薬品として使えるわ」
◇
そして、ついに——
「完成しました」
私は小さなガラス瓶を手に取った。
その中には、白い粉末が入っている。
精製された結晶。
ストレプトマイシン。
「これが……」
ルーカス先輩が、瓶を覗き込んだ。
「五週間かけて土の中から見つけた、結核を倒す武器」
「ええ」
私は瓶を光にかざした。
白い粉末が、柔らかく輝いている。
この白い粉が、あの頑強な結核菌の鎧を貫く槍となるはずだ。
だが、これをいきなり人間に使うわけにはいかない。
特にこの薬は、腎臓や聴覚への副作用があることを私は知っている。
安全な量と、確実な効果。
それを証明するためには、どうしても通らなければならない道があった。
◇
その夜、私たちは研究室で会議を開いた。
「動物実験が必要です」
私は、三人を見渡して言った。
ヴィルヘルム先生、エリーゼ、ルーカス先輩。
みんな、複雑な表情をしている。
「分かっている」
ヴィルヘルム先生が重々しく頷いた。
「しかし、動物に結核を感染させるというのは……」
「心が痛みます」
私は正直に答えた。
「でも、人間で試す前に、効果と安全性を確認しなければなりません」
エリーゼが小さく声を上げた。
「でも、リーゼ……」
「動物を病気にして、観察するなんて」
「残酷ですよね」
私は頷いた。
「私も、そう思います」
ルーカス先輩が腕組みをした。
「しかし、これをしなければ、人間に投与できない」
「もし効果がなかったり、毒性が強すぎたりしたら、患者の命が危険にさらされる」
「その通りです」
私は言った。
「だからこそ、動物実験は必要なんです」
「彼らの犠牲の上に、未来の数百万人の命が救われる」
室内が静まり返った。
しばらくして、ヴィルヘルム先生が口を開いた。
「リーゼ君、一つ約束してくれ」
「何でしょうか」
「実験動物たちを、決して粗末に扱わないこと」
「彼らの犠牲を、無駄にしないこと」
「そして、彼らへの感謝を忘れないこと」
「約束します」
私は深く頭を下げた。
◇
翌日、医学院の地下飼育室へ向かった。
そこには、実験用に調達した二十匹の白いネズミがいた。
小さなケージの中で、彼らは無邪気に餌を食べ、毛繕いをしている。
「……ごめんね」
私はケージの前で、小さく呟いた。
エリーゼが痛ましそうな顔をしている。
ルーカス先輩も、いつもより口数が少ない。
「この子たち、何も知らないのにね……」
エリーゼが、ケージに手を伸ばした。
一匹のネズミが、彼女の指に鼻を寄せる。
「ごめんね、本当にごめんね」
エリーゼの目に、涙が浮かんでいた。
「やるしかないんだな?」
先輩が静かに聞いた。
「はい」
私は答えた。
「彼らの命を貰って、私たちは薬の力を証明します」
「この犠牲の上に、未来の数百万人の命が救われるんです」
私は自分に言い聞かせるように言った。
医学の歴史は、多くの実験動物たちの犠牲の上に成り立っている。
ワクチン、抗生物質、手術技術。
すべて、動物実験を経て確立された。
その罪悪感から目を背けてはいけない。
背負って、進むのだ。
◇
実験計画を立てた。
「まず、すべてのネズミに結核菌を投与します」
私は黒板に図を描いた。
「培養した結核菌を、注射で肺に投与する」
「感染から三日後、二つのグループに分けます」
Aグループ十匹:治療を行わない(対照群)。
Bグループ十匹:毎日ストレプトマイシンを投与する(治療群)。
「対照群は……」
エリーゼが言葉を濁した。
「死にますよね」
「はい」
私は正直に答えた。
「対照群がいなければ、薬の効果を証明できません」
「彼らの死は、薬が本当に効いているという証拠になります」
それは、科学として必要なことだ。
でも、心は痛む。
「分かりました」
エリーゼが深呼吸をした。
「私も、手伝います」
「ありがとう」
◇
実験は始まった。
まず、二十匹すべてのネズミに、培養した結核菌を投与する。
ネズミを固定する。
小さな注射器に、結核菌の培養液を吸い上げる。
針を刺す。
チュッ、と小さな鳴き声。
「ごめんね……」
私は呟きながら、一匹ずつ処置していく。
残酷なことだが、彼らを結核に感染させるのだ。
この瞬間、彼らの肺に、無数の結核菌が侵入していく。
エリーゼは、ネズミたちを優しく撫でている。
「せめて、怖くないように……」
彼女の声が震えていた。
二十匹、すべての投与が終わった。
ネズミたちは、まだ元気だ。
何も知らずに、ケージの中を走り回っている。
でも、三日後には、症状が出始めるだろう。
咳、呼吸困難、体重減少。
「記録を開始します」
私は実験ノートを開いた。
『実験開始日:×月×日』
『被験体:白色ネズミ、生後3ヶ月、体重150-180g、計20匹』
『投与菌株:結核菌、培養7日目』
◇
三日後。
予想通り、ネズミたちに症状が現れ始めた。
咳のような仕草。
呼吸が速くなる。
動きが鈍くなる。
「症状が出てきました」
私は記録を取りながら言った。
「では、グループ分けを」
ルーカス先輩が、ケージを二つ準備した。
無作為に、十匹ずつに分ける。
Aグループ、Bグループ。
Aグループのケージには、赤いラベル。
Bグループのケージには、青いラベル。
「Bグループには、今日からストレプトマイシンを投与します」
私は白い粉末を生理食塩水に溶かした。
透明な溶液。
その中に、結核を倒す力が秘められている。
注射器で、一匹ずつ投与していく。
「頑張ってね」
エリーゼが、Bグループのネズミに声をかけた。
「この薬が、あなたたちを救ってくれるから」
一方、Aグループには、何も投与しない。
ただ、観察するだけ。
彼らは、病気と戦わなければならない。
薬の助けなしで。
そして、おそらく——負ける。
◇
一週間が経過した。
変化は顕著に現れ始めた。
Aグループのネズミたちは、明らかに衰弱していた。
毛並みが悪くなり、目に力がない。
餌もあまり食べない。
ケージの隅で、じっとしている時間が増えた。
「呼吸が荒いです」
ルーカス先輩が観察記録を取っている。
「結核菌が肺を蝕んでいる証拠だ」
私は聴診器で、一匹のネズミの胸を聞いた。
小さな心臓が、速く打っている。
呼吸音は、ゼーゼーと異常だ。
「ごめんね……」
私はそのネズミを、そっとケージに戻した。
対して、Bグループのネズミたちは——
「元気だ……」
エリーゼが、驚いた声を上げた。
彼らは餌をよく食べ、活発に動き回っている。
毛並みも艶々としている。
体重も、ほとんど減っていない。
「ストレプトマイシンが効いている」
私は記録ノートに書き込んだ。
『7日目:Aグループ、全個体で衰弱の兆候。Bグループ、症状の改善傾向』
◇
二週間が経過した。
AグループとBグループの差は、さらに広がっていた。
Aグループのネズミたちは、ほとんど動かなくなっていた。
呼吸は浅く、速い。
目を閉じて、横たわっている。
「もう、長くない……」
ルーカス先輩が呟いた。
その日の夜、最初の一匹が死んだ。
Aグループの、ケージ番号3番。
朝は、まだかすかに呼吸していた。
でも、夕方にはもう、冷たくなっていた。
「……」
私は、その小さな体を手に取った。
まだ温かさが残っている。
でも、もう動かない。
「ごめんなさい」
私は、そのネズミに頭を下げた。
「あなたの死を、無駄にはしません」
エリーゼが、涙を拭いた。
「科学のため、って分かってるけど……」
「やっぱり、辛い」
「ええ」
私も、涙を堪えた。
「でも、前に進まなきゃ」
◇
三週間が経過した。
Aグループは、さらに五匹が死亡した。
残りの四匹も、瀕死の状態だ。
一方、Bグループは——
「信じられない……」
ヴィルヘルム先生が、ケージを覗き込んだ。
Bグループのネズミたちは、完全に回復していた。
元気に走り回り、餌を食べ、毛繕いをしている。
「まるで、病気だったことなんて嘘みたいだ」
「はい」
私は誇らしげに言った。
「ストレプトマイシンは、結核菌の増殖を完全に止めました」
「彼らの肺は、回復しています」
先生が私の肩に手を置いた。
「素晴らしい、リーゼ君」
「これは、歴史的な成果だ」
◇
そして一ヶ月後。
悲しい結果と、喜ばしい結果が同時に確定した。
Aグループのネズミは、全滅した。
十匹すべてが、結核による全身衰弱で死亡した。
私は静かに黙祷を捧げた。
「ありがとう」
小さな声で呟いた。
「あなたたちの犠牲を、忘れません」
そして、解剖を行った。
メスを入れる手は震えなかった。
彼らの死を無駄にしないために、しっかりと記録しなければならない。
一匹目のネズミを、解剖台に置く。
小さなメスで、胸を開く。
肺を取り出す。
「……これは」
ルーカス先輩が、息を呑んだ。
肺は、ボロボロだった。
無数の白い結節(結核結節)ができており、組織が破壊されている。
正常なピンク色の部分は、ほとんど残っていない。
「結核菌が、肺全体を蝕んでいます」
私は顕微鏡用のスライドを作成した。
肺組織を薄く切り、染色して、顕微鏡で観察する。
「見てください」
私は顕微鏡を覗きながら言った。
「結核菌が、びっしりと増殖しています」
レンズの向こうには、赤く染色された無数の棒状の細菌が見えた。
結核菌だ。
「これでは、呼吸できない……」
エリーゼが悲しそうに呟いた。
「ええ」
私は記録を取った。
『Aグループ、解剖所見:両側肺に多発性結核結節。組織の広範な壊死。菌の大量増殖を確認』
残りの九匹も、同じように解剖した。
すべて、同じ結果だった。
結核菌に侵され、肺が破壊され、死亡した。
◇
次に、Bグループの——生き残った元気なネズミを一匹、安楽死させて解剖した。
これが、最も辛い作業だった。
元気なネズミを、殺さなければならない。
でも、確認しなければならない。
本当に、肺が治癒しているのかを。
「ごめんなさい」
私は、ケージから一匹を取り出した。
青いラベルのケージ、番号7番。
この子は、一ヶ月間、毎日ストレプトマイシンを投与されてきた。
そして今、とても元気だ。
私の手の中で、鼻をヒクヒクさせている。
「あなたの犠牲が、未来の患者を救います」
私は安楽死の薬を注射した。
ネズミは、すぐに眠るように動かなくなった。
エリーゼが、涙を流していた。
「……これでいいの?」
「せっかく治ったのに……」
「これでいいんです」
私は言った。
「彼の死が、薬の効果を証明します」
解剖台に置く。
深呼吸。
メスを取る。
胸を開く。
肺を取り出す。
そして——
「きれい……」
エリーゼが息を呑んだ。
そこには、健康なピンク色の肺があった。
結節は一つもない。
表面は滑らかで、弾力がある。
「正常です」
私の声が震えた。
「完全に、治癒しています」
顕微鏡で組織を観察する。
染色して、結核菌を探す。
でも、見つからない。
ほとんど、見つからない。
わずかに、死んだ菌の残骸が見えるだけ。
生きた菌は、一匹もいない。
「ストレプトマイシンが、すべての菌を殺したんです」
私は顕微鏡から顔を上げた。
「そして、肺組織は再生しました」
◇
記録を完成させた。
『Bグループ、解剖所見:肺組織は正常。結核結節なし。生菌はほぼ検出されず』
『結論:ストレプトマイシンは、生体内で結核菌の増殖を完全に抑制し、感染組織の治癒を促進する』
「成功だ」
私は顔を上げ、宣言した。
「ストレプトマイシンは、結核に対して明確な治療効果を持ちます」
「副作用も、この投与量なら軽微です」
「腎臓のダメージも、許容範囲内でした」
「この薬は、使えます」
その瞬間、研究室の空気が緩んだ。
エリーゼが涙を拭い、ルーカス先輩が深く息を吐いた。
「やったな、リーゼ」
先輩が私の肩を叩いた。
「ああ、長かった……」
私は白い粉の入った小瓶を握りしめた。
この中には、死んでいったネズミたちの命が詰まっている。
土を探し回った私たちの汗が詰まっている。
そして、ゼンメルワイス先生の願いが詰まっている。
「ありがとう」
私は動かなくなったAグループのネズミたちに、もう一度頭を下げた。
「あなたたちのおかげで、人間は『不治の病』を克服できる」
「この功績は、決して忘れません」
エリーゼも、ルーカス先輩も、深く頭を下げた。
二十匹のネズミたち。
十匹は、病気で死んだ。
十匹は、薬で救われた。
そして一匹は、証明のために犠牲になった。
彼らすべてが、英雄だ。
◇
翌日、私はヴィルヘルム先生に実験結果を正式に報告した。
院長室には、エバーハルト院長も同席していた。
「これが、実験の全記録です」
私は分厚いファイルを机に置いた。
解剖スケッチ、顕微鏡観察図、体重変化のグラフ、投薬記録。
一ヶ月間の、すべてのデータ。
ヴィルヘルム先生が、ページをめくる。
院長も、真剣な表情で資料を見ている。
しばしの沈黙の後——
「歴史的瞬間だ」
ヴィルヘルム先生が、震える声で言った。
「これで、我々は結核という死神の鎌を折ることができる」
院長も頷いた。
「素晴らしい成果だ、リーゼ君」
「王立医学院の誇りだよ」
先生が私を真っ直ぐに見た。
「リーゼ、許可する」
「臨床試験へ進もう」
「人間の患者に投与し、その命を救うんだ」
「はい」
私は力強く頷いた。
◇
その報告を聞きつけて、フリーデリケ教授やシュトラウス教授も集まってきた。
「本当に成功したの?」
フリーデリケ教授が、興奮した様子で尋ねた。
「はい」
私は実験データを見せた。
「対照群は全滅、治療群は全生存」
「これ以上明確な結果はありません」
「副作用は?」
シュトラウス教授が尋ねた。
「軽微です」
私は答えた。
「投与量を適切に管理すれば、腎臓への負担も最小限に抑えられます」
「ただし、長期投与では聴覚への影響に注意が必要です」
「つまり、使える、と」
教授が確認した。
「はい」
私は断言した。
「人間の結核患者に、投与できます」
◇
準備は整った。
理論は確立し、薬は完成し、動物実験で安全性と有効性も確認された。
あとは、それを必要とする人に届けるだけだ。
私は精製したストレプトマイシンの瓶を手に取った。
透明な液体。
生理食塩水に溶かした白い粉末。
この中に、数え切れない命の希望が詰まっている。
「この薬が、本当に人間を救えるのか……」
エリーゼが不安そうに呟いた。
「救えます」
私は断言した。
「必ず」
私はストレプトマイシンの瓶を見つめた。
動物実験では成功した。
だが、人間は動物ではない。
不安はある。
恐怖もある。
でも——
私には、使命がある。




