第8話 体の鍛錬 ①
朝日が窓から差し込み、埃が光の筋の中で踊っている。
私は目を覚まし、自分の手を見つめた。
小さい。本当に小さい。
手を開く。閉じる。指を一本ずつ動かしてみる。
十歳の子供の手。
かつて私が使っていた、大人の女性の手とは全く違う。
前世の記憶が蘇る。
救急救命医として手術をしていた時の手。
二十八年間、数千時間の訓練で培われた、繊細な動きができる手。
0.1mm単位で針を操れた手。
十時間以上の手術でも、震えることのなかった手。
それが今は——こんなに小さく、非力で、不安定だ。
「これで……手術ができるのか…」
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
"医師としての自分"が、遠ざかっていく。
声が震える。
不安が胸を締め付ける。
メスを握れるのだろうか。
針を持てるのだろうか。
人の命を、この手で救えるのだろうか。
医学知識はある。技術も分かっている。
でも、この体では実行できない。
まるで、精巧な設計図を持っていても、道具がなければ何も作れないようなものだ。
ベッドから起き上がり、手を開いたり閉じたりする。
指の関節がきしむ。筋力がない。持久力もない。
東京の救命センターでは、十時間を超える手術も平気でこなせた。
でも今は、恐らく一時間も集中できないだろう。
……体を鍛えなければ。
その決意が、胸の奥で固まった。
医学知識だけでは不十分だ。医師には体力が必要だ。特に外科医には。
朝食の席で、兄エーリヒに相談した。
「お兄ちゃん、私、体を鍛えたいの」
エーリヒは驚いた顔でフォークを止めた。
「体を鍛える? リーゼが?」
「うん。医師になるには、体力が必要だと思うから」
父ヨハンが興味深そうに言った。
「リーゼ、確かにそうだな。医師は長時間働くこともあるだろう」
「でも、どうやって鍛えるんだ?」エーリヒが尋ねた。
私は少し考えてから答えた。
「剣術を習いたい」
一瞬、食卓が静まり返った。
母アンネが心配そうに言う。
「剣術? リーゼ、危なくない?」
「大丈夫。基本的な動作だけでいいの。体の使い方を学びたいんだ」
エーリヒは少し考えてから、笑顔を浮かべた。
「分かった。僕が教えてあげる」
こうして、私の肉体改造計画が始まった。
訓練場は、屋敷の裏庭。
朝露が草を濡らし、ひんやりとした空気が肌を刺す。
エーリヒが木剣を二本持ってきた。
「はい、リーゼ。まずは素振りから」
木剣を受け取る。ずっしりとした重みが手に伝わる。
……重い。
前世の医学知識が警告を発する。
この重さを繰り返し振るのは、十歳の体には負担が大きすぎる。
成長期の骨や関節に過度な負荷をかけると、成長障害のリスクがある。
「お兄ちゃん、もう少し軽い木剣はある?」
エーリヒは少し驚いた顔をした。
「軽い? これでも子供用なんだけど…」
「私の体力だと、まだ少し重いと思う。もっと軽いものから始めたい」
エーリヒは少し考えてから、頷いた。
「なるほど。確かに、リーゼには少し大きいかもね」
彼は倉庫に行き、より小さく、軽い木剣を持ってきた。
「これなら大丈夫?」
手に取ると、先ほどよりずっと扱いやすい。
「うん、これなら」
メスを持っていた手が、今は軽い木剣を握っている。
「まず、構え方から。足を肩幅に開いて、重心を落として」
エーリヒの指示に従って体を動かす。
筋肉が悲鳴を上げる。この体は、こんな動きに慣れていない。
「そう。じゃあ、振ってみて」
木剣を振り下ろす。
木剣が風を裂く音とともに、腕の中に鈍い痛みが走る。
握った掌が、じんわりと熱を持った。
しかし、軌道が安定しない。バランスが取れず、よろめく。
「ふふっ、大丈夫?」エーリヒが笑いながら支えてくれた。
「うん…大丈夫」
顔が熱い。悔しさと、体の不甲斐なさに。
あの頃なら、精密な手術をこなせた。
でも今は、木剣を振ることさえ満足にできない。
……この体に、慣れなければ。
歯を食いしばり、もう一度振る。
汗が額を伝う。朝の冷たい空気の中で、体だけが熱を帯びていく。
一振り、二振り、三振り。
数えながら、繰り返す。
十回。腕が少し疲れてくる。
二十回。息が上がり始める。
三十回。汗が額を伝う。
五十回目——
「リーゼ、そこまで」
エーリヒが止めてくれた。
「はぁ…はぁ…まだ、できる」
「無理しないで。まだ十歳なんだから」
私は一度息を整えてから、頷いた。
「……そうだね。お兄ちゃんの言う通りだ」
成長期の骨や関節に過度な負荷をかけると、成長障害や怪我のリスクがある。
医学的にも、段階的なトレーニングが正しい。
前世の知識が、私の焦りを諫める。
「焦っても仕方ない。少しずつ、確実に体を作っていこう」
エーリヒは安堵したような、でも少し感心したような顔をした。
「リーゼ、賢いね。自分の体のことを、ちゃんと分かってる」
「医師になるには、まず自分の体を理解しないと」
「その通りだ。じゃあ、毎日少しずつ。今日は五十回できたから、明日は六十回。そうやって、少しずつ増やしていこう」
「うん」
木剣を握り直す。
医師の手には、まだ遠い。
でも、今日から少しずつ——
この手を、人を救う手に育てていこう。




