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転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~  作者: NN
転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~

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第78話 泥の中の宝石

 ペニシリンの発見により、私の名は医学院で不動のものとなった。

 「青カビの魔術師」「感染症の克復者」。

 大講堂での講義には、学生だけでなく、他の教授たちも押し寄せる。

 王宮からも、視察の依頼が来た。


 そんな華々しい評判とは裏腹に、当の本人は——


「……腰が痛い」


 泥だらけになって、医学院の裏庭にしゃがみ込んでいた。


「おいリーゼ、ここも掘り終わったぞ」


 同じく泥まみれのルーカス先輩が、スコップを片手に汗を拭う。

 美しいドレスを作業着に着替えたエリーゼも、土の入った袋を並べている。


「これで五十カ所目ね……」


 エリーゼがため息をついた。


 私たちは今、ひたすら「土」を集めていた。

 王都中の庭、公園、森、川岸、さらには牧場の堆肥置き場まで。

 ありとあらゆる場所の土を採取し、研究室に持ち帰る。



 通りがかる学生たちが、奇妙なものを見る目で私たちを見ていく。


「なあ、リーゼさん、何してるんだ?」

「土掘りだろ? 見れば分かる」

「でも、なんで特別研究員が土なんか……」


 ひそひそと囁く声が聞こえる。


「天才もついに狂ったか?」

「ペニシリンの成功で調子に乗りすぎたんじゃないか」

「可哀想に……プレッシャーで頭がおかしくなったのかも」


 私はそれらの声を聞き流す。

 説明しても、理解してもらえないだろう。

 結核を倒す薬は土の中にある、と言っても、誰が信じるだろうか。


「気にするな、リーゼ」


 ルーカス先輩が励ましてくれた。


「ペニシリンのときも、みんな『腐ったパンで薬を作る』なんて馬鹿にしてただろ」

「でも、結果が証明した」

「今回も同じだ」


「ありがとうございます、先輩」


 私は微笑んだ。


「でも、本当に見つかるのかな……」


 エリーゼが不安そうに呟いた。


「大丈夫」


 私は言った。


「必ず見つかる。歴史が証明しているんだから」


 とは言ったものの、私自身も不安だった。

 前世の知識では、ストレプトマイシンは土壌の放線菌から発見された。

 でも、この世界の土壌環境が、地球と同じという保証はない。


 それでも、やるしかない。



 土壌採取は、想像以上に過酷だった。


 ある日は、王都の外れにある古い森へ。

 湿った落ち葉の下、朽ちた木の根元、苔むした石の裏。

 あらゆる場所から土を掘った。


「ここ、すごく臭いわね……」


 エリーゼが鼻をつまんだ。

 腐葉土の独特の匂いが、森全体に漂っている。


「でも、微生物は豊富そうです」


 私は土を瓶に詰めながら言った。


「有機物が多い場所ほど、様々な菌が住んでいます」


 別の日は、川辺の泥地へ。

 長靴を履いて、膝まで泥に浸かりながら採取した。


「うわっ、滑った!」


 ルーカス先輩が転びそうになる。

 私が手を伸ばして支えた。


「大丈夫ですか?」


「ああ……しかし、まさか特別研究員になって、泥まみれになるとは思わなかったぜ」


 先輩が苦笑した。


 また別の日は、農家の堆肥置き場へ。

 発酵した植物と動物の糞が混ざった、強烈な臭いの中での作業だった。


「これは……きつい」


 エリーゼが顔を顰めた。


「でも、ここは微生物の宝庫です」


 私は採取を続けた。


「発酵が進んでいる場所には、特殊な菌が住んでいることがあります」



 こうして、私たちは王都中を駆け回った。


 医学院の庭園。

 王宮の森。

 市場の裏路地。

 墓地(少し気が引けたが、土壌の多様性のために)。

 古い井戸の周り。

 家畜小屋。

 公園の池の周辺。


 記録ノートには、採取場所の詳細な情報が記されていく。


『検体番号:101、医学院中庭、桜の木の根元、深さ15cm』

『検体番号:102、王宮の森、北側の斜面、湿った場所』

『検体番号:103、市場裏、野菜くずの堆積場所』


 そして、週末になると、さらに遠出した。


 エリーゼの提案で、郊外の農村へも足を延ばした。

 都会とは異なる環境の土壌を求めて。


「私の実家の方にも、色々な土地があるわ」


 エリーゼが言った。


「牧草地、麦畑、果樹園……」


「ぜひ、お願いします」


 私は頷いた。


 土壌の多様性が高いほど、見つかる確率も上がる。

 それが、この途方もない作業の唯一の希望だった。



 研究室に戻ると、さらに地味な作業が待っている。


 採取した土を水に溶き、希釈する。

 ピペットで少量を取り、寒天培地に塗る。

 培養器に入れて、三日間待つ。


 数日後、シャーレを取り出す。

 生えてきた菌のコロニー(集落)を観察する。


 色も形も様々だ。

 白いふわふわしたカビ。

 黄色い粘液質のバクテリア。

 緑色の斑点状のコロニー。

 赤茶色の広がるもの。


 それぞれを、別のシャーレに移植する。

 純粋培養して、一種類の菌だけを育てる。


 そして、ここからが本番だ。


 その菌が、結核菌の増殖を止められるかどうかをテストする。

 実際の結核菌は危険なので、代わりに「抗酸菌」という、構造が似ているが無害な菌を使う。


 新しいシャーレに、抗酸菌を塗る。

 その中心に、土壌から採取した菌を置く。

 再び培養器へ。


 そして、三日後に確認する。


 もし、土壌菌の周りに「阻止円」——細菌が育たない透明な円——ができていれば、それは抗菌作用がある証拠だ。


 ペニシリンのときと同じように。


 でも、現実は——



「……だめ。効かない」


 私はシャーレを廃棄用のバケツに放り込んだ。


 抗酸菌は、土壌菌のすぐ隣まで元気に増殖している。

 阻止円など、欠片もない。


「こっちもだめだ」


 ルーカス先輩が別のシャーレを廃棄する。


「これで二百個目だ……」


「こっちも全滅」


 エリーゼが肩を落とした。


 机の上には、記録ノートが積み重なっている。

 すべて、失敗の記録だ。


『検体101:効果なし』

『検体102:効果なし』

『検体103:効果なし』


 延々と続く「効果なし」の文字。


「ペニシリンと同じで、表面のバリアを突破できない」


 ルーカス先輩が顕微鏡を覗きながら言った。


 結核菌は、細胞壁が分厚いろうのような脂質——ミコール酸——で覆われている。

 ペニシリンのような「細胞壁合成を阻害する」タイプの薬は、この鎧に弾かれてしまう。


 必要なのは、その鎧を貫通し、内部のタンパク質合成を阻害する、全く新しいタイプの抗生物質だ。


 しかし、それがどこにあるのか。

 本当に存在するのか。


 不安が、じわじわと心を蝕んでいく。



 一週間が過ぎた。

 廃棄したシャーレの山は、バケツから溢れ出している。


 二週間が過ぎた。

 記録ノートは三冊目に突入した。


 検体番号は五百を超えた。


 研究室の空気は、日に日に重苦しくなっていった。


「リーゼ、少し休んだ方がいいんじゃないか」


 ヴィルヘルム先生が心配そうに言った。


「あなたは最近、ずっと研究室にいる」

「食事も睡眠も、ちゃんと取っているのか?」


「大丈夫です、先生」


 私は答えた。


 でも、実際には大丈夫ではなかった。

 夜は研究室で仮眠を取り、朝は早起きして培養を確認する。

 食事は、エリーゼが持ってきてくれるパンと水だけ。


 目の下には、くっきりとクマができていた。



 三週間目。

 変化が訪れた。


 研究室に、見慣れない顔があった。


「あの……リーゼさん」


 若い男子学生が、おずおずと声をかけてきた。


「僕たちも、手伝ってもいいですか?」


 彼の後ろには、さらに三人の学生が立っていた。


「手伝う?」


 私は驚いた。


「はい。リーゼさんが結核の薬を探しているって聞いて」


 別の学生が言った。


「僕の妹が、結核で亡くなったんです」

「だから……少しでも力になりたくて」


 私は胸が熱くなった。


「ありがとうございます」


 私は深く頭を下げた。


「ぜひ、お願いします」


 こうして、チームは三人から七人に増えた。



 一ヶ月が過ぎた。


 七人体制になったことで、作業効率は格段に上がった。

 土壌採取も、培養作業も、以前の倍以上のスピードで進む。


 検体番号は、千五百を超えた。


 しかし——


「全部、だめです」


 新しく加わった学生が、落胆した声で報告する。


「今日のサンプルも、全て効果なしでした」


 廃棄用のバケツが、またひとつ満杯になる。


「くそっ……」


 ルーカス先輩が壁を叩いた。


「本当に存在するのか? その魔法の菌が」


「います」


 私は言い切った。


「必ず、どこかに」


 でも、その声には、以前ほどの確信がなかった。



 六週間目。


 ヴィルヘルム先生が、私を呼び出した。


「リーゼ、ちょっと話がある」


 先生の執務室に入ると、そこには学部長のシュヴァルツ教授もいた。


「リーゼ君」


 教授が重々しく口を開いた。


「君の研究について、学院で議論があった」


 私は緊張した。


「この土壌菌探索プロジェクト、正式に医学院の研究プロジェクトとして認可することになった」


「本当ですか!」


 私は思わず声を上げた。


「ああ」


 ヴィルヘルム先生が微笑んだ。


「君の情熱と、ペニシリンでの実績が認められたんだ」

「予算も人員も、正式に配分される」


 シュヴァルツ教授が続けた。


「学生と助手、合わせて十五名を配属する」

「研究設備も増強する」

「これで、もっと大規模な探索ができるはずだ」


 私は涙が出そうになった。


「ありがとうございます」


 深く頭を下げた。



 二ヶ月目。


 研究室は一変していた。


 十五人のチームが、組織的に動いている。


 採取班は、王都周辺だけでなく、遠方の森や山にまで足を延ばす。

 培養班は、三交代制で二十四時間体制で作業を続ける。

 検査班は、育った菌のスクリーニングを休みなく行う。


 記録係が、すべてのデータを整理し、管理する。


 検体番号は、四千を超えた。


 でも——


「全て、陰性です」


 検査班のリーダーが報告する。


「今週も、効果のある菌は見つかりませんでした」


 会議室に、重い空気が流れる。


「もう二ヶ月だぞ」


 ある学生が呟いた。


「四千個も調べて、何も見つからない」

「本当に存在するのか?」


「存在します」


 私は強く言った。


「絶対に、どこかに」


 でも、私の心も揺らぎ始めていた。



 三ヶ月目。


 プロジェクトの噂は、医学院全体に広がっていた。


「リーゼ研究員が、結核の薬を探してるって」

「土の中の菌から、新しい抗生物質を見つけるらしい」


 興味を持った他の研究室からも、協力の申し出があった。


「私たちの研究室でも、土壌サンプルを集めます」


 薬理学教室のフリーデリケ教授が言った。


「微生物学教室も協力します」


 別の教授が続いた。


 こうして、プロジェクトはさらに拡大した。


 参加者は三十人を超えた。

 採取地域は、王都から半径百キロ圏内にまで広がった。


 森、湿地、草原、農地、牧場。

 あらゆる環境の土壌が、次々と研究室に運び込まれる。


 検体番号は、八千を超えた。



 でも、結果は変わらなかった。


「今月も、すべて陰性でした」


 月次報告会で、データが発表される。


 検体数:八千三百四十二個

 陽性反応:ゼロ


 沈黙が会議室を支配する。


「リーゼ研究員」


 シュヴァルツ教授が重々しく口を開いた。


「そろそろ、方針を見直す時期ではないか」


「教授……」


「三ヶ月、八千個以上のサンプルを調べて、何も見つからない」


 教授は資料を見つめた。


「これは、そもそも存在しない可能性を考えるべきでは」


「いいえ」


 私は首を振った。


「必ず存在します」

「もっと探せば——」


「しかし、いつまで続けるつもりだ?」


 教授が問いかける。


「一年か? 二年か?」

「それとも、一生か?」


 私は言葉に詰まった。



 その夜、私は一人、研究室に残っていた。


 机の上には、八千枚を超える記録カード。

 すべて、失敗の記録だ。


「本当に……存在するのか?」


 私は初めて、弱気になった。


 もしかして、この世界には、ストレプトマイシンを作る菌が存在しないのでは。

 もしかして、私の前世の記憶は、この世界では役に立たないのでは。


 不安が、暗闇のように広がる。


 ふと、机の上の古医学書が目に入った。

 ゼンメルワイス先生の手記。


 私はページを開いた。

 娘マリアさんの肖像画が描かれたページ。


 優しい笑顔の少女。

 結核で亡くなった、ゼンメルワイス先生の愛娘。


『未来の友よ。どうか、私の仇を討ってくれ』


 先生の言葉が、心に響く。


「……まだだ」


 私は呟いた。


「まだ諦められない」


 マリアさんのような少女を救うために。

 ゼンメルワイス先生の無念を晴らすために。


 そして、この世界のすべての結核患者を救うために。


「もう少し、頑張ります」


 私は再び、立ち上がった。



 四ヶ月目。


 プロジェクトは続いていた。


 シュヴァルツ教授の懸念はあったものの、他の教授たちの支持により、継続が決まった。


「あと三ヶ月だけ、続けよう」


 ヴィルヘルム先生が言った。


「半年間、全力で探す」

「それでも見つからなければ、その時は方針を変えよう」


 私は頷いた。


「はい。必ず、見つけます」


 検体番号は、一万を超えた。


 サンプルの採取範囲は、さらに広がった。

 他の地方の医学校にも協力を依頼し、遠方の土壌も送ってもらうようになった。


 北の高地の土。

 南の海岸近くの砂。

 東の火山灰土。

 西の古い森の腐葉土。


 多様性は、かつてないほど高まった。



 五ヶ月目。


 疲労が、チーム全体に蔓延していた。


「もう……限界かもしれない」


 ある学生が呟いた。


「一万二千個も調べて、何も見つからない」

「これは、無理なんじゃないか」


「弱音を吐くな」


 ルーカス先輩が叱咤する。


「ここで諦めたら、今までの苦労が無駄になる」


「でも……」


 空気が重い。


 希望が、どんどん薄れていく。



 そんな中、エリーゼが久しぶりに実家から戻ってきた。


「リーゼ、これ」


 彼女は、いくつかの袋を抱えていた。


「実家の農園で、新しい堆肥場を作ったの」

「そこの土を持ってきたわ」


 袋の中には、小分けにされた土のサンプルが入っていた。

 それぞれに、ラベルが貼られている。


『新設堆肥場、東側』

『鶏小屋の横、古い堆肥場』

『牛舎の裏、発酵中の堆肥』


「ありがとう、エリーゼ」


 私は心から感謝した。


「これが最後かもしれないわ」


 エリーゼが小さく笑った。


「来月で期限だもの」


「ええ」


 私も笑った。


「でも、最後まで諦めない」



 エリーゼが持ってきた土を、慎重に培養していく。


 新設堆肥場の土。

 牛舎の裏の土。


 そして、最後に手に取ったのが——


『鶏小屋の横、古い堆肥場』


 有機物が豊富で、微生物が活発に活動している土だ。

 動物の糞、植物の残渣、長年発酵し続けた堆肥。

 様々な栄養源が混ざり合っている。


「これは……期待できるかもしれない」


 私は慎重に土を培地に塗った。


 検体番号、一万二千三百四十七番。


 ラベルを貼り、培養器に入れる。


「さあ、三日後に会いましょう」


 私はシャーレに向かって呟いた。



 三日間は、長かった。


 その間も、他の検体の確認は続く。

 でも、相変わらず、すべて失敗だった。


 一万二千番台前半、全滅。


 希望は、どんどん薄れていく。


 そして、運命の日。

 検体番号一万二千三百四十七番を確認する日が来た。


 朝、早起きして研究室へ。

 培養器を開ける。


 シャーレを取り出す。

 光にかざす。


 そして——


「……あれ?」


 私の手が止まった。


 他のカビや細菌とは違う、奇妙なコロニーがあった。


 色は地味な灰色。

 いや、灰色というよりも、白に近い灰色。

 表面は粉を吹いたように乾いている。

 まるで、乾いた泥のような、目立たない菌だ。


 大きさも小さい。

 他の派手なカビたちに囲まれて、隅の方でひっそりと育っている。


 普通なら、見過ごしてしまうような、地味な存在。


 しかし——


「阻止円が……できてる?」


 私は目を疑った。


 その灰色の菌の周囲にだけ、透明な円ができていたのだ。

 テスト用の抗酸菌が、完全に死滅している。


 しかも、円の大きさが、ペニシリンのときよりも大きい。

 強力な抗菌作用があることを示している。


「これは……」


 私の心臓が、激しく鳴り始めた。



「先輩! エリーゼ! みんな!」


 私は研究室中に響き渡る声で叫んだ。


 仮眠室で寝ていた人たちが、慌てて飛び出してきた。

 夜勤の学生たちも、驚いて駆け寄る。


「どうしたリーゼ!」


 ルーカス先輩が駆け寄る。


「火事か!?」


「違います!」


 私はシャーレを掲げた。


「見つけたかもしれない!」


 全員が、シャーレを覗き込む。


「これ……阻止円?」


 エリーゼが目を見開いた。


「でも、すごく大きい」


「そうなんです!」


 私は興奮を抑えきれなかった。


「ペニシリンでは効かなかった抗酸菌に、これは効いています」


「本当か……」


 ルーカス先輩が、信じられないという表情で言った。


「五ヶ月……一万二千個以上調べて、ようやく……」


 ある学生が呟いた。


「確認しましょう」


 私は震える手で、顕微鏡にプレパラートをセットした。


 倍率を上げる。

 焦点を合わせる。


 レンズの向こうに見えたのは——



 細長い糸のような構造。

 それが放射状に伸びている。


 カビのように見えるが、細菌の特徴も持っている。

 まるで、カビと細菌の中間のような存在。


「これは……」


 私は前世の記憶を辿った。


 放線菌。

 英語で Actinomycetes。

 糸状の菌糸を形成する、特殊な細菌の一群。


 そして、その中でも、土壌に住む種類——


 ストレプトマイセス・グリセウス。


 結核菌を殺す力を持つ、伝説のハンター。


「放線菌だ……!」


 私の声が震えた。


「間違いない。これが、私たちが探していたものです」


「やった……」


 エリーゼが呟いた。


「やったわ!」


 そして、私に抱きついた。

 彼女の目には、涙が浮かんでいた。


「本当に、見つけたのね」


「ええ」


 私も涙が溢れてきた。


「五ヶ月、一万二千個以上調べて、ようやく」


 研究室中が、歓声に包まれた。


 学生たちが抱き合い、泣き笑いしている。

 ルーカス先輩も、シャーレを覗き込んでガッツポーズをした。


「へえ、こんな地味な灰色野郎が、救世主なのか」


「そうです」


 私は笑った。


「泥の中に隠れていた、最高の宝石です」



 興奮が少し収まった後、私たちは冷静になった。


「でも、これからが大変だ」


 ルーカス先輩が言った。


「菌は見つかった。でも、ここから薬を作らないといけない」


「その通りです」


 私は頷いた。


「この菌から、有効成分だけを抽出しなければなりません」

「そして、精製して、安全性を確認して」


「ペニシリンのときと同じプロセスね」


 エリーゼが言った。


「でも、今回はもっと慎重にならないと」


「なぜですか?」


 ある学生が尋ねた。


「ストレプトマイシンは、ペニシリンよりも副作用が出やすいんです」


 私は説明した。


「特に、聴覚への影響があります」

「投与量を間違えると、耳が聞こえなくなる可能性がある」


「それは……深刻だな」


 先輩が顔を曇らせた。


「だから、慎重な精製と、毒性試験が必要なんです」


 私はシャーレを見つめた。


「この灰色の菌を、大量に培養します」

「そして、培養液から有効成分を抽出します」

「不純物を徹底的に取り除いて、純度を上げる」


「動物実験も必要ね」


 エリーゼが言った。


「まず、ネズミやウサギで安全性を確認する」

「それから、実際に結核に感染させた動物で、効果を試験する」


「倫理的には……」


 ルーカス先輩が言葉を濁した。


「動物に結核を感染させるのは、気が引けるが」


「私もです」


 私は正直に答えた。


「でも、人間で試験する前に、動物での確認は必須です」

「もし効果がなかったり、毒性が強すぎたりしたら、人の命が危険にさらされる」


 先輩が深くうなずいた。


「分かった。科学のため、そして将来救われる命のためだ」



「ここからが正念場です」


 私は灰色のコロニーを見つめて言った。


「まず、この菌を純粋培養します」

「他の菌が混ざらないように、慎重に」


「それから?」


「液体培養に移行します」


 私は計画を説明した。


「大きなフラスコで、この菌を大量に育てる」

「培養液の中で、菌が抗生物質を分泌します」

「それを回収して、精製するんです」


「どれくらい時間がかかりますか?」


 エリーゼが尋ねた。


「培養に一週間」


 私は計算した。


「抽出と精製に、さらに二週間」

「毒性試験に一週間」

「そして、効果の確認に……」


「つまり、最低でも一ヶ月はかかる」


 ルーカス先輩がまとめた。


「そうです」


 私は頷いた。


「でも、急ぎます」

「一日でも早く、この薬を完成させたい」


 なぜなら——


 この世界では、今この瞬間にも、結核で苦しんでいる人がいる。

 咳をして、血を吐いて、衰弱していく人たちが。


 その人たちを救うために。

 ゼンメルワイス先生の娘、マリアさんのような悲劇を繰り返さないために。


 私たちは、一刻も早く、この薬を完成させなければならない。



 その日から、研究室は再び活気を取り戻した。


 灰色の放線菌——私たちは愛情を込めて「灰色の騎士」と名付けた——を、丁寧に純粋培養していく。


 一つのコロニーから、少量を採取する。

 新しい培地に植え付ける。

 他の菌が混入しないよう、無菌操作を徹底する。


「よし、これで純粋培養は完了だ」


 ルーカス先輩が、満足そうに言った。


 次は、液体培養だ。


 大きなフラスコに、栄養液を入れる。

 糖分、ミネラル、窒素源。

 放線菌が育つのに最適な配合だ。


 そこに、純粋培養した菌を植え付ける。


「さあ、頑張って育ってね」


 エリーゼがフラスコに向かって呟いた。


 フラスコを培養器に入れる。

 温度は摂氏二十八度。

 放線菌の成長に最適な温度だ。


「一週間後に確認します」


 私は記録ノートに日付を書き込んだ。



 待つ間も、私たちは準備を進めた。


 フリーデリケ教授の協力を得て、精製設備を整える。

 ペニシリンのときよりも、さらに高度な精製が必要だ。


「教授、ストレプトマイシンの化学構造についてですが」


 私は紙に構造式のスケッチを描いた。

 前世の記憶を頼りに、複雑な分子構造を再現していく。


「これがストレプトマイシンの構造です」

「アミノ糖が複数結合した、かなり複雑な形をしています」


 教授が身を乗り出して、私の描いた図を覗き込んだ。


「まあ……これは確かに複雑ね」


 教授が感嘆の声を上げた。


「ペニシリンよりもずっと精製が難しそうだわ」

「多段階のクロマトグラフィーが必要になるわね」


「お願いします、教授」


 私は頭を下げた。


「この薬を完成させたいんです」


「分かってるわ」


 教授が微笑んだ。


「あなたの情熱は、いつも本物だもの」

「全力で協力するわ」



 そして、一週間後。


 フラスコを培養器から取り出した。


 液体は、淡い灰色に濁っていた。

 放線菌が増殖した証拠だ。


「成功です」


 私は顕微鏡で確認した。


「この液体の中に、ストレプトマイシンが溶け込んでいるはずです」


「では、抽出を始めましょう」


 フリーデリケ教授が精製装置を準備した。


 培養液をろ過する。

 菌体を取り除き、上澄み液だけを回収する。


 次に、有機溶媒で抽出する。

 pH調整をしながら、慎重に。


 何度も何度も、抽出と分離を繰り返す。

 不純物を取り除き、純度を上げていく。


 そして、三日後——


「完成しました」


 私は、小さなガラス瓶を掲げた。


 その中には、白い粉末が入っていた。

 ストレプトマイシン。

 結核を倒す、人類の新しい武器だ。


「これが……」


 エリーゼが呟いた。


「五ヶ月、一万二千個以上のサンプルを調べて、ようやく見つけた宝石」


「ええ」


 私は瓶を光にかざした。


 白い粉末が、柔らかい光を反射している。

 泥の中から掘り出した、最高の宝石。



「でも、これで終わりじゃありません」


 私は気を引き締めた。


「ここから、安全性の確認です」


 まず、ネズミでの毒性試験。

 様々な用量を投与して、副作用を観察する。


 次に、ウサギでの試験。

 より人間に近い動物での安全性確認。


 そして、最後に——


「結核に感染させた動物で、効果を確認します」


 これが、最も重要な試験だ。


「倫理的には……」


 ルーカス先輩が再び言葉を濁した。


「動物を病気にさせるのは、心が痛む」


「私もです」


 私は正直に答えた。


「でも、これは必要なステップです」

「人間で試す前に、本当に効果があるのか確認しなければなりません」


 先輩が深く頷いた。


「分かった。科学のため、そして将来の患者のためだ」



 その夜、私は一人、研究室に残っていた。


 机の上には、白い粉末が入ったガラス瓶。

 そして、ゼンメルワイス先生の古医学書。


 私は本を開いた。

 娘マリアさんのページ。


「ゼンメルワイス先生」


 私は呟いた。


「あなたの悲しみを終わらせる武器を、やっと見つけました」


 肖像画の中のマリアさんが、優しく微笑んでいる。


「この薬で、マリアさんのような悲劇を、二度と起こさせない」


 私はガラス瓶を手に取った。


「必ず、成功させます」


 月光が、窓から差し込んでいた。

 白い粉末が、月の光を受けて、静かに輝いている。


 泥の中の宝石。

 五ヶ月の苦闘、一万二千個以上のサンプル調査の末に見つけた、希望の結晶。


 これが、結核との戦いに、勝利をもたらすはずだ。

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― 新着の感想 ―
ある程度のカンニングをしているといっても、見つかるのが早すぎる気がします。現実には、大勢の学者が血眼になってさがして、ようやく見つけたはずです。1チームが5週間程度で見付けられるのは、運が良すぎます。
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