第78話 泥の中の宝石
ペニシリンの発見により、私の名は医学院で不動のものとなった。
「青カビの魔術師」「感染症の克復者」。
大講堂での講義には、学生だけでなく、他の教授たちも押し寄せる。
王宮からも、視察の依頼が来た。
そんな華々しい評判とは裏腹に、当の本人は——
「……腰が痛い」
泥だらけになって、医学院の裏庭にしゃがみ込んでいた。
「おいリーゼ、ここも掘り終わったぞ」
同じく泥まみれのルーカス先輩が、スコップを片手に汗を拭う。
美しいドレスを作業着に着替えたエリーゼも、土の入った袋を並べている。
「これで五十カ所目ね……」
エリーゼがため息をついた。
私たちは今、ひたすら「土」を集めていた。
王都中の庭、公園、森、川岸、さらには牧場の堆肥置き場まで。
ありとあらゆる場所の土を採取し、研究室に持ち帰る。
◇
通りがかる学生たちが、奇妙なものを見る目で私たちを見ていく。
「なあ、リーゼさん、何してるんだ?」
「土掘りだろ? 見れば分かる」
「でも、なんで特別研究員が土なんか……」
ひそひそと囁く声が聞こえる。
「天才もついに狂ったか?」
「ペニシリンの成功で調子に乗りすぎたんじゃないか」
「可哀想に……プレッシャーで頭がおかしくなったのかも」
私はそれらの声を聞き流す。
説明しても、理解してもらえないだろう。
結核を倒す薬は土の中にある、と言っても、誰が信じるだろうか。
「気にするな、リーゼ」
ルーカス先輩が励ましてくれた。
「ペニシリンのときも、みんな『腐ったパンで薬を作る』なんて馬鹿にしてただろ」
「でも、結果が証明した」
「今回も同じだ」
「ありがとうございます、先輩」
私は微笑んだ。
「でも、本当に見つかるのかな……」
エリーゼが不安そうに呟いた。
「大丈夫」
私は言った。
「必ず見つかる。歴史が証明しているんだから」
とは言ったものの、私自身も不安だった。
前世の知識では、ストレプトマイシンは土壌の放線菌から発見された。
でも、この世界の土壌環境が、地球と同じという保証はない。
それでも、やるしかない。
◇
土壌採取は、想像以上に過酷だった。
ある日は、王都の外れにある古い森へ。
湿った落ち葉の下、朽ちた木の根元、苔むした石の裏。
あらゆる場所から土を掘った。
「ここ、すごく臭いわね……」
エリーゼが鼻をつまんだ。
腐葉土の独特の匂いが、森全体に漂っている。
「でも、微生物は豊富そうです」
私は土を瓶に詰めながら言った。
「有機物が多い場所ほど、様々な菌が住んでいます」
別の日は、川辺の泥地へ。
長靴を履いて、膝まで泥に浸かりながら採取した。
「うわっ、滑った!」
ルーカス先輩が転びそうになる。
私が手を伸ばして支えた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……しかし、まさか特別研究員になって、泥まみれになるとは思わなかったぜ」
先輩が苦笑した。
また別の日は、農家の堆肥置き場へ。
発酵した植物と動物の糞が混ざった、強烈な臭いの中での作業だった。
「これは……きつい」
エリーゼが顔を顰めた。
「でも、ここは微生物の宝庫です」
私は採取を続けた。
「発酵が進んでいる場所には、特殊な菌が住んでいることがあります」
◇
こうして、私たちは王都中を駆け回った。
医学院の庭園。
王宮の森。
市場の裏路地。
墓地(少し気が引けたが、土壌の多様性のために)。
古い井戸の周り。
家畜小屋。
公園の池の周辺。
記録ノートには、採取場所の詳細な情報が記されていく。
『検体番号:101、医学院中庭、桜の木の根元、深さ15cm』
『検体番号:102、王宮の森、北側の斜面、湿った場所』
『検体番号:103、市場裏、野菜くずの堆積場所』
そして、週末になると、さらに遠出した。
エリーゼの提案で、郊外の農村へも足を延ばした。
都会とは異なる環境の土壌を求めて。
「私の実家の方にも、色々な土地があるわ」
エリーゼが言った。
「牧草地、麦畑、果樹園……」
「ぜひ、お願いします」
私は頷いた。
土壌の多様性が高いほど、見つかる確率も上がる。
それが、この途方もない作業の唯一の希望だった。
◇
研究室に戻ると、さらに地味な作業が待っている。
採取した土を水に溶き、希釈する。
ピペットで少量を取り、寒天培地に塗る。
培養器に入れて、三日間待つ。
数日後、シャーレを取り出す。
生えてきた菌のコロニー(集落)を観察する。
色も形も様々だ。
白いふわふわしたカビ。
黄色い粘液質のバクテリア。
緑色の斑点状のコロニー。
赤茶色の広がるもの。
それぞれを、別のシャーレに移植する。
純粋培養して、一種類の菌だけを育てる。
そして、ここからが本番だ。
その菌が、結核菌の増殖を止められるかどうかをテストする。
実際の結核菌は危険なので、代わりに「抗酸菌」という、構造が似ているが無害な菌を使う。
新しいシャーレに、抗酸菌を塗る。
その中心に、土壌から採取した菌を置く。
再び培養器へ。
そして、三日後に確認する。
もし、土壌菌の周りに「阻止円」——細菌が育たない透明な円——ができていれば、それは抗菌作用がある証拠だ。
ペニシリンのときと同じように。
でも、現実は——
◇
「……だめ。効かない」
私はシャーレを廃棄用のバケツに放り込んだ。
抗酸菌は、土壌菌のすぐ隣まで元気に増殖している。
阻止円など、欠片もない。
「こっちもだめだ」
ルーカス先輩が別のシャーレを廃棄する。
「これで二百個目だ……」
「こっちも全滅」
エリーゼが肩を落とした。
机の上には、記録ノートが積み重なっている。
すべて、失敗の記録だ。
『検体101:効果なし』
『検体102:効果なし』
『検体103:効果なし』
延々と続く「効果なし」の文字。
「ペニシリンと同じで、表面のバリアを突破できない」
ルーカス先輩が顕微鏡を覗きながら言った。
結核菌は、細胞壁が分厚い蝋のような脂質——ミコール酸——で覆われている。
ペニシリンのような「細胞壁合成を阻害する」タイプの薬は、この鎧に弾かれてしまう。
必要なのは、その鎧を貫通し、内部のタンパク質合成を阻害する、全く新しいタイプの抗生物質だ。
しかし、それがどこにあるのか。
本当に存在するのか。
不安が、じわじわと心を蝕んでいく。
◇
一週間が過ぎた。
廃棄したシャーレの山は、バケツから溢れ出している。
二週間が過ぎた。
記録ノートは三冊目に突入した。
検体番号は五百を超えた。
研究室の空気は、日に日に重苦しくなっていった。
「リーゼ、少し休んだ方がいいんじゃないか」
ヴィルヘルム先生が心配そうに言った。
「あなたは最近、ずっと研究室にいる」
「食事も睡眠も、ちゃんと取っているのか?」
「大丈夫です、先生」
私は答えた。
でも、実際には大丈夫ではなかった。
夜は研究室で仮眠を取り、朝は早起きして培養を確認する。
食事は、エリーゼが持ってきてくれるパンと水だけ。
目の下には、くっきりとクマができていた。
◇
三週間目。
変化が訪れた。
研究室に、見慣れない顔があった。
「あの……リーゼさん」
若い男子学生が、おずおずと声をかけてきた。
「僕たちも、手伝ってもいいですか?」
彼の後ろには、さらに三人の学生が立っていた。
「手伝う?」
私は驚いた。
「はい。リーゼさんが結核の薬を探しているって聞いて」
別の学生が言った。
「僕の妹が、結核で亡くなったんです」
「だから……少しでも力になりたくて」
私は胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「ぜひ、お願いします」
こうして、チームは三人から七人に増えた。
◇
一ヶ月が過ぎた。
七人体制になったことで、作業効率は格段に上がった。
土壌採取も、培養作業も、以前の倍以上のスピードで進む。
検体番号は、千五百を超えた。
しかし——
「全部、だめです」
新しく加わった学生が、落胆した声で報告する。
「今日のサンプルも、全て効果なしでした」
廃棄用のバケツが、またひとつ満杯になる。
「くそっ……」
ルーカス先輩が壁を叩いた。
「本当に存在するのか? その魔法の菌が」
「います」
私は言い切った。
「必ず、どこかに」
でも、その声には、以前ほどの確信がなかった。
◇
六週間目。
ヴィルヘルム先生が、私を呼び出した。
「リーゼ、ちょっと話がある」
先生の執務室に入ると、そこには学部長のシュヴァルツ教授もいた。
「リーゼ君」
教授が重々しく口を開いた。
「君の研究について、学院で議論があった」
私は緊張した。
「この土壌菌探索プロジェクト、正式に医学院の研究プロジェクトとして認可することになった」
「本当ですか!」
私は思わず声を上げた。
「ああ」
ヴィルヘルム先生が微笑んだ。
「君の情熱と、ペニシリンでの実績が認められたんだ」
「予算も人員も、正式に配分される」
シュヴァルツ教授が続けた。
「学生と助手、合わせて十五名を配属する」
「研究設備も増強する」
「これで、もっと大規模な探索ができるはずだ」
私は涙が出そうになった。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
◇
二ヶ月目。
研究室は一変していた。
十五人のチームが、組織的に動いている。
採取班は、王都周辺だけでなく、遠方の森や山にまで足を延ばす。
培養班は、三交代制で二十四時間体制で作業を続ける。
検査班は、育った菌のスクリーニングを休みなく行う。
記録係が、すべてのデータを整理し、管理する。
検体番号は、四千を超えた。
でも——
「全て、陰性です」
検査班のリーダーが報告する。
「今週も、効果のある菌は見つかりませんでした」
会議室に、重い空気が流れる。
「もう二ヶ月だぞ」
ある学生が呟いた。
「四千個も調べて、何も見つからない」
「本当に存在するのか?」
「存在します」
私は強く言った。
「絶対に、どこかに」
でも、私の心も揺らぎ始めていた。
◇
三ヶ月目。
プロジェクトの噂は、医学院全体に広がっていた。
「リーゼ研究員が、結核の薬を探してるって」
「土の中の菌から、新しい抗生物質を見つけるらしい」
興味を持った他の研究室からも、協力の申し出があった。
「私たちの研究室でも、土壌サンプルを集めます」
薬理学教室のフリーデリケ教授が言った。
「微生物学教室も協力します」
別の教授が続いた。
こうして、プロジェクトはさらに拡大した。
参加者は三十人を超えた。
採取地域は、王都から半径百キロ圏内にまで広がった。
森、湿地、草原、農地、牧場。
あらゆる環境の土壌が、次々と研究室に運び込まれる。
検体番号は、八千を超えた。
◇
でも、結果は変わらなかった。
「今月も、すべて陰性でした」
月次報告会で、データが発表される。
検体数:八千三百四十二個
陽性反応:ゼロ
沈黙が会議室を支配する。
「リーゼ研究員」
シュヴァルツ教授が重々しく口を開いた。
「そろそろ、方針を見直す時期ではないか」
「教授……」
「三ヶ月、八千個以上のサンプルを調べて、何も見つからない」
教授は資料を見つめた。
「これは、そもそも存在しない可能性を考えるべきでは」
「いいえ」
私は首を振った。
「必ず存在します」
「もっと探せば——」
「しかし、いつまで続けるつもりだ?」
教授が問いかける。
「一年か? 二年か?」
「それとも、一生か?」
私は言葉に詰まった。
◇
その夜、私は一人、研究室に残っていた。
机の上には、八千枚を超える記録カード。
すべて、失敗の記録だ。
「本当に……存在するのか?」
私は初めて、弱気になった。
もしかして、この世界には、ストレプトマイシンを作る菌が存在しないのでは。
もしかして、私の前世の記憶は、この世界では役に立たないのでは。
不安が、暗闇のように広がる。
ふと、机の上の古医学書が目に入った。
ゼンメルワイス先生の手記。
私はページを開いた。
娘マリアさんの肖像画が描かれたページ。
優しい笑顔の少女。
結核で亡くなった、ゼンメルワイス先生の愛娘。
『未来の友よ。どうか、私の仇を討ってくれ』
先生の言葉が、心に響く。
「……まだだ」
私は呟いた。
「まだ諦められない」
マリアさんのような少女を救うために。
ゼンメルワイス先生の無念を晴らすために。
そして、この世界のすべての結核患者を救うために。
「もう少し、頑張ります」
私は再び、立ち上がった。
◇
四ヶ月目。
プロジェクトは続いていた。
シュヴァルツ教授の懸念はあったものの、他の教授たちの支持により、継続が決まった。
「あと三ヶ月だけ、続けよう」
ヴィルヘルム先生が言った。
「半年間、全力で探す」
「それでも見つからなければ、その時は方針を変えよう」
私は頷いた。
「はい。必ず、見つけます」
検体番号は、一万を超えた。
サンプルの採取範囲は、さらに広がった。
他の地方の医学校にも協力を依頼し、遠方の土壌も送ってもらうようになった。
北の高地の土。
南の海岸近くの砂。
東の火山灰土。
西の古い森の腐葉土。
多様性は、かつてないほど高まった。
◇
五ヶ月目。
疲労が、チーム全体に蔓延していた。
「もう……限界かもしれない」
ある学生が呟いた。
「一万二千個も調べて、何も見つからない」
「これは、無理なんじゃないか」
「弱音を吐くな」
ルーカス先輩が叱咤する。
「ここで諦めたら、今までの苦労が無駄になる」
「でも……」
空気が重い。
希望が、どんどん薄れていく。
◇
そんな中、エリーゼが久しぶりに実家から戻ってきた。
「リーゼ、これ」
彼女は、いくつかの袋を抱えていた。
「実家の農園で、新しい堆肥場を作ったの」
「そこの土を持ってきたわ」
袋の中には、小分けにされた土のサンプルが入っていた。
それぞれに、ラベルが貼られている。
『新設堆肥場、東側』
『鶏小屋の横、古い堆肥場』
『牛舎の裏、発酵中の堆肥』
「ありがとう、エリーゼ」
私は心から感謝した。
「これが最後かもしれないわ」
エリーゼが小さく笑った。
「来月で期限だもの」
「ええ」
私も笑った。
「でも、最後まで諦めない」
◇
エリーゼが持ってきた土を、慎重に培養していく。
新設堆肥場の土。
牛舎の裏の土。
そして、最後に手に取ったのが——
『鶏小屋の横、古い堆肥場』
有機物が豊富で、微生物が活発に活動している土だ。
動物の糞、植物の残渣、長年発酵し続けた堆肥。
様々な栄養源が混ざり合っている。
「これは……期待できるかもしれない」
私は慎重に土を培地に塗った。
検体番号、一万二千三百四十七番。
ラベルを貼り、培養器に入れる。
「さあ、三日後に会いましょう」
私はシャーレに向かって呟いた。
◇
三日間は、長かった。
その間も、他の検体の確認は続く。
でも、相変わらず、すべて失敗だった。
一万二千番台前半、全滅。
希望は、どんどん薄れていく。
そして、運命の日。
検体番号一万二千三百四十七番を確認する日が来た。
朝、早起きして研究室へ。
培養器を開ける。
シャーレを取り出す。
光にかざす。
そして——
「……あれ?」
私の手が止まった。
他のカビや細菌とは違う、奇妙なコロニーがあった。
色は地味な灰色。
いや、灰色というよりも、白に近い灰色。
表面は粉を吹いたように乾いている。
まるで、乾いた泥のような、目立たない菌だ。
大きさも小さい。
他の派手なカビたちに囲まれて、隅の方でひっそりと育っている。
普通なら、見過ごしてしまうような、地味な存在。
しかし——
「阻止円が……できてる?」
私は目を疑った。
その灰色の菌の周囲にだけ、透明な円ができていたのだ。
テスト用の抗酸菌が、完全に死滅している。
しかも、円の大きさが、ペニシリンのときよりも大きい。
強力な抗菌作用があることを示している。
「これは……」
私の心臓が、激しく鳴り始めた。
◇
「先輩! エリーゼ! みんな!」
私は研究室中に響き渡る声で叫んだ。
仮眠室で寝ていた人たちが、慌てて飛び出してきた。
夜勤の学生たちも、驚いて駆け寄る。
「どうしたリーゼ!」
ルーカス先輩が駆け寄る。
「火事か!?」
「違います!」
私はシャーレを掲げた。
「見つけたかもしれない!」
全員が、シャーレを覗き込む。
「これ……阻止円?」
エリーゼが目を見開いた。
「でも、すごく大きい」
「そうなんです!」
私は興奮を抑えきれなかった。
「ペニシリンでは効かなかった抗酸菌に、これは効いています」
「本当か……」
ルーカス先輩が、信じられないという表情で言った。
「五ヶ月……一万二千個以上調べて、ようやく……」
ある学生が呟いた。
「確認しましょう」
私は震える手で、顕微鏡にプレパラートをセットした。
倍率を上げる。
焦点を合わせる。
レンズの向こうに見えたのは——
◇
細長い糸のような構造。
それが放射状に伸びている。
カビのように見えるが、細菌の特徴も持っている。
まるで、カビと細菌の中間のような存在。
「これは……」
私は前世の記憶を辿った。
放線菌。
英語で Actinomycetes。
糸状の菌糸を形成する、特殊な細菌の一群。
そして、その中でも、土壌に住む種類——
ストレプトマイセス・グリセウス。
結核菌を殺す力を持つ、伝説のハンター。
「放線菌だ……!」
私の声が震えた。
「間違いない。これが、私たちが探していたものです」
「やった……」
エリーゼが呟いた。
「やったわ!」
そして、私に抱きついた。
彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「本当に、見つけたのね」
「ええ」
私も涙が溢れてきた。
「五ヶ月、一万二千個以上調べて、ようやく」
研究室中が、歓声に包まれた。
学生たちが抱き合い、泣き笑いしている。
ルーカス先輩も、シャーレを覗き込んでガッツポーズをした。
「へえ、こんな地味な灰色野郎が、救世主なのか」
「そうです」
私は笑った。
「泥の中に隠れていた、最高の宝石です」
◇
興奮が少し収まった後、私たちは冷静になった。
「でも、これからが大変だ」
ルーカス先輩が言った。
「菌は見つかった。でも、ここから薬を作らないといけない」
「その通りです」
私は頷いた。
「この菌から、有効成分だけを抽出しなければなりません」
「そして、精製して、安全性を確認して」
「ペニシリンのときと同じプロセスね」
エリーゼが言った。
「でも、今回はもっと慎重にならないと」
「なぜですか?」
ある学生が尋ねた。
「ストレプトマイシンは、ペニシリンよりも副作用が出やすいんです」
私は説明した。
「特に、聴覚への影響があります」
「投与量を間違えると、耳が聞こえなくなる可能性がある」
「それは……深刻だな」
先輩が顔を曇らせた。
「だから、慎重な精製と、毒性試験が必要なんです」
私はシャーレを見つめた。
「この灰色の菌を、大量に培養します」
「そして、培養液から有効成分を抽出します」
「不純物を徹底的に取り除いて、純度を上げる」
「動物実験も必要ね」
エリーゼが言った。
「まず、ネズミやウサギで安全性を確認する」
「それから、実際に結核に感染させた動物で、効果を試験する」
「倫理的には……」
ルーカス先輩が言葉を濁した。
「動物に結核を感染させるのは、気が引けるが」
「私もです」
私は正直に答えた。
「でも、人間で試験する前に、動物での確認は必須です」
「もし効果がなかったり、毒性が強すぎたりしたら、人の命が危険にさらされる」
先輩が深くうなずいた。
「分かった。科学のため、そして将来救われる命のためだ」
◇
「ここからが正念場です」
私は灰色のコロニーを見つめて言った。
「まず、この菌を純粋培養します」
「他の菌が混ざらないように、慎重に」
「それから?」
「液体培養に移行します」
私は計画を説明した。
「大きなフラスコで、この菌を大量に育てる」
「培養液の中で、菌が抗生物質を分泌します」
「それを回収して、精製するんです」
「どれくらい時間がかかりますか?」
エリーゼが尋ねた。
「培養に一週間」
私は計算した。
「抽出と精製に、さらに二週間」
「毒性試験に一週間」
「そして、効果の確認に……」
「つまり、最低でも一ヶ月はかかる」
ルーカス先輩がまとめた。
「そうです」
私は頷いた。
「でも、急ぎます」
「一日でも早く、この薬を完成させたい」
なぜなら——
この世界では、今この瞬間にも、結核で苦しんでいる人がいる。
咳をして、血を吐いて、衰弱していく人たちが。
その人たちを救うために。
ゼンメルワイス先生の娘、マリアさんのような悲劇を繰り返さないために。
私たちは、一刻も早く、この薬を完成させなければならない。
◇
その日から、研究室は再び活気を取り戻した。
灰色の放線菌——私たちは愛情を込めて「灰色の騎士」と名付けた——を、丁寧に純粋培養していく。
一つのコロニーから、少量を採取する。
新しい培地に植え付ける。
他の菌が混入しないよう、無菌操作を徹底する。
「よし、これで純粋培養は完了だ」
ルーカス先輩が、満足そうに言った。
次は、液体培養だ。
大きなフラスコに、栄養液を入れる。
糖分、ミネラル、窒素源。
放線菌が育つのに最適な配合だ。
そこに、純粋培養した菌を植え付ける。
「さあ、頑張って育ってね」
エリーゼがフラスコに向かって呟いた。
フラスコを培養器に入れる。
温度は摂氏二十八度。
放線菌の成長に最適な温度だ。
「一週間後に確認します」
私は記録ノートに日付を書き込んだ。
◇
待つ間も、私たちは準備を進めた。
フリーデリケ教授の協力を得て、精製設備を整える。
ペニシリンのときよりも、さらに高度な精製が必要だ。
「教授、ストレプトマイシンの化学構造についてですが」
私は紙に構造式のスケッチを描いた。
前世の記憶を頼りに、複雑な分子構造を再現していく。
「これがストレプトマイシンの構造です」
「アミノ糖が複数結合した、かなり複雑な形をしています」
教授が身を乗り出して、私の描いた図を覗き込んだ。
「まあ……これは確かに複雑ね」
教授が感嘆の声を上げた。
「ペニシリンよりもずっと精製が難しそうだわ」
「多段階のクロマトグラフィーが必要になるわね」
「お願いします、教授」
私は頭を下げた。
「この薬を完成させたいんです」
「分かってるわ」
教授が微笑んだ。
「あなたの情熱は、いつも本物だもの」
「全力で協力するわ」
◇
そして、一週間後。
フラスコを培養器から取り出した。
液体は、淡い灰色に濁っていた。
放線菌が増殖した証拠だ。
「成功です」
私は顕微鏡で確認した。
「この液体の中に、ストレプトマイシンが溶け込んでいるはずです」
「では、抽出を始めましょう」
フリーデリケ教授が精製装置を準備した。
培養液をろ過する。
菌体を取り除き、上澄み液だけを回収する。
次に、有機溶媒で抽出する。
pH調整をしながら、慎重に。
何度も何度も、抽出と分離を繰り返す。
不純物を取り除き、純度を上げていく。
そして、三日後——
「完成しました」
私は、小さなガラス瓶を掲げた。
その中には、白い粉末が入っていた。
ストレプトマイシン。
結核を倒す、人類の新しい武器だ。
「これが……」
エリーゼが呟いた。
「五ヶ月、一万二千個以上のサンプルを調べて、ようやく見つけた宝石」
「ええ」
私は瓶を光にかざした。
白い粉末が、柔らかい光を反射している。
泥の中から掘り出した、最高の宝石。
◇
「でも、これで終わりじゃありません」
私は気を引き締めた。
「ここから、安全性の確認です」
まず、ネズミでの毒性試験。
様々な用量を投与して、副作用を観察する。
次に、ウサギでの試験。
より人間に近い動物での安全性確認。
そして、最後に——
「結核に感染させた動物で、効果を確認します」
これが、最も重要な試験だ。
「倫理的には……」
ルーカス先輩が再び言葉を濁した。
「動物を病気にさせるのは、心が痛む」
「私もです」
私は正直に答えた。
「でも、これは必要なステップです」
「人間で試す前に、本当に効果があるのか確認しなければなりません」
先輩が深く頷いた。
「分かった。科学のため、そして将来の患者のためだ」
◇
その夜、私は一人、研究室に残っていた。
机の上には、白い粉末が入ったガラス瓶。
そして、ゼンメルワイス先生の古医学書。
私は本を開いた。
娘マリアさんのページ。
「ゼンメルワイス先生」
私は呟いた。
「あなたの悲しみを終わらせる武器を、やっと見つけました」
肖像画の中のマリアさんが、優しく微笑んでいる。
「この薬で、マリアさんのような悲劇を、二度と起こさせない」
私はガラス瓶を手に取った。
「必ず、成功させます」
月光が、窓から差し込んでいた。
白い粉末が、月の光を受けて、静かに輝いている。
泥の中の宝石。
五ヶ月の苦闘、一万二千個以上のサンプル調査の末に見つけた、希望の結晶。
これが、結核との戦いに、勝利をもたらすはずだ。




