第77話 青カビの奇跡
結核治療への挑戦を決意してから、一週間が経過した。
私は薬理学講座の一角を借り、土壌サンプルの培養を開始していた。
机の上には、様々な場所から採取した土が入った小瓶が並んでいる。
森、畑、川辺、医学院の庭。
それぞれの土を培地に塗り、微生物を培養する。
しかし、結果は芳しくなかった。
「……また、ダメね」
エリーゼが顕微鏡から顔を上げた。
今日も、結核菌に対して効果を示す土壌菌は見つからなかった。
「五十種類目の土壌サンプルですが、どれも結核菌には効果なしです」
ルーカス先輩が、実験ノートに記録しながら言った。
私は壁にぶつかっていた。
結核菌は強い。
あまりにも強すぎる。
通常の殺菌剤や、既存の薬草ではびくともしない。
そして、土壌菌の中から効果的なものを見つけ出すのは、思った以上に困難だった。
土壌菌は無数にある。
一つの土壌サンプルから、何百もの異なる菌が見つかる。
その一つひとつを培養し、結核菌への効果を検証する。
それは、砂漠でダイヤモンドを探すような気の遠くなる作業だ。
◇
その夜、私は一人、研究室に残っていた。
窓の外では、春の雨が降っている。
机の上には、ゼンメルワイス先生の古医学書が開かれていた。
娘マリアさんの肖像画が描かれたページだ。
「……ごめんなさい、ゼンメルワイス先生」
私は呟いた。
「すぐに結核の薬を見つけられると思っていました」
「でも、現実はそんなに甘くない」
どれだけ前世の知識があっても、実際に物質を見つけ出すのは別の話だ。
ストレプトマイシンという名前は知っている。
放線菌から作られることも知っている。
でも、どの土壌に、どの放線菌がいるのかまでは分からない。
一から探すしかない。
そして、それには膨大な時間がかかる。
「……いきなり結核に挑むのは、無謀かもしれない」
私は腕組みをした。
戦略を見直す必要がある。
前世で、ペニシリンが発見されたのは一九二八年。
ストレプトマイシンの発見は一九四三年。
十五年の差がある。
それには理由がある。
ペニシリンは比較的発見しやすく、培養も容易だった。
だが、ストレプトマイシンは発見も精製も、はるかに難しかった。
歴史が証明している。
順番を間違えてはいけない。
「まずは『菌で菌を殺す』という抗生物質の技術を、この世界で確立させる必要があるわ」
私は立ち上がった。
まず、ペニシリンを作る。
抗生物質の製造プロセスを確立する。
培養、抽出、精製、投与、臨床試験。
その一連の流れを、この世界に根付かせる。
そして、その経験とノウハウを持って、結核への挑戦に臨む。
それが、最も確実な道だ。
◇
翌朝、私は研究室のメンバーを集めた。
エリーゼ、ルーカス先輩、そしてフリーデリケ教授も来てくれた。
「方針を転換します」
私は宣言した。
「結核への挑戦は、一旦保留します」
「まずは、別の抗生物質——ペニシリンを完成させましょう」
「ペニシリン?」
エリーゼが首を傾げた。
「ええ。自然界には、他の菌の繁殖を抑える物質を出すカビや細菌がいるの」
「その代表が——『青カビ』よ」
私は黒板にチョークで図を描いた。
「青カビは、ペニシリンという物質を分泌して、周囲の細菌を殺します」
「これは、ブドウ球菌やレンサ球菌——つまり、化膿や敗血症、産褥熱の原因菌に劇的に効きます」
「産褥熱……」
フリーデリケ教授が反応した。
「それは、ゼンメルワイス先生が戦った病気ね」
「その通りです」
私は頷いた。
「ゼンメルワイス先生は、消毒で産褥熱を予防する方法を確立しました」
「でも、一度感染してしまった患者を治す薬はなかった」
「ペニシリンがあれば、感染した患者も救えます」
「しかし、青カビで薬を作るって……」
ルーカス先輩が眉をひそめた。
「腐ったパンのカビですよね? 本当に薬になるんですか?」
「なります」
私は断言した。
「ゼンメルワイス先生の手記にも、その記述があります」
「彼は、青カビの生えたパンを傷に当てると、化膿が治まることに気づいていました」
「でも、有効成分を抽出する技術がなかった」
私は古医学書のページを開いた。
そこには、青カビのスケッチと、簡単なメモが書かれていた。
『緑青色のカビ。傷の周囲に塗ると、化膿が軽減する。だが、不安定。精製方法を確立できず』
「今なら、できます」
私は言った。
「薬理学の知識と、精製技術がある」
「そして、顕微鏡で効果を確認できる」
「必ず、ペニシリンを作り出してみせます」
◇
「分かったわ」
フリーデリケ教授が頷いた。
「確かに、いきなり結核に挑むよりも、まず成功例を作る方が賢明ね」
「ペニシリンの製造プロセスを確立すれば、それが次の抗生物質開発の基盤になる」
「その通りです、教授」
「よし、じゃあ早速始めましょう」
エリーゼが目を輝かせた。
「で、何から始めればいいの?」
「まずは、青カビを集めます」
私は笑った。
「みんな、腐ったパンや果物を集めて!」
◇
私の突飛な号令に、最初はみんな驚いた表情を浮かべた。
だが、すぐに理解してくれて、行動を開始した。
医学院の厨房へ。
学生寮のゴミ捨て場へ。
街の市場へ。
私たちは、青カビの生えたパン、チーズ、果物を集めて回った。
「リーゼさん、これなんてどうですか?」
ルーカス先輩が、青緑色のカビがびっしり生えたパンを持ってきた。
「完璧です!」
私は目を輝かせた。
「このペニシリウム・ノタタムこそ、私たちが探していたものです」
「……ペニシリウム・ノタタム?」
「青カビの学名です。まあ、細かいことは後で」
次々と、カビの生えた食品が集まってくる。
「うわぁ……すごい臭い」
エリーゼが鼻をつまんだ。
「これが本当に薬になるの? 信じられない」
「信じてください」
私は笑った。
「この腐ったパンの中に、黄金の薬が眠っているんです」
◇
集めた青カビを、研究室に持ち帰る。
そこで、最も美しい青緑色をしたカビを選別した。
「よし、これを培養しましょう」
私は寒天培地——栄養を含ませて固めたゼリー状の培地——を準備した。
これはフリーデリケ教授の協力で、薬理学講座の設備を使って作ったものだ。
寒天培地の上に、青カビの胞子を植え付ける。
同時に、別のシャーレには「黄色ブドウ球菌」を塗っておく。
「これは何のためですか?」
ルーカス先輩が尋ねた。
「対照実験です」
私は説明した。
「まず、青カビが本当に細菌を殺すのか確認する必要があります」
「同じ培地に、青カビとブドウ球菌を一緒に育てるんです」
「もし青カビがペニシリンを出せば、その周囲では細菌が育たないはずです」
「なるほど……」
先輩が感心したように頷いた。
「科学的だ」
「当然です」
私は微笑んだ。
「ゼンメルワイス先生が教えてくれたことがあります」
「『推測ではなく、観察せよ。そして、記録せよ』と」
◇
シャーレを培養器に入れた。
温度は摂氏二十五度。
青カビの成長に最適な温度だ。
「さあ、後は待つだけです」
私は時計を確認した。
「三日後に確認しましょう」
三日間。
その間、私たちは他の準備を進めた。
フリーデリケ教授の指導の下、抽出と精製の設備を整える。
ガラスのフラスコ、蒸留装置、ろ過装置。
薬理学講座の最新設備が、次々と研究室に運び込まれた。
「これで、どんな複雑な化合物でも精製できるわ」
教授が誇らしげに言った。
「後は、本当に青カビが効果を示すかどうかね」
「必ず示します」
私は自信を持って答えた。
◇
そして、三日後。
培養器を開ける瞬間が訪れた。
研究室には、私、エリーゼ、ルーカス先輩、そしてヴィルヘルム先生とフリーデリケ教授が集まっていた。
「では、開けます」
私は深呼吸をして、培養器の蓋を開けた。
シャーレを取り出す。
そして、それを光にかざした瞬間——
「見て!」
私の声が弾んだ。
そこには、奇跡が起きていた。
青カビが成長したコロニー(菌の集団)の周囲に、透明な円ができていたのだ。
その円の中では、黄色ブドウ球菌が全く育っていない。
一方、青カビから離れた場所では、ブドウ球菌が黄色い絨毯のように増殖していた。
「阻止円……」
ヴィルヘルム先生が息を呑んだ。
「カビの周りだけ、菌が死んでいる」
「正確には、増殖を阻止されているんです」
私は興奮を抑えながら説明した。
「青カビが、ペニシリンという物質を分泌している」
「その物質が培地に拡散して、周囲の細菌の細胞壁合成を阻害するんです」
「細胞壁合成の阻害?」
フリーデリケ教授が身を乗り出した。
「ええ」
私は頷いた。
「細菌は、成長するために細胞壁を作る必要があります」
「ペニシリンは、その細胞壁を作る酵素を邪魔するんです」
「だから、細菌は分裂できずに死んでいく」
「素晴らしい……」
教授が目を輝かせた。
「カビが、目に見えない剣を放って、菌を殺しているのね」
「そうです。この『剣』の成分を抽出したものが、ペニシリンです」
私はシャーレをみんなに見せた。
「これが、人類が初めて手にする、細菌に対する本当の武器です」
◇
興奮が収まらないまま、私たちは次のステップに進んだ。
ペニシリンの抽出だ。
「まず、青カビを液体培養します」
私は大きなフラスコに、栄養液を入れた。
これは、糖分、ミネラル、窒素源を含んだ液体だ。
そこに、培養した青カビを植え付ける。
「温度を保ちながら、一週間培養します」
「その間、青カビは液体の中でペニシリンを分泌し続けます」
一週間後。
培養液は、淡い黄色に変色していた。
「成功です」
私は顕微鏡で確認した。
「この液体の中に、ペニシリンが溶け込んでいます」
「では、抽出を」
フリーデリケ教授が精製装置を準備した。
◇
抽出作業は、慎重に行われた。
まず、培養液をろ過して、青カビの菌体を取り除く。
次に、ろ過した液体を、有機溶媒で抽出する。
ペニシリンは、特定の溶媒に溶けやすい性質がある。
「pH調整が重要です」
私は酸性の溶液を少しずつ加えた。
「ペニシリンは、pHによって溶媒への移りやすさが変わるんです」
何度も抽出と分離を繰り返す。
不純物を取り除き、純度を上げていく。
そして、ついに——
「完成しました」
私は小さなガラス瓶を掲げた。
その中には、淡い黄金色の液体が入っていた。
ペニシリン。
人類が初めて手にした、真の抗生物質だ。
「美しい……」
エリーゼが呟いた。
「こんな小さな瓶が、命を救うの?」
「救います」
私は断言した。
「この一滴が、何十人もの命を救う力を持っています」
◇
しかし、喜びもつかの間、重大な問題に気づいた。
「……どうやって、患者に投与するの?」
エリーゼが尋ねた。
当然の疑問だ。
薬は作った。だが、どうやって体内に届けるか。
「経口投与——つまり、飲ませるのは?」
ルーカス先輩が提案した。
「難しいです」
私は首を横に振った。
「ペニシリンは胃酸で分解される可能性があります」
「それに、消化管からの吸収は不安定で、血中濃度が十分に上がらないかもしれません」
「では、傷口に直接塗るのは?」
「それも限界があります」
私は説明した。
「局所投与では、感染が全身に広がった場合——敗血症には効きません」
「薬を、血液中に直接届ける必要があります」
「血液中に……直接?」
フリーデリケ教授が眉をひそめた。
「そんな方法が?」
「あります」
私は答えた。
「注射です」
◇
「注射……?」
みんなが首を傾げた。
当然だ。この世界には、まだ注射器が存在しない。
「皮膚に針を刺して、薬液を血管に直接注入する方法です」
私は黒板にチョークで図を描いた。
筒状の容器。
その先端に、細い中空の針。
押し出し棒で、薬液を注入する仕組み。
「古医学書には、この方法は記されていませんでした」
私は正直に答えた。
「ですが、理論的に考えれば——薬を血液に直接届けることができれば、最も確実に全身に行き渡ります」
「そのための器具を考案しました」
私は続けた。
「皮下、筋肉内、または静脈内に薬液を注入することで、確実に血液中に薬を届けられます」
「なるほど……」
フリーデリケ教授が図を見つめた。
「理にかなっているわ」
「でも、そんな精密な器具、どうやって作るの?」
「工房に依頼します」
私は言った。
「ガラス職人と金属職人の協力が必要です」
◇
翌日、私は王都の職人工房を訪れた。
同行してくれたのは、ヴィルヘルム先生だ。
「リヒテンシュタイン工房」
王都で最高の精密加工技術を持つ工房だ。
医療器具や実験器具も手がけている。
「リーゼ先生」
工房の主、オスカー・リヒテンシュタインが迎えてくれた。
五十代の職人で、精密なガラス細工の名人だ。
「珍しいご依頼ですね。『注射器』とは?」
「これです」
私は設計図を広げた。
自分で考案した、注射器の詳細図だ。
ガラス製の筒——容量は五ミリリットル。
内部には目盛りを刻む。
ピストン式の押し出し棒。
そして、金属製の中空針——直径は〇・五ミリメートル。
「ほう……」
オスカーが感心したように図を見つめた。
「精密な仕掛けですね」
「特に、この針——内部が空洞で、液体が通る……これは難しい」
「できますか?」
「できます」
職人が力強く頷いた。
「面白い。こんな器具、見たことがない」
「挑戦しがいがあります」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「人の命を救う道具です。お願いします」
「任せてください」
オスカーが笑った。
「一週間で、試作品を作ります」
◇
工房を出た後、私は薬局へ向かった。
次の課題——注射液の調製だ。
「生理食塩水を作らなければ」
私は呟いた。
「生理食塩水?」
ヴィルヘルム先生が尋ねた。
「はい」
私は説明した。
「ペニシリンの抽出液を、そのまま血管に注射することはできません」
「血液と浸透圧が違うからです」
「浸透圧……?」
「血液中の塩分濃度や、様々な物質の濃度です」
私は言葉を選びながら説明した。
「もし、血液よりも濃度が低い液体を注射すると——」
「赤血球が水を吸収して膨張し、破裂してしまいます。溶血反応です」
「逆に、濃度が高すぎると?」
「赤血球から水分が奪われて、収縮してしまいます」
ヴィルヘルム先生が息を呑んだ。
「つまり、注射液は、血液と同じ濃度でなければならない……」
「その通りです」
私は頷いた。
「人間の血液の塩分濃度は、約〇・九パーセントです」
「だから、〇・九パーセントの食塩水——生理食塩水を作り、それでペニシリンを希釈します」
◇
薬局で、精製された塩を購入した。
医学院に戻り、実験室で慎重に調製を始める。
蒸留水一リットル。
精製塩九グラム。
天秤で正確に計量し、溶解する。
「これが、生理食塩水……」
透明な液体を光にかざす。
「見た目は普通の水と変わらないわね」
エリーゼが言った。
「でも、この塩分濃度が命を左右します」
私は真剣に答えた。
「濃すぎても、薄すぎてもダメ」
「正確に〇・九パーセント——血液と同じ濃度でなければなりません」
調製した生理食塩水を、滅菌した瓶に保存する。
「これで、ペニシリンを希釈して、安全に血管内に投与できます」
私は説明した。
「投与量は、患者の体重と症状の重さで決めます」
「動物実験の結果から推測すると、成人なら一日に数十万単位のペニシリンが必要になると思われます」
「単位……?」
「ペニシリンの効力を示す尺度です」
私は答えた。
「動物実験での効果を基準に、暫定的に決めた尺度ですが、今後、標準化していく必要があります」
◇
一週間後。
リヒテンシュタイン工房から連絡が来た。
「できました」
オスカーが誇らしげに、小さな木箱を差し出した。
箱を開けると——
「完璧です……!」
私は感動した。
そこには、美しいガラス製の注射器が収められていた。
透明な筒。内部には精密な目盛り。
滑らかに動くピストン。
そして、金属製の中空針——鋭く、まっすぐで、内部は完璧に空洞になっている。
「針の製作が一番難しかった」
オスカーが説明した。
「銀の細い管を、さらに研ぎ澄まして、先端を斜めに切断しました」
「内径は〇・五ミリメートル——髪の毛よりも細い」
「素晴らしい仕事です」
ヴィルヘルム先生が感嘆の声を上げた。
「ありがとうございます、オスカーさん」
私は深く頭を下げた。
「これで、多くの命が救えます」
「それは何よりです」
職人が微笑んだ。
「この『注射器』、もっと必要になりますか?」
「はい」
私は力強く頷いた。
「いずれ、王国中の病院に配備したいです」
「分かりました。量産の準備を始めます」
◇
医学院に戻り、注射器の滅菌を行った。
煮沸消毒——沸騰した湯で十分間加熱する。
これで、器具に付着した細菌を殺せる。
「準備が整いました」
私は、完成したペニシリン溶液と、生理食塩水と、注射器を並べた。
机の上には:
・精製ペニシリン(原液)
・生理食塩水
・滅菌済み注射器
・消毒用アルコール
全てが揃った。
「後は……」
私は呟いた。
「動物実験で安全性を確認して——」
「そして、人間での臨床試験です」
◇
しかし、本当の試練は、ここからだった。
薬は作った。
だが、それが本当に人間に効くのか。
副作用はないのか。
それを確かめなければならない。
動物実験は、すでに成功していた。
感染症を起こしたマウスに投与したところ、劇的に回復した。
だが、人間はマウスではない。
最終的には、人間での臨床試験が必要だ。
そして、その機会は、不幸な形で訪れた。
◇
それは、ある午後のことだった。
実習室から、悲鳴が聞こえてきた。
「先生! トーマスが怪我を!」
私とヴィルヘルム先生が駆けつけると、そこには血まみれになった学生が倒れていた。
トーマス・シュミット。
三年生の真面目な学生だ。
「何があった?」
ヴィルヘルム先生が尋ねた。
「ガラスの試験管が割れて、手に刺さったんです」
別の学生が青い顔で答えた。
トーマスの右手を見ると、掌に深い傷があった。
ガラスの破片が刺さり、血が止まらない。
「すぐに治療室へ」
私たちはトーマスを担架で運んだ。
◇
治療室で、傷口を洗浄し、ガラス片を取り除いた。
縫合も完了した。
「これで大丈夫だろう」
ヴィルヘルム先生がため息をついた。
しかし、私には不安があった。
傷が深すぎる。
そして、ガラスには汚れが付いていた可能性がある。
「先生、念のため、経過観察を厳重にしてください」
私は言った。
「感染のリスクがあります」
「分かった」
◇
私の予感は、残念ながら的中した。
二日後。
トーマスが高熱を出して倒れたという知らせが入った。
私が治療室に駆けつけると、トーマスは顔を真っ赤にしてうなされていた。
「痛い……熱い……」
傷口を見ると、赤黒く腫れ上がっていた。
膿が滲み出ている。
触ると、熱を持っている。
これは——
「蜂窩織炎です」
私は診断した。
「傷口から細菌が侵入して、皮下組織で増殖しています」
「このままでは敗血症になります」
「敗血症……」
ヴィルヘルム先生の顔が強張った。
敗血症は、細菌が血液中に入り込み、全身に広がる病気だ。
この時代では、ほぼ確実に死に至る。
従来の治療なら、感染部位を切断するしかない。
つまり、トーマスの腕を切り落とすのだ。
だが、それでも助かる保証はない。
すでに細菌が血液に入っているかもしれない。
「先生」
私は決意した。
「使わせてください」
「何を?」
「ペニシリンです。この薬なら、彼を救えます。腕を切らずに、細菌を殺せます」
ヴィルヘルム先生は一瞬、迷った表情を見せた。
だが、すぐに真剣な眼差しで私を見た。
「だが、それは未承認の薬だ。失敗すれば、彼は薬の副作用で死ぬかもしれない。その間に切断の機を逸し、確実に命を落とすことにもなる」
「……はい」
「決めるのは、我々ではない」
先生はトーマスの枕元に膝をついた。
「トーマス、聞こえるか」
トーマスがうっすらと目を開けた。意識は朦朧としているが、こちらの声は届いているようだ。
「……先生……腕、切るん、ですか……?」
彼は恐怖に震える声で尋ねた。医学生である彼には、自分の症状が「切断」を意味することが分かっているのだ。
「その可能性が高い。だが、一つだけ別の道がある」
先生は私を振り返った。私は一歩前に出た。
「トーマス君、聞いて。私が作った『青カビの薬』があるの」
「動物実験では成功したけれど、人間にはまだ使ったことがないわ」
私は包み隠さず告げた。
「これを使えば、腕を切らずに治るかもしれない。でも、君が最初の一人になる。副作用で何が起きるか、私にも保証できない」
重い沈黙が流れた。
確実な命のための「切断」か。
腕を守るための「賭け」か。
私は、彼の判断を待った。
前世の知識があるからこそ、患者の同意なしに実験的な治療を行うことは許されないと知っている。
トーマスは、熱に浮かされた目で、じっと私を見た。
そして、視線を自分の右手——将来、医師としてメスを握るはずの右手——に移した。
「……嫌です」
彼は絞り出すように言った。
「腕を……失うのは、嫌だ……」
「外科医に……なりたいんです……」
涙が彼の頬を伝った。
「リーゼさん……その薬……やってください」
「腕を失うくらいなら……僕は、あなたに賭けます」
その言葉を聞いて、ヴィルヘルム先生が頷いた。
「本人の意志だ。許可する」
「……はい!」
私は研究室に戻り、精製したペニシリンを持ってきた。
小さなガラス瓶。
その中の黄金色の液体が、揺れている。
「トーマス君」
私は彼の隣に座った。
「今から、新しい薬を使います」
「少し痛いかもしれないけど、我慢してね」
トーマスは意識が朦朧としていたが、かすかに頷いた。
私は注射器を手に取った。
震える。
手が震えている。
これが、初めての人体への抗生物質投与だ。
成功すれば、医学史に残る瞬間。
失敗すれば——
いや、失敗は許されない。
私は深呼吸をして、手の震えを止めた。
そして、注射器でペニシリンを吸い上げた。
「大丈夫よ、リーゼ」
エリーゼが私の肩に手を置いた。
「あなたが作った薬は、絶対に効く」
「……ありがとう」
私は頷いた。
そして、トーマスの腕に注射針を刺した。
静脈内に、ゆっくりとペニシリンを注入していく。
黄金色の液体が、注射器から消えていく。
トーマスの血管へ。
そして、全身へ。
細菌との戦いが、今、始まった。
◇
最初の一時間は、何も変化がなかった。
トーマスは依然として高熱でうなされている。
私は彼の隣で、じっと見守っていた。
脈を測り、体温を記録し、呼吸を観察する。
「リーゼ、少し休んだら?」
エリーゼが心配そうに言った。
「大丈夫」
私は首を振った。
「責任があるから」
二時間が経過した。
トーマスの呼吸が、少し落ち着いてきた気がした。
三時間後。
体温を測ると、わずかに下がっていた。
「効いてる……?」
私は希望を感じた。
そして、四時間後。
トーマスが目を開けた。
「……あれ、僕……」
「トーマス君!」
私は思わず声を上げた。
「気分はどう?」
「なんか……楽になった気がします」
トーマスが弱々しく笑った。
私は急いで傷口を確認した。
赤みが、引いている。
腫れも、少し小さくなっている。
「効いてる……」
私の目から、涙がこぼれた。
「本当に、効いてる」
◇
翌朝。
トーマスの熱は完全に下がっていた。
傷口の赤みもほとんど消え、腫れも引いた。
血液中の菌が死滅したのだ。
「奇跡だ……」
朝の回診に来たヴィルヘルム先生が、目を見開いた。
「昨日の夜は、もうダメかと思っていたのに」
「奇跡じゃありません、先生」
私は笑った。
「科学です」
治療室の外では、学生たちが集まっていた。
噂を聞きつけて、トーマスの様子を見に来たのだ。
「本当に治ったのか?」
「あの腐ったパンのカビで?」
「信じられない……」
回復したトーマスを見て、医学院中が騒然となった。
◇
その日の午後。
大講堂で緊急の発表会が開かれた。
私は教壇に立ち、ペニシリンの発見と、トーマスの治療経過を報告した。
「これが、青カビから抽出したペニシリンです」
私は黄金色の液体が入った小瓶を掲げた。
「この薬は、ブドウ球菌やレンサ球菌といった細菌を殺します」
「化膿、敗血症、産褥熱——これらの感染症を、治療できます」
聴衆がざわめいた。
「しかし、注意点があります」
私は続けた。
「ペニシリンは、すべての細菌に効くわけではありません」
「特に、結核菌には効きません」
「では、結核は?」
ある教授が質問した。
「結核の治療薬は、別に探します」
私は答えた。
「ペニシリンは、抗生物質の第一歩です」
「この成功をもとに、さらに強力な抗生物質を開発していきます」
◇
発表会の後、フリーデリケ教授が私のもとへやってきた。
「素晴らしかったわ、リーゼ」
教授が、小瓶を宝石のように掲げた。
「これが『抗生物質』……」
「人類が初めて手にした、細菌に対する絶対的な武器ね」
「はい」
私は頷いた。
「でも、これはまだ始まりです」
「ペニシリンの量産体制を整える必要があります」
「そして、他の抗生物質も見つけなければなりません」
「量産……」
教授が考え込んだ。
「確かに、この複雑な精製プロセスを、どうやって大規模化するか」
「それは大きな課題ね」
「でも、必ずやります」
私は言った。
「この薬を、すべての病院に、すべての医師に届けたい」
「一人でも多くの人を救いたいんです」
「分かったわ」
教授が微笑んだ。
「私も全力で協力する」
「一緒に、医学の未来を作りましょう」
◇
その夜、私は研究室で古医学書に向き合った。
ランプの明かりの下、ゼンメルワイス先生の手記を開く。
「ゼンメルワイス先生」
私は呟いた。
「まずは一つ、クリアしました」
「あなたが苦しめられた産褥熱や敗血症は、このペニシリンで治せます」
娘マリアさんの肖像画を見つめる。
「でも、先生。本番はここからです」
私は次のページをめくった。
そこには、結核菌のスケッチが描かれていた。
細長い、棒状の悪魔。
ペニシリンでは倒せない、強固な鎧を持った敵。
「ペニシリンは、あの『白い悪魔』には効きません」
私はエリーゼとルーカス先輩を振り返った。
二人とも、遅くまで研究室に残ってくれている。
「結核菌は、ペニシリンを弾き返す強固な細胞壁を持っています」
「ミコール酸という脂質の鎧です」
「では、どうするんですか?」
ルーカス先輩が尋ねた。
「次は……土です」
私は宣言した。
「ペニシリンでは結核は倒せません」
「結核を倒す薬は、土の中にいます」
「土?」
エリーゼが驚いた顔をした。
「ええ。放線菌という、土壌に住む菌を探します」
私は地図を広げた。
「明日から、ありとあらゆる場所の土を掘り返しましょう」
「森、畑、川辺、山、洞窟」
「数百、数千のサンプルを集めて、一つひとつ培養して、効果を確かめる」
「……気が遠くなるような作業ですね」
ルーカス先輩が苦笑した。
「でも、やる価値はあります」
私は力強く言った。
「ペニシリンで証明しました」
「抗生物質は、確実に存在する」
「なら、結核を倒す抗生物質も、きっとどこかにあるはずです」
「分かりました」
エリーゼが立ち上がった。
「私たち、泥だらけになって土を掘る覚悟はできてるわ」
「ありがとう」
私は二人に微笑んだ。
青カビの奇跡は、序章に過ぎない。
真の敵、結核との戦いは、泥にまみれた地道な探索から始まる。
窓の外では、星が輝いていた。
春の夜空に、無数の星が散らばっている。
その星の数だけ、土の中には微生物がいる。
その中に、きっと、結核を倒す「星」が眠っている。
私たちの「土掘り部隊」の結成が決まった瞬間だった。
◇
翌朝。
私たちは早速、土壌採取の計画を立てた。
「まず、医学院の周辺から始めましょう」
私は地図に印をつけた。
「庭、森、川辺、畑」
「それぞれの環境で、異なる微生物が住んでいます」
「道具は?」
ルーカス先輩が尋ねた。
「小さなシャベル、採取瓶、ラベル」
私はリストを示した。
「あと、記録ノート。どこで採取したか、必ず記録してください」
「後で効果が見つかったとき、同じ場所からまた採取できるように」
「了解です」
こうして、私たちの長い、長い土壌採取の旅が始まった。
春の日差しの中、泥にまみれて土を掘る。
周囲の学生たちは、不思議そうな顔で私たちを見ている。
「なんで特別研究員が、土なんか掘ってるんだ?」
「リーゼさん、変わってるよな」
でも、私は気にしない。
ペニシリンを発見したときも、みんな「腐ったパン」を集める私を変だと思っていた。
でも、結果が証明した。
科学は、常に「変わったこと」から始まる。
そして、その「変わったこと」が、いつか世界を変えるのだ。




