第76話 微生物学の夜明け
ベルンシュタイン伯爵の毒殺未遂事件から三週間が経過した。
春の日差しが王立医学院の中庭を照らす午前十時。
突如、王宮からの使者が到着したとの知らせが院内を駆け巡った。
「特別研究員リーゼ・ミュラーは至急、院長室へ」
使者の声が廊下に響く。
講義室からざわめきが起こった。
「また王宮からか?」
「今度は何の事件だ?」
学生たちの視線を背に、私は院長室へと向かった。
胸が高鳴る。
何か大きなことが起ころうとしている予感があった。
◇
院長室には、ヴィルヘルム先生とエバーハルト院長が待っていた。
そして、紫の外套をまとった王室の書記官が、金縁の巻物を手にして立っている。
「来たな、リーゼ君」
院長が私を手招きした。
私が部屋に入ると、書記官は威厳のある声で巻物を開いた。
「国王陛下の勅令を読み上げる」
室内の空気が張り詰める。
「『朕は、ベルンシュタイン伯爵事件における顕微鏡の功績を鑑み、ここに以下の勅令を発する』」
書記官の声が響く。
「『顕微鏡ヲ、王立医学院ノ正式ナル研究機器トシテ認メル』」
「『病魔ノ真ノ姿ヲ暴クコノ「真実ノ眼」ヲ、医学ノ礎トセヨ』」
「『また、これを可能としたリーゼ・ミュラー特別研究員の功績を讃え、王立医学院に「微生物学講座」の新設を許可する』」
私の目が見開かれた。
微生物学講座——それは、この世界で初めての正式な微生物学の研究機関だ。
「『国王陛下は、科学の発展こそが国の繁栄をもたらすと確信し、顕微鏡の量産と普及を命ずる』」
「『王室御用達職人組合に特別予算を下賜し、医学院各教室への配備を実現せよ』」
書記官が巻物を閉じた。
「以上が、国王陛下のご意向である」
しばしの沈黙の後、院長が深く頭を下げた。
「畏れ多きお言葉、確かに承りました」
ヴィルヘルム先生が私の肩に手を置いた。
「やったな、リーゼ。お前が変えたんだ。この国の医学の未来を」
私は言葉が出なかった。
ただ、胸が熱くなるのを感じていた。
◇
勅令が下ってから二週間。
王室御用達の職人たちが総動員され、顕微鏡の量産体制が整えられた。
私は工房を訪れ、その進捗を確認していた。
「お嬢ちゃん、見てくれよ!」
ガラス職人のマイスター・フリッツが、誇らしげにレンズを掲げた。
「前は一つ作るのに一週間かかったが、今じゃ三日だ」
「王室から最高級の石英ガラスが届くようになってな」
「磨きの精度も上がった」
彼の隣で、金属加工職人が顕微鏡の本体を組み立てている。
真鍮のフレームが、春の光を反射して美しく輝いていた。
「こいつで人が救えるんだってな」
若い職人が言った。
「俺たちの作ったもので、病気の原因が分かる。なんだか、すげえ仕事してる気がするぜ」
「当然だろう」
フリッツが胸を張った。
「俺たちは、科学の最前線を支える職人だ。魔法使いの杖を作る工房より、よっぽど誇り高いぜ」
職人たちの熱意が、工房全体を満たしていた。
彼らにとって、顕微鏡は単なる商品ではない。
「国王陛下のお墨付き」を得た、科学革命の象徴なのだ。
「もちろん、まだ高価で数も限られていますが」
私は言った。
「でも、医学院の各教室に一台ずつ配置されることになりました」
「そして、いずれはすべての病院に、すべての医師に届けたい」
「任せとけ、お嬢ちゃん」
フリッツが力強く頷いた。
「俺たちは、この国で一番の職人だ。必ず実現してみせる」
◇
そして、記念すべき日がやってきた。
「第一回微生物学講義」の開催日だ。
医学院の大講堂は、朝から異様な熱気に包まれていた。
通常の学生に加え、ベテランの教授たち、さらには他の学部からも見学者が押し寄せている。
「すごい人ね」
エリーゼが呟いた。
私たちは教壇の脇で、講義の準備をしていた。
顕微鏡が三台、等間隔に並べられている。
それぞれのプレパラートには、異なる微生物のサンプルが用意されていた。
「緊張する?」
エリーゼが笑った。
「死ぬほど」
私は正直に答えた。
「でも、ここで怯んだら、ゼンメルワイス先生に申し訳が立たない」
午前九時ちょうど。
ヴィルヘルム先生が教壇に立った。
「諸君、静粛に」
先生の一声で、ざわめきが収まった。
「本日は、医学史に残る歴史的な日だ」
「我々は今から、百六十年前に封印された知識を、この世に解き放つ」
先生が古医学書を掲げた。
ゼンメルワイス先生の遺産だ。
「これは、迫害を受け、志半ばで倒れた一人の天才医師の遺言である」
「彼は、病気の真の原因を見抜いていた」
「そして、それを証明する道具——顕微鏡を残してくれた」
聴衆の目が、教壇の顕微鏡に注がれる。
「今日、我々はその意志を継ぐ」
「これより、リーゼ・ミュラー特別研究員による、微生物学の実演講義を開始する」
ヴィルヘルム先生が私を手招きした。
深呼吸。
そして、私は教壇の中央へ進み出た。
◇
「皆さん、おはようございます」
私の声が、大講堂に響いた。
「今日、皆さんには、これまで誰も見たことのない世界をお見せします」
「それは、私たちの目には見えないけれど、確かに存在する世界」
「微生物の世界です」
私は最初の顕微鏡の前に立った。
「まず、これを見てください」
プレパラートをセットする。
これは、池の水を一滴取ったものだ。
「普通に見れば、ただの透明な水です」
「しかし——」
私は顕微鏡を覗き込んだ。
そして、スケッチボードに素早く図を描き始める。
「この中には、無数の生き物がいます」
私が描いたのは、ゾウリムシとミジンコの図だった。
「動く単細胞生物。繊毛を使って泳ぐもの。触手で獲物を捕らえるもの」
「この一滴の中に、驚くべき世界が広がっているのです」
「本当か?」
前列の学生が身を乗り出した。
「では、実際に見ていただきましょう」
私は学生たちを三つのグループに分け、順番に顕微鏡を覗かせた。
「うわっ!」
「本当に動いてる!」
「こんなものが水の中に……」
驚きの声が次々と上がる。
ある学生は目を丸くし、ある学生は興奮して友人に説明し始めた。
「見えるだろう?」
ヴィルヘルム先生が満足そうに頷いた。
「これが、我々の知らなかった真実だ」
◇
次に、私は二台目の顕微鏡へ移動した。
「では、次はこちらです」
今度のプレパラートは、化膿した傷から採取した膿だ。
「これは、感染した傷口から取ったものです」
「昔の人は『悪い気が傷に入った』と言いました」
「でも、真実は違います」
私はスケッチボードに、球状と棒状の細菌を描いた。
「傷が化膿するのは、『気』のせいではありません」
「この小さな生き物——細菌が、傷口で増殖するからです」
「細菌……」
フリーデリケ教授が前列から呟いた。
「つまり、病気の原因は『生物』だと?」
「その通りです、教授」
私は頷いた。
「細菌は生き物です。栄養を食べ、増殖し、毒素を出します」
「この毒素が、私たちの体を傷つけるのです」
「では、細菌を殺せば病気は治る?」
若い教授が質問した。
「理論的にはそうです」
私は答えた。
「細菌を殺す物質——私はこれを『抗生物質』と呼んでいます」
「それを見つければ、感染症は治療できるはずです」
講堂がざわついた。
これは、医学の常識を覆す発言だ。
「だが、そんな都合のいい薬があるのか?」
懐疑的な老教授が尋ねた。
「あります」
私は断言した。
「実は、ゼンメルワイス先生の手記に、その手がかりが記されています」
「青カビから作られる物質が、ある種の細菌を殺すことができる、と」
私は三台目の顕微鏡を指した。
「これから、私はその研究を進めます」
「そして、皆さんにも協力していただきたい」
「一緒に、この世界から病気を消しましょう」
しばしの沈黙の後、大きな拍手が湧き起こった。
◇
講義が終わった後も、大講堂は熱気に包まれていた。
学生たちは顕微鏡に群がり、何度も何度もレンズを覗き込んでいる。
「信じられん……」
「教科書に書いてあることが、全部変わるじゃないか」
「いや、変わるべきだ。これが真実なんだから」
かつては「悪魔のレンズ」と忌み嫌われた道具が、今や「最先端の科学」として輝いている。
国王陛下のお墨付きと、毒殺未遂事件を解決した実績。
それが、人々の恐怖を好奇心へと変えたのだ。
「リーゼ」
フリーデリケ教授が私の元へやってきた。
薬理学の権威である彼女は、興奮した様子で顕微鏡を撫でた。
「素晴らしいわ、本当に素晴らしい」
教授の目が輝いている。
「病気の原因が『生き物』だと分かれば、薬の作り方も変わるわ」
「今までは『悪い気を散らす』ことを考えていたけれど」
「これからは『この小さな生き物を殺す』薬を探せばいいのね?」
「その通りです、教授」
私は深く頷いた。
「抗菌作用のある薬草、カビ、土壌菌……」
「この世界には、まだ見ぬ『抗生物質』の種が眠っています」
「それを探し出し、この顕微鏡で効果を確かめるのです」
「具体的には、どうやって?」
教授が身を乗り出した。
「まず、様々な植物やカビのエキスを採取します」
「次に、それをプレパラートの細菌に垂らして、効果を観察するんです」
私はスケッチボードに簡単な図を描いた。
「細菌が死ねば、その物質には抗菌作用がある」
「そして、その成分を精製し、薬として使えるようにするのです」
「なるほど……」
フリーデリケ教授が顎に手を当てた。
「つまり、薬理学と微生物学の融合ね」
「私の専門と、あなたの専門を組み合わせれば……」
「きっと、革命が起こせます」
私は言った。
「何百年も『不治の病』と言われてきた感染症を、治せるようになるかもしれません」
「ふふ、燃えてきたわ」
教授が不敵に笑った。
「いいでしょう、リーゼ。私も協力するわ」
「薬理学講座の資源を、全部使っていい」
「一緒に、医学の歴史を変えましょう」
教授が手を差し出した。
私はその手を、しっかりと握り返した。
◇
そこへ、外科のシュトラウス教授も加わってきた。
「リーゼ君、素晴らしい講義だった」
白髭の老教授が、珍しく笑顔を見せている。
「私は長年、化膿との戦いに苦しんできた」
「どんなに丁寧に手術しても、傷が化膿すれば患者は死ぬ」
「その原因が、ようやく分かった」
教授が顕微鏡を見つめた。
「この小さな悪魔どもか」
「はい」
私は答えた。
「でも、原因が分かれば、対策も立てられます」
「手術の前に器具を熱湯で消毒する。手を石鹸で洗う」
「そして、傷口を清潔に保つ」
「アルコール消毒は?」
シュトラウス教授が尋ねた。
「効果的です」
私は頷いた。
「特に、手術前の手洗いには、アルコールと石鹸の併用が有効です」
「ゼンメルワイス先生の手記にも、詳しい手順が書かれています」
「そうか……」
教授がため息をついた。
「もっと早く知っていれば、救えた命があったのだろうな」
その言葉には、深い後悔がにじんでいた。
「でも、今からでも遅くありません」
私は言った。
「これから救える命があります」
「それを一つ一つ、増やしていきましょう」
「……ああ、その通りだ」
シュトラウス教授が力強く頷いた。
「外科講座でも、消毒法の徹底を指示しよう」
「そして、この顕微鏡を使って、術後の経過観察もしたい」
「化膿の兆候を、早期に発見できるかもしれん」
微生物学と薬理学と外科学の融合。
医学が大きく飛躍する音が聞こえるようだった。
◇
その日の夜。
私とエリーゼは、いつものように特別閲覧室にいた。
窓の外では、春の雨が静かに降っている。
ランプの明かりに照らされた部屋で、私たちは古医学書の最後の章に向き合っていた。
「いよいよ、最後の章ね」
エリーゼが呟いた。
古医学書の解読も、これで大詰めだ。
ここまで、ゼンメルワイス先生の知識は私たちの道を照らしてくれた。
消毒法。
顕微鏡の設計図。
様々な病原菌のスケッチ。
そして、毒物の識別方法。
すべてが、この時代には革新的な知識だった。
私はゆっくりとページをめくった。
しかし、その瞬間、私の手が止まった。
そこだけ、ページが涙で濡れたように波打っていたからだ。
インクも、所々にじんでいる。
まるで、書いている最中に涙が落ちたかのように。
タイトルは——『白いペスト』。
「白いペスト……」
エリーゼが呟いた。
「結核のことね」
そうだ。
結核。
この世界でも「労咳」と呼ばれ、不治の病として恐れられている。
若者が血を吐いて痩せ細り、死んでいく病気だ。
私の前世の記憶が蘇る。
結核は、二十世紀初頭まで「白いペスト」と呼ばれ、恐れられていた。
ペストが「黒い死」なら、結核は「白い死」。
患者は蒼白な顔で、静かに、しかし確実に衰弱していく。
ページをめくる。
そこには、ゼンメルワイス先生の無念が刻まれていた。
『私は見つけた。この病の原因となる細菌を』
スケッチには、細長い棒状の細菌が描かれていた。
結核菌——マイコバクテリウム・ツベルクローシス。
染色技術が未熟な時代に、これを見つける執念には恐れ入る。
だが、次の文章を読んで、私の胸が締め付けられた。
◇
『だが、私は敗北した』
手記の文字が乱れている。
まるで、震える手で書いたかのように。
『この菌はしぶとい。あまりにもしぶとい』
『熱湯消毒も効かない。エタノールも効かない』
『既存の薬草も、すべて無力だった』
結核菌は、細胞壁が特殊な脂質で覆われている。
ミコール酸という、ワックスのような物質だ。
これが細菌を保護し、あらゆる攻撃を弾き返す。
『分厚い蝋の鎧をまとったこの悪魔は、あらゆる攻撃を弾き返す』
『私は百種類以上の薬草を試した』
『様々なカビのエキスも試した』
『だが、すべて無駄だった』
ゼンメルワイス先生の絶望が、紙面から溢れ出している。
『そして、最も残酷なことに——』
次のページをめくった瞬間、私は息を呑んだ。
『私の愛する娘、マリアもこの病に侵された』
ページの上部に、少女の肖像画が描かれていた。
優しい笑顔の、美しい娘だ。
その絵の横に、日付が記されている。
『一八××年、春。マリア、十六歳』
そして、その下に続く文章。
『私は彼女の痰の中に、この菌がいるのを見た』
『顕微鏡で確認した。間違いない』
『犯人は分かっている。そこにいる』
『目の前で増殖し、娘の命を奪おうとしている』
私の目頭が熱くなった。
『だが、私には殺す武器がない』
『医師として、これほどの地獄があるだろうか』
『病気の正体を知りながら、何もできない』
『ただ手を握り、彼女が日に日に痩せ細り、咳をし、血を吐き、衰弱していくのを見守ることしかできなかった』
涙の跡は、ここにあったのだ。
インクのにじみは、ゼンメルワイス先生の涙だ。
『マリアは半年間、苦しんだ』
『最期まで、私に「お父様、ありがとう」と言ってくれた』
『私は何もしてやれなかったのに』
『何も』
文字が大きく乱れている。
◇
私は本を置き、目を閉じた。
エリーゼが私の肩に手を置いてくれた。
「……辛い記録ね」
エリーゼの声も、震えていた。
しばらくして、私は再びページをめくった。
そこには、ゼンメルワイス先生の最後のメッセージが記されていた。
『未来の友よ』
文字が、また丁寧になっている。
まるで、気持ちを立て直して書いたかのように。
『私はこの病に敗北した』
『娘を救えなかった』
『だが、お前たちなら、きっとできる』
次のページに、詳細なメモが記されていた。
『この菌の特徴を記す』
『脂質の鎧を持つ。通常の消毒では死なない』
『増殖は遅いが、しぶとい。人体の中で何年も生き続ける』
『肺の中で増殖し、組織を破壊する』
『咳によって空気中に広がり、他者に感染する』
そして、最後の文章。
『未来の友よ。どうか、私の仇を討ってくれ』
『この「白い悪魔」を殺す方法を見つけてくれ』
『そして、マリアのように苦しむ少女を、一人でも減らしてくれ』
『それが、私の最後の願いだ』
ページの最後に、小さく記されていた。
『娘の墓に、この本を埋めるつもりだった』
『だが、思い直した』
『この知識は、未来に繋がなければならない』
『たとえ私が敗北者でも、次の世代は勝者になれるかもしれない』
『だから、この本を残す』
『頼む。未来の医師よ』
◇
私は本を閉じた。
重い。
この本の重さは、紙の重さではない。
失われた命の重さだ。
そして、未来への希望の重さだ。
「……結核」
私は呟いた。
前世の記憶を整理する。
結核の治療には、いくつかの抗生物質が必要だ。
第一選択薬は「ストレプトマイシン」。
放線菌という土壌菌から作られる抗生物質だ。
一九四三年、ワクスマンが発見した。
そして、「イソニアジド」「リファンピシン」「エタンブトール」。
これらを複数組み合わせて、最低でも半年間、服用し続けなければならない。
なぜなら、結核菌は非常にしぶといからだ。
一種類の薬では、耐性菌が生まれてしまう。
だから、複数の薬で同時に攻撃する必要がある。
そして、そもそもストレプトマイシンを発見するのが困難だ。
土壌菌は無数にある。
その中から、抗結核作用を持つものを見つけ出すのは、砂漠で針を探すようなものだ。
ペニシリンよりもはるかに難しい。
時間もかかる。
失敗も多いだろう。
それでも。
「やるしかないわね」
エリーゼが私の肩に手を置いた。
彼女の目にも、強い決意が宿っていた。
「ゼンメルワイス先生がここまでバトンを繋いでくれたんだもの」
「アンカーは私たちが務めなきゃ」
「ええ」
私は立ち上がった。
本を胸に抱きしめる。
「やりましょう」
「結核菌を殺す薬を見つける」
「そして、この世界から『不治の病』を一つ消すの」
「計画は?」
エリーゼが尋ねた。
「まず、土壌サンプルを集めます」
私は答えた。
「畑、森、川辺、あらゆる場所から」
「その中の微生物を培養して、抗菌作用を持つものを探す」
「そして、効果があるものを精製する」
「気が遠くなるような作業ね」
エリーゼが苦笑した。
「でも、やる価値はある」
私は窓の外を見た。
雨が上がり、月が顔を出していた。
満月だ。
その光が、閲覧室を静かに照らしている。
「医学の夜明けは来た」
私は呟いた。
「今日の講義で、微生物学は正式に認められた」
「顕微鏡も量産される」
「これで、基盤は整った」
「だが、日が昇れば、そこにはまだ倒すべき強大な敵が待っている」
エリーゼが続けた。
「その通り」
私は本を机に置き、両手を握りしめた。
「結核。白いペスト」
「何千年も人類を苦しめてきた、最大の敵の一つ」
「でも、私たちには武器がある」
エリーゼが顕微鏡を指した。
「科学がある。知識がある」
「そして、ゼンメルワイス先生の遺志がある」
「ええ」
私は頷いた。
「ゼンメルワイス先生」
私は心の中で呼びかけた。
「あなたの娘さん、マリアさんのためにも、私は挑みます」
「この世界のすべての『マリア』を救うために」
「最大の難敵、結核に」
月光が、古医学書の表紙を照らしている。
その光は、まるで祝福のようだった。
◇
翌朝。
私は早速、行動を開始した。
まず、フリーデリケ教授の薬理学講座を訪れた。
「教授、協力していただけますか?」
私が尋ねると、教授は即座に頷いた。
「もちろんよ、リーゼ」
「何が必要?」
「土壌サンプルの培養設備と、抽出・精製の器具です」
私は説明した。
「結核の治療薬を探したいんです」
「結核……」
教授の表情が引き締まった。
「確かに、それは最大の課題ね」
「分かったわ。講座の設備、全部使っていい」
「私も手伝う」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「これから、長い戦いになります」
「でも、必ず見つけ出します」
「その意気よ」
教授が笑った。
「医学の革命は、もう始まっているのよ」
「私たちは、その最前線にいる」
「楽しまなくちゃ」
そうだ。
これは戦いであり、同時に冒険でもある。
未知の世界への挑戦だ。
私は窓の外を見た。
春の日差しが、医学院の庭を照らしている。
新しい季節が始まった。
そして、新しい医学も、今日から始まる。




