第75話 亡霊の告発
王宮の「白の間」。
普段は式典や舞踏会に使われるこの広間で、異例の公開尋問が行われていた。
天井には豪華なシャンデリアが吊られ、壁には歴代の国王の肖像画が並んでいる。
白い大理石の床は磨き上げられ、鏡のように光を反射している。
そして今日、この神聖な場所が、法廷と化していた。
玉座には国王陛下。
白髪混じりの髪と、威厳に満ちた顔立ち。
王冠を戴き、王笏を手に、動かざること山の如く座っている。
その傍らには第一王子、アレクサンダー王子。
普段の優しい表情は影を潜め、今は厳しい騎士の顔をしている。
そして、被告席には——
レオポルド公爵が立っていた。
五十代の貴族。
立派な髭を蓄え、豪華な服を着ている。
その顔には、余裕の表情が浮かんでいる。
まるで、この尋問を茶番だと思っているかのように。
◇
広間には、多くの貴族たちが集まっていた。
公開尋問——それは、重大な罪を犯した貴族を、他の貴族たちの前で裁く、極めて稀な儀式だ。
通常、貴族の罪は密室で処理される。
しかし、今回の事件は違う。
王子暗殺未遂——それは、王家に対する反逆に等しい。
だからこそ、公開の場で裁かれる必要があった。
私は、証人席に座っていた。
隣には、エリーゼとルーカス先輩、そしてヴィルヘルム先生。
みんな、緊張した面持ちだ。
私の前には、顕微鏡が置かれていた。
真鍮色に輝く、あの装置。
そして、私の腕の中には、ゼンメルワイスの古医学書が抱かれていた。
これから始まる戦いの、武器だ。
◇
近衛騎士団による強制捜査の結果、公爵邸の隠し部屋から小瓶が見つかった。
中身は、猛毒「青鬼の根」の濃縮液だ。
執事ハンスの体内から検出されたものと、同じ毒物。
これが、物的証拠だ。
しかし、レオポルド公爵は不敵な笑みを崩していなかった。
彼は、自信に満ちた声で言った。
「陛下、これは冤罪です」
「その毒は害獣駆除のために保管していたもの。北方の領地で、狼の被害が多いのです」
「執事が勝手に持ち出し、自殺未遂に使ったのでしょう」
「私が王子殿下を狙うなど、ありえません。何のメリットがあると言うのですか?」
公爵の弁明は、一見もっともらしく聞こえた。
確かに、貴族が害獣駆除のために毒を保管することは珍しくない。
そして、使用人が勝手に持ち出すことも、ないとは言えない。
物的証拠だけでは、公爵を有罪にするには不十分だ。
◇
さらに、公爵は攻撃の矛先を私に向けてきた。
「そもそも、そこの小娘——リーゼ医師の証言など信用に値しません」
公爵が私を指差す。
その目には、侮蔑の色が浮かんでいる。
「顕微鏡? 目に見えない結晶? そんなものは子供の空想です」
「だいたい、なぜただの少女が、禁制品である『青鬼の根』の微細な構造を知っているのです? おかしいではありませんか」
「もしかしたら、彼女こそが毒殺を企て、それを私に擦り付けようとしているのでは?」
貴族たちの間から、同意するような囁き声が漏れる。
「確かに、若い娘が毒物の知識を持っているのは不自然だ」
「顕微鏡とやらも、本当に信用できるのか?」
「魔法で幻を見せられているのかもしれん」
やはり、未知の技術(顕微鏡)への不信感は根強い。
そして、若い女性に対する偏見も。
私は、深呼吸をした。
落ち着け。
焦るな。
ゼンメルワイス先生も、こうして孤立したのだ。
でも、私には武器がある。
証拠がある。
そして、仲間がいる。
◇
私は一歩前に出た。
手には、あの一冊の古医学書を抱えている。
「陛下、そして公爵閣下」
私の声は、広間に響いた。
最初は少し震えていたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「私がこの毒の正体を知っていたのは、私の知識ではありません」
「私は、先人の遺産を受け継いだだけです」
私は古医学書を高々と掲げた。
羊皮紙の表紙が、シャンデリアの光を反射する。
「これは、百六十年前に実在した天才医師、イグナーツ・ゼンメルワイス氏の研究記録です」
会場がざわめく。
「ゼンメルワイス? 聞いたことがない」
「百六十年前の医師だと?」
「そんな古い記録が、今も残っているのか?」
私は続けた。
「彼は病気の研究をする過程で、病死に見せかけた毒殺を見抜くため、あらゆる毒物の研究も行っていました」
「そして、顕微鏡を使ってその結晶構造を詳細にスケッチしていたのです」
「その中には、『青鬼の根』も含まれていました」
私は該当のページを開いた。
そこには、ゼンメルワイスの手書きの文字と、精密なスケッチが描かれていた。
針状の結晶が、放射状に広がっている図。
まるで、星のように。
「これが、百六十年前に描かれた『青鬼の根』の結晶図です」
私は近習を通じて、その本を陛下に献上した。
◇
陛下がページを手に取り、じっくりと見つめる。
その目は、真剣そのものだ。
そこには、インクで描かれた精密な針状結晶のスケッチがあった。
細かい注釈も添えられている。
『青鬼の根。北方山岳地帯産。神経毒。結晶は特徴的な針状』
『長さ約0.05mm。放射状に広がる。光を当てると屈折する』
『毒性は極めて強い。致死量は成人で約5mg』
「……驚くべき詳細さだ」
陛下が呟いた。
「この時代に、ここまで精密な観察ができたとは」
「陛下」
私は深呼吸をして、続けた。
「そして、こちらが……」
私は用意された顕微鏡の前に立った。
ステージには、二つのガラス板がセットされている。
一つは執事ハンスの胃の内容物から採取したもの。
もう一つは、公爵邸から押収された毒。
「陛下、この『命のレンズ』を覗いてください」
「百六十年前のスケッチと、全く同じものがそこに見えるはずです」
「そして、二つの毒物——ハンスさんの体内にあったものと、公爵邸から押収されたもの——が、完全に一致することも」
陛下がゆっくりと玉座を立ち上がった。
王としての威厳を保ちながら、慎重に顕微鏡へと近づく。
広間の全員が、息を呑んで見守っている。
◇
「陛下、接眼レンズ——上のレンズに目を近づけてください」
私は恐れ多くも、陛下の観察を補助した。
「そして、このダイヤルをゆっくりと回していただくと、ピントが合います」
陛下が顕微鏡を覗き込む。
最初は何も見えないだろう。
でも、少しずつピントを合わせていけば——
「……おお」
陛下が驚きの声を上げた。
「見える。何かが、見える」
「陛下、中央に見える透明な粒が結晶です」
私は説明を続けた。
「無数の針が放射状に広がる形……古医学書のスケッチと照らし合わせてご覧ください」
陛下はページを手に取り、顕微鏡と見比べる。
レンズを覗き、本を見る。
また、レンズを覗く。
長い沈黙。
広間中の緊張が最高潮に達する。
私の心臓が、激しく鼓動している。
もし、陛下が一致を認めてくれなければ——
もし、これを「魔術の幻」だと判断されたら——
すべてが終わる。
公爵は無罪となり、ハンスは誣告罪で処罰され、私は医師としての信用を失う。
そして、カール王子の命も——
「……同じだ」
陛下が静かに、しかし重々しく言った。
その声は、広間全体に響き渡った。
「古医学書の絵と、二つの毒の結晶。全てが完全に一致している」
「無数の針のような形……これは見間違いようがない」
「そして——」
陛下が次のプレパラートを観察する。
「公爵邸から押収された毒と、執事の体内にあった毒。これも、完全に一致している」
「同じ結晶構造、同じ大きさ、同じ形状」
「これは、間違いなく同一の毒物だ」
◇
「なっ……!?」
レオポルド公爵の顔色が変わった。
余裕の笑みが、恐怖の表情に変わる。
「そ、そんな馬鹿な! 百六十年前の古文書だと!?」
「そんなものが……!」
公爵は言葉を失った。
彼の計算では、物的証拠だけでは自分を有罪にできないはずだった。
執事の証言も、「使用人の虚言」として退けられるはずだった。
でも、科学的証拠は違う。
誰の目にも見える、客観的な事実。
陛下自身が確認した、動かぬ証拠。
言い逃れは、できない。
私は公爵を真っ直ぐに見据えた。
「公爵、あなたは言いましたね。『子供の空想だ』と」
「ですが、これは歴史の真実です」
「百六十年前、無念の中に消えた医師が、未来のために残した『科学の目』です」
「その目が今、あなたの嘘を見抜いたのです」
私は古医学書を胸に抱いた。
「ゼンメルワイス先生は、孤独の中で戦い、敗れました」
「誰にも信じてもらえず、悪魔扱いされ、追放されました」
「でも、先生は諦めませんでした」
「未来の誰かが、この研究を見つけてくれることを信じて、記録を残したのです」
「そして今日——百六十年の時を超えて、先生の研究が悪を暴きました」
公爵は後ずさった。
その顔は、青白く変色している。
もはや言い逃れはできなかった。
「証拠がない」と高をくくっていた彼は、まさか百六十年前の死者によって追い詰められるとは夢にも思っていなかっただろう。
◇
「レオポルド公爵」
陛下の声が、雷のように響いた。
その声には、怒りと失望が込められていた。
「言い逃れは聞かぬ。執事ハンスへの毒殺未遂、および第二王子カールへの害意、万死に値する」
「王家に仇なす者を、余は許さぬ」
「連れて行け!」
近衛騎士たちが公爵を取り押さえる。
公爵は喚き散らしながら、必死に抵抗した。
「待て! 待ってくれ! 陛下!」
「私は、ただ王国のことを思って……!」
「第二王子は病弱だ! 国を治められるはずがない!」
「だから……だから!」
しかし、その言葉は誰の心にも届かなかった。
公爵は、騎士たちに引きずられるように広間から連れ出されていった。
その姿は、哀れですらあった。
かつて権力を誇った貴族が、科学の力によって打ち倒される。
それは、新しい時代の幕開けを象徴するかのようだった。
◇
静寂が戻った広間で、陛下が私に向き直った。
「リーゼ・フォン・ハイムダルよ」
陛下の声は、今度は優しかった。
「そなたの知識と、先人の遺産が、我が息子を救った」
「その『顕微鏡』とやらは、真実を映す鏡であったな」
「余は、この装置の有用性を認める」
「そして、ゼンメルワイス医師の名誉を、ここに回復することを宣言する」
「恐れ入ります」
私は深く礼をした。
涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。
陛下が続ける。
「リーゼよ。そなたは、王立医学院に顕微鏡を正式に導入せよ」
「予算は、余が用意する」
「そして、ゼンメルワイス医師の研究を、広く世に知らしめるが良い」
「彼の無念を、晴らすのだ」
「はい!」
私は声を上げて答えた。
胸の中で、ゼンメルワイス先生に語りかける。
(先生、見ていましたか?)
(あなたの残したスケッチが、悪を裁きました)
(そして、あなたの名誉が、今ここで回復されました)
(あなたは今日、王国を救ったのです)
古医学書が、私の腕の中で温かく感じられた。
それはまるで、先生が「よくやった」と褒めてくれているようだった。
◇
尋問が終わり、広間から人々が去り始めた。
その時、一人の少年が私のもとへ駆け寄ってきた。
カール王子だ。
「リーゼ先生!」
王子は、涙を浮かべながら私の手を握った。
「僕を……守ってくれて、ありがとうございます」
「いえ、殿下。これは私の義務です」
「でも……」
カール王子は、顕微鏡を見つめた。
「この道具が、僕を救ったんですね」
「そして、百六十年前の先生が」
「ええ」
私は頷いた。
「科学は、時を超えて人を救うのです」
「ゼンメルワイス先生が残してくれた知識が、今日、殿下の命を守りました」
アレクサンダー王子も、近づいてきた。
「リーゼ先生。本当に、感謝の言葉もありません」
王子は深々と頭を下げた。
「弟を救ってくれて、ありがとうございます」
「そして、この国に科学の光をもたらしてくれて」
「あなたは、真の英雄です」
「とんでもありません」
私は慌てて否定した。
「私は、ただ正しいことをしただけです」
「そして、それができたのは、ゼンメルワイス先生と、仲間たちのおかげです」
私は、エリーゼとルーカス先輩、ヴィルヘルム先生を見た。
みんな、笑顔で私を見ている。
そう。
私は一人ではない。
仲間がいる。
先人の遺産がある。
そして、科学という武器がある。
だからこそ、勝つことができたのだ。
◇
その夜、私は自室で古医学書を開いた。
ゼンメルワイスの手書きの文字を、一つ一つ丁寧に読む。
その中に、最後のページに書かれた言葉を見つけた。
『もし、この本を読んでいる未来の医師がいるなら、伝えたい』
『諦めるな』
『たとえ世界中が敵に回っても、真実を信じろ』
『科学は、必ず勝つ』
『なぜなら、真実は一つしかないからだ』
『そして、その真実は、時を超えて輝き続ける』
『君の成功を、天国から祈っている』
私は、涙が止まらなかった。
先生。
あなたの祈りは、届きました。
あなたの研究は、百六十年の時を超えて、悪を暴き、命を救いました。
そして、あなたの名誉は、今日、王国中に知れ渡りました。
もう、「狂人」とは呼ばせません。
あなたは、偉大な科学者です。
そして、私の師匠です。
私は、あなたの遺志を継ぎます。
科学の力で、この世界を変えていきます。
窓の外には、満月が浮かんでいた。
その光が、古医学書を照らす。
まるで、祝福のように。
新しい時代が、始まろうとしていた。
科学と医学の、新しい時代が。




