第74話 毒の正体と沈黙の証言
アトロピンの投与から数分後——
男の痙攣が完全に治まった。
呼吸も安定し、脈拍も正常値に近づいている。
収縮していた瞳孔も、少しずつ開き始めている。
「……峠は越えたわ」
私は額の汗を拭った。
全身から力が抜けていくのを感じる。
緊張の糸が切れた瞬間だ。
だが、安堵している暇はない。
この患者は、ただの急患ではない。
何かの陰謀に巻き込まれた、重要な証人かもしれない。
◇
「リーゼ、こいつの服に入っていた手紙だが……」
ルーカス先輩が低い声で言った。
男のポケットから落ちた手紙を、慎重に拾い上げる。
手紙には、猛禽類を模した紋章があった。
鷲が剣を掴んでいる図柄——見覚えがある。
「レオポルド公爵家の紋章だ」
先輩の顔が険しい。
レオポルド公爵——第一王子派の急先鋒であり、最近回復した第二王子を疎ましく思っているという噂の貴族だ。
王位継承権争いにおいて、第一王子の側に立ち、第二王子の復活を快く思っていない。
そして、カール王子を治した私のことも——目障りだと思っているはずだ。
「公爵家の執事が、なぜこんな猛毒を?」
エリーゼが不安そうに聞いた。
「口封じ……かもしれません」
私は患者の顔を見つめた。
まだ意識は戻っていないが、呼吸は安定している。
この人は、何を知ってしまったのだろう。
何を見てしまったのだろう。
そして、それゆえに殺されそうになったのだろう。
私は男の口元に残っていた吐瀉物を、ガラス板に採取した。
前世の知識——法医学的な証拠採取の手法だ。
「もし彼が『何か』を知ってしまい、消されそうになったのだとしたら」
私は顕微鏡に向かった。
ゼンメルワイス先生の教え——『必要なのは、知識だけではない。証拠だ』。
真実を主張するだけでは、権力者には勝てない。
科学的な、誰にも反論できない証拠が必要だ。
◇
吐瀉物をプレパラートに載せる。
カバーガラスを慎重にかぶせる。
気泡が入らないように、そっと。
顕微鏡のステージにセットし、反射鏡で光を調整する。
倍率を上げる。
最初は低倍率で全体を観察し、次に高倍率で詳細を見る。
ピントを合わせていくと——
見えた。
「……やっぱり」
レンズの向こうには、特徴的な針状の結晶が見えた。
細長い、槍のような形状。
そして、破壊された植物細胞の破片。
細胞壁が壊れ、内容物が流れ出している様子が見える。
これは、精製された毒物の特徴だ。
植物をすりつぶし、有毒成分だけを抽出したもの。
自然界では、こんな高濃度の毒は存在しない。
「『青鬼の根』……」
私は呟いた。
北方の山岳地帯にのみ自生する、強力な神経毒を持つ植物だ。
根の部分に、アコニチンに似たアルカロイド系の毒が含まれている。
一般には流通していない。
誤って食べるようなものではない。
つまり、この毒は——
明らかに、殺意を持って精製され、意図的に飲まされたものだ。
◇
「先輩、この患者を絶対に守ってください」
私は顕微鏡から顔を上げた。
「彼は、ただの患者ではありません。重要な証人です」
「そして、彼を殺そうとした者は、また襲ってくるかもしれません」
ルーカス先輩が剣の柄に手を置き、頷いた。
その目は、騎士としての決意に満ちていた。
「分かった。近衛騎士団の名において、この診療所を要塞化する。ネズミ一匹通さん」
「エリーゼ、すまないが医学院に連絡を。ヴィルヘルム先生にも事態を説明してくれ」
「はい!」
エリーゼが走り出した。
ヴィルヘルム先生がいれば、さらに心強い。
そして、医学院の権威を背景にすれば、政治的な圧力にも対抗できる。
私は再び顕微鏡を覗き込んだ。
毒物の結晶構造を、詳細にスケッチする。
この特徴的な針状の形状。
長さと太さの比率。
結晶の端の形状。
すべてを記録する。
これが、証拠になる。
◇
数時間後。
執事が目を覚ました。
彼はゆっくりと目を開け、天井を見上げた。
その目には、混乱と恐怖が浮かんでいた。
自分がどこにいるのか、何が起こったのか、理解できていない様子だ。
そして、周囲を見渡して——
私たちの姿を見た瞬間、彼は激しく震え出した。
「ひっ……! 殺さないでくれ! 私は……私は何も!」
彼は必死にベッドから逃げようとする。
でも、体はまだ毒の影響で動かない。
「落ち着いてください」
私は彼の目を見て、静かに言った。
パニック状態の患者には、落ち着いた声で、はっきりと話すことが重要だ。
「私は医師です。リーゼ・フォン・ハイムダルと言います」
「あなたを助けました。もう大丈夫です」
「ここには近衛騎士がいます。もう誰もあなたを傷つけられません」
執事はルーカス先輩の姿を見て、少し落ち着きを取り戻した。
近衛騎士の制服を見て、ここが安全な場所だと理解したようだ。
呼吸が少し落ち着いてくる。
「……私は、生きているのですか?」
彼の声は、か細く震えていた。
「はい。毒を飲まされましたが、解毒に成功しました」
「あなたの命は、助かりました」
執事の目から、涙が溢れた。
安堵の涙だ。
そして——恐怖の涙でもある。
「話してくれますか?」
私は優しく聞いた。
「何があったのか。誰があなたに毒を飲ませたのか」
執事は、しばらく沈黙した。
葛藤しているのが分かる。
真実を話せば、自分の命が危ない。
でも、黙っていても、また狙われるかもしれない。
そして——彼は、ゆっくりと口を開いた。
◇
「……旦那様は、焦っておられた」
彼の名はハンスといった。
レオポルド公爵家に、二十年仕えている執事だ。
「カール王子が回復し、馬に乗ったことで、第一王子殿下の地位が揺らぐと……」
「それまで病弱だった第二王子が、突然健康を取り戻した」
「そうなれば、王位継承権争いが複雑になる」
「旦那様は、それを恐れておられました」
ハンスは震える声で続けた。
「だから、私に毒を渡した。『王子の薬に混ぜろ』と」
エリーゼが息を呑む。
やはり、狙いはカール王子だったのだ。
カール王子を暗殺し、再び第二王子を病床に戻そうとした。
いや——今度は、永遠に。
「でも、私は出来なかった! あんな幼い方に毒を盛るなんて……」
ハンスの声が大きくなった。
涙が頬を伝う。
「私にも、孫がいるんです。カール王子と同じくらいの年の」
「そんな子供に、毒を飲ませるなんて……できるわけがない!」
「断ろうとしたら、無理やりワインを飲まされたんです。その中に毒が……」
「『お前も共犯だ。黙っていなければ、お前だけでなく家族も……』と脅されました」
ハンスは泣き崩れた。
肩を震わせて、声を上げて泣いた。
二十年仕えた主人に裏切られ、家族を脅され、自分も殺されそうになった。
その絶望が、痛いほど伝わってくる。
◇
「証言してくれますか?」
ルーカス先輩が尋ねた。
騎士として、法の裁きを求める声だ。
「……無理です」
ハンスは首を振った。
その目には、諦めが浮かんでいた。
「相手は公爵家です。私ごときの証言など、『狂人の戯言』として握りつぶされます」
「証拠がない……物的証拠がなければ、誰も信じてくれません」
「それに、旦那様は賢い方です。もう毒は処分されているでしょう」
「私が何を言っても、『妄想だ』『恨みを持った使用人の虚言だ』と言われておしまいです」
確かにその通りだ。
使用人の証言だけでは、高位貴族を罪に問うことは難しい。
この世界には、明確な階級制度がある。
貴族の言葉は、平民の言葉よりも重い。
それが、現実だ。
逆に、誣告罪でこちらが処罰される可能性もある。
貴族に対して虚偽の告発をした、と。
ゼンメルワイス先生の無念が蘇る。
『真実を見せるだけでは、人は動かない』
百六十年前、先生は真実を訴えたが、誰にも信じてもらえなかった。
証拠があっても、権威がなければ、真実は葬られる。
いや、違う。
私には、先生にはなかった武器がある。
◇
「証拠なら、あります」
私は顕微鏡を指差した。
みんなの視線が、その真鍮色の装置に集まる。
「あなたの胃の中に残っていた毒と、公爵邸にあるはずの毒。それを『科学的』に一致させることができます」
「顕微鏡で観察すれば、毒物の結晶構造が分かります」
「そして、その構造は、産地や精製方法によって微妙に異なります」
「まるで指紋のように、一つ一つが固有の特徴を持っているんです」
私はスケッチを見せた。
針状の結晶の詳細な図。
「これが、あなたの体内から採取した毒物の結晶構造です」
「もし公爵邸から同じ毒が見つかれば、それを顕微鏡で観察します」
「そして、この結晶構造と一致すれば——それは、動かぬ証拠になります」
「『同じ毒物である』ということを、科学的に証明できるんです」
ハンスが、驚いたように顕微鏡を見た。
「この……箱のような道具で、そんなことが?」
「ええ。これは『命のレンズ』です」
私は微笑んだ。
「病気を診断するだけでなく、真実を明らかにすることもできるんです」
◇
ルーカス先輩が頷いた。
「なるほど。科学捜査、というわけか」
「前世で言う『法医学』ですね」
私は説明した。
「証拠を科学的に分析し、真実を導き出す学問です」
「証言だけでは不十分でも、物的証拠があれば、誰も反論できません」
「でも……」
エリーゼが心配そうに言った。
「公爵家を家宅捜索するなんて、そんな権限、誰が持っているの?」
確かに、それが問題だ。
いくら証拠が重要だと分かっていても、公爵家を捜索する権限がなければ、何もできない。
そして、公爵家ほどの権力者を相手にするには——
それ相応の権威が必要だ。
「私が、すぐに行動を開始します」
私は立ち上がった。
「アレクサンダー王子と、ヴィルヘルム先生に急使を送ります」
「状況を伝え、協力を仰ぎます」
「王家の権威と、医学院の信頼を背景にすれば、公爵家でも無視できません」
ゼンメルワイス先生が失敗したのは、一人で戦ったからだ。
でも、私は違う。
私には、仲間がいる。
王家の後ろ盾がある。
そして、科学という武器がある。
◇
夜。
診療所にアレクサンダー王子がお忍びでやってきた。
護衛の騎士を数人連れて、質素な外套に身を包んでいる。
一般市民には、王子だと気づかれないだろう。
私は、執事ハンスの証言と、顕微鏡で観察した毒物の結晶構造を説明した。
話を聞いた王子の顔は、最初は驚きで、次に怒りで、真っ赤になっていた。
「弟を……カールの命を狙ったというのか」
王子の声が震えている。
怒りで、拳が震えている。
「許さん。レオポルド公爵……!」
王子は剣の柄を握りしめたが、すぐに深呼吸をして冷静さを取り戻した。
感情に流されず、理性で判断する。
それが、未来の国王としての資質だ。
「リーゼ先生。その『顕微鏡』というもので、確実に証明できるのだな?」
「はい」
私は断言した。
「ハンスさんの体内から採取した毒の結晶構造と、公爵家から押収されるであろう毒物の構造。それが一致すれば、動かぬ証拠になります」
「毒物は指紋のように、産地や精製方法で微細な特徴が異なります。顕微鏡なら、それを見分けられます」
「そして、その特徴が一致すれば——『同じ場所で、同じ方法で精製された、同一の毒物である』と証明できます」
「つまり、公爵家にある毒と、ハンスさんに飲まされた毒が同一であれば——」
「公爵家が、ハンスさんに毒を飲ませたという証拠になります」
王子は深く頷いた。
その目には、決意の光が宿っている。
「分かった。父上(国王)には私が話す」
「近衛騎士団を動かし、公爵邸を家宅捜索する。毒が見つかれば、貴様の出番だ」
「ただし——」
王子は真剣な顔で私を見た。
「もし証拠が一致しなければ、我々が窮地に立たされる」
「公爵家を不当に捜索したとして、逆に訴えられるかもしれない」
「それでも、やるか?」
◇
私は一瞬も迷わなかった。
「やります」
「科学は嘘をつきません。証拠は、必ず真実を語ります」
「そして、私は医師です。患者を——カール王子を守る義務があります」
王子が微笑んだ。
それは、信頼と感謝の笑みだった。
「そうか。では、任せたぞ」
「明日の朝、近衛騎士団が公爵邸を捜索する」
「毒物が見つかり次第、すぐに知らせる」
「お前は、顕微鏡で分析する準備をしておいてくれ」
「はい!」
私は敬礼した。
ゼンメルワイス先生。
見ていてください。
権力と科学が手を組めば、悪意ある陰謀さえも暴くことができる。
あなたは一人で戦い、敗れました。
でも、私は違います。
仲間がいます。権威があります。そして、科学という武器があります。
私は今、あなたの教えを実践します。
『真実は、正しいだけでは勝てない。力を持たなければならない』
その言葉の意味を、私は理解しました。
そして、今こそ、その力を使う時です。
◇
王子が去った後、私は顕微鏡の前に座った。
エリーゼとルーカス先輩も、隣にいる。
「明日、決着がつくわね」
エリーゼが言った。
「ええ。公爵家から毒が見つかれば、すぐに分析します」
「そして、真実を明らかにします」
ルーカス先輩が私の肩に手を置いた。
「お前は、本当に強くなったな」
「以前は、ただ患者を治すことだけを考えていた」
「でも今は、政治と戦い、陰謀と戦い、そして真実のために戦っている」
「立派な医師だ」
その言葉に、私は少し照れくさくなった。
「私は、ただ正しいことをしているだけです」
「でも、それができるのは、先輩たちがいるからです」
「一人では、何もできません」
三人で、顕微鏡を見つめた。
この小さな装置が、明日、王国を揺るがす真実を明らかにする。
そして、カール王子の命を守る。
私は、絶対に失敗しない。
科学の力で、悪を暴く。
それが、私の使命だ。




