第73話 封印された「悪魔のレンズ」
顕微鏡の完成から数日。
私たちは興奮冷めやらぬまま、細菌の研究を続けていた。
池の水、井戸水、腐った肉、患者の膿。
あらゆるものを観察し、そこに蠢く微小な生命を記録し続けた。
しかし、その一方で私は、ある一つの疑問を抱き続けていた。
研究室の机に向かいながら、何度も同じことを考えてしまう。
——なぜ、ゼンメルワイス先生の知識は継承されなかったのか?
彼は顕微鏡の設計図を残していた。
精密な計算式と、詳細な製作手順まで記されていた。
ならば、彼自身もこれを作り、私と同じ景色を見たはずだ。
水の中を泳ぐ微生物たち。
病人の血液に潜む細菌たち。
病気の原因が「細菌」であると、視覚的に証明できたはずなのだ。
なのに、なぜ歴史は変わらなかったのか。
なぜ彼の功績は認められなかったのか。
なぜ彼は「狂人」として歴史の闇に消えたのか。
その疑問が、私の胸の奥でくすぶり続けていた。
◇
その答えは、古医学書の最後の章——袋とじのように封印されたページに記されていた。
夜の特別閲覧室。
窓の外には満月が浮かび、静寂が支配している。
私とエリーゼは、燭台の灯りだけを頼りに、その封印されたページの前に座っていた。
古医学書の最終ページには、蝋で固められた封があった。
その封の上には、震える筆跡でこう書かれていた。
『これを読む者へ。この先に記されているのは、絶望である』
『だが、同時に警告でもある。我が轍を踏むな』
「……開けていいのかしら」
エリーゼが不安そうに聞いた。
「開けなければならないわ」
私は答えた。
「先生が何を見て、何を経験したのか。それを知らなければ、私は同じ過ちを繰り返すかもしれない」
私は慎重に、ナイフで蝋の封を削り取った。
パリパリと音を立てて、封が剥がれていく。
百六十年の時を経て、ついに明かされる真実。
その重みが、私の手を震わせた。
◇
封を解くと、そこには何枚もの羊皮紙が挟まれていた。
現れたのは、震える筆跡で書かれた手記だった。
そこには、喜びではなく、深い絶望が綴られていた。
最初のページを開く。
『私は見た。ついに犯人を見つけた』
記述は、顕微鏡の完成直後から始まっていた。
日付は、百六十二年前の春。
『四月十五日。顕微鏡、完成す』
『職人ゲオルグの技術は見事だった。レンズは完璧に研磨され、倍率三百倍を実現した』
『私はまず、池の水を観察した』
『そこには、驚くべき世界が広がっていた』
『繊毛を動かして泳ぐ小さな生物、形を変えながら這う不定形の塊、螺旋を描いて進む糸のような生物』
『一滴の水の中に、無数の生命が息づいていた』
『私は笑った。泣いた。神の創造の偉大さを、初めて理解した』
ゼンメルワイスの興奮が、文章から伝わってくる。
私が顕微鏡を覗いた時と同じ感動を、彼も味わったのだ。
◇
ページをめくる。
『四月二十日。病院から検体を持ち帰った』
『産褥熱で亡くなったばかりの女性の血液を、一滴採取した』
『顕微鏡で見ると——いた』
『数珠のように連なる丸い悪魔(レンサ球菌)がいた』
『それらは健康な女性の血液には存在しない。これこそが、死をもたらす微粒子だ』
『四月二十五日。化膿した傷口の膿を観察した』
『ブドウの房のような怪物(ブドウ球菌)がうじゃうじゃといた』
『これも、健康な人の傷口には存在しない』
『五月一日。私は確信した』
『産褥熱も、創傷感染も、すべての原因は「瘴気」や「腐敗物質」ではない』
『それは生きている。目に見えない小さな生命体が、人体に侵入し、増殖し、毒を放って人を殺すのだ』
彼は正確に細菌を観察し、スケッチまで残していた。
ページの隅に描かれた図を見ると、レンサ球菌もブドウ球菌も、現代の教科書に載っているものと同じだった。
私たちが今、見ているものと全く同じだ。
「すごい……彼はここまで分かっていたのね」
エリーゼが感嘆する。
しかし、ページをめくると、トーンは一変した。
◇
『五月十日。私は歓喜して、王立学会へ走った』
『顕微鏡を持ち込み、高名な医師や聖職者たちに、この真実を見せたのだ』
『これで多くの命が救われる。誰もがそう信じてくれると思った』
『私は壇上に立ち、叫んだ』
『「諸君、病気の原因を発見した! それは目に見えない小さな生物だ!」』
『「この顕微鏡を覗けば、その姿が見える! どうか、自分の目で確かめてほしい!」』
しかし、彼を待っていたのは称賛ではなかった。
『彼らはレンズを覗き込み、そして青ざめて後ずさった』
『「こんなものが体の中にいるはずがない!」と叫んだ』
『「これはお前が黒魔術で生み出した使い魔だ」と罵った』
『「神が創造した清らかな人体に、虫が湧くなどという冒涜は許されない」と断罪された』
私は息を呑んだ。
手が震えて、羊皮紙を握りしめてしまう。
あまりにも進みすぎた真実は、当時の人々にとって恐怖でしかなかったのだ。
目に見えない小さな怪物が体内を食い荒らしている——その事実は、当時の宗教観や衛生観念を根底から揺るがす「恐怖の物語」として受け取られた。
『五月十一日。学会の長老医師が立ち上がった』
『「ゼンメルワイス、お前は神を冒涜した」』
『「人間の体は神の似姿として創造された聖なるものだ」』
『「そこに悪魔が住み着くなどという考えは、異端である」』
『教会の司教も加わった』
『「この装置は悪魔の道具だ。人々を惑わす邪悪なレンズだ」』
『「これを使い続ければ、魂が汚染される」』
◇
ページの隅には、走り書きのような文字が残っていた。
『なぜだ。なぜ信じてくれない』
『証拠は目の前にある。自分の目で見たではないか』
『なのに、なぜ恐れるのだ』
ゼンメルワイスの苦悩が、痛いほど伝わってくる。
エリーゼが私の手を握った。
彼女も震えている。
ページをめくる手が、重い。
『五月十二日。彼らは私の顕微鏡を「悪魔のレンズ」と呼び、その場で叩き壊した』
『私は必死に抵抗した。「これは科学だ! 真実だ!」と叫んだ』
『だが、数人の男たちに押さえつけられ、私の顕微鏡は石で打ち砕かれた』
『ガラスが砕ける音が、今も耳に残っている』
『五月十五日。私の論文は焚書となった』
『数年かけて書き上げた研究成果が、火にくべられた』
『「これは異端の書である」と宣言され、灰になった』
『五月二十日。私は医学院を追放された』
『医師としての資格も剥奪された』
『誰も信じてくれなかった。目に見える証拠があるのに、恐怖が理性を曇らせたのだ』
私は涙が溢れるのを止められなかった。
隣でエリーゼも、声を殺して泣いている。
こんなにも正しいことをしたのに。
こんなにも多くの命を救おうとしたのに。
それなのに、拒絶され、破壊され、追放された。
◇
手記は、さらに続いていた。
『六月一日。街で石を投げられた』
『「悪魔の医者だ!」と罵られた』
『子供たちまでもが、私を指さして笑った』
『六月十日。かつての同僚たちが、私を避けるようになった』
『道で会っても、目を逸らして通り過ぎていく』
『助手だったマルティンまでもが、「先生の考えは間違っていました」と去っていった』
『七月一日。もう誰も私の話を聞いてくれない』
『一人ぼっちだ』
『孤独だ』
『でも、私は正しい。私は真実を見たのだ』
その後のページは、ゼンメルワイスの日常が淡々と記されていた。
診療所を開いても患者は来ない。
研究を続けようにも、資金も設備もない。
友人も、家族も、みんな離れていった。
そして——
『八月十五日。もう疲れた』
『でも、諦めない』
『いつか、誰かが私の研究を見つけてくれることを信じて、この医学書を残す』
『次の世代の医師が、私の轍を踏まないように』
◇
手記の最後は、未来への警告で締めくくられていた。
『同郷の友よ。もし君が再び顕微鏡を手にしたなら、心せよ』
『真実を見せるだけでは、人は動かない。恐怖を与えるだけでは、人は拒絶する』
『私は失敗した。なぜなら、私は一人だったからだ』
『味方がいなかった。権威がなかった。政治力がなかった』
『必要なのは、知識だけではない。権威だ。信頼だ。そして、恐怖を希望に変える「政治力」だ』
『真実は、正しいだけでは勝てない』
『真実は、力を持たなければ、ただの戯言として葬られる』
『私と同じ轍を踏むな。焦るな。まずは味方を作れ』
『そして、真実を受け入れる準備ができた者から、少しずつ広めていけ』
『一度に世界を変えようとするな。一人ずつ、確実に仲間を増やしていけ』
最後の一文は、祈りのような言葉だった。
『君の成功を、天国から祈っている』
読み終えた後、重い沈黙が流れた。
私もエリーゼも、言葉が出なかった。
◇
「……怖かったでしょうね」
エリーゼが静かに言った。
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「世界中の誰も信じてくれなくて、悪魔扱いされて……」
「一人ぼっちで、孤独の中で死んでいくなんて……」
私は古医学書を抱きしめた。
百六十年前、この本を書いた時のゼンメルワイスの気持ちを想像する。
絶望の中で、それでも未来に希望を託した彼の想い。
その重みが、胸を締め付ける。
「ええ」
私は拳を握りしめた。
「でも、先生は間違っていなかった」
「先生が見たものは、確かに真実だった」
「そして、先生の警告も正しかった」
ゼンメルワイス先生の敗因は、正しすぎたことだ。
時代を超えすぎていたことだ。
そして、孤独だったことだ。
でも、私には仲間がいる。
ヴィルヘルム先生がいる。ルーカス先輩がいる。エリーゼがいる。
そして、カール王子やアレクサンダー王子という、王家の後ろ盾がある。
私は一人ではない。
◇
「私は失敗しない」
私は古医学書を閉じて、誓った。
「先生の無念は、私が晴らします」
「この顕微鏡を『悪魔のレンズ』にはさせない。『命のレンズ』だと、世界に認めさせてみせます」
「ゼンメルワイス先生の名誉も、必ず回復させます」
エリーゼが私の手を握った。
「私も手伝うわ、リーゼ」
「あなたは一人じゃない」
「私たちがいる」
その言葉に、私は涙が溢れた。
でも、それは悲しみの涙ではなく、決意の涙だった。
◇
翌朝。
私はヴィルヘルム先生とルーカス先輩に、手記の内容を共有した。
先生の研究室で、三人だけの秘密会議。
私は一晩かけて書き写した手記の要約を、二人に渡した。
「なるほど……」
ヴィルヘルム先生は腕組みをして、難しそうな顔をした。
手記を読み終えると、深いため息をついた。
「百六十年前の学会が拒絶したのも無理はない。人間、理解できないものは怖いからな」
「特に、宗教的な世界観が支配的だった時代には、科学的真実は『神への冒涜』として受け取られやすい」
「だが、今は違う」
ルーカス先輩が私の顕微鏡を叩いた。
「お前はすでに実績を作った。疫病を止め、王子を治した。その信頼がある」
「それに、国王陛下もお前を認めている」
「権威も、信頼も、お前には既にある」
「はい。でも、慎重に進める必要があります」
私は言った。
「ゼンメルワイス先生の教訓を忘れてはいけません」
「いきなり『体の中に虫がいる』と発表すれば、また反発を招くかもしれません」
「恐怖を与えるだけでは、人は拒絶します」
「では、どうする?」
先生が聞いた。
◇
「まずは少数の理解ある医師たちに、実際に顕微鏡を見てもらうことから始めましょう」
私は戦略を説明した。
「最初は、池の水を見せます。微生物の存在を、まずは『興味深い発見』として受け入れてもらう」
「次に、腐った食べ物を見せます。『腐敗とは、微生物の活動である』と理解してもらう」
「そして最後に、病人の膿を見せます。『感染症の原因は、微生物である』と結論づける」
「段階的に、ですね」
ルーカス先輩が頷いた。
「ええ。一度に全てを見せるのではなく、少しずつ、受け入れやすい順番で」
「そして、一人ずつ、確実に味方を増やしていく」
「地道な啓蒙活動か。お前らしいな」
先生がニヤリと笑った。
「だが、それが正解だ」
「革命は、一夜にして起こらない」
「少しずつ、確実に、人々の意識を変えていくんだ」
「はい」
私は頷いた。
ゼンメルワイス先生の教訓を、無駄にはしない。
焦らず、丁寧に、確実に。
◇
その時、診療所のドアが激しく叩かれた。
ドンドンドン!
緊迫した音が、静かな研究室に響く。
「先生! 急患です!」
看護師の切迫した声が聞こえた。
私たちは急いで診療室へ向かった。
運び込まれてきたのは、立派な身なりの中年男性だった。
絹の服を着て、指には宝石の指輪。
明らかに裕福な階級の人物だ。
しかし、その顔色は土気色で、口から泡を吹いている。
痙攣が激しく、全身が震えている。
目は虚ろで、焦点が合っていない。
「こ、これは……」
私はすぐに脈を取る。
頻脈——一分間に百二十回以上。
発汗——全身がびっしょり濡れている。
縮瞳——瞳孔が針の穴のように小さい。
そして、呼吸困難——喘鳴が聞こえる。
毒だ。
それも、神経を麻痺させる植物毒に似ている。
コリン作動性の毒——おそらく、キノコ毒か有機リン系の毒物。
「彼は?」
私は付き添いの男に聞いた。
「と、隣町の貴族、マルクス伯爵家の執事、ハインリヒ様です! 突然倒れて……!」
付き添いの男は震えながら答えた。
「いつ、どこで倒れたのですか?」
「一時間前です! 伯爵様のお屋敷で、急に苦しみ出して……!」
「何か食べたり飲んだりしましたか?」
「ワインを……一杯だけ……」
ワイン。
毒を混入させるには最適だ。
◇
私は即座に処置を開始した。
「アトロピン(ベラドンナ抽出液)を持ってきて! 気道確保!」
ルーカス先輩が患者の気道を確保し、エリーゼがアトロピンを準備する。
私は胃洗浄の準備をした。
「先生、これを!」
ヴィルヘルム先生が活性炭の粉末を渡してくれた。
「胃の中の毒物を吸着させろ」
「はい!」
私は患者の口を開け、羊腸を加工した細い管を挿入した。
胃洗浄液を流し込み、胃の内容物を排出させる。
出てきた液体は、赤ワインの色をしていた。
そして——わずかに、苦い臭いがする。
これは——
「先生、この臭い……」
「トリカブトだ」
ヴィルヘルム先生が断言した。
「アコニチンアルカロイド系の毒だな」
トリカブト。
猛毒として知られる植物だ。
神経を麻痺させ、呼吸困難を引き起こし、最終的には心停止に至る。
致死量は、わずか数ミリグラム。
これは、明らかに殺人未遂だ。
◇
必死の救命措置を行う中で、私は嫌な予感を感じていた。
この症状——ただの事故ではない。
作為的なものを感じる。
誰かが、この執事を殺そうとした。
なぜ?
何のために?
私はアトロピンを投与しながら、患者の体を観察した。
痙攣が少しずつ収まってきている。
呼吸も、わずかに楽になってきた。
瞳孔も、少しずつ広がり始めている。
間に合った。
命は助かる。
そして、男のポケットからこぼれ落ちた手紙には、不穏な紋章が刻まれていた。
私はそれを拾い上げた。
手紙の封蝋には、鷲と剣を組み合わせた紋章。
それは、カール王子の回復を快く思わない「反対派閥」の有力貴族、レオポルド公爵の紋章だった。
手紙の中身を見ると、走り書きのような文字が残っていた。
『例のことは黙っていろ。さもなくば——』
その続きは、血で汚れて読めなくなっていた。
◇
ゼンメルワイス先生の警告が、頭をよぎる。
『必要なのは、政治力だ』
医学の世界を変えようとする私に、貴族社会のドロドロとした闇が、ついに牙を剥き始めていた。
カール王子の回復。
それは、多くの人にとって喜ばしいことだった。
でも、一部の貴族にとっては、都合の悪いことだったのかもしれない。
第二王子が病弱なままであれば、王位継承権争いは単純だった。
でも、今は違う。
カール王子が健康を取り戻せば、彼も王位継承権の有力候補になる。
それを望まない者たちがいる。
そして、その者たちは、私のことも——
目障りだと思っているのかもしれない。
私は執事の脈を確認しながら、冷静に考えた。
これは警告だ。
「お前も黙っていろ」という。
「余計なことをするな」という。
でも、私は黙らない。
ゼンメルワイス先生も、孤独の中で戦い続けた。
私も、どんな脅威があっても、医学の真実を広めることを止めない。
◇
「リーゼ、この手紙……」
エリーゼが心配そうに私を見た。
「大丈夫よ」
私は微笑んだ。
でも、心の中では警戒心を高めていた。
「先生、この患者は命を取り留めました」
私はヴィルヘルム先生に報告した。
「ですが、これは事故ではありません」
「毒殺未遂です」
「そして、この手紙から推測するに、何か重要な秘密を握っているようです」
「……面倒なことになったな」
先生が渋い顔をした。
「だが、逃げるわけにはいかん」
「医師として、患者を守る義務がある」
「そして、真実を明らかにする義務もある」
「はい」
私は頷いた。
ゼンメルワイス先生が戦った相手は、無知と恐怖だった。
私が戦う相手は、それに加えて、権力と陰謀だ。
でも、私は一人ではない。
仲間がいる。
そして、正義がある。
顕微鏡を守り、真実を広め、そして患者を救う。
それが、私の使命だ。




