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転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~  作者: NN
転生したら十歳の幼女医師でした~前世の医学知識で異世界医療を改革します~

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第72話 微小な世界と兄弟の絆

 カール王子との秘密特訓は順調に進んでいた。


 毎朝、まだ太陽が昇りきらない早朝五時。


 人目を忍んで王宮の裏庭にある小さな馬場で、基礎体力作りと乗馬の姿勢訓練を行っている。


 最初の一週間は、ひたすら歩行訓練だった。


 正しい姿勢で歩く。階段を上る。片足立ちでバランスを取る。


 地味だが、これらは乗馬に不可欠な基礎体力を養うために必要不可欠だった。


 カール王子は一度も文句を言わず、黙々と訓練に励んだ。


 その真摯な姿勢に、私も全力でサポートしようと決意を新たにした。


 二週間目から、実際に馬と触れ合う訓練を始めた。


 まずは馬小屋で、馬の世話をする。


 餌をやり、ブラシをかけ、蹄の手入れをする。


 馬という生き物と心を通わせることが、乗馬の第一歩だ。


 王子は、最初は馬の大きさに怯えていたが、すぐに慣れた。


 「この子、温かいんですね」と、馬の首に顔を埋めて笑う王子を見て、私は微笑んだ。


 三週間目。いよいよ騎乗訓練に入った。


 最初は馬に跨るだけ。動かさない。


 ただ、馬上で正しい姿勢を保つ練習を繰り返した。


 背筋を伸ばし、重心を下げ、足で馬の腹を優しく挟む。


 一見簡単そうに見えるが、これが意外と難しい。


 筋力が必要なのだ。



 しかし、ある朝、事件は起きた。


 特訓開始から二十五日目。


 カール王子が馬に乗り、初めて「歩き」から「早足」に移行しようとした時だった。


「……っ!」


 鞍に跨ろうとした瞬間、カール王子が苦悶の声を上げてしゃがみ込んだ。


「殿下!?」


 私はすぐに駆け寄った。


 心臓が凍りつくような恐怖が走る。


 王子は右の太ももを押さえて脂汗を流している。


 顔色は青白く、呼吸も浅い。


「先生……足が……痛い……」


 王子の声が震えていた。


「力が……入らないんです……」


 私の背筋に冷たいものが走った。


 筋力低下と疼痛。


 若年性皮膚筋炎の再発症状だ。


 もしそうなら、全ての訓練を中止し、絶対安静に戻らなければならない。


 高位の治癒魔法を毎日受け、ヤナギの樹皮から作った抗炎症薬を大量に投与する。長期入院。


 そして——王子の夢は、ここで終わる。


 兄への誕生日プレゼントも、叶わない。


 いや、待て。


 冷静になれ、リーゼ。


 まだ診断もしていないのに、決めつけてはいけない。



「動かないでください」


 私は冷静さを保ちながら、王子の足を触診した。


 筋肉の張り、熱感、圧痛の場所。


 慎重に確認していく。


 まず、皮膚の状態を確認する。


 若年性皮膚筋炎の再発であれば、特徴的な赤紫色の発疹(ヘリオトロープ疹)が現れるはずだ。


 だが——皮膚の発疹はない。


 次に、関節を確認する。


 膝、足首、股関節。


 関節の腫れもない。発赤も熱感もない。


 あるのは、大腿四頭筋の硬直だけだ。


 触ると、筋肉がカチカチに固まっている。


 これは——


 私は深く息を吐き出し、王子を見た。


「殿下」


「……はい。やはり、再発ですか……?」


 王子が絶望的な顔で聞いてくる。


 その目には、諦めと悲しみが浮かんでいた。


 きっと、この一ヶ月の努力が無駄になったと思っているのだろう。


 でも——


「いいえ」


 私は微笑んだ。


「ただの筋肉痛です」


「え……?」


「慣れない運動をしたので、筋肉が悲鳴を上げているだけです。関節の腫れもなく、発熱もありません。炎症の徴候は見られません」


「昨日の訓練で、いつもより長く馬に乗っていましたね? その負荷が筋肉に蓄積したんです」


「き、筋肉痛……?」


 王子がぽかんとした顔をした。


 まるで、予想外の言葉を聞いたという表情だ。


「病気ではない、と……?」


「ええ。むしろ、これは良い兆候です」


 私は王子の太ももを指さした。


「筋肉痛は、筋繊維が微細に損傷し、それが修復される過程で起こります」


「つまり、殿下の筋肉が、訓練によって成長しているという証拠なんです」


「良かった……本当に、良かった……」


 安堵のあまり、王子の目から涙が溢れた。


 今まで張り詰めていた緊張の糸が、ぷつんと切れたのだろう。


 肩を震わせて泣く王子を見て、私は改めて思った。


 この子は、どれほどの恐怖の中で生きてきたのだろう。


 いつ病気が再発するか分からない。


 いつまた歩けなくなるか分からない。


 その恐怖と戦いながら、それでも夢を諦めずに頑張ってきた。


「驚かせないでくださいよ」


 私は苦笑しながら、王子の足をマッサージした。


 硬直した筋肉を、ゆっくりとほぐしていく。


「これは、筋肉が成長している証です。今日は少しメニューを軽くして、ストレッチを中心にしましょう」


「そして、訓練後のケアをもっと丁寧にします。温浴と、筋肉をほぐすマッサージを追加しましょう」


「はい! お願いします!」


 王子の顔に、再び笑顔が戻った。



 その日の午後、医学院の研究室。


 ついに、待ちに待った瞬間が訪れた。


 王室御用達の時計技師ヨハン・シュミットと、眼鏡職人ハンス・ミュラーが、一台の装置を運び込んできたのだ。


 二人とも、王都でも指折りの職人として知られている。


 特にハンス・ミュラーは、王族専用の眼鏡を作る名匠だ。


「先生、完成しましたぜ」


 職人が誇らしげに言った。


「設計図通り、一寸の狂いもなく仕上げやした」


「レンズの研磨には二週間かかりやしたがね。気泡一つない、完璧な仕上がりですぜ」


 机の上に置かれたそれは、真鍮しんちゅう色に輝いていた。


 重厚な台座には、細かな彫刻が施されている。


 光を集める凹面鏡は、磨き上げられて鏡のように輝いている。


 そして、精巧に磨かれたレンズ筒。


 その全体から、職人たちの技術と誇りが感じられた。


 前世の学校にあったものよりアンティークだが、紛れもなく「顕微鏡」だ。


「美しい……」


 私は思わず息を漏らした。


 これは、ただの道具ではない。


 ゼンメルワイスの夢を受け継ぎ、この世界の医学を変える、革命の象徴だ。


「職人の皆さん、本当にありがとうございます」


 私は深々と頭を下げた。


 この顕微鏡の製作費用は、王立医学院の研究予算から支出された。

 さらに、アレクサンダー王子殿下が個人的にも支援してくださった。

 最高の職人による最高の機器——それだけの価値があると、認めてくださったのだ。


「いやいや、こちらこそ面白い仕事をさせていただきやした」


 ハンスが照れくさそうに頭を掻いた。


「こんな精密な光学機器は初めてでしてね。おかげで腕が上がりやしたよ」


「この技術、他の製品にも応用できそうですぜ」


 ヨハンも頷いた。


 彼らは、単に仕事をこなしただけではなく、新しい技術に挑戦する喜びを感じてくれたようだ。



 職人たちが帰った後、研究室にはヴィルヘルム先生とエリーゼ、ルーカス先輩も集まっていた。


 みんな、この瞬間を待ちわびていた。


「これが、見えない世界を見る窓か」


 先生が興味深そうに覗き込む。


「精巧な作りだな。これで本当に、目に見えない生き物が見えるのか?」


「して、何をどうやって見るんだ?」


「準備はしてあります」


 私は庭の池から汲んできた水を、ガラス板の上に一滴垂らした。


 プレパラートとカバーガラス——前世の知識を元に、薄いガラス板を特注で作ってもらった。


 一見すると、ただの濁った水だ。


 でも、この中には無数の生命が息づいている。


「まずは、この水の中を見てみます」


 ガラス板をステージにセットし、クリップで固定する。


 そして、反射鏡の角度を調節して、光を集める。


 窓から差し込む太陽光が、鏡で反射され、下から水滴を照らし出す。


 接眼レンズを覗き込みながら、慎重にダイヤルを回してピントを合わせる。


 ぼやけた視界が、徐々に鮮明になっていく。


 最初は何も見えない。


 ただ、ぼんやりとした光の粒が見えるだけ。


 でも、少しずつ焦点を合わせていくと——


 そして——


「……いた」


 私は小さく声を上げた。


 視界の中には、驚くべき光景が広がっていた。


 透明な体を持つ奇妙な形の生き物たちが、縦横無尽に動き回っている。


 スリッパのような形をして、体中に繊毛を生やした生き物——ゾウリムシだ。


 繊毛を波打たせながら、優雅に泳いでいる。


 不定形の塊のような生き物が、ゆっくりと形を変えながら這っている——アメーバだ。


 偽足を伸ばして、獲物を捕らえようとしている。


 螺旋を描いて進む細長い生き物——スピロヘータのような微生物だ。


 くるくると回転しながら、視界を横切っていく。


 そして、その背景には無数の小さな点——おそらく細菌たち——が浮遊している。


 ただの水滴の中に、一つの宇宙があった。


 生命の営みが、そこにあった。


 前世で理科の授業で見たものと同じ光景。


 でも、この世界では誰も見たことがないもの。


 私は、百六十年前のゼンメルワイスが見た景色を、今、共有している。



「見えました」


 私は顔を上げ、場所を譲った。


「先生、覗いてみてください」


 ヴィルヘルム先生が、半信半疑といった様子でレンズを覗き込む。


 数秒の沈黙。


 先生の表情が、徐々に変わっていく。


 驚き、そして畏怖。


「……な、なんだこれは!?」


 先生が素っ頓狂な声を上げた。


「動いている! 何かがうじゃうじゃ動いているぞ!」


「しかも、こんなに小さな水の中に、こんなにたくさんの生き物が……!」


「えっ、私も見たい!」


 エリーゼが興奮して交代する。


 彼女がレンズを覗き込むと、すぐに歓声を上げた。


「きゃあ! 何これ、すごい! 小さな怪物がたくさんいるわ!」


「この透明なの、繊毛を動かして泳いでる! かわいい!」


「ちょっと待って、こっちの塊みたいなの、形が変わってる!」


 エリーゼの興奮ぶりに、私は微笑んだ。


 彼女の純粋な驚きと好奇心が、この発見の価値を物語っている。


 ルーカス先輩も覗き込んだ。


「うわっ……マジかよ。俺たち、こんなのが入った水を飲んでたのか?」


 先輩が顔をしかめた。


「そうです」


 私は皆を見渡して言った。


「これが微生物です。この中には無害なものもいますが、病気を引き起こすものもいます」


「コレラも、赤痢も、発疹チフスも。目に見えないこれらの小さな生き物が、体内に入り込んで悪さをするのです」


「だから、水を煮沸することが重要なんです」


 私は説明を続けた。


「煮沸すれば、これらの微生物は死滅します」


「そして、手を洗うことで、手についた微生物を洗い流すことができます」


「つまり、衛生管理の本質は、この微生物たちを『見えない』ままにせず、『理解して対処する』ことなんです」



 ヴィルヘルム先生は、興奮で顔を紅潮させていた。


 その目には、子供のような輝きがあった。


「信じられん……だが、確かにそこにいる」


「リーゼ、これは医学の歴史が変わるぞ」


「病気の原因が『悪霊』や『悪い空気ミアズマ』ではなく、実在する生物だと証明できる」


「そうなれば、迷信や呪術に頼る治療法は、すべて淘汰されるだろう」


「はい」


 私は頷いた。


「これで、消毒や手洗いの意味を、誰にでも説明できます」


「医師だけでなく、一般の人々にも見せることができます」


「そうすれば、衛生管理が『面倒な儀式』ではなく、『理にかなった予防法』だと理解してもらえます」


 ゼンメルワイス先生。


 あなたの見た景色を、百六十年後の今、私たちが共有しています。


 この顕微鏡は、あなたの勝利の証です。


 そして、あなたの無念を晴らす武器です。


「先生、これを王立医学院で公開しましょう」


 私は提案した。


「医師たちだけでなく、学生たちにも見せるべきです」


「そして、教科書に載せるべきです」


「『微生物学』という新しい学問の始まりです」


 ヴィルヘルム先生が力強く頷いた。


「そうだな。来週の医学会で発表しよう」


「お前が講演をしろ。そして、実際に顕微鏡を使って見せるんだ」


「百聞は一見に如かず、だ」



 それから三週間。


 顕微鏡による研究は急速に進んだ。


 私たちは様々な試料を観察した。


 池の水、井戸水、川の水。


 腐った肉、発酵した牛乳、カビの生えたパン。


 そして——患者の喀痰、血液、膿。


 その全てに、微生物がいた。


 種類も形も様々だが、どれも確かに「生きている」。


 私はノートに、一つ一つスケッチを残した。


 前世の知識と照らし合わせながら、分類を試みた。


 エリーゼも、夢中になって観察を続けた。


 彼女は特に、微生物の動きのパターンに興味を持ち、詳細な記録を取り始めた。


 ルーカス先輩は、顕微鏡を使った診断法の開発に取り組んだ。


 患者の血液を観察して、感染症を早期発見する方法を模索している。


 そして、ヴィルヘルム先生は、この発見を医学界に広めるための準備を進めていた。


 みんなが、それぞれの役割を果たしている。


 これが、チームで研究をするということなのだと、私は実感した。


 一人では成し遂げられなかった夢が、仲間と共に形になっていく。



 しかし、私には顕微鏡だけではなく、もう一つの大事な仕事があった。


 カール王子の特訓だ。


 筋肉痛事件の後、私は訓練メニューをさらに精密に調整した。


 負荷をかけすぎず、でも確実に筋力を向上させる。


 そのバランスを取るのは難しかったが、前世の理学療法の知識が役に立った。


 訓練後のケアも徹底した。


 温浴で血行を促進し、マッサージで筋肉をほぐす。


 栄養管理も見直し、タンパク質とビタミンを多く摂取するよう指導した。


 そして、毎日血液を採取して顕微鏡で観察し、白血球の状態を確認し続けた。

 炎症や感染症が起きていれば、白血球の数が増加するはずだ。

 幸い、王子の血液は健康そのもので、訓練の負荷にも体がしっかり適応していた。


 カール王子は、一度も弱音を吐かなかった。


 辛い訓練も、笑顔で乗り越えた。


 その姿を見るたびに、私は医師としての責任を強く感じた。


 この子の夢を、絶対に叶えてあげなければならない。


 特訓開始から四週間後。


 カール王子は、ついに馬を自由に操れるようになった。


 歩き、早足、そして軽い駆け足。


 馬と一体になって、優雅に馬場を巡る姿は、誰が見ても一人前の騎手だった。


「先生、もう大丈夫です」


 訓練後、カール王子が自信に満ちた顔で言った。


「兄上の誕生日に、必ず成功させます」


「はい。でも、本番前日は休養を取ってくださいね」


「分かりました」


 王子は頷き、そして少し照れくさそうに付け加えた。


「先生……本当に、ありがとうございました」


「僕は、生きていて良かったです」


 その言葉に、私は胸が熱くなった。



 そして迎えた、アレクサンダー王子の誕生日。


 王宮の馬場には、国王陛下夫妻をはじめ、多くの貴族が集まっていた。


 色とりどりの衣装に身を包んだ貴族たち。


 楽団が奏でる華やかな音楽。


 祝宴の雰囲気は、まるで夢の中のようだった。


 私は招待客の一人として、エリーゼたちと共に観覧席にいた。


 医学院の代表として、ヴィルヘルム先生も同席している。


「緊張するわね」


 エリーゼが隣で呟いた。


「カール王子、大丈夫かしら」


「大丈夫よ」


 私は自信を持って答えた。


「彼は、誰よりも努力したわ」


 華やかな式典が進む中、様々な催し物が披露された。


 剣術の演武、魔法の実演、詩の朗読。


 どれも見事なものだったが、私の心はカール王子のことで一杯だった。


 そして、ついにその瞬間が訪れた。


 アナウンスが流れた。


『続きまして、カール・フォン・アーレンスベルク第二王子殿下より、兄君アレクサンダー殿下へ、お祝いの演武がございます』


 会場がざわめく。


 病弱で歩くこともままならなかった第二王子が、演武?


 貴族たちの間で、疑問と驚きの声が広がる。


「第二王子は、もう回復されたのか?」


「いや、まだ療養中のはずだが……」


「これは、一体どういうことだ?」


 ゲートが開き、一頭の白馬が入ってきた。


 その背には、凛とした乗馬服に身を包んだカール王子が乗っている。


 背筋は伸び、手綱さばきも堂々としている。


 その姿は、数ヶ月前の病弱な少年とは別人のようだった。


「カール……?」


 最前列にいたアレクサンダー王子が、信じられないものを見るように目を見開いた。


 その顔には、驚きと、そして言葉にできない感動が浮かんでいた。



 カール王子は馬場の中心まで進むと、馬を止め、優雅に敬礼した。


 その動作の一つ一つが、訓練の成果を物語っていた。


 そして、馬を走らせた。


 決して激しい動きではない。


 速度も、派手なジャンプもない。


 しかし、正確で美しい早足トロットだ。


 馬の歩調に合わせて、体を上下に動かす。


 手綱は常に適切な張りを保ち、足は馬の腹を優しく包んでいる。


 コーナーを曲がる時、馬は王子の微細な指示に従って、滑らかに方向を変える。


 障害物の横を駆け抜ける時、王子の姿勢は微塵も崩れない。


 風を切る少年の顔には、自信と喜びが溢れていた。


 一ヶ月前、ベッドの上で寝返りさえ打てなかった少年が、今は馬と一体になって走っている。


 その奇跡のような光景に、会場は静まり返った。


 誰もが、息を呑んで見守っている。


 演武が終わり、カール王子が再び馬場の中心で止まった。


 そして——


 やがて割れんばかりの拍手が巻き起こった。


 貴族たちが立ち上がり、惜しみない賛辞を送る。


「見事だ!」


「第二王子が、あんなに元気になられるとは!」


「まさに奇跡だ!」


 国王陛下も、王妃様も、立ち上がって拍手を送っている。


 その目には、涙が光っていた。



 演武を終えたカール王子が、兄の前に馬を寄せる。


「兄上、お誕生日おめでとうございます」


 王子は馬上で笑顔を見せた。


「僕、頑張りました」


「もう、ベッドの上でじっとしているだけの弟ではありません」


「これからは、僕も一緒に走ります」


「兄上の隣を、並んで走りたいんです」


 その言葉を聞いた瞬間、アレクサンダー王子の表情が崩れた。


「カール……っ!」


 アレクサンダー王子は言葉にならず、弟の足に縋り付いて男泣きした。


 王位継承権第一位の立場にあり、常に冷静で威厳のある兄が、人前で涙を流している。


 それほどまでに、弟の回復を願っていたのだろう。


 それほどまでに、弟を愛していたのだろう。


「ありがとう……ありがとう、カール……」


「お前が元気になってくれて……本当に嬉しい……」


 国王陛下も、王妃様も、目頭を押さえている。


 会場にいる全ての人が、この兄弟の絆に心を打たれていた。



「やったね、リーゼ」


 隣でエリーゼが涙ぐんでいた。


「最高のプレゼントだわ」


「ええ」


 私も目頭が熱かった。


 視界が滲んで、カール王子の笑顔がぼやけて見える。


 でも、その笑顔は確かに見えた。


 幸せそうな、誇らしげな、そして希望に満ちた笑顔。


 顕微鏡で見つけたミクロの世界の真実。


 そして、リハビリで取り戻した王子の健やかな体。


 どちらも、医学の力がもたらした希望だ。


 科学と医療が、人々の人生を変える。


 それを、私は目の当たりにした。


 私は医師として、この瞬間に立ち会えたことを誇りに思った。


 ヴィルヘルム先生が、隣で静かに呟いた。


「お前は、本当に素晴らしい医師になったな、リーゼ」


「技術だけではなく、心も」


「患者の夢を叶えるために、全力を尽くす」


「それが、真の医師というものだ」


 先生の言葉に、私は胸がいっぱいになった。



 祝宴の後、カール王子が私を見つけて駆け寄ってきた。


 その足取りは軽く、まるで病気だったことなど嘘のようだった。


「先生! 見てくれましたか?」


「はい。完璧でしたよ、殿下」


「足も痛くありませんでした!」


 王子は満面の笑みで言った。


「それに、馬が僕の気持ちを分かってくれて……」


「すごく楽しかったです!」


 王子の目が輝いている。


 生きる喜びに満ちている。


「先生のおかげです。本当に、ありがとうございました」


「いいえ、殿下の努力の賜物です」


 私は王子の手を握り返した。


「これからも、無理をせず、でも諦めず、一歩ずつ前に進んでくださいね」


「はい!」


 王子が力強く頷いた。



 しかし、この時の私たちはまだ知らなかった。


 この平穏な日々の裏で、王宮を取り巻く不穏な影が動き出していることを。


 第二王子の劇的な回復が、王位継承権を巡る派閥争いに火をつけてしまったことを。


 祝宴の会場の隅で、何人かの貴族たちが小声で囁き合っていた。


「第二王子が、あれほど元気になるとは……」


「リーゼ・フォン・ハイムダルという少女医師の力だそうだ」


「危険な存在かもしれんな」


「いや、むしろ利用できるのでは?」


 その会話の意味を、私はまだ理解していなかった。


 ただ、背中に薄ら寒いものを感じただけだった。


 振り返ると、誰もいない。


 気のせいだろうか。


 でも、何か——何か良くないことが、始まろうとしている気がした。


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― 新着の感想 ―
ようやく、困難な壁が現れましたか!どのような展開になるか楽しみです。ところで、顕微鏡の開発費は足りたのですか?
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