第72話 微小な世界と兄弟の絆
カール王子との秘密特訓は順調に進んでいた。
毎朝、まだ太陽が昇りきらない早朝五時。
人目を忍んで王宮の裏庭にある小さな馬場で、基礎体力作りと乗馬の姿勢訓練を行っている。
最初の一週間は、ひたすら歩行訓練だった。
正しい姿勢で歩く。階段を上る。片足立ちでバランスを取る。
地味だが、これらは乗馬に不可欠な基礎体力を養うために必要不可欠だった。
カール王子は一度も文句を言わず、黙々と訓練に励んだ。
その真摯な姿勢に、私も全力でサポートしようと決意を新たにした。
二週間目から、実際に馬と触れ合う訓練を始めた。
まずは馬小屋で、馬の世話をする。
餌をやり、ブラシをかけ、蹄の手入れをする。
馬という生き物と心を通わせることが、乗馬の第一歩だ。
王子は、最初は馬の大きさに怯えていたが、すぐに慣れた。
「この子、温かいんですね」と、馬の首に顔を埋めて笑う王子を見て、私は微笑んだ。
三週間目。いよいよ騎乗訓練に入った。
最初は馬に跨るだけ。動かさない。
ただ、馬上で正しい姿勢を保つ練習を繰り返した。
背筋を伸ばし、重心を下げ、足で馬の腹を優しく挟む。
一見簡単そうに見えるが、これが意外と難しい。
筋力が必要なのだ。
◇
しかし、ある朝、事件は起きた。
特訓開始から二十五日目。
カール王子が馬に乗り、初めて「歩き」から「早足」に移行しようとした時だった。
「……っ!」
鞍に跨ろうとした瞬間、カール王子が苦悶の声を上げてしゃがみ込んだ。
「殿下!?」
私はすぐに駆け寄った。
心臓が凍りつくような恐怖が走る。
王子は右の太ももを押さえて脂汗を流している。
顔色は青白く、呼吸も浅い。
「先生……足が……痛い……」
王子の声が震えていた。
「力が……入らないんです……」
私の背筋に冷たいものが走った。
筋力低下と疼痛。
若年性皮膚筋炎の再発症状だ。
もしそうなら、全ての訓練を中止し、絶対安静に戻らなければならない。
高位の治癒魔法を毎日受け、ヤナギの樹皮から作った抗炎症薬を大量に投与する。長期入院。
そして——王子の夢は、ここで終わる。
兄への誕生日プレゼントも、叶わない。
いや、待て。
冷静になれ、リーゼ。
まだ診断もしていないのに、決めつけてはいけない。
◇
「動かないでください」
私は冷静さを保ちながら、王子の足を触診した。
筋肉の張り、熱感、圧痛の場所。
慎重に確認していく。
まず、皮膚の状態を確認する。
若年性皮膚筋炎の再発であれば、特徴的な赤紫色の発疹(ヘリオトロープ疹)が現れるはずだ。
だが——皮膚の発疹はない。
次に、関節を確認する。
膝、足首、股関節。
関節の腫れもない。発赤も熱感もない。
あるのは、大腿四頭筋の硬直だけだ。
触ると、筋肉がカチカチに固まっている。
これは——
私は深く息を吐き出し、王子を見た。
「殿下」
「……はい。やはり、再発ですか……?」
王子が絶望的な顔で聞いてくる。
その目には、諦めと悲しみが浮かんでいた。
きっと、この一ヶ月の努力が無駄になったと思っているのだろう。
でも——
「いいえ」
私は微笑んだ。
「ただの筋肉痛です」
「え……?」
「慣れない運動をしたので、筋肉が悲鳴を上げているだけです。関節の腫れもなく、発熱もありません。炎症の徴候は見られません」
「昨日の訓練で、いつもより長く馬に乗っていましたね? その負荷が筋肉に蓄積したんです」
「き、筋肉痛……?」
王子がぽかんとした顔をした。
まるで、予想外の言葉を聞いたという表情だ。
「病気ではない、と……?」
「ええ。むしろ、これは良い兆候です」
私は王子の太ももを指さした。
「筋肉痛は、筋繊維が微細に損傷し、それが修復される過程で起こります」
「つまり、殿下の筋肉が、訓練によって成長しているという証拠なんです」
「良かった……本当に、良かった……」
安堵のあまり、王子の目から涙が溢れた。
今まで張り詰めていた緊張の糸が、ぷつんと切れたのだろう。
肩を震わせて泣く王子を見て、私は改めて思った。
この子は、どれほどの恐怖の中で生きてきたのだろう。
いつ病気が再発するか分からない。
いつまた歩けなくなるか分からない。
その恐怖と戦いながら、それでも夢を諦めずに頑張ってきた。
「驚かせないでくださいよ」
私は苦笑しながら、王子の足をマッサージした。
硬直した筋肉を、ゆっくりとほぐしていく。
「これは、筋肉が成長している証です。今日は少しメニューを軽くして、ストレッチを中心にしましょう」
「そして、訓練後のケアをもっと丁寧にします。温浴と、筋肉をほぐすマッサージを追加しましょう」
「はい! お願いします!」
王子の顔に、再び笑顔が戻った。
◇
その日の午後、医学院の研究室。
ついに、待ちに待った瞬間が訪れた。
王室御用達の時計技師ヨハン・シュミットと、眼鏡職人ハンス・ミュラーが、一台の装置を運び込んできたのだ。
二人とも、王都でも指折りの職人として知られている。
特にハンス・ミュラーは、王族専用の眼鏡を作る名匠だ。
「先生、完成しましたぜ」
職人が誇らしげに言った。
「設計図通り、一寸の狂いもなく仕上げやした」
「レンズの研磨には二週間かかりやしたがね。気泡一つない、完璧な仕上がりですぜ」
机の上に置かれたそれは、真鍮色に輝いていた。
重厚な台座には、細かな彫刻が施されている。
光を集める凹面鏡は、磨き上げられて鏡のように輝いている。
そして、精巧に磨かれたレンズ筒。
その全体から、職人たちの技術と誇りが感じられた。
前世の学校にあったものよりアンティークだが、紛れもなく「顕微鏡」だ。
「美しい……」
私は思わず息を漏らした。
これは、ただの道具ではない。
ゼンメルワイスの夢を受け継ぎ、この世界の医学を変える、革命の象徴だ。
「職人の皆さん、本当にありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
この顕微鏡の製作費用は、王立医学院の研究予算から支出された。
さらに、アレクサンダー王子殿下が個人的にも支援してくださった。
最高の職人による最高の機器——それだけの価値があると、認めてくださったのだ。
「いやいや、こちらこそ面白い仕事をさせていただきやした」
ハンスが照れくさそうに頭を掻いた。
「こんな精密な光学機器は初めてでしてね。おかげで腕が上がりやしたよ」
「この技術、他の製品にも応用できそうですぜ」
ヨハンも頷いた。
彼らは、単に仕事をこなしただけではなく、新しい技術に挑戦する喜びを感じてくれたようだ。
◇
職人たちが帰った後、研究室にはヴィルヘルム先生とエリーゼ、ルーカス先輩も集まっていた。
みんな、この瞬間を待ちわびていた。
「これが、見えない世界を見る窓か」
先生が興味深そうに覗き込む。
「精巧な作りだな。これで本当に、目に見えない生き物が見えるのか?」
「して、何をどうやって見るんだ?」
「準備はしてあります」
私は庭の池から汲んできた水を、ガラス板の上に一滴垂らした。
プレパラートとカバーガラス——前世の知識を元に、薄いガラス板を特注で作ってもらった。
一見すると、ただの濁った水だ。
でも、この中には無数の生命が息づいている。
「まずは、この水の中を見てみます」
ガラス板をステージにセットし、クリップで固定する。
そして、反射鏡の角度を調節して、光を集める。
窓から差し込む太陽光が、鏡で反射され、下から水滴を照らし出す。
接眼レンズを覗き込みながら、慎重にダイヤルを回してピントを合わせる。
ぼやけた視界が、徐々に鮮明になっていく。
最初は何も見えない。
ただ、ぼんやりとした光の粒が見えるだけ。
でも、少しずつ焦点を合わせていくと——
そして——
「……いた」
私は小さく声を上げた。
視界の中には、驚くべき光景が広がっていた。
透明な体を持つ奇妙な形の生き物たちが、縦横無尽に動き回っている。
スリッパのような形をして、体中に繊毛を生やした生き物——ゾウリムシだ。
繊毛を波打たせながら、優雅に泳いでいる。
不定形の塊のような生き物が、ゆっくりと形を変えながら這っている——アメーバだ。
偽足を伸ばして、獲物を捕らえようとしている。
螺旋を描いて進む細長い生き物——スピロヘータのような微生物だ。
くるくると回転しながら、視界を横切っていく。
そして、その背景には無数の小さな点——おそらく細菌たち——が浮遊している。
ただの水滴の中に、一つの宇宙があった。
生命の営みが、そこにあった。
前世で理科の授業で見たものと同じ光景。
でも、この世界では誰も見たことがないもの。
私は、百六十年前のゼンメルワイスが見た景色を、今、共有している。
◇
「見えました」
私は顔を上げ、場所を譲った。
「先生、覗いてみてください」
ヴィルヘルム先生が、半信半疑といった様子でレンズを覗き込む。
数秒の沈黙。
先生の表情が、徐々に変わっていく。
驚き、そして畏怖。
「……な、なんだこれは!?」
先生が素っ頓狂な声を上げた。
「動いている! 何かがうじゃうじゃ動いているぞ!」
「しかも、こんなに小さな水の中に、こんなにたくさんの生き物が……!」
「えっ、私も見たい!」
エリーゼが興奮して交代する。
彼女がレンズを覗き込むと、すぐに歓声を上げた。
「きゃあ! 何これ、すごい! 小さな怪物がたくさんいるわ!」
「この透明なの、繊毛を動かして泳いでる! かわいい!」
「ちょっと待って、こっちの塊みたいなの、形が変わってる!」
エリーゼの興奮ぶりに、私は微笑んだ。
彼女の純粋な驚きと好奇心が、この発見の価値を物語っている。
ルーカス先輩も覗き込んだ。
「うわっ……マジかよ。俺たち、こんなのが入った水を飲んでたのか?」
先輩が顔をしかめた。
「そうです」
私は皆を見渡して言った。
「これが微生物です。この中には無害なものもいますが、病気を引き起こすものもいます」
「コレラも、赤痢も、発疹チフスも。目に見えないこれらの小さな生き物が、体内に入り込んで悪さをするのです」
「だから、水を煮沸することが重要なんです」
私は説明を続けた。
「煮沸すれば、これらの微生物は死滅します」
「そして、手を洗うことで、手についた微生物を洗い流すことができます」
「つまり、衛生管理の本質は、この微生物たちを『見えない』ままにせず、『理解して対処する』ことなんです」
◇
ヴィルヘルム先生は、興奮で顔を紅潮させていた。
その目には、子供のような輝きがあった。
「信じられん……だが、確かにそこにいる」
「リーゼ、これは医学の歴史が変わるぞ」
「病気の原因が『悪霊』や『悪い空気』ではなく、実在する生物だと証明できる」
「そうなれば、迷信や呪術に頼る治療法は、すべて淘汰されるだろう」
「はい」
私は頷いた。
「これで、消毒や手洗いの意味を、誰にでも説明できます」
「医師だけでなく、一般の人々にも見せることができます」
「そうすれば、衛生管理が『面倒な儀式』ではなく、『理にかなった予防法』だと理解してもらえます」
ゼンメルワイス先生。
あなたの見た景色を、百六十年後の今、私たちが共有しています。
この顕微鏡は、あなたの勝利の証です。
そして、あなたの無念を晴らす武器です。
「先生、これを王立医学院で公開しましょう」
私は提案した。
「医師たちだけでなく、学生たちにも見せるべきです」
「そして、教科書に載せるべきです」
「『微生物学』という新しい学問の始まりです」
ヴィルヘルム先生が力強く頷いた。
「そうだな。来週の医学会で発表しよう」
「お前が講演をしろ。そして、実際に顕微鏡を使って見せるんだ」
「百聞は一見に如かず、だ」
◇
それから三週間。
顕微鏡による研究は急速に進んだ。
私たちは様々な試料を観察した。
池の水、井戸水、川の水。
腐った肉、発酵した牛乳、カビの生えたパン。
そして——患者の喀痰、血液、膿。
その全てに、微生物がいた。
種類も形も様々だが、どれも確かに「生きている」。
私はノートに、一つ一つスケッチを残した。
前世の知識と照らし合わせながら、分類を試みた。
エリーゼも、夢中になって観察を続けた。
彼女は特に、微生物の動きのパターンに興味を持ち、詳細な記録を取り始めた。
ルーカス先輩は、顕微鏡を使った診断法の開発に取り組んだ。
患者の血液を観察して、感染症を早期発見する方法を模索している。
そして、ヴィルヘルム先生は、この発見を医学界に広めるための準備を進めていた。
みんなが、それぞれの役割を果たしている。
これが、チームで研究をするということなのだと、私は実感した。
一人では成し遂げられなかった夢が、仲間と共に形になっていく。
◇
しかし、私には顕微鏡だけではなく、もう一つの大事な仕事があった。
カール王子の特訓だ。
筋肉痛事件の後、私は訓練メニューをさらに精密に調整した。
負荷をかけすぎず、でも確実に筋力を向上させる。
そのバランスを取るのは難しかったが、前世の理学療法の知識が役に立った。
訓練後のケアも徹底した。
温浴で血行を促進し、マッサージで筋肉をほぐす。
栄養管理も見直し、タンパク質とビタミンを多く摂取するよう指導した。
そして、毎日血液を採取して顕微鏡で観察し、白血球の状態を確認し続けた。
炎症や感染症が起きていれば、白血球の数が増加するはずだ。
幸い、王子の血液は健康そのもので、訓練の負荷にも体がしっかり適応していた。
カール王子は、一度も弱音を吐かなかった。
辛い訓練も、笑顔で乗り越えた。
その姿を見るたびに、私は医師としての責任を強く感じた。
この子の夢を、絶対に叶えてあげなければならない。
特訓開始から四週間後。
カール王子は、ついに馬を自由に操れるようになった。
歩き、早足、そして軽い駆け足。
馬と一体になって、優雅に馬場を巡る姿は、誰が見ても一人前の騎手だった。
「先生、もう大丈夫です」
訓練後、カール王子が自信に満ちた顔で言った。
「兄上の誕生日に、必ず成功させます」
「はい。でも、本番前日は休養を取ってくださいね」
「分かりました」
王子は頷き、そして少し照れくさそうに付け加えた。
「先生……本当に、ありがとうございました」
「僕は、生きていて良かったです」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
◇
そして迎えた、アレクサンダー王子の誕生日。
王宮の馬場には、国王陛下夫妻をはじめ、多くの貴族が集まっていた。
色とりどりの衣装に身を包んだ貴族たち。
楽団が奏でる華やかな音楽。
祝宴の雰囲気は、まるで夢の中のようだった。
私は招待客の一人として、エリーゼたちと共に観覧席にいた。
医学院の代表として、ヴィルヘルム先生も同席している。
「緊張するわね」
エリーゼが隣で呟いた。
「カール王子、大丈夫かしら」
「大丈夫よ」
私は自信を持って答えた。
「彼は、誰よりも努力したわ」
華やかな式典が進む中、様々な催し物が披露された。
剣術の演武、魔法の実演、詩の朗読。
どれも見事なものだったが、私の心はカール王子のことで一杯だった。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
アナウンスが流れた。
『続きまして、カール・フォン・アーレンスベルク第二王子殿下より、兄君アレクサンダー殿下へ、お祝いの演武がございます』
会場がざわめく。
病弱で歩くこともままならなかった第二王子が、演武?
貴族たちの間で、疑問と驚きの声が広がる。
「第二王子は、もう回復されたのか?」
「いや、まだ療養中のはずだが……」
「これは、一体どういうことだ?」
ゲートが開き、一頭の白馬が入ってきた。
その背には、凛とした乗馬服に身を包んだカール王子が乗っている。
背筋は伸び、手綱さばきも堂々としている。
その姿は、数ヶ月前の病弱な少年とは別人のようだった。
「カール……?」
最前列にいたアレクサンダー王子が、信じられないものを見るように目を見開いた。
その顔には、驚きと、そして言葉にできない感動が浮かんでいた。
◇
カール王子は馬場の中心まで進むと、馬を止め、優雅に敬礼した。
その動作の一つ一つが、訓練の成果を物語っていた。
そして、馬を走らせた。
決して激しい動きではない。
速度も、派手なジャンプもない。
しかし、正確で美しい早足だ。
馬の歩調に合わせて、体を上下に動かす。
手綱は常に適切な張りを保ち、足は馬の腹を優しく包んでいる。
コーナーを曲がる時、馬は王子の微細な指示に従って、滑らかに方向を変える。
障害物の横を駆け抜ける時、王子の姿勢は微塵も崩れない。
風を切る少年の顔には、自信と喜びが溢れていた。
一ヶ月前、ベッドの上で寝返りさえ打てなかった少年が、今は馬と一体になって走っている。
その奇跡のような光景に、会場は静まり返った。
誰もが、息を呑んで見守っている。
演武が終わり、カール王子が再び馬場の中心で止まった。
そして——
やがて割れんばかりの拍手が巻き起こった。
貴族たちが立ち上がり、惜しみない賛辞を送る。
「見事だ!」
「第二王子が、あんなに元気になられるとは!」
「まさに奇跡だ!」
国王陛下も、王妃様も、立ち上がって拍手を送っている。
その目には、涙が光っていた。
◇
演武を終えたカール王子が、兄の前に馬を寄せる。
「兄上、お誕生日おめでとうございます」
王子は馬上で笑顔を見せた。
「僕、頑張りました」
「もう、ベッドの上でじっとしているだけの弟ではありません」
「これからは、僕も一緒に走ります」
「兄上の隣を、並んで走りたいんです」
その言葉を聞いた瞬間、アレクサンダー王子の表情が崩れた。
「カール……っ!」
アレクサンダー王子は言葉にならず、弟の足に縋り付いて男泣きした。
王位継承権第一位の立場にあり、常に冷静で威厳のある兄が、人前で涙を流している。
それほどまでに、弟の回復を願っていたのだろう。
それほどまでに、弟を愛していたのだろう。
「ありがとう……ありがとう、カール……」
「お前が元気になってくれて……本当に嬉しい……」
国王陛下も、王妃様も、目頭を押さえている。
会場にいる全ての人が、この兄弟の絆に心を打たれていた。
◇
「やったね、リーゼ」
隣でエリーゼが涙ぐんでいた。
「最高のプレゼントだわ」
「ええ」
私も目頭が熱かった。
視界が滲んで、カール王子の笑顔がぼやけて見える。
でも、その笑顔は確かに見えた。
幸せそうな、誇らしげな、そして希望に満ちた笑顔。
顕微鏡で見つけたミクロの世界の真実。
そして、リハビリで取り戻した王子の健やかな体。
どちらも、医学の力がもたらした希望だ。
科学と医療が、人々の人生を変える。
それを、私は目の当たりにした。
私は医師として、この瞬間に立ち会えたことを誇りに思った。
ヴィルヘルム先生が、隣で静かに呟いた。
「お前は、本当に素晴らしい医師になったな、リーゼ」
「技術だけではなく、心も」
「患者の夢を叶えるために、全力を尽くす」
「それが、真の医師というものだ」
先生の言葉に、私は胸がいっぱいになった。
◇
祝宴の後、カール王子が私を見つけて駆け寄ってきた。
その足取りは軽く、まるで病気だったことなど嘘のようだった。
「先生! 見てくれましたか?」
「はい。完璧でしたよ、殿下」
「足も痛くありませんでした!」
王子は満面の笑みで言った。
「それに、馬が僕の気持ちを分かってくれて……」
「すごく楽しかったです!」
王子の目が輝いている。
生きる喜びに満ちている。
「先生のおかげです。本当に、ありがとうございました」
「いいえ、殿下の努力の賜物です」
私は王子の手を握り返した。
「これからも、無理をせず、でも諦めず、一歩ずつ前に進んでくださいね」
「はい!」
王子が力強く頷いた。
◇
しかし、この時の私たちはまだ知らなかった。
この平穏な日々の裏で、王宮を取り巻く不穏な影が動き出していることを。
第二王子の劇的な回復が、王位継承権を巡る派閥争いに火をつけてしまったことを。
祝宴の会場の隅で、何人かの貴族たちが小声で囁き合っていた。
「第二王子が、あれほど元気になるとは……」
「リーゼ・フォン・ハイムダルという少女医師の力だそうだ」
「危険な存在かもしれんな」
「いや、むしろ利用できるのでは?」
その会話の意味を、私はまだ理解していなかった。
ただ、背中に薄ら寒いものを感じただけだった。
振り返ると、誰もいない。
気のせいだろうか。
でも、何か——何か良くないことが、始まろうとしている気がした。




