第71話 王子の願いと見えない世界
ノルトハイム地方から王都へ戻って数日が過ぎた。
馬車から降りた瞬間に感じた、王都特有の空気。
消毒用エタノールと石鹸、そして学生たちの活気に満ちた声。
一週間前まで泥と発疹チフスと戦っていた自分が、遠い夢のように思える。
特別研究員としての初任務の報告を終え、私は医学院での日常に戻っていた。
久しぶりの授業、友人たちとの昼食、図書館での静かな読書時間。
当たり前の日々が、戦場のような現場を経験した後だと、より愛おしく感じる。
教室の窓から見える王都の街並み。
あの向こうには、私が救った人々が日常を取り戻して生活している。
その実感が、胸を温かくした。
◇
「リーゼ、本当にお疲れ様」
エリーゼが食堂で紅茶を淹れてくれた。
彼女の淹れる紅茶は、いつも完璧な温度と香りだ。
「ノルトハイムでの活躍、王都でも噂になってるわよ。『衛生の聖女』だって」
「やめてよ、その呼び名」
私は苦笑した。
「ただ、当たり前のことを徹底させただけだから」
「それが一番難しいのよ」
エリーゼが真面目な顔で言った。
「人の意識を変えるなんて、魔法よりも難しいことだわ」
「確かにね」
私は紅茶を一口飲んだ。
「あの地方の老医師も、最初は私を魔女扱いしたものね」
「でも最後は、握手を求めてきたじゃない」
エリーゼが微笑んだ。
「あなたには、人の心を動かす力があるのよ」
「そんな大層なものじゃないわ」
私は首を振った。
「ただ、正しいことを、粘り強く説明し続けただけよ」
窓の外では、医学院の学生たちが教科書を広げて議論している。
あの中に、未来の名医がいるかもしれない。
そして、その誰かが私の研究を引き継ぎ、さらに医学を進歩させていくのだろう。
◇
午後の授業は「外科学概論」だった。
ヴィルヘルム先生が、実際の手術器具を使って骨折の整復方法を実演している。
私も何度か見た光景だが、先生の手技は毎回新しい発見がある。
「骨のずれを正確に把握するには、触診の技術が欠かせない」
先生が学生たちに語りかける。
「だが、深部の骨折は触診だけでは不十分だ。いつか、皮膚を切らずに骨の状態を見る技術が生まれればいいのだが……」
その言葉に、私は心の中で呟いた。
(レントゲン……透視技術も、いつかこの世界に持ち込まなければ)
前世の知識は、まだ山ほどある。
でも、焦ってはいけない。
一つ一つ、確実に実現していくしかない。
◇
授業が終わった頃、王宮から使いが来た。
カール王子からの呼び出しだ。
緊急ではないようだが、使いの者は「内密に」と付け加えた。
エリーゼが心配そうに私を見た。
「大丈夫よ」
私は安心させるように笑った。
「きっと、経過診察の依頼だと思うわ」
医学院から王宮までは、馬車で十五分ほどの距離だ。
使いの者が用意してくれた馬車は、王家の紋章が刻まれた高級なものだった。
窓から見える王都の街並みは、相変わらず活気に満ちている。
市場では商人たちが声を張り上げ、子供たちが路地で遊び回っている。
平和な光景。
この平和を守るためにも、医学の発展は欠かせない。
◇
王宮の庭園へ案内される。
ここに来るのは何度目だろうか。
春の花々が咲き誇り、噴水の水音が心地よく響いている。
そこには、ベンチに座るカール王子の姿があった。
以前のような青白い顔色ではない。
頬には血色が戻り、体つきも少ししっかりしてきている。
座っている姿勢も、以前のように背中を丸めていない。
しっかりと背筋を伸ばして、一人の王族としての品格を感じさせる。
「リーゼ先生!」
私を見つけると、王子は立ち上がって駆け寄ってきた。
走れる——その事実に、医師としての喜びが込み上げる。
三ヶ月前、この王子は歩くことすらままならなかった。
それが今では、軽やかに走ることができる。
若年性皮膚筋炎の治療効果が、確実に現れている証拠だ。
「お久しぶりです、殿下。お元気そうで何よりです」
「はい。先生のおかげで、毎日体が軽いです」
王子は満面の笑みを浮かべたが、すぐに周囲を警戒するように見回した。
「あの、先生……今日はお願いがあって呼び出したんです」
「お願い、ですか?」
「はい。兄上には……アレクサンダー兄上には内緒で」
◇
王子は声を潜めた。
その様子に、私は少し緊張した。
一体何を頼まれるのだろう。
「実は……馬に乗りたいんです」
「乗馬ですか?」
私は少し驚いた。
乗馬は、筋力と体幹を必要とする運動だ。
若年性皮膚筋炎の患者にとって、かなりハードルが高い。
「はい。来月、兄上の誕生日なんです」
王子が熱心に語り始めた。
その瞳には、強い決意の光が宿っている。
「兄上は、僕の病気のせいで、ずっと剣の稽古や公務を制限して、看病してくれました」
「王位継承権第一位の立場なのに、僕のために多くの時間を割いてくれました」
「夜中に僕が苦しんでいると、必ず駆けつけてくれました」
王子の声が少し震えた。
「だから、兄上の誕生日に、僕が馬に乗っている姿を見せたいんです」
「もう僕は守られるだけの存在じゃない。兄上の隣に並べるようになりたいって、証明したいんです」
少年の瞳は真剣だった。
それは単なるわがままではない。
兄への深い感謝と、自立への強い渇望だ。
病気によって奪われた尊厳を、取り戻そうとする意志。
私は、その気持ちが痛いほど分かった。
前世で、病床に臥せっていた時の無力感を思い出す。
誰かに頼ることしかできない辛さ。
自分の足で立ちたいという、切実な願い。
◇
しかし、医師としては慎重にならざるを得ない。
若年性皮膚筋炎は、過度な運動で悪化するリスクがある。
筋肉への負担は慎重にコントロールしなければならない。
特に、落馬などの衝撃は絶対に避けなければならない。
「お気持ちは痛いほど分かります」
私は王子の目を見て言った。
「ですが、急激な運動は危険です。もし再発すれば、また歩けなくなるかもしれません」
王子の表情が曇る。
その顔を見るのは辛かったが、医師として嘘はつけない。
「……やはり、無理ですか」
「『無理』とは言っていません」
私は微笑んだ。
「『無茶』は駄目ですが、『計画的な訓練』なら可能です」
「本当ですか!?」
王子の顔が一瞬で輝いた。
その表情の変化に、私は思わず笑ってしまった。
「はい。医学的に管理されたリハビリテーション……いえ、トレーニングを行いましょう」
私は提案した。
「まずは基礎体力をつけることから始めます。筋力測定を行い、現在の状態を正確に把握します」
「そして、徐々に負荷を上げていく。歩行、軽いジョギング、階段の昇降」
「それと並行して、馬に慣れていく。最初は撫でることから。次に馬の世話。それから馬上で姿勢を保つ練習」
「私がメニューを作成し、毎日の訓練を監視します」
王子が真剣な顔で聞いている。
「ただし、条件があります」
「なんでも約束します!」
「まず、毎日の体調チェックを欠かさないこと。少しでも筋肉痛や倦怠感があれば、正直に報告すること」
「二つ目、私が『休め』と言ったら、即座に訓練を中止すること」
「三つ目、定期的に診察を受けて、発熱や関節の腫れなど、炎症の兆候がないか確認すること」
私は一つ一つ指を折って説明した。
「そして最後に——もし数値が悪化したら、即座にプロジェクトを中止です。約束できますか?」
「はい! 約束します!」
王子の顔が輝いた。
その笑顔を見て、私は心の中で決意した。
(この子の夢を、絶対に叶えてあげる)
(でも、健康を犠牲にすることは絶対にさせない)
「ありがとうございます、リーゼ先生!」
王子が深々と頭を下げた。
その姿に、私は少し戸惑った。
「頭を上げてください、殿下。私は医師として当然のことをするだけです」
「いいえ、先生は僕に『生きる希望』をくれました」
王子が顔を上げた。
その目には、涙が光っていた。
「病気になってから、僕はずっと『役立たず』だと思っていました」
「でも、先生が言ってくれたんです。『あなたの命には価値がある』って」
「だから、僕は頑張れるんです」
私は胸が熱くなった。
医師という職業の意味を、改めて実感する瞬間だった。
◇
その日から、王子との「秘密の特訓」が私のスケジュールに加わった。
早朝、医学院の授業が始まる前の一時間。
王宮の訓練場で、カール王子と二人きりの時間。
最初の一週間は、基礎体力測定と筋力チェックだった。
握力、背筋力、片足立ちの時間、柔軟性のテスト。
データを取り、グラフ化し、トレーニング計画を立てる。
前世の理学療法の知識が、ここで役に立った。
◇
夕方、医学院の図書館へ向かった。
特別閲覧室で、エリーゼが待っていた。
机の上には、あの古医学書が広げられている。
ゼンメルワイスの遺産——百六十年前の知識の宝庫。
「リーゼ、待ってたわ」
エリーゼが興奮気味に一冊のノートを広げた。
彼女の几帳面な文字で、解読した内容がびっしりと記されている。
「あなたがいない間に、少し先を読んでみたの。そしたら、すごい図面が出てきたわ」
「図面?」
エリーゼが指差したページを見る。
そこには、精緻なスケッチが描かれていた。
筒状の金属製の本体。
上下に配置された複数のガラスレンズ。
精密な調整ネジを備えた台座。
光源を反射させる鏡。
一見すると望遠鏡のようだが、違う。
対物レンズと接眼レンズの配置、焦点距離の計算式。
そして、観察対象を載せる「ステージ」の構造。
これは——
「顕微鏡……!」
私は息を呑んだ。
前世の理科室にあったものより古風だが、構造は間違いなく複式顕微鏡だ。
17世紀のアントニ・ファン・レーウェンフックが開発したものに近い。
「ケンビキョウ?」
エリーゼが首を傾げた。
「これ、何に使う道具なの? 『見えない世界を見るための窓』って書いてあるけど」
「そうよ、エリーゼ」
私は震える手でページを撫でた。
羊皮紙の感触が、指先に伝わってくる。
百六十年前、この図面を描いた時のゼンメルワイスの興奮が伝わってくるようだった。
「これは、肉眼では見えない小さな生き物を見るための道具なの」
「小さな生き物?」
「ええ。ノルトハイムで戦ったシラミよりも、もっともっと小さな……」
私は言葉を選んだ。
「病気の真の原因となる『細菌』を見るための道具よ」
◇
ゼンメルワイスは、ここまで到達していたのだ。
感染症の原因が、目に見えない微生物であることを突き止め、それを証明しようとしていたのだ。
私はページを読み進める。
ゼンメルワイスの手書きの文字が、熱を帯びて語りかけてくる。
『余は確信する』
『産褥熱も、創傷感染も、すべての原因は「腐敗物質」などではない』
『それは生きている。増殖し、広がり、人を蝕む微小な生命体である』
『この仮説を証明するため、余はガラス職人に特注したレンズを組み合わせ、倍率三百倍を実現した』
『この装置を使えば、水たまりの中の小宇宙を覗くことができる』
『そして、病人の血液や膿の中に蠢く、微小な悪魔たちを見つけることができるだろう』
設計図の横には、レンズの研磨方法、焦点距離の計算式、光の屈折率まで詳細に記されている。
ガラスの選定基準。
気泡の入っていない透明度の高いガラスを選ぶこと。
レンズの曲率を正確に測定する方法。
二枚のレンズの間隔を調整することで、倍率を変える仕組み。
まるで、現代の光学の教科書を読んでいるようだった。
「これを作れれば……」
私は呟いた。
「この世界の医学は、根底から覆るわ」
エリーゼが真剣な顔で私を見ている。
「病原菌の存在を視覚的に証明できれば、消毒や衛生管理の重要性を、誰もが理解できるようになる」
「私の言葉だけでは信じなかった人々も、自分の目で見れば信じるはずだ」
「『手洗いをしなさい』ではなく、『これが手洗いをしないと増える菌です』と見せることができる」
エリーゼが息を呑んだ。
「それって……すごいことね」
「ええ。医学教育も、根本から変わるわ」
◇
私は他のページも確認した。
ゼンメルワイスの観察記録が続いている。
『池の水を一滴取り、観察した』
『そこには、驚くべき世界が広がっていた』
『鞭のようなものを振り回して泳ぐ生物』
『回転しながら進む球状の生物』
『糸のように長い生物』
スケッチも添えられている。
おそらく、繊毛虫や藻類、細菌などだろう。
ゼンメルワイスは、微生物の世界を実際に観察していたのだ。
『そして、余は死者の膿を観察した』
『そこには、蠢く無数の小さな生命体がいた』
『これこそが、感染症の真犯人である』
『だが、誰も余の言葉を信じない』
『「目に見えぬ悪魔など、魔術師の戯言だ」と嘲笑された』
ページの端に、走り書きのような文字が残っていた。
『余の言葉を信じぬなら、自分の目で見よ』
『だが、誰も見ようとしない』
『見たくないのだ。自分たちの無知が、患者を殺していたという事実を』
その言葉に、私の胸が締め付けられた。
ゼンメルワイスの孤独が、痛いほど伝わってくる。
真実を見つけたのに、誰にも信じてもらえない苦しみ。
でも、私は違う。
私には、信じてくれる仲間がいる。
エリーゼも、ヴィルヘルム先生も、ルーカス先輩も。
「作りましょう、これ」
私は決断した。
「えっ、私たちが?」
「ええ。王都には優秀なガラス職人も、金属細工師もいる」
私は設計図を書き写し始めた。
羊皮紙の図面を、現代の紙に正確に転写する。
寸法、角度、材質の指定。
すべてを一つ残らず記録する。
「ヴィルヘルム先生にお願いして、職人を手配してもらうわ」
「レンズの研磨は、最高の技術を持つ眼鏡職人に依頼する」
「金属の筒と台座は、時計職人の精密技術が必要ね」
私は計画を口に出しながら、整理していく。
「この『見えない世界への窓』が手に入れば、私たちはもっと多くの命を救える」
「手術器具の消毒が不十分な時、顕微鏡で確認できる」
「水が汚染されているかどうかも、確認できる」
「そして何より——感染症の診断が、推測ではなく確実なものになる」
エリーゼも、事の重大さを理解したようで、真剣な表情になった。
「分かったわ。私も手伝う」
彼女は計算用の紙を取り出した。
「レンズの焦点距離の計算式、検算してみるわね」
「屈折率と倍率の関係も、確認しておく必要があるわ」
エリーゼの数学の才能が、ここで活きる。
私は医学と化学。エリーゼは数学と魔法理論。
二人の得意分野を組み合わせれば、きっと成功する。
◇
王子の夢を叶えるためのリハビリ計画。
そして、医学の未来を切り拓く顕微鏡の製作。
二つの大きなプロジェクトが動き出した。
忙しくなる。
睡眠時間も削られるだろう。
でも、心は躍っていた。
ゼンメルワイス先生。
あなたが夢見た景色を、私が必ずこの世界に見せてみせます。
あなたが孤独の中で見た「見えない世界」を、みんなの目に見えるようにします。
そして、あなたの無念を晴らします。
図書館の窓から、夕陽が差し込んできた。
古医学書のページが、オレンジ色に染まる。
エリーゼが計算に没頭している横顔も、美しく輝いていた。
この瞬間が、後に医学史を変える大発見の始まりだとは、まだ誰も知らない。
◇
翌日、ヴィルヘルム先生に顕微鏡の設計図を見せた。
先生の研究室は、いつものように薬品と本で溢れている。
壁には、解剖図や骨格標本が並んでいる。
「先生、お時間よろしいでしょうか」
「おう、リーゼか。どうした、珍しく神妙な顔をして」
私は設計図を机の上に広げた。
「なんだこれは? 虫眼鏡の親玉か?」
先生は半信半疑だった。
それも無理はない。
この世界には、まだ顕微鏡という概念自体が存在しないのだから。
「先生、これは医学の革命です」
私は熱弁した。
「これがあれば、感染症の原因を目で見ることができるようになります」
「私の言う『細菌』が、空想上の存在ではないと証明できるんです」
「産褥熱も、創傷感染も、すべての原因となる微小な生物を、実際に観察できるんです」
先生は設計図を手に取り、じっくりと見つめた。
レンズの配置、焦点距離の計算式、倍率の仕組み。
一つ一つを確認している。
「……面白い」
先生が呟いた。
「理論的には、確かに可能かもしれん」
「二枚のレンズを組み合わせて、像を拡大する。望遠鏡の逆の発想だな」
さすが、ヴィルヘルム先生だ。
すぐに原理を理解した。
「では——」
「だが、本当に作れるのか? このレベルの精度のレンズを研磨できる職人がいるのか?」
先生の疑問はもっともだった。
顕微鏡には、極めて高い精度のレンズが必要だ。
わずかな歪みや気泡も、観察の妨げになる。
「それは、先生の人脈にかかっています」
私は率直に言った。
「王都最高の眼鏡職人と、精密金属加工ができる職人。そして、ガラス工房へのアクセス」
「これらを手配できるのは、先生しかいません」
先生は長い沈黙の後、私の目をじっと見た。
その視線は、私の本気度を測っているようだった。
「……お前がそこまで言うなら、信じよう」
先生は設計図を受け取った。
「王室御用達の眼鏡職人ハンス・ミュラー。あいつは偏屈だが、腕は確かだ」
「それと、時計職人のヨハン・シュミット。精密な金属加工なら、王国一だ」
「両方とも俺の旧知の仲だ。紹介状を書いてやろう」
「本当ですか!」
私は思わず声を上げた。
「ただし、金はかかるぞ? 特注のレンズなんて、相当な金額になる」
「私の特別研究員としての予算を全額使ってください」
私は即答した。
「それでも足りなければ、父に頼んで出資してもらいます」
ハイムダル家は、幸い裕福だ。
父は私の研究を応援してくれているし、必要とあらば援助してくれるはずだ。
先生がニヤリと笑った。
「いい度胸だ。よし、やってやろうじゃないか」
「リーゼ、お前は本当に面白い」
「医学を進歩させるために、金も時間も惜しまない」
「その情熱は、俺が若い頃に失ってしまったものだ」
先生は立ち上がり、書棚から便箋を取り出した。
「職人たちへの紹介状を書く。お前は詳細な仕様書を作れ」
「レンズの曲率、倍率、材質。すべて数値で指定しろ」
「職人は、曖昧な指示では動かん」
「はい!」
私は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、先生」
「礼はいらん。成功してから言え」
先生はペンを走らせ始めた。
その背中を見ながら、私は思った。
この先生も、きっと若い頃は夢に燃えていたのだろう。
医学を変えたいと願い、新しい技術を追い求めていたのだろう。
そして今、その情熱を私に託してくれている。
◇
研究室を出ると、廊下でルーカス先輩に会った。
「おや、リーゼ。先生と何を話していたんだ?」
「顕微鏡の製作の相談です」
「顕微鏡?」
先輩が首を傾げたので、簡単に説明した。
「……つまり、目に見えない細菌を見るための道具か」
「それはすごいな。完成したら、俺にも見せてくれよ」
「もちろんです」
私は笑った。
「先輩にも、微生物の世界をお見せしますよ」
「楽しみにしてるよ」
先輩が優しく頭を撫でてくれた。
「でも、無理はするなよ。お前、最近忙しすぎるんじゃないか?」
「大丈夫です。睡眠はちゃんと取ってますから」
嘘だった。
実際は、毎日五時間も寝ていない。
でも、先輩に心配をかけたくなかった。
「そうか。なら、いいんだが……」
先輩は疑わしそうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
◇
その夜、私は自室で仕様書を作成した。
ゼンメルワイスの設計図を見ながら、現代の知識を加える。
レンズの曲率半径:対物レンズ5mm、接眼レンズ20mm
倍率:300倍を目標
筒の長さ:250mm
ステージの大きさ:50mm×50mm
光源用の反射鏡:凹面鏡、直径80mm
すべてを数値化し、図面に落とし込む。
前世の理科の授業で習った光学の知識が、ここで役に立った。
深夜、ようやく仕様書が完成した。
窓の外には、満月が浮かんでいる。
その光に照らされながら、私は誓った。
(カール王子の夢も、顕微鏡の製作も、絶対に成功させる)
(どちらも諦めない)
(これが、私の使命だから)
遠くで、教会の鐘が深夜を告げた。
新しい挑戦の始まりを祝福するかのように。




