第69話 特別研究員の初任務
特別研究員への就任式は、厳かに行われた。
王国医学協会本部。
重厚な扉の向こうで、会長から任命書を受け取る。
「リーゼ・フォン・ハイムダル。貴殿を当協会の特別研究員に任命する」
「謹んでお受けいたします」
拍手の中、私は誓った。
この称号に恥じない医師になると。
しかし、感傷に浸る時間はなかった。
式の直後、ヴィルヘルム先生と会長に呼ばれたのだ。
「リーゼ、早速だが仕事だ」
先生の表情は険しかった。
「緊急の案件が入った」
◇
「場所は、北部のノルトハイム地方だ」
会長が地図を広げた。
王都から馬車で三日の距離にある、寒冷な山岳地帯だ。
「この地方の鉱山街で、原因不明の熱病が流行している」
「症状は高熱、激しい頭痛、そして全身の発疹だ」
「すでに十名が亡くなり、五十名以上が臥せっている」
私は眉をひそめた。
高熱、頭痛、発疹——
いくつかの病名が頭をよぎる。
麻疹? 猩紅熱? それとも——
「現地の医師だけでは対応しきれない」
先生が言った。
「原因を特定し、流行を食い止めてほしい」
「分かりました」
私は即答した。
「すぐに向かいます」
「俺も行く」
後ろから声がした。
ルーカス先輩だった。
「先輩?」
「お前一人を行かせるわけにはいかないだろう」
先輩が力強く言った。
「ノルトハイムは荒っぽい場所だ。護衛兼助手が必要だ」
「ありがとうございます」
私は心強さを感じた。
「では、二人で向かってくれ」
先生が頷いた。
「頼んだぞ」
◇
出発の準備は迅速に行われた。
感染症対策の装備。
解熱剤、抗炎症剤、そして大量の消毒用アルコール。
古医学書から得た知識を元に、新しい防護服も用意した。
目の細かい布で作ったマスクとガウンだ。
「気をつけてね」
見送りに来たエリーゼが心配そうに言った。
「無理しちゃだめよ」
「大丈夫」
私は友人を安心させるように微笑んだ。
「必ず原因を突き止めて、戻ってくるわ」
馬車に乗り込む。
御者が鞭を鳴らし、私たちは王都を出発した。
◇
道中、ルーカス先輩と病気の可能性について議論した。
「高熱と発疹か……悪い予感がするな」
先輩が地図を見ながら言った。
「ノルトハイムは寒くて、冬は閉ざされた環境になる」
「衛生状態も良くないだろう」
「はい」
私は頷いた。
「人が密集し、不衛生な環境で広がる病気……」
私の脳裏には、ある一つの病名が浮かんでいた。
前世の歴史で、戦争や飢饉の際に大流行し、多くの命を奪った病。
もしそうなら、一刻を争う。
◇
三日後、私たちはノルトハイム地方の鉱山街に到着した。
空気が冷たい。
空は厚い雲に覆われ、雪がちらついている。
街の雰囲気は異様だった。
通りに人影はなく、どこか淀んだ空気が漂っている。
あちこちの家の煙突から煙が上がっているが、生気がない。
「ひどい雰囲気だな」
先輩が呟いた。
私たちは、街の中心にある診療所へ向かった。
そこは、野戦病院のような有様だった。
待合室まで患者が溢れ、床に敷かれた毛布の上で呻き声を上げている。
咳き込む音、うわごとを言う声。
そして、鼻をつく悪臭——汗と排泄物、そして死の臭い。
◇
「王都から来ました、特別研究員のリーゼです」
現地の老医師に声をかけた。
彼は疲れ果てていた。
「おお……王都の先生か」
医師は力なく頭を下げた。
「助けてくれ。もう我々の手には負えん」
「次々と人が倒れていく。薬も効かない」
「状況を確認させてください」
私はすぐに防護服とマスクを着用した。
ルーカス先輩も続く。
患者の一人に近づく。
二十代の男性。鉱山労働者のようだ。
顔は真っ赤で、呼吸が荒い。
「熱を測ります」
触診——熱い。四十度近くあるだろう。
意識は混濁している。
「あ……あぁ……」
意味のない言葉を呟いている。
そして、体を確認する。
胸から腹にかけて、赤い発疹が広がっていた。
点状の出血斑だ。
◇
「先輩、服を少しめくってください」
「ああ」
先輩が患者の衣服を慎重に持ち上げる。
私は、患者の肌着の縫い目や、脇の下を注意深く観察した。
不衛生な環境。
密集した生活。
寒さのために着替えない人々。
そして——見つけた。
服の縫い目に潜む、小さな虫。
シラミだ。
「コロモジラミ……」
確信した。
シラミが媒介する感染症。
高熱、発疹、意識障害。
全ての条件が揃っている。
「先輩」
私は静かに、しかし断固として言った。
「病名が分かりました」
「何だ?」
「発疹チフスです」
先輩が息を呑んだ。
「チフス……かつて軍隊を全滅させたという、あの?」
「はい」
私は立ち上がった。
「リケッチアという病原体が原因です。そして、媒介しているのはシラミです」
周囲を見渡す。
患者たちは密集し、誰もが同じ服を着続けている。
これでは、シラミが移動し放題だ。
感染が広がるのも無理はない。
◇
「治療法はあるのか?」
老医師が縋るように聞いてきた。
「あります」
私は力強く答えた。
「ですが、薬だけでは勝てません」
「この病気との戦いは、衛生との戦いです」
私は指示を出し始めた。
「ルーカス先輩、すぐに患者を隔離します」
「重症者と軽症者を分け、未感染者との接触を断ちます」
「先生、街中の衣類と寝具を集めてください。全て熱湯で煮沸します」
「シラミを駆除しない限り、流行は止まりません」
「そして、患者の髪を短くし、体を洗います」
老医師が戸惑った。
「し、しかし、こんな寒い時期に体を洗うなど……」
「やらなければ全滅します!」
私は声を張り上げた。
「これは戦争です。病原体という見えない敵との戦争なんです」
私の剣幕に、医師たちが動揺した。
しかし、すぐに覚悟を決めたようだ。
「……分かった。王都の先生の言う通りにしよう」
私はルーカス先輩を見た。
「先輩、長丁場になりますよ」
「望むところだ」
先輩が不敵に笑った。
「お前の指示なら、間違いない」
◇
その日から、私たちは戦場のような診療所で働き始めた。
まずは環境の改善だ。
窓を開けて換気を行い、床を消毒液で拭き上げる。
患者の服を全て脱がせ、煮沸消毒へ回す。
新しい清潔な布を支給する。
そして、治療薬の調合。
発疹チフスに特効薬となる抗生物質はない。
しかし、前世の知識とこの世界の薬草学を組み合わせれば、対抗できる。
抗菌作用のあるニンニク、エキナセア。
解熱作用のある柳の樹皮。
そして、体力を維持するための経口補水液。
これらを総動員する。
私は休む間もなく動き回った。
脈を取り、水分を与え、体を拭く。
「大丈夫です、必ず良くなります」
譫妄状態の患者に声をかけ続ける。
これは医師としての戦いだ。
特別研究員という肩書きのためではない。
目の前の命を救うためだ。
夜、診療所の隅で短い休憩を取った。
「リーゼ、少しは寝ろ」
先輩がコーヒーを差し出してくれた。
「まだ動けます」
「倒れたら元も子もないぞ」
先輩の言葉に、渋々座り込む。
窓の外は吹雪いていた。
厳しい環境だ。
でも、負けるわけにはいかない。
ゼンメルワイス先生も、かつてこうして戦ったのだろうか。
見えない敵と。
理解されない孤独の中で。
でも、私には仲間がいる。
「先輩、ありがとうございます」
コーヒーの温かさが身に染みる。
「必ず、この街を救いましょう」
「ああ、もちろんだ」
私たちの戦いは、まだ始まったばかりだった。




