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第7話 救いの手

「それは良かった。神様のご加護がありましたね」


老婆の言葉に、私は複雑な思いを抱いた。

確かに、私は生き返った。

でも、それは神の加護ではなく——


その時、近くで子供の泣き声が聞こえた。


「痛い!痛いよ、お母さん!」


声のする方を見ると、六歳くらいの男の子が足を押さえて泣いている。

母親らしき女性が、慌てて抱きかかえていた。


私は反射的に駆け寄った。


「どうしたんですか?」


「お嬢様...息子が、足に釘を踏んでしまって...」


男の子の足を見る。

医師の目で、瞬時に状況を把握する。


「足の裏の中央に、釘の刺し跡。血は少ないが、腫れと熱感がある。」

血が滲んでいる。しかし、出血量は少ない。


問題は、それではない。


傷口の周囲が赤く腫れている。

発赤の範囲——傷口から半径約3cm。

熱感あり。触ると、子供が痛がる。

そして、わずかに膿の臭いがする。


さらに悪いことに——

赤い筋が、傷口から上へ向かって伸びている。

リンパ管炎。毒が血に入り始めている証拠。


これは——蜂窩織炎。血に毒が回り始めている——危険な兆候だ。


「いつ怪我をしたんですか?」


声が緊張で固くなる。


「三日前です...でも、痛がるようになったのは今朝からで...」


三日前。

72時間放置。

この衛生環境で。消毒もせず。


最悪のシナリオが頭をよぎる。

このまま放置すれば、敗血症が進行。

発熱、意識障害、多臓器不全。

そして——死。


あるいは、運が良くても足の切断。


「感染を起こしています。すぐに手当てをしないと、危険です」


この時代には抗生物質がない。

でも、やれることはある。

排膿、洗浄、消毒——基本的な処置だけでも、命を救える可能性はある。


私の真剣な表情に、母親は驚いた顔をした。


「お嬢様が...そんなことを...」


「お父様!」


私は父を呼んだ。「この子を屋敷に連れて行ってもいいですか?手当てをしないと、足を失うかもしれません」


父は一瞬躊躇したが、私の真剣な目を見て頷いた。


「分かった。すぐに馬車を用意させよう」


屋敷に戻ると、私は使用人たちに指示を出した。


「清潔な布、熱湯で煮沸した水、それから蒸留酒を持ってきてください。あと、蜂蜜と、薬草庫にあるヤロウとエキナセアも」


使用人たちは戸惑いながらも、私の指示に従った。

そして、準備が整うと、私は男の子の治療を始めた。


深呼吸をする。

落ち着け。二十八年の経験がある。

この小さな手でも——

……いや、本当にできるのか?


「お母さん、しっかりと抱きしめていてください。痛がりますが、我慢してもらわないといけません」


まず、清潔な水で傷口を洗う。

血と膿を洗い流す。水が赤く濁る。

傷口の奥を確認——膿瘍が形成されている。


「ごめんなさい、少し痛いけど我慢してね」


十歳の小さな指で、慎重に圧迫する。

膿を絞り出す。黄緑色の膿が、傷口から溢れ出る。

独特の悪臭。嫌気性菌の可能性。


「ぎゃあああっ!」


男の子が泣き叫ぶ。

母親が涙を流しながら、必死に息子を抱きしめている。


泣かないで。

わかってる、痛いよね。

でも、止められない。今、手を止めたら——


私も、心が痛む。

でも、手を止められない。

これをしなければ、この子は死ぬ。


排膿が終わったら、次は消毒。

蒸留酒——この時代で最も効果的な消毒薬。

アルコール濃度は不明だが、おそらく40-50%。

理想的ではないが、ないよりはまし。


布に蒸留酒を含ませ、傷口に押し当てる。


「ああああっ!!」


さらに激しい悲鳴。

アルコールが傷口に染みる痛み。想像を絶する苦痛だろう。

でも、これで傷の腐敗を防げる。膿を抑えられる。


次に、薬草の煎じ液。

ヤロウ——抗炎症作用。傷の腫れを抑える。

エキナセア——免疫賦活作用。体の抵抗力を高める。

前世の医学では「代替医療」として扱われていたが、実際に効果があることは研究で証明されている。


温かい煎じ液で、傷口を優しく洗浄する。


最後に、蜂蜜。

傷の腐敗を防ぎ、治りを早める。古代エジプトでも使われていた伝統的な治療法。

前世の医学でも、その効果は認められている。

厚めに塗り、清潔な布で包帯をする。


「終わったよ。よく頑張ったね」


男の子は泣き疲れて、ぐったりしている。

でも、脈は安定している。呼吸も落ち着いている。

これで、敗血症の進行を止められるはずだ。


「これで大丈夫です。でも、毎日傷口を洗って、清潔に保ってください。もし熱が出たり、腫れがひどくなったら、すぐに知らせてください」


母親は涙を流しながら、何度も頭を下げた。


「ありがとうございます...お嬢様...本当にありがとうございます...」


その夜、父が書斎に私を呼んだ。


「リーゼ、今日は驚いたぞ。お前が、あんなに的確に治療をするとは」


厳しい表情だった。叱られるかもしれないと思ったが、父の次の言葉は意外なものだった。


「誰に習ったんだ?その知識は」


「えっと...本で読んで、それから...」


言葉に詰まる。どう説明すればいいのか。


父はしばらく私を見つめた後、深くため息をついた。


「リーゼ、お前は病気から目覚めてから、変わった。以前より積極的で、知識も豊富になった。何か...特別なことがあったのか?」


私は迷った。しかし、父の真剣な目を見て、少しだけ真実を話すことにした。


「お父様...病気の間、私は夢を見ていました。とても長い、鮮明な夢を。その夢の中で、私は...医師として生きていたんです」


「医師...」


「はい。そして、その夢の中で学んだことが、今でも頭の中に残っているんです」


父は驚いた表情を見せたが、否定はしなかった。


長い沈黙のあと、父は机の上の手をゆっくり握りしめた。

「……夢か。だが、それが真実であろうとなかろうと——」

「今日お前がしたことは、本物の医の行いだ」


父は優しく微笑んだ。

「リーゼ、もしその知識で人々を救えるなら、それは素晴らしいことだ。ただし、無理はするな。お前はまだ十歳の子供なのだから」


「はい、お父様」


その言葉に、私は胸が熱くなった。

父は、私を信じてくれた。

それだけで、十分だった。


翌日から、私は本格的にこの世界の言語と医学の勉強を始めた。基本的な会話はリーゼの記憶で問題ないが、医学用語は別だ。この世界独自の病名や薬草の名前を覚える必要がある。


書斎で一日中本を読み、分からない言葉があれば使用人たちに尋ねた。また、薬草庫を訪れ、実際の薬草を見て、その特性を学んだ。


そして、一週間後——


村から、あの男の子の母親が訪ねてきた。


「お嬢様!息子の足、すっかり良くなりました!」


その報告に、私は心から安堵した。

感染症を抑えることができた。

前世の知識が、この世界でも通用することが証明された。


「それは良かったです。これからは、怪我をしたらすぐに傷口を洗って、清潔に保つようにしてくださいね」


「はい!本当にありがとうございました!」


母親が帰った後、私は窓から外を眺めた。

青い空、緑の森。美しい世界だが、医療は未発達で、多くの人が病に苦しんでいる。


「私にできることを、一つずつやっていこう」


そう心に誓いながら、私は再び医学書を開いた。

この世界の知識と、前世の知識を融合させ、新しい医療を築いていく。

それが、リーゼとして生きる私の——

……いや、本当にそれでいいのか?


この世界の言葉を覚え、この世界の命を救う。

それが、私の"最初の一歩"だった。


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