第67話 古医学書の発見
古医学書の解読を始めてから一週間が過ぎた。
毎日、授業の後に図書館の特別閲覧室へ通う。
エリーゼも一緒に来てくれて、二人で古代語と格闘している。
「リーゼ、この部分、何て書いてあるの?」
友人が指さす。
古代語の文字——複雑で読みにくい。
でも、少しずつパターンが見えてきた。
「これは……心臓の病気についてね」
私は慎重に翻訳していく。
「心臓の拍動が不規則になる病——不整脈のことだわ」
「すごい、百六十年前にもう不整脈の概念があったのね」
エリーゼが驚いた。
ページをめくっていく。
様々な病気の記述。
そして、その治療法。
ある薬草の組み合わせが、心臓の病に効くという。
◇
その日の夕方、重要な発見があった。
古医学書の真ん中あたりのページ。
特別な印がついている。
そこには——
「これは……」
私は息を呑んだ。
「血液循環の理論が書かれているわ」
「血液循環?」
エリーゼが尋ねた。
「うん」
私は興奮しながら説明した。
「心臓から血液が全身に送られ、また心臓に戻ってくる——そういう仕組みよ」
「この世界では、まだその概念が確立されていないと思っていたけど」
「百六十年前には、すでに理解されていたのね」
さらにページをめくると——もっと驚くべき記述があった。
「手術の方法……」
私は目を見開いた。
「様々な手術についての記述があるわ」
◇
「どんな手術?」
エリーゼが尋ねた。
「腹部の手術、腫瘍の摘出、骨折の固定……」
私はページをめくりながら答えた。
「全てが詳しく記述されている」
図解もある——人体の構造、血管の配置、手術の手順。
全てが驚くほど正確だ。
「これは……」
私は呟いた。
「これを解読できれば、この世界の医療は大きく進歩するわ」
「すごい発見ね」
エリーゼが興奮気味に言った。
「でも、誰がこんな高度な知識を持っていたの?」
「それが謎なのよ」
私はページの最後を見た。
そこには、著者の名前が書かれていた。
古代語で綴られているが、読み方は——「イグナーツ・ゼンメルワイス」
聞き覚えのある、異国風の名前。
◇
すぐにヴィルヘルム先生に報告に行った。
「先生、重大な発見がありました」
私は興奮を抑えきれなかった。
「古医学書に、血液循環の理論と様々な外科手術の方法が記載されています」
「何だと?」
先生が驚いた顔をした。
「血液循環の理論? それは確立されていないはずだが」
「はい。でも百六十年前には、すでに理解されていたようです」
私は解読した内容を説明した。
先生は真剣に聞いていた。
「イグナーツ・ゼンメルワイスか」
先生が呟いた。
「その名前は、伝説的な医師として記録に残っている」
「百六十年前、この王国に突然現れた天才医師だったと言われている」
「若い頃から驚異的な医学知識を持ち、特に『手を洗え』と説いて回ったという」
「当時は誰も理解できず、異端視されたそうだ」
「でも、彼の著作は全て失われたと思われていた」
「それが、この医学院にあったとは」
◇
「リーゼ」
先生が真剣な顔で言った。
「この発見は、極めて重要だ」
「血液循環の理論を確立すれば、医学は大きく進歩する」
「そして外科手術の詳細な方法——これは革命的だ」
「お前に、この古医学書の完全な解読を任せたい」
私は少し考えた。
大きな責任だ。
でも、これは千載一遇のチャンスでもある。
「分かりました」
私は頷いた。
「やらせていただきます」
「ただし」
先生が続けた。
「王立医学会での発表もある。両方を同時進行するのは大変だぞ」
「大丈夫です」
私は自信を持って答えた。
「時間を有効に使います」
◇
その夜、研究室で王立医学会の発表原稿を最終確認していた。
全身性エリテマトーデスの研究——ほぼ完成している。
でも、古医学書の発見も追加したい。
血液循環の理論を簡単に紹介できれば——
いや、それは別の機会にした方がいい。
一度に多くの情報を詰め込むと、聴衆が混乱する。
今回は、全身性エリテマトーデスに集中しよう。
古医学書の内容は、後日別の発表で詳しく説明する。
「リーゼ」
ルーカス先輩が入ってきた。
「まだ研究してるのか?」
「はい。発表まであと一週間です」
「頑張ってるな」
先輩が微笑んだ。
「でも、無理はするなよ」
「古医学書の解読もあるんだろ?」
◇
「はい」
私は正直に答えた。
「重大な発見がありました」
「血液循環の理論と、外科手術の詳細な方法です」
「何だって?」
先輩が驚いた。
「それは……すごい発見だぞ」
「でも、一度に多くのことをやろうとすると、体を壊すぞ」
「気をつけます」
私は微笑んだ。
「でも、これは医師として、研究者として、やらなければならないことです」
「そうだな」
先輩が頷いた。
「お前らしいよ」
その夜、部屋で今後の計画を立てた。
来週——王立医学会での発表。
その後——古医学書の完全な解読。
そして、血液循環理論の検証と、外科手術技術の研究。
やるべきことは山積みだ。
でも、やりがいがある。
◇
翌日、カール王子の診察に行った。
王子はすっかり元気になっていた。
「リーゼ先生、見てください!」
カール王子が走ってきた。
走れるようになった——これは大きな進歩だ。
「素晴らしいですね」
私は心から嬉しくなった。
「もう普通に生活できるようになりましたね」
「はい」
王子が笑顔で答えた。
「リーゼ先生のおかげです」
アレクサンダー王子も感謝していた。
「リーゼ先生、本当にありがとうございます」
「カールは完全に回復しました」
「これからも定期的に診察に来てください」
私は言った。
「病気は、管理が大切ですから」
「もちろんです」
王子が頷いた。
◇
医学院に戻ると、エリーゼが待っていた。
「リーゼ、すごいの!」
友人が興奮気味に言った。
「古医学書に、あなたがいつもやっていることが書いてあったわ」
「私がやっていること?」
「感染症の予防法よ」
エリーゼが説明した。
「手を洗うこと、器具を煮沸消毒すること——あなたが診療所でいつも実践していることが、全て体系的に書かれているの」
「本当に?」
私は息を呑んだ。
「私がやってきたことが、古医学書に……」
「そうなの」
エリーゼが頷いた。
「あなたが何気なくやっていた手洗いや消毒が、実は百六十年前に確立された感染予防の理論だったのよ」
「私、あなたがいつも治療前に手を洗ったり、器具を煮沸したりしているのは見ていたけど」
「まさか、それが失われた医学知識だったなんて……」
エリーゼには、前世の知識があるとは言えない。
でも、自分で気づいたことにすれば問題ない。
「見せてくれる?」
図書館へ急いだ。
エリーゼが該当のページを開く。
確かに——私が実践してきたことと、全く同じことが書かれている。
手洗いの重要性。
器具の消毒方法。
清潔な環境の維持。
百六十年前に、誰かが同じ知識を持っていた。
◇
「イグナーツ・ゼンメルワイス」
この名前——どこかで聞いたことがあるような……。
でも、思い出せない。
異国風の、珍しい名前だ。
「彼は、百六十年前にすでに現代医学の基礎を理解していたのね」
「でも、なぜこの知識が失われたの?」
エリーゼが尋ねた。
「分からないわ」
私は首を横に振った。
「でも、今私たちがこれを解読して、世界に広めることができる」
「そうね」
エリーゼが微笑んだ。
「これは、私たちの使命かもしれないわね」
その日の夕方、ヴィルヘルム先生に再び報告した。
感染予防の記述について。
「素晴らしい」
先生が感嘆した。
「これを実践すれば、多くの感染症を防げる」
「手術後の感染も減らせる」
「リーゼ、お前はとんでもないものを見つけたぞ」
◇
その夜、部屋で日記を書いた。
『古医学書の解読——驚くべき発見の連続。血液循環の理論、外科手術の詳細な方法、感染予防の概念。全てが百六十年前に確立されていた。イグナーツ・ゼンメルワイスという天才医師の業績。彼の知識を、現代に蘇らせる。それが私の新しい使命だ』
ペンを置き、窓の外を見る。
星が美しく輝いている。
「お父様、お母様、マルタさん」
星に向かって小さく呟いた。
「古医学書から、驚くべき発見がありました」
「百六十年前の医師の知識が、現代でも通用します」
「いや、現代よりも進んでいる部分もあります」
「この知識を解読して、世界に広めます」
「そして、もっと多くの人を救います」
星が優しく瞬いている。
◇
机の上には、明日の予定表があった。
授業、実習、古医学書の解読、王立医学会の発表準備。
そして、感染予防の実践計画の立案。
全てが重要な仕事だ。
忙しいが、充実している。
王立医学会の発表まで、あと一週間。
その後は、古医学書の完全な解読に専念する。
そして、その知識を実践に移す。
やるべきことは山積みだが、一歩ずつ進んでいこう。
「おやすみなさい」
小さく呟いて、ベッドに入った。
古医学書の発見——それは予想以上の宝物だった。
百六十年前の天才医師の知識。
それを現代に蘇らせる。
大きな責任だが、やりがいがある。
◇
翌朝、いつもより早く起きた。
今日も充実した一日が始まる。
図書館へ向かう途中、トーマスとクラウディアに会った。
「リーゼ、古医学書の解読、順調?」
トーマスが尋ねた。
「うん。驚くべき発見があったの」
私は興奮しながら説明した。
血液循環の理論、外科手術の方法、感染予防——全てを話した。
「すごいじゃないか!」
トーマスが目を輝かせた。
「それは医学の革命だぞ」
「リーゼ、あなた本当にすごいわ」
クラウディアも感心していた。
「百六十年前の知識を蘇らせるなんて」
「まだ解読途中よ」
私は謙遜した。
「でも、全力を尽くすわ」
◇
図書館の特別閲覧室で、エリーゼと一緒に解読を続ける。
一文字ずつ、丁寧に。
古代語から現代語へ。
そして、医学用語に変換する。
時間がかかる作業だが、やりがいがある。
新しいページを開くたびに、新しい発見がある。
薬草の効能。
手術の技術。
診断の方法。
全てが貴重な知識だ。
「リーゼ、これ見て」
エリーゼが別のページを指さした。
「麻酔の方法が書いてあるわ」
「麻酔?」
私は息を呑んだ。
「この世界で使える麻酔の配合が……!」
前世では当たり前だった麻酔。
でも、この世界ではまだ確立されていない。
これまで使ってきた薬草麻酔——マンドレイクとケシの実の煎じ液。
確かに痛みは軽減できるが、完全な無痛ではない。
患者は手術中も意識があり、苦痛に耐えなければならない。
投与量も経験則に頼るしかなく、効果が不安定だった。
そのページを読む。
確かに——手術時の麻酔方法が詳しく書かれている。
マンドレイク、ケシの実、ベラドンナ、ヘンベインの四種類の配合。
それぞれの比率——一対二対一対半分。
煎じ液の濃度——患者の体重一キログラムあたり、何ミリリットル。
ただし——重要な注意書きがある。
『生薬は産地、時期、保存状態により薬効成分の含有量が大きく異なる。必ず調製した煎じ液を少量味見し、苦味の強さで濃度を推定せよ。初回投与は基準量の半分とし、効果を確認しながら慎重に増量すること』
投与のタイミング——手術開始の三十分前。
注意事項——呼吸の確認方法、意識レベルの判定基準、過量投与時の対処法。
全てが詳細に記されている。
これは……これまでの麻酔とは比較にならない。
「これよ……」
私は興奮した。
「これがあれば、もっと複雑な手術ができる」
「麻酔なしでは不可能だった手術が、可能になる」
◇
その日の午後、ヴィルヘルム先生の前で中間報告をした。
これまでに解読した内容を、全て説明する。
血液循環、外科手術の技術、感染予防、そして麻酔。
先生は真剣に聞いていた。
「リーゼ、素晴らしい成果だ」
先生が言った。
「これは、王国の医学を百年進歩させる内容だぞ」
「ありがとうございます」
「ただし」
先生が続けた。
「これを実践に移すには、慎重さが必要だ」
「特に外科手術と麻酔——これらは危険を伴う」
「十分な検証が必要だ」
「理解しています」
私は頷いた。
「まず理論を完全に理解してから、動物実験、そして最終的に人間への適用」
「段階を踏んで進めます」
「よし」
先生が満足そうに頷いた。
◇
その夜、部屋で明日の発表原稿を最後に確認した。
王立医学会——あと六日。
全身性エリテマトーデスの研究。
症例分析、診断方法、治療法。
全てが完璧に準備できている。
でも、古医学書の発見も少しだけ触れたい。
最後に、今後の研究方向として——
発表原稿に一段落追加した。
『今後は、古医学書の解読を通じて、失われた医学知識の復興にも取り組んでいく所存です』
これで完璧だ。
ふと、机の隅に置いた古医学書に目が留まった。
イグナーツ・ゼンメルワイス——百六十年前の天才医師。
彼の遺した知識を、明日の発表で紹介する。
感謝の気持ちを込めて、もう一度手に取ってみよう。
古医学書を開き、ページをめくっていく。
血液循環の理論、外科手術の方法、感染予防……
そして——ページをめくり続けて、最後のページに辿り着いた時。
そこに、見慣れた文字があった。
地球の文字。
ラテン文字で書かれた、短い一節。
この世界の誰も読めない、前世の言葉。
私の手が震えた。
『もし、これを読んでいる者がいるなら、あなたも私と同じ運命を辿った者だろう。
私はこの世界で理解されない。手を洗えと説いても、誰も聞き入れない。
いつか、私の知識は失われるかもしれない。
だが、もし同じ世界から来た者がこれを見つけたなら——
どうか、私の遺した知識を受け継ぎ、この世界の人々を救ってほしい。
真実は、いつか必ず認められる。
同じ故郷を持つ友へ。
イグナーツ・ゼンメルワイス』
涙が、ページに落ちた。
百六十年前。
彼は、未来の転生者へ向けて、この言葉を遺した。
孤独の中で、希望を信じて。
「ゼンメルワイス先生……」
私は静かに呟いた。
「あなたは一人じゃなかった」
「今、私がここにいます」
「あなたの遺志を、必ず継ぎます」
窓を開けると夜風が入ってくる。
星が美しく輝いている。
明日もまた、新しい挑戦が待っている。
でも怖くはない。
準備はできている。
仲間がいる。
そして使命がある。
少女医師の挑戦は、続いていく。




