第64話 教育と研究の日々
エルフリーデ様の治療を始めてから一週間が過ぎた。
毎日、王宮へ診察に向かう。
その度に、彼女の症状には劇的な改善が見られた。
微熱が下がり、顔に赤みが差し、何よりあんなに激しかった夜間の咳が落ち着いてきている。
私の処方した薬草の配合が、確実に病根を叩いている証拠だ。
「リーゼ先生」
エルフリーデ様が、ベッドで体を起こした。
一週間前、王宮の侍医たちが「なす術なし」と匙を投げかけていたときには考えられない回復ぶりだ。
「今日は、とても呼吸が楽です」
「よかったです」
私は微笑み、聴診器を当てる。肺の雑音も明らかに小さくなっている。
傍らでその様子を見ていた王妃陛下が、不思議そうに、しかし深い敬意を込めて尋ねてきた。
「リーゼ先生……一つ伺ってもよいでしょうか。王宮には王国一の治癒魔法師も、経験豊富な侍医も揃っておりました。なのになぜ、誰も彼女の病を見抜けなかったのでしょう?」
私は一度、聴診器を外して王妃陛下に向き直った。
「それは……『治癒魔法』の存在と、『先入観』が原因かと思われます」
「魔法が……原因?」
「はい。エルフリーデ様が微熱や怠さを訴えるたび、魔法師の方々は彼女に魔力を注ぎ、一時的に熱を下げ、活力を与えてきました。それは優しさですが、同時に『病の本当の進行』を覆い隠してしまったのです。魔法で元気になったように見える裏で、結核菌は着実に肺を侵し続けていました」
私は一呼吸置いて、続けた。
「そして侍医の方々は、清潔な環境にいる侍女長が、貧困層に多い『肺の感染症』にかかっているという可能性を、最初から選択肢から外してしまったのでしょう。彼らはこれを感染症ではなく、長年の心労による非感染性の衰弱だと信じ込んでいたのです」
私の説明に、王妃陛下はハッとしたように目を見開いた。
「……目に見える『元気』に惑わされ、病の本質を見失っていたのですね。リーゼ先生、あなたの客観的な眼差しがなければ、私たちは彼女を死なせてしまうところでした」
王妃陛下は涙を浮かべ、何度も頭を下げられた。
◇
医学院に戻ると、ヴィルヘルム先生に呼ばれた。
「リーゼ、エルフリーデ様の治療、順調のようだな」
先生はすでに報告を受けていたようで、満足げに頷いた。
「はい。隔離と換気、そして適切な薬物療法が功を奏しています」
「素晴らしい。王宮の侍医長も、自分の不明を恥じると共に、君の診断力に脱帽していたよ。……さて、リーゼ。実は、お前に頼みたいことがある」
「はい」
「一年生への特別講義をしてくれないか?」
先生が切り出した。
「内容は『全身性エリテマトーデス(SLE)』について――そして、いかにして先入観を捨て、身体所見から真実を導き出すか。お前の経験を学生たちに伝えてほしいのだ」
「私が……講義をですか?」
少し驚いた。まだ二年生なのに、教壇に立つなんて。
「お前は実際に難病の診断と治療に成功している。その生きた知識は、教科書の何倍も価値がある」
「分かりました。やらせていただきます」
◇
翌日から、特別講義の準備を始めた。
研究室で資料を作成する。
SLEの症状、診断基準、そして王宮での結核診断で得た「魔法に頼りすぎない客観的診察」の重要性。
全てを分かりやすくまとめる。
エリーゼが手伝ってくれた。
「リーゼ、この図、すごくいいわ。蝶形紅斑と、普通の湿疹の違いが一目で分かる」
「ありがとう。一年生に伝わるか不安だけど」
「大丈夫よ。あなたなら絶対できる」
ルーカス先輩も覗きに来た。
「リーゼ、二年生で教壇に立つなんて前代未聞だぞ。お前、本当に歴史を作ってるな」
◇
講義の日が来た。
大講堂には約八十名の一年生が集まり、全員が熱い視線を私に送っていた。
少し緊張したが、深呼吸をして壇上に立った。
「皆さん、こんにちは。二年生のリーゼ・フォン・ハイムダルです。今日は難病SLEの症例と、医師として大切な『視点』についてお話しします」
学生たちが一斉にペンを走らせる。
「病気には、必ずサインがあります。魔法で一時的に熱が下がっても、脈は嘘をつきません。食欲の減退や、皮膚の微かな変色――それらを一つずつ繋ぎ合わせていくのが、私たちの仕事です」
私はソフィア様の症例図を示しながら、一つ一つの症状の作用機序を説明した。
学生の一人が手を挙げた。
「リーゼ先輩! 魔法を使っても原因が分からないとき、私たちは何を信じればいいですか?」
「『違和感』を信じてください」
私は迷わず答えた。
「魔法で体が温かくなっても、患者さんの目がまだ暗いなら、そこには必ず別の原因があります。その原因を突き止めるために、解剖学があり、病理学があるのです」
◇
講義は一時間、熱気に包まれたまま終わった。
終了と同時に、割れんばかりの拍手が起こる。
壇上を降りると、ヴィルヘルム先生が待っていた。
「見事だった。これで医学院のレベルは一段引き上げられたな」
その日の午後、私は研究室でSLEの治療マニュアルの仕上げにかかっていた。
このマニュアルがあれば、地方の医師でも私のいない場所で患者を救える。
「リーゼ」
エリーゼが部屋に入ってきた。
「王妃陛下からの使いよ。来週、お茶会に招かれたわ!」
王妃陛下からの招待状。
エルフリーデ様が、直接私にお礼を言いたいと望まれているという。
◇
土曜日。王宮の庭園。
美しい噴水が光を反射し、色とりどりの花が咲き乱れる中、お茶会が開かれた。
現れたエルフリーデ様は、一週間前とは見違えるほど元気な足取りで私のもとへ歩み寄ってきた。
「リーゼ先生……本当に、ありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げた。
「ずっと『年齢による衰え』だと言われ、死を受け入れようとしていました。先生が病の正体を見抜いてくださったおかげで、私は再び、こうして太陽の光を浴びることができます」
「元気になられて、本当によかったです」
私は微笑み、彼女の手を握った。温かい。もう、あの死の影は消えかけている。
王妃陛下も満足げに微笑んだ。
「リーゼ先生、あなたは王国の宝です。これからも、多くの迷える魂を救ってください。王家は全力であなたを支援します」
◇
医学院へ戻る馬車の中で、私は窓の外に広がる王都の夕景を眺めていた。
教育、研究、そして王家との絆。
私の活動は確実に広がっている。
かつて東京で、独りぼっちで命と戦っていた私は、もういない。
ここには仲間がいて、師がいて、そして私を待っている患者たちがいる。
夜空に一番星が輝き始めた。
「お父様、お母様、マルタさん。私は、正しい道を歩けていますか?」
星は答えを返さない。
だが、その光はかつてよりもずっと優しく、私の進むべき道を明るく照らしているように感じられた。
少女医師の挑戦は、これからも続いていく。




