第062話 難しい手術への挑戦
ハルトムート先生との厳しい実習を終えた翌週、私は再び医師としての日々に戻った。
授業、実習、研究——全てに新たな決意で臨む。
完璧である必要はない。
ただ、誠実に、一生懸命に。
そして、謙虚に学び続ける。
厳しい試練で学んだことを、胸に刻んで。
◇
病院実習の日だった。
王都中央病院へ向かうと、フリードリヒ医師が真剣な顔で待っていた。
「リーゼさん、今日は少し難しい症例があります」
「はい」
私は頷いた。
「患者は五十代の男性。胃に大きな腫瘍があります」
医師が説明を続けた。
「良性か悪性かはまだ分かりません。でも摘出が必要です」
「胃腫瘍の摘出……」
私は少し緊張した。
前世では何度も経験した手術だが、この世界では初めてだ。
「今日は見学だけですが」
フリードリヒ医師が言った。
「もしよければ、助手として参加してもらえませんか?」
「はい」
私は即答した。
「やらせていただきます」
◇
手術室へ向かう途中、ベルンハルト医師に会った。
「リーゼさん、今日の手術に参加するそうですね」
「はい」
「胃腫瘍の摘出は難しい手術です」
ベルンハルト医師は真剣な顔で言った。
「出血のリスクが高く、周囲の臓器を傷つける危険もあります」
「分かっています」
私は頷いた。
「でも、だからこそ学びたいんです」
「その意欲は素晴らしい」
医師は微笑んだ。
「頑張ってください」
◇
手術室に入ると、すでに準備が整っていた。
清潔な空間、整然と並べられた器具、そして緊張した空気。
患者が運ばれてきた。
五十代の農夫らしい男性で、顔色は悪く、痩せている。
腫瘍のせいで食事が取れず、体力が落ちているのだろう。
「大丈夫です」
フリードリヒ医師が患者に声をかけた。
「必ず治します」
「お願いします……」
患者の声は弱々しい。
でもその目には、希望の光がある。
私たちを信じてくれている。
その信頼に応えなければ。
◇
麻酔が投与され、患者の意識が朦朧としてきた。
「では、始めます」
フリードリヒ医師が宣言した。
私は助手として、すぐ横に立つ。
メスが皮膚に触れ、切開が始まった。
上腹部、正中線に沿って約十五センチの切開。
血が滲み出てくる。
「ガーゼ」
医師が言い、看護師が渡す。
私は鉗子で組織を広げる。
視野を確保しながら、出血を最小限に抑える。
皮下組織、筋層を一層ずつ剥離していく。
慎重に、でも迅速に。
腹膜を開くと、内臓が見えてきた。
肝臓、胃、腸管——全てが整然と配置されている。
そして胃の表面に——腫瘍があった。
◇
約五センチの塊。
白っぽく、周囲の組織とは明らかに異なる。
「これですね」
フリードリヒ医師が確認する。
「かなり大きい。胃壁に深く入り込んでいる可能性があります」
医師が慎重に腫瘍の周囲を観察する。
「リーゼさん、鉗子で胃を固定してください」
「はい」
私は鉗子で胃を優しく掴む。
しっかりと、でも組織を傷つけないように。
医師がメスで腫瘍の周囲を切開し始めた。
胃壁を慎重に切り開いていく。
一層ずつ、丁寧に。
突然、出血が始まった。
小さな血管が切れたのだ。
「ガーゼ、圧迫」
医師が冷静に指示する。
看護師がすぐにガーゼを渡し、医師が圧迫する。
でも出血は止まらない。
「結紮が必要です」
医師が言った。
「リーゼさん、血管を鉗子で掴んでください」
◇
私は血管を探す。
出血している箇所——そこだ。
鉗子で血管を掴む。
確実に、でも優しく。
「掴みました」
「よし」
フリードリヒ医師が糸で血管を結紮する。
二重結紮——確実に止血する。
出血が止まった。
「ナイスアシストです」
医師が言った。
私はほっとした。
手術は続いた。
腫瘍の剥離が進む。
医師の手が正確に動く——一つ一つの動作が慎重で、確実だ。
私は助手として、器具を渡し、組織を保持し、視野を確保する。
全ての動作を正確に、タイミング良く。
◇
やがて腫瘍が完全に剥離された。
「摘出完了」
フリードリヒ医師が言った。
約五センチの腫瘍が取り出された——白い塊。
「後で詳しく調べます」
医師が看護師に渡した。
「良性か悪性か、判定する必要があります」
次に胃壁の縫合。
開いた胃壁を閉じなければならない。
「リーゼさん、縫合してみますか?」
フリードリヒ医師が突然言った。
「え……私がですか?」
「ああ。あなたの縫合技術は素晴らしいと聞いています」
医師は微笑んだ。
「この機会に、胃壁縫合を経験してほしい」
私は少し躊躇した。
でも、これもチャンスだ。
「分かりました。やらせていただきます」
◇
針と糸を手に取った。
深呼吸——落ち着け。
胃壁縫合は難しい。
張力が強すぎると組織が裂ける。
弱すぎると漏れる。
適切なバランスが必要だ。
針を胃壁に刺す。
九十度の角度で——組織への侵襲を最小限に。
針を通す。
反対側に出す。
糸を引く——適度な張力で。
強すぎず、弱すぎず。
組織の断端が軽く接触する程度。
結ぶ。
外科結び——確実に、でも優しく。
一針目、完了。
二針目、三針目——リズムよく縫合を進める。
手が自然に動く。
前世の経験と、この世界での練習。
全てが一つになっている。
◇
胃壁の縫合が完了。
「素晴らしい」
フリードリヒ医師が感嘆した。
「これは……完璧な縫合です」
看護師たちも驚いた顔をしている。
「十二歳でこの技術……」
でも、まだ終わりではない。
腹腔内を洗浄する。
薬草を煎じた液体で——抗菌作用がある。
そして閉腹。
腹膜を縫合、筋層を縫合、皮下組織を縫合、最後に皮膚を縫合。
一層ずつ、丁寧に。
最後の糸を結ぶ。
「手術、完了です」
フリードリヒ医師が宣言した。
会場から小さな拍手が起こった。
見学していた医師たちが拍手している。
私もほっとした。
難しい手術——成功だった。
◇
手術が終わり、患者が回復室に運ばれていく。
私は手術着を脱いだ。
疲れたが、充実感がある。
初めての胃腫瘍摘出手術——成功だった。
「リーゼさん、本当に素晴らしかった」
フリードリヒ医師が言った。
「特に胃壁縫合。あれは完璧でした」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「でも、先生の指導があったからこそです」
「謙虚ですね」
医師は微笑んだ。
「その姿勢を忘れないでください」
ベルンハルト医師も近づいてきた。
「リーゼさん、見事でした」
「ありがとうございます」
「あなたは本物の外科医です」
医師は真剣な顔で言った。
「これからも期待しています」
◇
夕方、医学院に戻った。
エリーゼとルーカス先輩が待っていた。
「リーゼ、どうだった?」
エリーゼが興味津々で聞いてきた。
「うまくいったよ」
私は微笑んだ。
「胃腫瘍の摘出手術——初めての経験だったけど、成功した」
「すごいわ!」
エリーゼが抱きしめてくれた。
「さすがだな」
ルーカスも満足そうに頷いた。
「お前の成長は止まらないな」
「でも、まだまだ学ぶことがたくさんあります」
私は謙遜した。
「今日の手術で、また新しいことを学びました」
◇
その夜、部屋で今日のことを振り返った。
胃腫瘍摘出手術——難しい手術だった。
でも、準備をしっかりしていたから落ち着いて対応できた。
そして、フリードリヒ医師の指導があったから。
一人では成し遂げられなかった。
多くの人の支えがあってこそだ。
窓を開けると夜風が入ってくる。
星が美しく輝いている。
「お父様、お母様、マルタさん」
星に向かって小さく呟いた。
「今日、難しい手術に挑戦しました」
「胃腫瘍の摘出——成功しました」
「患者さんも無事です」
「これからも、もっと難しい手術にも挑戦していきます」
星が優しく瞬いている。
まるで祝福してくれているかのように。
机の上には、明日の予定表があった。
授業、実習、研究、そして一年生への指導。
全てが大切な仕事だ。
一つ一つ、丁寧にこなしていく。
◇
ベッドに入り、目を閉じる。
明日からまた新しい日々が始まる。
でも怖くはない。
準備はできている。
仲間がいる。
そして目標がある——多くの患者を救うこと。
「おやすみなさい」
小さく呟いて、眠りについた。
難しい手術への挑戦——それは成功だった。
そして私はまた一歩、外科医として成長した。
これからも挑戦は続く。
もっと難しい手術。
もっと複雑な症例。
その全てに立ち向かっていく。
それが、医師としての道だから。
少女医師の挑戦は、続いていく。




