第061話 嫉妬と試練
称号授与式から一週間。
私は王都中央病院での実習に戻っていた。
今週の担当は、外科のハルトムート先生。五十代のベテラン医師。
王都でも指折りの執刀数を誇る、「現場主義」の権化のような人だ。
「リーゼ先生、今週はハルトムート先生の下で研修します」
ヴィルヘルム先生がそう告げたとき、彼の表情がわずかに曇った。
その理由を、私はすぐに思い知ることになった。
◇
ハルトムート先生の診察室。
重い木の扉をノックする。
「……入れ」
地を這うような低い声。
中に入ると、彫刻のように深い皺を刻んだ男が、鋭い眼光をカルテに向けていた。
「リーゼ・フォン・ハイムダルです。本日から、こちらで――」
「挨拶はいい。隅で黙って見ていろ」
ハルトムート先生は目を上げることなく私を遮った。
「十二歳で協会認定医師だそうだが、現場ではただの『動けない道具』だ。邪魔だけはするな」
明らかな拒絶。
名誉や称号など、この男の前では何の価値も持たない。
現場の経験こそが全て。そういう空気だった。
◇
実習が始まっても、私は完全に無視された。
患者の問診も、処置も、私の存在などないかのように進む。
驚いたのは、その「指」だった。
彼の指は太く、節くれ立っている。なのに、患者に触れるときだけは驚くほど繊細に動く。
まさに、職人の手だ。
午後の診察。
若い女性の患者が来た。商人の娘。
三日前から続く胸の痛みを訴えていた。
「リーゼ……と言ったな。この患者を診ろ。診断を下せ」
初めての指名。
私は緊張を押し殺し、彼女の前に立った。
聴診――心臓や肺の音に異常はない。
次に触診。肋骨に沿って、丁寧に指を滑らせる。
(……おかしい)
前世の知識が囁く。この症状、この圧痛なら「肋骨の不全骨折」を疑うべきだ。
だが、私の今の指は十二歳の少女のもの。
指先の肉が柔らかく、患者の皮下脂肪と筋肉の層に阻まれて、骨の表面にあるはずの「わずかな段差」が捉えられない。
折れた面が擦れ合う「軋轢音」を、指が感知できない。
「……呼吸音に異常はなく、特定の部位に明確な圧痛があります。おそらく、肋間神経痛か、筋肉の炎症かと」
ハルトムート先生が鼻で笑った。
「どけ。代われ」
彼はその大きな手を患者の胸壁に当てた。
一点を、グッと、絶妙な角度で押し込む。
「あ、痛い!」
「ここだ。肋骨の疲労骨折だ。全治二週間。固定帯を用意しろ」
先生は私を冷たく一瞥した。
「教科書の知識はあっても、お前のその『子供の指』は何も感じ取れていない。医者の診断は脳でするものじゃない、指先でするものだ」
胸に、鋭い痛みが走った。
図星だった。
私は前世の記憶に頼りすぎていた。
この小さく未熟な肉体が持つ「感覚の限界」を、謙虚に受け止めていなかった。
◇
翌日。回診の最中に、事態が急変した。
「先生……息が……苦しい……」
六十代の男性患者。術後三日目の患者が、突如として顔を青白くさせ、胸をかきむしった。
ハルトムート先生が即座に駆け寄る。
「心不全か? それとも術後の肺炎か?」
治癒魔法師が駆け寄り、一般的な「治癒」を施そうとする。
「待ってください!」
私は叫んだ。ハルトムート先生の横に入り込み、患者の下肢をチェックする。
右のふくらはぎが、パンパンに腫れている。
「心不全じゃありません! 肺塞栓症です!」
「何だと?」
「長時間寝たきりだったせいで、足の静脈に血の塊――血栓ができたんです。それが血流に乗って、肺の血管を塞ぎました! 今、肺の血流が止まっています!」
この世界には「肺塞栓」という概念がない。
ハルトムート先生も、治癒魔法師も、何が起きているか理解できず立ちすくんだ。
「魔法師さん! 一般的な治癒魔法はやめて! 細胞を活性化させたら血栓が余計に詰まります!」
私は魔法師の腕を掴み、指示を飛ばした。
「魔力を『熱』ではなく『微細な振動』に変えて。肺動脈の、この一点――」
指で位置を示す。脳内で前世の解剖図を重ねる。
「血管の中にある『塊』だけに集中して。私の合図で、物理的に砕くイメージで放って!」
魔法師が戸惑いながらも、私の必死な形相に押されて頷いた。
「今! 撃って!」
魔法師の手から、震えるような光が放たれた。
血管の中に居座る死の塊を、魔力の振動が直撃する。
数分後。
「はぁ……はぁっ……」
患者の呼吸が、劇的に落ち着いた。
顔の青白さが消え、赤みが戻ってくる。
「……信じられん」
ハルトムート先生が、掠れた声で呟いた。
◇
診察室に戻った後、長い沈黙が流れた。
ハルトムート先生は椅子に深く腰掛け、自分の節くれ立った大きな手を見つめていた。
「……見事だった、リーゼ。いや、リーゼ先生」
彼は「称号」ではなく、一人の「医師」として私の名を呼んだ。
「私には、血管の中の敵など見えなかった。私の三十年の経験でも、お前の『知識が捉えた病』には届かなかった」
「いいえ、先生。私は昨日の失敗で学びました。私のこの手はまだ未熟です。先生のような『確かな指の感覚』がなければ、救えない命があります」
ハルトムート先生は、少しだけ、口角を上げた。
「お前は、この小さな身体で、我々が見ることができない『身体の内側の地図』を持っている」
彼は立ち上がり、棚から一冊の古いノートを取り出した。
「これは、私が三十年かけて記した触診の記録だ。身体の部位ごとの、わずかな組織の変化を書き留めてある。……お前の『頭脳』にこれを加えろ。子供の手でも、使いようによっては老人の手を超える感覚を掴めるはずだ」
私は、震える手でその重みを受け取った。
◇
実習が終わった最終日。
ヴィルヘルム先生が私の評価書を見て驚愕した。
「あのハルトムートが……『私の師になり得る逸材だ』なんて書くとは。一体、何があったんだ?」
私は窓の外の星を見上げ、小さく微笑んだ。
完全に認められたわけじゃない。
この小さな手で掴まなければならない感覚は、まだ山のようにある。
でも、私はもう一人じゃない。
確かな経験を持つ先達と、前世の知識。
そして、それらを繋ぐ「医学」という光が、私の進むべき道を照らしていた。
少女医師の挑戦は、まだ始まったばかりだ。




