第060話 英雄としての重圧
称号授与式から三日が過ぎた。
王国医学協会認定医師——その称号を得た私に、多くの人が声をかけてくる。
「リーゼ先生、おめでとうございます」
「史上最年少の認定医師です」
「素晴らしい」
廊下を歩くたびに、学生たちが立ち止まって私を見る。
尊敬の眼差し。憧れの眼差し。
そして少し距離を置いた眼差し。
以前は親しく話しかけてくれた学生たちが、今は少し遠慮している。
「リーゼ先生」と呼ぶ声が増えた。「リーゼさん」ではなく。
距離ができている。
英雄——そう呼ぶ人もいる。
でも、英雄なんて大それたものじゃない。
私はただ、前世の知識を使っているだけ。それは、チートみたいなものだ。
本当の英雄は、何も持たないところから努力して、何かを成し遂げる人だ。私みたいに、最初から知識を持ってる人間じゃない。
自己嫌悪が湧き上がる。
胸が苦しい。
◇
朝、目が覚めた。
頭が重い。昨夜もあまり眠れなかった。
三日連続だ。
ベッドから起き上がる。体がだるい。
鏡を見た。
目の下に隈がある。顔色が悪い。
十二歳の少女——でも疲れ切った顔をしている。
「大丈夫……」
自分に言い聞かせた。
「今日も頑張らないと」
でも心の中では分かっている。
限界が近い。
朝食を食べる。でも味がしない。食欲がない。
無理やり口に入れる。体力をつけないと。
時計を見た。
八時。授業まであと一時間。
机の上には、昨夜読みきれなかった医学書が積まれている。
そして山のような手紙。
「治療法を教えてください」
「患者を診てください」
「講演をお願いします」
「論文を共同執筆しませんか」
全部で三十通以上。
どれも重要な依頼だ。断ることはできない。
でも、時間が足りない。
一日は二十四時間しかない。
授業、実習、指導、研究——それだけで手一杯なのに。
頭が痛くなってきた。
こめかみを押さえる。
「どうすれば……」
答えが見つからない。
◇
授業に向かう。
廊下で何人もの人に声をかけられた。
「リーゼ先生、少しお時間よろしいですか?」
「申し訳ありません、急いでいるので……」
「リーゼ先生、この患者さんを診ていただけませんか?」
「後で資料を見せてください」
「リーゼ先生、王立病院からの依頼ですが……」
「申し訳ありません、今は……」
断りながら歩く。
罪悪感が募る。
みんな真剣に頼んでいるのに。
でも、全てに応えられない。
物理的に無理だ。
教室に着いた時には、すでに疲れていた。
◇
授業が終わり、研究室に戻った。
机の上には、さらに手紙が増えていた。
十通以上。
全部開封して読む。
どれも切実な内容だ。
「娘が原因不明の病気で苦しんでいます。どうかお力を貸してください」
「治療法を教えていただけないでしょうか。何人もの患者が待っています」
「王都以外の地方でも、あなたの知識を広めたいのです。講演をお願いできませんか」
一つ一つが重い。
命がかかっている。
でも、どうすればいい。
一人の私に、何ができる。
頭を抱えた。
「無理だ……」
小さく呟いた。
「私一人じゃ、無理だ……」
涙が溢れそうになった。
でも泣けない。
泣いている時間もない。
次の授業まであと三十分。
その前に、この論文を読まなければならない。
そして実習の準備もしないと。
ページを開く。
でも文字が頭に入ってこない。
集中できない。
頭痛がひどくなってきた。
「リーゼ」
ドアが開いて、エリーゼが入ってきた。
「また一人で抱え込んでるの?」
友人の声が優しい。
「エリーゼ……」
「顔色悪いわよ」
エリーゼが心配そうに私を見る。
「ちゃんと休んでる?」
「休む時間が……」
「ダメよ」
エリーゼは真剣な顔で言った。
「あなたが倒れたら、もっと多くの人が困るのよ」
その言葉に、私は耐えられなくなった。
涙が溢れた。
「エリーゼ……」
声が震える。
「私、もう……」
◇
「私、もう限界かもしれない」
正直に言った。
涙が止まらない。
エリーゼが私を抱きしめてくれた。
「泣いていいのよ」
優しい声。
「あなたは十分頑張ったわ」
「でも、みんな私に期待してる」
私は嗚咽しながら言った。
「王国医学協会認定医師——その称号を受けた以上、期待に応えないと」
「リーゼ」
エリーゼが私の肩を掴んで、まっすぐ見つめた。
「あなたは完璧じゃなくていいのよ」
「でも……」
「聞いて」
エリーゼは強い口調で言った。
「みんなあなたに完璧を求めてるわけじゃないわ。ただ、あなたが一生懸命やってくれること、それを見たいだけ」
「あなたが無理をして倒れるより、健康でいてくれる方がずっと大切なの」
その言葉が心に染みた。
「それに」
エリーゼは優しく微笑んだ。
「英雄だって、人間よ。悩むし、不安になる。疲れるし、泣くこともある。それでいいの」
「完璧な英雄なんて、いないわ。みんな、人間なの」
私はエリーゼの肩で泣き続けた。
どれくらい泣いただろう。
十分後、やっと落ち着いた。
「ごめんなさい……」
「謝らないで」
エリーゼが微笑んだ。
「友達でしょ。こういう時のために、私はここにいるの」
「ありがとう、エリーゼ」
少し心が軽くなった。
友人の言葉は、いつも私を救ってくれる。
「今日の実習、私が代わりに見るわ」
エリーゼが提案した。
「あなたは休んで」
「でも……」
「いいから」
エリーゼは強く言った。
「休むことも、仕事の一部よ。特に医師はね」
「分かった……」
私は素直に頷いた。
◇
その夜、ヴィルヘルム先生に呼ばれた。
院長室に入ると、先生が心配そうな顔で私を見た。
「リーゼ、座りなさい」
私は椅子に座った。
「最近無理をしているようだな」
先生の声が優しい。
「エリーゼから聞いた。今日、研究室で泣いていたそうだ」
「申し訳ありません……」
「謝る必要はない」
先生は首を横に振った。
「むしろ、私が謝るべきだ。お前に称号を受けさせたことで、こんなプレッシャーをかけてしまった」
「いえ、それは……」
「リーゼ」
先生は真剣な顔で私を見た。
「お前は確かに優秀だ。前世の知識があるとはいえ、それを実践する能力も素晴らしい」
「でもな」
先生は続けた。
「お前はまだ十二歳の子供でもある。無理をすれば体を壊す」
「自分の限界を知ること——それも医師として大切な資質だ」
先生の言葉が胸に響いた。
「実は、私もお前と同じ経験をしたことがある」
「え?」
「若い頃、私は優秀な医師として評判だった」
先生が遠い目をした。
「多くの患者を診て、多くの手術をして、多くの論文を書いた」
「休みなく働いた。睡眠時間は三時間。食事もまともに取らなかった」
「そして——」
先生は苦い顔をした。
「倒れた」
「手術中に、意識を失った」
私は息を呑んだ。
「幸い、助手がすぐに対応してくれて患者は無事だった。でも、一歩間違えれば大惨事だった」
「それ以来、私は学んだ」
先生は私をまっすぐ見た。
「休むことの大切さを。自分の限界を認めることの重要性を」
「医師は患者を救う仕事だ。でも、自分が倒れたら誰も救えない」
「だから、休みなさい」
先生が命じた。
「明日は授業も実習も休んで、ゆっくり休息を取りなさい」
「でも、学生たちが……」
「私が見る」
先生は断言した。
「お前の健康の方が大切だ」
「はい……」
私は頷いた。
涙が溢れた。
先生の優しさが、心に染みる。
「ありがとうございます」
「いいんだ」
先生が微笑んだ。
「お前は医学院の宝だ。大切にしなければならない」
◇
翌日、私は久しぶりに休日を取った。
朝、ゆっくり起きた。
十時——いつもなら授業の真っ最中だ。
でも今日は休み。
罪悪感がある。
でも、休まなければならない。先生の命令だ。
窓を開けると、爽やかな風が入ってくる。
いい天気だ。
ノックの音。
「はい」
ドアが開いて、ルーカス先輩が立っていた。
「よ、リーゼ。ヴィルヘルム先生から聞いた。今日は休みだって」
「はい……」
「じゃあ、王都の公園に行こう」
ルーカス先輩が微笑んだ。
「気分転換だ」
◇
王都の中央公園に来た。
広い公園で、木々が並び、花が咲いている。
「久しぶりだな、こうやって二人で出かけるの」
ルーカス先輩が言った。
「はい。最近、忙しすぎました」
公園は静かで、鳥のさえずりだけが聞こえる。
噴水の音が心地よい。
水しぶきが日光を浴びて、虹を作っている。
きれいだ。
ベンチに座った。
風が吹いて、木の葉がそよぐ。
「なあ、リーゼ」
ルーカス先輩が言った。
「お前、称号を受けてから顔色悪かったぞ」
「そうですか……」
「プレッシャー感じてるだろ」
ルーカス先輩は私を見た。
「英雄と呼ばれることの重さ」
「はい」
私は正直に答えた。
「みんなの期待に応えなきゃって思うと……胸が苦しくて」
「夜も眠れないんです。手紙の山を見ると、頭が痛くなって」
「全部に応えたいけど、物理的に無理で……」
「リーゼ」
ルーカス先輩は真剣な顔で言った。
「お前は確かにすごい。史上最年少の認定医師だ。誰も成し遂げたことがないことを成し遂げた」
「でも、完璧である必要はない」
「人間は誰でも限界がある。それを認めることは、弱さじゃない。むしろ強さだ」
「本当に強い人間は、自分の限界を知っている。そして、それを認める勇気がある」
その言葉が心に響いた。
「でも、私は前世の知識を使ってるだけで……」
思わず本音が漏れた。
「それって、ずるいんじゃないかって」
「みんなは私を天才だって言うけど、実際は前世で学んだことを思い出してるだけ」
「それって、チートみたいなもので……」
「ずるい?」
ルーカス先輩は首を横に振った。
「知識を持っていることと、それを使うことは別だ」
「お前は、その知識を人のために使った。それが大切なんだ」
「知識があっても何もしない人は大勢いる。でもお前は違う。困っている人を助けるために、その知識を使った」
「それに」
ルーカス先輩は続けた。
「お前が知識を使えるのは、前世で努力したからだろ? 医学部で必死に勉強して、研修医として徹夜で働いて、医師として経験を積んだ」
「その努力の結果を今使ってる。それは正当なことだ」
確かに。
前世で、私は必死に勉強した。
医学部の試験、国家試験、専門医試験——全部必死だった。
研修医時代は、毎日徹夜だった。
外科医として、何百回と手術をした。
その努力があったからこその知識だ。
「ありがとうございます、ルーカス先輩」
私は微笑んだ。
「少し、楽になりました」
「それに、リーゼ」
ルーカス先輩が優しく言った。
「お前は前世の知識だけじゃない。この世界でも、毎日努力してる」
「授業、実習、研究——全部全力でやってる。それを見てる」
「だから、みんなお前を尊敬してるんだ。知識があるからじゃない。努力してるからだ」
その言葉が嬉しかった。
◇
公園の奥に、小さな池があった。
水面に、空が映っている。
白い雲が流れている。
青い空、緑の木々、色とりどりの花。
「きれいですね」
「ああ」
二人で池を眺めながら、しばらく黙っていた。
静寂。
でも、心地よい静寂。
こういう静かな時間も、必要なんだ。
医師として、研究者として、そして一人の人間として。
バランスを取ること。
それが、長く走り続けるための秘訣だ。
前世で学んだはずなのに、また同じ過ちを繰り返そうとしていた。
働きすぎて、体を壊して……。
今度こそ、気をつけよう。
「なあ、リーゼ」
ルーカス先輩が言った。
「お前、英雄になりたいのか?」
「え?」
「英雄って何だと思う?」
突然の質問に、私は考えた。
「英雄……困難を乗り越えて、多くの人を救う人?」
「それもあるな」
ルーカス先輩は頷いた。
「でも、俺が思う英雄は違う」
「英雄っていうのは、完璧な人間じゃない。むしろ、欠点だらけの人間だ」
「でも、その欠点を認めて、それでも諦めずに前に進む」
「失敗しても立ち上がる。泣いても、また笑う」
「そういう人が、本当の英雄だと思う」
その言葉が深く心に響いた。
「完璧な英雄なんていない。みんな、人間だ」
「でも、人間だからこそ、美しい」
ルーカス先輩が微笑んだ。
「お前も、完璧じゃなくていい。泣いていい。弱音を吐いていい」
「でも、諦めずに前に進む。それがお前の強さだ」
涙が溢れた。
でも、今度は悲しい涙じゃない。
温かい涙。
「ありがとうございます」
私は微笑んだ。
「先輩の言葉、一生忘れません」
◇
公園から戻ると、医学院の前に学生たちが集まっていた。
「何かあったんですか?」
「リーゼ先輩!」
一年生の女子学生が駆け寄ってきた。
「お休みと聞いて、心配していました」
他の学生たちも集まってくる。
一年生、二年生——約二十人。
みんな心配そうな顔をしている。
「先輩、いつも無理をさせてすみません」
一年生の男子学生が言った。
「少しは休んでください。私たちも、先輩が元気でいてくれることが一番大切です」
「そうです」
別の学生が続けた。
「先輩が倒れたら、私たちも困ります」
「これ」
一人の女子学生が花束を差し出した。
きれいな花束——白い百合、赤い薔薇、黄色い向日葵。
「みんなで集めました。先輩への感謝の気持ちです」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
「みなさん……ありがとうございます」
涙が溢れそうになった。
英雄と呼ばれるプレッシャー。
でも、それと同時に、こんなにも温かい支援がある。
私は一人じゃない。
多くの人に支えられて、ここまで来れた。
その事実を、改めて実感した。
「私、頑張ります」
私ははっきりと言った。
「でも、無理はしません。みんなの期待に応えるためには、まず私が健康でいないといけないから」
学生たちが微笑んだ。
「はい、それでいいんです」
「先輩、無理しないでください」
「私たちも、先輩を支えます」
◇
トーマスとクラウディアも来てくれた。
「リーゼ、無理するなよ」
トーマスが言った。
「お前は確かにすごい。でも、人間だ。休むことも大切だ」
「そうよ」
クラウディアも頷いた。
「私たちも、あなたを支えたいの。何でも相談してね」
「手紙の返事とか、私たちが手伝えることもあるはずよ」
「本当?」
「もちろん」
クラウディアが微笑んだ。
「友達でしょ」
「ありがとう」
私は心から感謝した。
友人たち、先輩、先生。
そして学生たち。
みんなが私を支えてくれている。
その温かさが、心に染みた。
◇
その夜、部屋で日記を書いた。
『英雄と呼ばれることは、重い』
ペンを走らせる。
『でも、その重さは、人々の期待と信頼の証でもある』
『完璧である必要はない。ただ、誠実に、一生懸命に。それだけでいいんだ』
『そして、一人で抱え込む必要もない』
『多くの人が支えてくれている。エリーゼ、ヴィルヘルム先生、ルーカス先輩、トーマス、クラウディア、そして学生たち』
『その温かさを忘れずに、前に進もう』
『英雄じゃなくていい。完璧な医師じゃなくていい』
『ただ、努力し続ける一人の人間として』
ペンを置き、窓の外を見る。
星が優しく輝いている。
「お父様、お母様、マルタさん」
星に向かって小さく呟いた。
「称号を受けて、プレッシャーを感じていました」
「みんなの期待に応えなきゃって、必死でした」
「でも、分かりました」
「完璧じゃなくていいんだって」
「多くの人が支えてくれています」
「友人、先輩、先生、そして学生たち」
「私は一人じゃありません」
「これからも、みんなと一緒に頑張ります」
「でも、無理はしません」
「長く走り続けるために、休むことも大切にします」
星が優しく瞬いている。
まるで応援してくれているかのように。
微笑みかけてくれているかのように。
窓を閉めて、ベッドに向かった。
◇
ベッドに入り、目を閉じる。
今日は久しぶりにぐっすり眠れそうだ。
心が軽い。
プレッシャーは消えたわけじゃない。
でも、受け止め方が変わった。
一人で背負う必要はない。
みんなと一緒に。
明日からも、医師として前進しよう。
完璧な英雄ではなく、努力する一人の医師として。
そして、支えてくれる人々への感謝を忘れずに。
「おやすみなさい」
小さく呟いて、眠りについた。
深い眠り。
夢を見た。
父様、母様、マルタさんが微笑んでいる夢。
「頑張ってるね、リーゼ」
マルタさんの優しい声。
「でも、無理しちゃだめよ」
「はい」
夢の中で、私は答えた。
「分かってます」
朝、目が覚めた。
久しぶりにすっきりした目覚めだ。
体が軽い。
頭痛もない。
窓を開けると、朝日が差し込んできた。
新しい一日の始まり。
「よし」
小さく呟いた。
「今日から、また頑張ろう」
でも、無理はしない。
バランスを取りながら。
◇
医学院に向かう。
廊下で学生たちに会った。
「リーゼ先輩、おはようございます」
「顔色良くなりましたね」
「休めましたか?」
みんな心配してくれている。
「はい、おかげさまで」
私は微笑んだ。
「しっかり休めました。ありがとうございます」
「よかった」
学生たちが安心した顔をしている。
教室に着いた。
ヴィルヘルム先生が待っていた。
「リーゼ、顔色が良くなったな」
「はい、先生のおかげです」
「よし」
先生が微笑んだ。
「では、今日から無理のない範囲で、また頑張ろう」
「はい」
私は力強く頷いた。
英雄としての重圧——それを乗り越えた。
一人ではなく、みんなと一緒に。
これからも、その姿勢を大切にしていく。
完璧な英雄ではなく、努力し続ける一人の医師として。
少女医師の挑戦は、続いていく。




