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第6話 言葉と適応

目覚めてから一週間が過ぎた。


書斎の窓から差し込む朝日を浴びながら、私は古びた医学書——いや、この世界では「治療の書」と呼ばれる本——を開いていた。


「四体液説……黒胆汁、黄胆汁、血液、粘液の均衡が崩れると病気になる、か」


ページの端に、茶色い染みがあった。

幾人の治療師がこの本を手にしたのだろう。

……この世界では、これが最先端。


息が詰まった。


「リーゼ、また難しい本を読んでいるの?」


扉が開き、アンネが優しい笑顔で入ってきた。手には温かいミルクとパンが載った盆を持っている。


「お母様...ありがとうございます」


「病み上がりなのに、毎日書斎にこもって。あまり無理をしないでね」


「大丈夫です。体はもうすっかり元気になりましたから」


十歳の体、驚くほど回復が早い。

三日で意識を取り戻して。一週間でほぼ完全に動ける。

若さって、それだけで治癒力なんだ。


アンネが部屋を出ていくと、私は再び本に目を向けた。

すぐに限界を感じた。


「これでは……」


ため息をつきながら、本を閉じた。

解剖学の知識はほとんどない。治療法も祈祷や瀉血、薬草の処方程度。

……いや、違う。

必要なのは、実際の医療現場を見ることだ。

この世界の人々が、どんな病気に苦しんで、どんな治療を受けているのか。


「リーゼ様」


ノックと共に、執事のフリッツが部屋に入ってきた。


「領主様が、今日は村の巡察に行かれるそうです。お嬢様もご一緒にいかがですか?」


「村の巡察...」


父のヨハンは、この地域を治める辺境伯爵だ。定期的に領地を巡り、民の様子を確認するのが務めだという。


「行きます!ぜひ一緒に行かせてください」


私の積極的な返答に、フリッツは少し驚いた表情を見せた。

リーゼの記憶によれば、以前の彼女は内気で、あまり外出を好まなかったらしい。


「かしこまりました。すぐに準備をいたします」


一時間後、私は父と共に馬車に乗っていた。

窓から見える景色は、中世ヨーロッパそのものだった。石畳の道、藁葺き屋根の家々、畑で働く農民たち。


「リーゼ、村に行くのは久しぶりだな」


父が優しく話しかけてくる。

「病気が治ってから、ずいぶん活発になったようだ。母上も喜んでいたぞ」


「はい...色々なことを知りたくて」


「良いことだ。将来、この領地を支えていくためにも、民のことをよく知っておくのは大切だからな」


父の言葉に、私は心の中で決意を新たにした。

そうだ、医師として民を救うだけでなく——いや、それだけでいいのか?

領主の娘として、この地域をより良くしていく責任も——


村に到着すると、住民たちが集まってきた。父に対して敬意を払いながらも、親しみを持って接している様子から、父が善良な統治者であることが分かる。


「領主様、ありがとうございます。先日の税の減免、本当に助かりました」


「いや、今年は不作だったからな。民が苦しんでいるのに、税を取り立てるわけにはいかん」


父と村人たちの会話を聞きながら、私は村の様子を観察していた。


医師の目で見ると——

この村は、病気の温床だった。


まず、衛生状態。

道の泥水に、小さな子供の裸足が沈む。その水が飲み水になると思うと、胸が締めつけられた。

下水システムがない。当然だ。この時代にはまだ存在しない。

コレラ、赤痢、腸チフス——水系感染症のリスクが極めて高い。


汚水の流れる音が、かすかに耳に残る。

風が匂いを運ぶたびに、胸の奥がざらついた。


次に、住環境。

家畜と人間が同じ空間で生活している。

豚、鶏、ヤギ。すべてが同じ屋根の下。

人獣共通感染症の危険。インフルエンザ、炭疽菌——


そして、栄養状態。

子供たちの多くは痩せている。

腕が細い。頬がこけてる。目の下に隈がある。

明らかな栄養失調。タンパク質欠乏、ビタミン欠乏。

これでは免疫力が低下し、感染症に対する抵抗力もない。


さらに——

咳き込む老人。その背中は、折れた木の枝のように細い。結核の可能性。

皮膚に湿疹ができた子供——掻きむしった跡が赤く滲む。疥癬か、栄養失調による皮膚炎。

歯が抜けている若者。壊血病の可能性。


前世で見た、発展途上国の医療現場を思い出す。

でも、ここはそれ以上に過酷だ。

抗生物質もない。ワクチンもない。

基本的な衛生知識すらない。


胸が痛む。

これだけ多くの人が、予防可能な病気で苦しんでいる。

そして、その多くが命を落としているのだろう。


「お嬢様」


一人の老婆が私に近づいてきた。

「お加減はいかがですか?高熱を出されたと聞いておりましたが...」


「もう大丈夫です。ご心配をありがとうございます」


老婆の皺の刻まれた手を握りながら、私は静かに思った。

「助けたい。でも、今の私には……」

そう思った瞬間、胸の奥で何かが、静かに灯った。


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