53話 緊急事態
次の月曜日、朝から緊張していた。今日の手術は前回より大きい——鼠径ヘルニアの修復手術だ。
前世では何度も経験したが、この世界では初めてだ。器具も麻酔も環境も違う。不安と期待が混じっている。
王都中央病院に到着すると、フリードリヒ医師が待っていた。
「おはよう、リーゼさん」
「おはようございます」
「今日の手術は少し複雑だ」
医師が説明してくれた。
「でも、君なら大丈夫だと思う」
「頑張ります」
私は決意を新たにした。
◇
手術室に入る。いつもの清潔な空間で、器具が整然と並べられている。
今日の患者は五十代の農夫で、重い荷物を持ち上げる作業でヘルニアが悪化した。
麻酔が始まった。今回は局所麻酔ではなく全身麻酔だ——この世界の全身麻酔は薬草と魔法の組み合わせで、薬草で意識を落とし魔法で痛みを遮断する。前世の麻酔とはまったく異なるが、効果はある。
患者が眠りにつき、呼吸が安定し心拍も正常だ。
「では、始めます」
フリードリヒ医師が宣言した。
メスが皮膚に触れ、切開が始まる。鼠径部に約八センチの切開を入れ、慎重に層ごとに進めていく。皮膚、皮下組織、筋膜と一つ一つ丁寧に。
私は鉗子で組織を押さえて視野を確保し、出血を抑える。全てがスムーズに進んでいる。
ヘルニア嚢が見えてきた。腹膜が筋肉の隙間から突出している。
「これを元に戻します」
医師が説明した。
慎重にヘルニア嚢を剥離し、周囲の組織から丁寧に分離していく。私は適切なタイミングで鉗子を使い、組織を引っ張りすぎないようにしながらもしっかりと固定する。
前世の経験が体を動かし、自然に手が動く。
「良いね」
医師が褒めてくれた。
「とても助かるよ」
◇
手術は順調に進んでいた。ヘルニア嚢を腹腔内に戻し、筋肉の隙間を縫合で閉じる——これで再発を防ぐ。
縫合が始まり、筋膜をしっかりと縫い合わせる。一針、二針、三針。
その時、突然患者の体が痙攣した。
小さく、でも明確に。
「え……?」
看護師が驚いた声を上げた。
患者の顔色が変わり、青白くなっている。呼吸が浅くなり、心拍計の音が変わった。
不整脈——心拍数が急激に低下している。
「まずい!」
フリードリヒ医師の声が緊張した。
「麻酔の副作用か!?」
私は瞬時に判断した。前世の経験が蘇る——この症状、アナフィラキシーショック。麻酔薬に対する重篤なアレルギー反応だ。
このままでは患者は死ぬ。すぐに対処しなければ。
「先生!」
私は叫んだ。
「アナフィラキシーショックです!」
「何!?」
医師が私を見た。
「すぐに麻酔を中止して。そして血圧を上げる薬を」
私は指示した。
「でも……」
医師が迷っている。手術はまだ終わっていない、縫合の途中だ。麻酔を中止すれば患者は目覚め、痛みを感じる。
でも命を優先しなければならない。
「お願いします! このままでは患者は死にます!」
私は必死に頼んだ。
医師は決断した。
「麻酔を中止する!」
看護師がすぐに動き、麻酔薬の投与を止める。私は薬草棚を見た。血圧を上げる薬草——エフェドラの根。それを急いで用意する。
「これを、煎じてください! 急いで!」
看護師に渡す。
◇
患者の状態がさらに悪化した。呼吸がほとんど止まっており、心拍がさらに低下している。
チアノーゼ——唇が青紫色になっている。
「呼吸が止まる!」
看護師が叫んだ。
私は患者の頭を適切な位置に固定し、気道を確保する。前世の救命処置——頭部後屈顎先挙上法をこの世界で実践する。
「人工呼吸を始めます!」
私は患者の口に自分の口を当て、息を吹き込む。胸が少し膨らむ。もう一度、リズムよく、確実に酸素を送り込む。
「心臓マッサージも!」
フリードリヒ医師が動いた。
患者の胸に手を置き、強く押す。一分間に百回のペース、リズムよく確実に——血液を全身に送る。
私たちは必死に蘇生を続けた。人工呼吸と心臓マッサージを交互に何度も。
諦めない、絶対に諦めない。患者を救う——それが医師の使命だ。
薬草の煎じ薬ができた。
「先生!」
看護師が持ってきた。
「患者の口に、流し込んで!」
私は指示した。
看護師が慎重に薬を飲ませる。少しずつ、誤嚥しないように。
数秒後、変化があった。
患者の顔色が少し戻り、心拍計の音が変わった——心拍数が上がり始めている。
「戻ってきた!」
フリードリヒ医師が叫んだ。
呼吸も再開した。浅いが、確実に呼吸している。
私はほっとした。でもまだ安心できない。手術は途中で、傷はまだ開いている。縫合しなければならない。
◇
「先生、縫合を続けます」
私は言った。
「でも、麻酔は……」
医師が迷っている。
「局所麻酔に切り替えましょう」
私は提案した。
「全身麻酔はもう使えません」
「でも患者は目覚めている。痛みを感じる」
「治癒魔法で痛みを和らげます。同時に局所麻酔も併用します。そしてできるだけ速く縫合を終わらせます」
私は決断した。
フリードリヒ医師は少し考えてから頷いた。
「分かった。やってみよう」
私は両手を患部の上にかざし、魔力を集中させる。体内の魔力が流れ始める。
「痛みよ、和らぎたまえ。癒しの光よ、この者を包み、苦しみを取り除きたまえ」
詠唱を始める。淡い緑色の光が患部を包む。治癒魔法——完全に痛みを消すことはできないが、和らげることはできる。
同時に看護師が局所麻酔を注射した。薬草の麻酔薬で、これで少しは痛みが軽減される。
「では、続けます」
フリードリヒ医師が縫合を再開した。
患者が少しうめいた——痛みを感じているが、我慢してくれている。
「もう少しです」
私は患者の手を握った。
「頑張ってください」
患者が小さく頷き、必死に耐えている。
縫合が進んでいく。筋膜、皮下組織、皮膚と一層ずつ、できるだけ速く、でも正確に。
雑にしてはいけない。速さと正確さ、両方を両立させる——それが外科医の技術だ。
最後の一針、糸を結ぶ。
「完了」
医師が宣言した。
私もほっとした。全身の力が抜けていき、緊張が解けていく。
手術、成功だ。患者も助かった。
◇
手術室を出ると、私は壁に手をついた。足が震えている——緊張と疲労、全てが一気に押し寄せてきた。
「リーゼさん、大丈夫?」
フリードリヒ医師が心配そうに声をかけてきた。
「はい……少し疲れました」
「無理もない」
医師は優しく言った。
「君がいなければ、あの患者は死んでいた。アナフィラキシーショックをすぐに診断してくれて、そして適切な処置をしてくれた。本当に、ありがとう」
医師の言葉が心に沁みた。救えた——一つの命を救えた。それが何よりも嬉しい。
「リーゼさん」
医師が真剣な顔で言った。
「君は本物の医師だ。知識だけじゃない。実践力がある、判断力がある、そして何より患者を救うという強い意志がある。それが医師に最も必要なものだ」
私は涙が出そうになったが、堪えた。医師は泣いてはいけない——患者の前では常に強くいなければならない。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
◇
午後、患者の回復を確認した。病室で安静にしており、呼吸は安定し、心拍も正常だ。顔色も良くなっている。
「先生……」
患者が小さく声をかけてきた。
「ありがとうございました」
「いえ」
私は微笑んだ。
「医師として当然のことをしただけです」
「でも……私、死にかけたんですよね」
「はい。でも助かりました」
私は優しく言った。
「もう大丈夫です。傷も順調に回復しています。あと一週間くらいで退院できるでしょう」
患者はほっとしたような顔をした。
「本当に、ありがとうございました」
その言葉が嬉しかった。患者の笑顔が、何よりの報酬だ。
◇
医学院に戻ると、クラウディアとマティアスが待っていた。
「リーゼ、大変だったって聞いたわ」
クラウディアが心配そうに言った。
「手術中に、緊急事態が起きたって」
「ええ。でも、なんとかなったわ」
私は微笑んだ。
「さすがだな」
マティアスが感心したように言った。
「僕だったら、パニックになっていたと思う」
「最初は私もパニックになりそうだったわ」
私は正直に言った。
「でも、患者を救わなきゃって思ったら、体が自然に動いたの」
「それが医師なんだね」
クラウディアは感動したような顔をした。
「私も、そうなりたいわ」
◇
夜、部屋で今日のことを振り返った。
緊急事態、アナフィラキシーショック、蘇生処置——全てが前世の経験を蘇らせた。東京の救命センターで何度も経験した緊急事態、その経験が今日患者を救った。
前世の経験は無駄ではなかった——この世界で役に立っている。
窓を開けると夜風が入ってくる。星が美しく輝いている。
「お父様、お母様、マルタさん」
星に向かって小さく呟いた。
「今日、緊急事態がありました。でも患者を救えました。前世の経験が役に立ちました。転生させてもらって、良かったです」
星が優しく瞬いている。まるで祝福してくれているかのように。
ベッドに入り、目を閉じる。今日は大変な一日だったが、充実していた。一つの命を救えた——それが何よりも嬉しい。
「おやすみなさい」
小さく呟いて、眠りについた。
◇
翌日、ベルンハルト医師に呼ばれた。
「リーゼさん、昨日の件、報告を受けました」
医師は真剣な顔で言った。
「素晴らしい対応でした。あなたの迅速な判断と処置が患者の命を救いました」
「ありがとうございます」
「正式に外科実習の成績を評価させていただきます」
医師は書類を取り出した。
「最高評価です。そして今後はより高度な手術にも参加してもらいたい。あなたにはその資格があります」
私は驚いた。より高度な手術——それは大きなチャンスだ。
「はい。頑張ります」
私は決意を新たにした。
もっと学ぶ、もっと成長する、そしてもっと多くの患者を救う——それが私の使命だ。
◇
その日の授業で、アルブレヒト先生が話してくれた。
「緊急事態への対応は、医師の真価が問われます。知識だけでは不十分です。実践力、判断力、そして冷静さ——それらが患者を救います」
先生の言葉が心に響いた。昨日の経験でそれを実感した。
知識は基礎だが、それを実践する力が必要で、緊急時に冷静に判断する力が医師に求められる。
「リーゼ先生」
授業の後、アルブレヒト先生が私を呼んだ。
「昨日の対応、素晴らしかったそうですね」
「ありがとうございます」
「あなたは医師として必要なものを全て持っています」
先生は優しく微笑んだ。
「これからもその才能を伸ばしてください。そして多くの患者を救ってください」
「はい。精一杯、頑張ります」
私は深く頭を下げた。
◇
夜、エリーゼと一緒に食事をした。
「リーゼ、昨日すごかったんでしょ?」
エリーゼが興奮した様子で聞いてきた。
「噂になってるわよ。手術中に患者が危篤になって、リーゼが救ったって」
「そんな……大げさよ」
私は照れくさそうに言った。
「ただ、医師として当然のことをしただけ」
「でもすごいわ」
エリーゼは感心したように言った。
「十二歳でそんなことができるなんて。私、リーゼを尊敬してる」
「ありがとう、エリーゼ」
私は微笑んだ。
友人に認められる——それも嬉しいことだ。
二人で楽しく話した。学校のこと、将来のこと、夢のこと——こういう時間がとても大切だ。
医師として働くだけでなく、友人と過ごす時間、人として成長する時間。
◇
その夜、部屋で日記を書いた。
緊急事態での対応、患者を救えたこと、先生たちに認められたこと——全てが貴重な経験だった。
そして改めて思った。私は医師だ。患者を救うためにここにいる。前世の経験、この世界での学び、全てがそのためにある。
窓を開けると夜風が入ってくる。星が美しく輝いている。
「これからも、頑張ります」
星に向かって誓った。
ベッドに入り、目を閉じる。明日からまた新しい日々が始まる。授業、実習、成長——全てが私を前に進ませる。
「おやすみなさい」
小さく呟いて、眠りについた。
緊急事態を乗り越えた。一つの命を救った。そしてさらに成長した——医師として、人として。
少女医師の挑戦は、続いていく。




