第52話 初めての助手
一週間が過ぎた。その間、毎日手術の準備をしていた。
教科書を繰り返し読み、腫瘍摘出の手順を完璧に頭に入れた。必要な器具のリスト、考えられる合併症、緊急時の対応——全てをノートにまとめた。
前世の記憶も役に立つ。東京の病院で何度も行った手術——その感覚が蘇ってくる。
でも油断はできない。この世界と前世は異なる。器具も違えば、薬も違う。この世界のやり方で、確実に行わなければならない。
◇
月曜日、病院実習の日だった。
いつもより早く起きて、身支度を整えた。医学院の白衣を着て、髪をきちんと結ぶ。鏡を見る——緊張しているのが分かる。でも、やるしかない。
「大丈夫」
自分に言い聞かせた。
「私なら、できる」
王都中央病院へ向かう。朝の街は静かで、まだ人通りも少ない。でも私の心臓はバクバクと激しく鼓動している。
病院に到着すると、フリードリヒ医師が待っていた。
「おはよう、リーゼさん」
医師が微笑んだ。
「準備はできてるかい?」
「はい」
私は、はっきりと答えた。
「よし。では、手術室へ行こう」
◇
三階の手術室に向かった。廊下を歩きながら、フリードリヒ医師が説明してくれる。
「今日の患者は六十歳の女性。背中に良性の腫瘍がある——直径約三センチ。摘出は比較的簡単だが、出血のリスクはある。慎重に行う必要がある」
私は真剣に聞いた。
「分かりました」
手術室の前に到着した。大きな扉——ここから先は神聖な場所だ。命を救う場所、医師としての真価が問われる場所。
深呼吸。
扉を開けて中に入った。
◇
手術室は清潔で明るかった。中央に手術台があり、周りには様々な器具が並んでいる。メス、ピンセット、鉗子、縫合針——全てが整然と配置されている。
看護師が二人、準備をしていた。
「おはようございます」
私は挨拶した。
「おはよう」
看護師たちが、微笑んで返してくれた。
「これがリーゼ先生ね。噂は聞いてるわよ——十二歳の天才医師だって」
「天才……そんなことは」
私は謙遜した。
「まだまだ未熟です」
「謙虚ね」
看護師が優しく言った。
「でも今日は期待してるわ」
フリードリヒ医師が指示を出し始めた。
「では、準備を始めよう。リーゼさん、手洗いから」
私は手洗い場へ向かった。石鹸で丁寧に手を洗う——手のひら、手の甲、指の間、爪の周り。前世で何度も繰り返した動作。体が自然に動く。
そして消毒液で手を消毒する。この世界の消毒液は薬草ベースだが、抗菌効果は十分だ。
手術着を着る。看護師が手伝ってくれた。清潔な白い服、そして手袋。全てが完璧に清潔だ。
◇
患者が運ばれてきた。六十歳くらいの女性——やせた体、不安そうな顔。
「こんにちは」
フリードリヒ医師が優しく声をかけた。
「今日の手術を担当するフリードリヒです。こちらは助手のリーゼ先生です」
「よろしくお願いします」
私も挨拶した。
患者は少し驚いた顔をした——おそらく私の年齢に。でもすぐに微笑んだ。
「お願いします、先生方」
「大丈夫です」
フリードリヒ医師が、安心させるように言った。
「すぐに終わります」
麻酔が投与された。この世界の全身麻酔は薬草ベースで、完全な無意識状態にはならないが、痛みを感じなくなり、眠ったような状態になる。
患者の意識が朦朧としてきた。
「では、始めます」
フリードリヒ医師が、宣言した。
◇
手術が始まった。
フリードリヒ医師が患者の背中を消毒する。腫瘍の位置を確認し、マーキングする。
「リーゼさん、メスを」
私はメスを手渡した。手が震えないように注意する——緊張しているが、集中しなければ。
医師がメスで皮膚を切開した。約四センチの切開——腫瘍の大きさより少し大きめだ。
血が滲み出てくる。看護師がすぐにガーゼで拭う。
「リーゼさん、鉗子で組織を広げて」
フリードリヒ医師が指示した。
私は鉗子を手に取り、慎重に切開部を広げる。皮下組織が見えてきた——そしてその奥に、腫瘍。
白っぽい塊——良性腫瘍だ。周囲の組織とは明らかに異なる色と質感。
「腫瘍を確認しました」
医師が言った。
「これから剥離します」
医師がメスで腫瘍の周囲を慎重に剥離し始めた。腫瘍と正常組織の境界を見極めながら、少しずつ切り離していく。
私は鉗子で組織を保持する。しっかりと、でも優しく——組織を傷つけないように。
「出血」
突然、血が溢れ出した。
小さな血管が切れたのだ。
「ガーゼ」
フリードリヒ医師が、落ち着いた声で言った。
看護師がガーゼを渡す。医師がガーゼで圧迫する。
でも出血は止まらない。
「結紮が必要だ」
医師が言った。
「リーゼさん、鉗子で血管を掴んで」
私は、すぐに行動した。鉗子で出血している血管を探す——そこだ。小さな血管、でも勢いよく出血している。
鉗子で血管を掴む。確実に、でも優しく。
「掴みました」
「よし。糸を」
フリードリヒ医師が糸を持った。血管に糸を巻き、結ぶ。二重結紮——確実に止血する。
出血が止まった。
「良かった」
医師が、安堵の息をついた。
「リーゼさん、ナイスアシストだ」
「ありがとうございます」
私も、ほっとした。
◇
手術は続いた。
腫瘍の剥離が進む。フリードリヒ医師の手が正確に動く——一つ一つの動作が慎重で、確実だ。
私は助手として、器具を渡し、組織を保持し、出血を確認する。全ての動作を正確に、迅速に。
やがて腫瘍が完全に剥離された。
「摘出完了」
フリードリヒ医師が、言った。
腫瘍が取り出された——約三センチの白い塊。
「病理検査に出します」
と医師が看護師に渡した。
「では、閉創します」
創部を洗浄する。薬草を煎じた液体で——抗菌作用がある。
そして縫合。
「リーゼさん、縫合してみるかい?」
フリードリヒ医師が、突然言った。
「え……私がですか?」
「ああ。君の縫合技術は素晴らしいと聞いている。ぜひ見てみたい」
私は、少し驚いた。でも、これもチャンスだ。
「分かりました。やらせていただきます」
◇
針と糸を手に取った。
深呼吸。落ち着け——私にはできる。
創部を観察する。皮下組織、筋層、そして皮膚。順番に縫合しなければならない。
まず皮下組織から。
針を組織に刺す。九十度の角度で——組織への侵襲を最小限に。
針を通す。反対側に出す。
糸を引く——適度な張力で。強すぎず、弱すぎず。組織の断端がぴったりと合う程度。
結ぶ。外科結び——確実に、でも優しく。
一針目、完了。
二針目、三針目——リズムよく縫合を進める。手が自然に動く。前世の経験と、この世界での練習。全てが一つになっている。
皮下組織の縫合が完了。
次に皮膚。
皮膚縫合は、より慎重に。傷跡が残らないように——美しく縫合しなければならない。
一針一針、丁寧に。間隔を均等に、張力を一定に。
最後の針を刺す。最後の糸を結ぶ。
「完了です」
私は、言った。
フリードリヒ医師が、近づいて私の縫合を観察した。じっくりと——長い沈黙。
そして。
「完璧だ」
医師が、感嘆したように言った。
「これは……本当に完璧な縫合だ。間隔、張力、結び目——全てが理想的。傷跡もほとんど残らないだろう」
看護師たちも、驚いた顔をしている。
「十二歳で、この技術……信じられないわ」
「ありがとうございます」
私は、謙遜した。
「でも、まだまだ学ぶことがたくさんあります」
「その謙虚さが、また素晴らしい」
フリードリヒ医師は、微笑んだ。
◇
手術が終わった。
患者が回復室に運ばれていく。麻酔から覚める頃には、全てが終わっている——患者は痛みもなく、傷も綺麗に治るだろう。
私は、手術着を脱いだ。疲れたが、充実感がある。人生初の助手——成功だった。
「リーゼさん、素晴らしかった」
フリードリヒ医師が、言った。
「君は本物の医師だ。年齢は関係ない——技術と知識、そして患者への思いやり。全てを持っている」
「ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
「今日は、本当に勉強になりました」
「こちらこそ」
医師は、微笑んだ。
「君から学ばせてもらった」
「次回も、よろしく頼むよ」
◇
夕方、医学院に戻った。
エリーゼが待っていた。
「リーゼ、どうだった?」
「うまくいったよ」
私は、微笑んだ。
「初めての助手——成功だった」
「良かった!」
エリーゼが、抱きしめてくれた。
「私も、いつかそうなりたいわ」
「なれるよ」
私は、言った。
「エリーゼなら、絶対に」
二人で、しばらく話した。今日の手術のこと、緊張したこと、でもやり遂げたこと——全てを話した。エリーゼは真剣に聞いてくれた。
◇
夜、部屋で今日のことを振り返った。
初めての助手——大きな経験だった。実際の手術、実際の患者——その重みを改めて感じた。
でも同時に、自分の成長も感じた。前世の経験と、この世界での学び——それらが一つになって、私を支えてくれている。
窓を開けると、夜風が入ってくる。星が美しく輝いている。
「お父様、お母様、マルタさん」
星に向かって、小さく呟いた。
「今日、初めて手術の助手をしました。うまくいきました——患者さんも無事です。これからも、頑張ります」
星が、優しく瞬いている——まるで祝福してくれているかのように。
ベッドに入り、目を閉じる。
明日からまた、授業が続く。そして来週には、また病院実習がある。
忙しい日々——でも充実している。毎日、成長している。
それが、嬉しい。
「おやすみなさい」
小さく呟いて、眠りについた。
初めての助手——成功だった。そして私は、また一歩前進した。医師として、人として。
少女医師の挑戦は、続いていく。




