第46話 王宮での医学会~天才少女、大舞台に立つ~
王宮の回廊に足を踏み入れた瞬間、その圧倒的な荘厳さに息を呑んだ。
遥か頭上まで伸びる天井は、優に十メートルはあるだろう。磨き上げられた大理石の床が、差し込む朝日を反射して輝いている。そして壁面を飾る精緻なレリーフ——建国の歴史が、まるで絵巻物のように刻まれている。
まるで神殿か、異世界のお城そのものだ。
いや、ここは確かに異世界の王宮なのだ。
私、リーゼ・フォン・ハイムダル、十二歳。前世は日本の外科医だった。そして今、この世界で医師を目指している。
今日は王立医学会——王国最高峰の医学の祭典で、私の縫合技術を発表する日だ。
ヴィルヘルム先生の半歩後ろを歩く。
長い廊下の両側には、歴代国王や建国の英雄たちの肖像画がずらりと並び、私たちを見下ろしている。その威厳ある視線が、背中を押してくれているのか、それとも試しているのか。
足音だけが、静かに響く。
カツン、カツン、カツン。
自分の靴音が、やけに大きく聞こえる。
心臓の鼓動も、それに合わせて高鳴っていた。
「リーゼ先生、緊張していますか?」
ヴィルヘルム先生が、足を止めずに優しく問いかけてきた。
私は小さく息を吐いた。「はい……正直、心臓が早鐘を打っています」
強がっても仕方ない。私は素直に吐露した。
「王立医学会なんて、こんな大舞台……夢にも思っていませんでした」
「でも、やるしかないですよね」
先生は優しく微笑んだ。「その意気です」
そして、私の肩にそっと手を置いた。
「リーゼ先生。あなたなら、きっと大丈夫です。私はあなたの実力を知っています。そして、今日この会場にいる全ての医師たちも、あなたの技術を見れば必ず認めるでしょう」
「ありがとうございます」
その言葉が、震える心を少しだけ落ち着かせてくれた。
やがて、重厚な両開きの扉の前へ辿り着いた。
金の装飾が施されたその扉は、高さが三メートル以上ある。扉の左右には、槍を持った衛兵が直立不動で控えている。彼らの鎧が朝日を反射して、鈍く光っていた。
「ここが、王立医学会の会場です」
先生が言った。
衛兵が重々しく扉を開け放つ。
ギィィィ……
金属の擦れる音が響く。
光と共に、中の空気が流れ込んできた。人の熱気、香水の香り、そして——知性と緊張の匂い。
私は深く息を吸い込んだ。
さあ、行こう。
◇
「うわぁ……!」
思わず感嘆の声が漏れた。
そこは、すり鉢状の巨大な階段教室——いや、劇場と呼ぶべき広さだった。
中央には演台があり、その周囲を囲むように座席が階段状に配置されている。まるで古代ローマの円形劇場のようだ。
座席の数を数えてみる。一列に約三十席、それが十列以上。三百席は優にあるだろう。
そして、その座席はすでに多くの参加者で埋まっていた。
白衣を纏った医師団——ベテランの風格を漂わせる老医師から、私より少し年上の若手医師まで。
豪奢な服を着た貴族たち——医学に関心を持つ有力者だろう。
そして学帽をかぶった学者たち——おそらく王立大学の教授陣だ。
会場に充満する熱気と、知性の重圧。
空気が重い。
「すごい人の数……」
私は小さく呟いた。これだけの人々の前で発表するのか。
膝が少し震えた。
「こちらへどうぞ」
係員に案内され、最前列の特等席へ。ヴィルヘルム先生も隣に腰を下ろす。
中央のステージには大きな演台があり、その周囲には私が事前にリストアップした医療器具が、完璧な状態で整列されていた。
持針器、ピンセット、外科用ハサミ、縫合糸——中程度の太さの吸収糸と非吸収糸が数種類。
そして、実演用の豚の皮膚。約十二センチの切開創が入れられている。
準備は万端だ。
「間もなく始まります」係員が告げた。
私は深く、長く息を吐いた。
落ち着け、リーゼ。準備は万端だ。あとはやるだけ。
前世で何度も手術をしてきた。今回はただの実演だ。患者の命がかかっているわけではない。
でも——
これは私の医師としての第一歩を、この世界に刻む瞬間だ。
失敗は許されない。
◇
やがて、威厳ある老紳士が演台へと上がった。
医学院の理事長、エルンスト侯爵だ。七十歳を超えているはずだが、背筋はピンと伸びている。
「皆様、本日はご多忙の中お集まりいただき、誠にありがとうございます」
よく通る声が、会場の隅々まで響き渡る。
会場の喧騒が、ピタリと止んだ。
「第五十回王立医学会を、ここに開催いたします」
パチパチパチパチ……!
割れんばかりの拍手が会場を包んだ。
それが鳴り止むのを待って、侯爵は続けた。
「本年で五十回目を迎える本会は、王国の医療の発展に多大なる貢献をしてまいりました。過去四十九回の積み重ねが、今日の王国医療の礎となっております」
侯爵の言葉に、会場の医師たちが誇らしげに頷いている。
「本日は王国選りすぐりの医師たちによる、最新の医療技術の発表が行われます。薬草学、外科学、内科学——各分野の最先端が、ここに集います」
そして——
侯爵の表情が、わずかに柔らかくなった。
「そして、今年は特別なゲストをお招きしております」
私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
いよいよだ。
「王立医学院の学生、リーゼ・フォン・ハイムダル」
侯爵の手が、こちらを示した。
全ての視線が、一斉に私に集中する。
「わずか十二歳にして、医学院の実技試験で満点を叩き出した天才少女です。その縫合技術は、我々ベテラン医師をも凌ぐと評されています」
侯爵は一呼吸置いた。
「本日、彼女にはその類稀なる縫合技術をご披露いただきます」
瞬間、会場の空気が変わった。
ザワザワザワ……
どよめきがさざ波のように広がる。
「じゅ、十二歳だと……?」
「本当に子供ではないか」
「まさか、余興か何かの間違いでは……」
「ベテランを凌ぐだと? そんなことが」
あちこちから聞こえる、好奇と懐疑の囁き。
無理もない。こんな大舞台に子供が立つのだ。それも、ただの見学ではない。実演発表だ。
私は席を立ち、深く一礼した。
数百の視線が、矢のように突き刺さる。
値踏みする目、疑う目、呆れる目。
前列の白髪の老医師が、眼鏡越しに私をじっと見ている。その目には明らかな懐疑の色。
中列の若手医師たちは、興味津々といった様子で身を乗り出している。
後列の貴族たちは、「これは面白い見世物になりそうだ」とでも言いたげな表情だ。
けれど、その中には僅かな期待の目もあった。
最前列の一角にいる、穏やかな顔の中年医師。彼の目には、純粋な期待の光が宿っていた。
震えそうになる膝を、意思の力で抑え込む。
大丈夫……私には知識がある。
二つの人生分の経験がある。
前世で培った外科医としての技術と、この世界で学んだ魔法治療の知識。
その両方を持つ私なら、必ずやれる。
私は顔を上げ、会場を見渡した。
そして、小さく頷いた。
◇
医学会が始まり、ベテラン医師たちの発表が続いた。
最初の発表者は、王立病院の薬草研究部門の責任者、フリードリヒ博士だった。
六十代の温厚そうな医師だ。
「本日は、北方の森林地帯で新たに発見された薬草『ノルディカ・アルバ』の鎮痛効果について発表いたします」
博士は、実際の薬草のサンプルを掲げた。
白い小さな花をつける、可憐な植物だ。
「この薬草の根を煎じて服用すると、従来の鎮痛薬の約一・五倍の効果があることが確認されました。特に、慢性的な関節痛に対して顕著な効果を示します」
データが示される。実験対象の患者数、投与量、効果の持続時間——全てが詳細に記録されている。
私は食い入るように聞き、脳裏に刻み込んだ。
この薬草は、前世の知識にはない。この世界独自のものだ。
素晴らしい。新しい知識を得られる喜びが、緊張を少しだけ和らげてくれた。
二番目の発表は、外科医のカール先生による骨折治療の新技法だった。
「従来の副木固定法に加え、魔法陣を併用することで、骨の癒合速度を約二倍に高めることができます」
魔法陣の図が示される。複雑な幾何学模様だ。
「この魔法陣は、骨芽細胞の活性化を促し、かつ炎症を抑制する効果があります」
なるほど。魔法と医療の融合——これもこの世界ならではだ。
前世の整形外科の知識と組み合わせれば、もっと効果的な治療法を開発できるかもしれない。
私はメモを取った。
そして、三番目の発表が終わった時。
「次は、リーゼ・フォン・ハイムダル先生です」
侯爵の声が、私の名を呼んだ。
来た。
私は立ち上がった。
深呼吸を一回。
足を一歩、前へ。
階段を降り、中央のステージへと進む。
階段状の客席から降り注ぐ視線の圧力は、先ほどの比ではない。
三百を超える目が、私一人を見つめている。
演台の前に立つ。
もう一度、深呼吸。
落ち着け。いつも通りにやればいい。
顔を上げ、私は声を張り上げた。
「初めまして、リーゼ・フォン・ハイムダルです」
幼い声だが、震えは乗せなかった。
会場がシンと静まる。
「本日は、外科手術における『基本縫合技術』について、実演をさせていただきます」
私は作業台へ移動した。
そこには、ヴィルヘルム先生にお願いして用意してもらった豚の皮膚がある。
実際の人間の皮膚に最も近い性質を持つため、外科訓練によく使われる素材だ。
中央には約十二センチの切開創。綺麗にメスで切開されている。
これを、縫う。
「縫合は、外科手術の基本にして奥義です」
私は会場を見渡した。
「どれほど完璧な手術を行っても、縫合が不完全であれば創は離開し、感染のリスクが高まります。患者は苦しみ、最悪の場合、命を落とします」
何人かの医師が、真剣な顔で頷いた。
「逆に、完璧な縫合があれば、術後の回復は劇的に早まります。痛みは少なく、傷跡は目立たず、患者は早期に日常生活へ戻ることができます」
私は作業台の器具に手を伸ばした。
「それでは、実演を開始します」
◇
静まり返る会場。
三百人以上の呼吸が、一斉に止まったような静寂。
私は持針器とピンセットを手に取った。
金属の重み。この感触。
前世で何千回も握った、懐かしい感覚。
「まず、針の把持について」
私は持針器を会場に向けて掲げた。
「親指と薬指のみをリングに通します。人差し指はリングの外側に置き、器具を安定させます」
ゆっくりと、分かりやすく動作を示す。
「この持ち方により、手首の微細な動きを針先に正確に伝えることができます。力任せに握るのではなく、あくまで繊細に」
器具を持つ所作一つで、会場の空気がわずかに引き締まるのが分かった。
ああ、彼らは分かったのだ。
素人の手つきではないと。
前列の老医師が、眼鏡を外して身を乗り出した。
「次に、針の持ち方です」
私は縫合針を持針器で掴んだ。
「針は、その先端から三分の二の位置を把持します。これにより、針の湾曲を最大限に活かすことができます」
針を光にかざす。
「そして重要なのが、刺入角度です」
私は豚の皮膚の前に移動した。
会場の全員が、さらに身を乗り出す。
「針は組織に対し、垂直——九十度の角度で刺入します」
針先を皮膚に当てる。
「これにより、組織への侵襲を最小限に抑えられます。斜めに刺せば、必要以上に組織を傷つけることになります」
そして——
針を進めた。
手首を返し、滑らかに皮膚を貫く。
針先が反対側から現れる。
迷いはない。
ピンセットで針を掴み、引き抜く。
糸が、スルスルと組織を通っていく。
「次に、糸の張力です」
私は糸を引いた。
「強すぎれば組織が壊死し、弱すぎれば創離開を招きます」
ちょうど良い張力で、創縁を寄せる。
「絶妙な加減で、断端をぴったりと合わせるのです。この感覚は、反復練習によってのみ習得できます」
糸を結ぶ。
指先が踊るように動き、正確な外科結びが形成される。
「結び目は、2回巻きの後に逆方向に1回。これで結び目が解けることはありません」
糸を切る。
「結び目から5ミリの位置で切断。短すぎれば解ける危険があり、長すぎれば異物感が残ります」
一針目、完了。
◇
会場は水を打ったような静寂に包まれていた。
疑いの囁きは消え、誰もが身を乗り出して私の手元を見つめている。
最前列の老医師は、もはや眼鏡をかけることも忘れて凝視している。
中列の若手医師たちは、慌ててメモを取り始めた。
後列の貴族たちも、これが単なる見世物ではないと理解したようだ。真剣な眼差しで見つめている。
よし。
私は二針目に取りかかった。
「創縁の高さを揃えることが重要です」
針を刺す。同じ角度、同じ深さ。
「皮膚の表面だけを縫うのではありません。皮下組織も確実に捉え、層ごとに正確に合わせます」
針を抜く。糸を引く。結ぶ。切る。
「ここがズレると、治癒が遅れ、醜い痕が残ります。患者、特に女性にとっては、これは重大な問題です」
三針目。
前世の記憶が、鮮明に蘇る。
大学病院の手術室。指導医の声。「もっと丁寧に」「糸を引きすぎだ」「良い、その調子」
無数の手術。成功と失敗。患者の笑顔と涙。
そのすべてが、今この指先に宿っている。
四針目、五針目。
リズムを崩さず、等間隔に、美しく。
「縫合の間隔は、約5ミリ。等間隔であることが、美しい治癒を生みます」
六針目、七針目。
私の手が止まらない。
会場の誰もが、息を呑んで見守っている。
カチャ、スッ、スルスル、キュッ、チョキン。
針を掴む音、刺す音、糸を引く音、結ぶ音、切る音。
それらが、まるで音楽のようにリズムを刻む。
八針目、九針目。
「創の端は特に重要です。ここがズレると、全体が台無しになります」
最後の一針。
針を刺す。完璧な角度で。
糸を引く。完璧な張力で。
結ぶ。完璧な結び目。
切る。
「——完了です」
私が手を上げた瞬間。
一秒の沈黙。
そして——
パチパチパチパチ……!
最初はパラパラと、やがて雷鳴のような拍手が会場を揺らした。
ワァァァッ!
懐疑的だった老医師が、驚愕の表情で立ち上がって手を叩いている。
若手医師たちは、興奮した面持ちで拍手している。
貴族たちも、敬意を込めた拍手を送っている。
会場全体が、スタンディングオベーションだ。
私は小さく息を吐き、安堵した。
やった。
認めてもらえた。
でも——
まだ終わりではない。
質疑応答だ。
ここからが本当の勝負かもしれない。
◇
拍手が鳴り止むのを待って、侯爵が言った。
「それでは、ご質問のある方は?」
瞬間、十本以上の手が一斉に挙がった。
予想以上だ。
侯爵が最前列の医師を指名した。
威厳のある中年の医師——先ほどから私を凝視していた人だ。
医師は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「リーゼ先生、実に見事な技術でした。洗練されている。私は外科医として三十年のキャリアがありますが、あなたの運針の正確さには驚嘆いたしました」
医師は率直に称賛した。
そして、鋭い目を向けた。
「しかし、一つ伺いたい。あなたは一体どこで、誰からこの技術を学んだのですか? 既存の医学書にはない手法も含まれていたようですが」
会場が固唾を呑む。
最大の難問だ。
前世の外科医としての記憶だなんて、言えるはずがない。
私は一瞬考え、あらかじめ用意していた答えを口にした。
「私は……夢の中で、学びました」
会場がざわめく。
「夢、ですか?」医師が問い返した。
「はい」私は頷いた。「五歳の時、高熱で生死を彷徨った際、とても鮮明な夢を見たのです」
あの時のことを思い出す。
転生直後の高熱。前世の記憶が蘇ったあの瞬間。
「そこで師匠のマルタに出会い、基礎を叩き込まれました。解剖学、生理学、そして外科手術。無数の患者を治療する光景を見ました」
私は会場を見渡した。
「夢の中で、私は何年も、何十年も修行を積んだのです。目覚めた時、その全ての記憶が残っていました」
会場が再びざわめく。
しかし、嘲笑ではない。
この世界では「夢」や「啓示」は、不思議な説得力を持つ。神託や予知夢は、実際に存在すると信じられているからだ。
「神からの啓示……ということか」医師が呟いた。
「そう……かもしれません」私は曖昧に微笑んだ。
嘘ではない。転生そのものが、神の気まぐれのようなものだから。
医師は深く頷き、座った。
すかさず、別の若手医師が手を挙げた。
侯爵が指名する。
「スピードについてお聞きします!」
若手医師が興奮気味に言った。
「あなたの運針は非常に速い。九針を、わずか三分で完了しました。しかし、速度を優先すれば正確性が失われるのではないですか?」
鋭い質問だ。
私は彼を見て、力強く答えた。
「鋭いご質問です」
会場が静まる。
「確かに速度と正確性はトレードオフの関係にあります。初心者が速く縫おうとすれば、必ず雑になります」
若手医師が頷く。
「しかし、反復練習によって両立は可能です」
私は自分の手を見た。
「重要なのは、一つ一つの動作を脳ではなく『体』に記憶させること。針の角度、糸の張力、結び目の強さ——全てを体で覚えるのです」
「つまり……」
「迷いを排除するのです。考える前に体が動く。その境地に達すれば、結果として速度はついてきます。そして正確性も維持されます」
医師はハッとした顔をし、深く頷いてメモを取った。
次の質問者——ベテランの女性医師だ。
「糸の選択について伺います。今回は中程度の太さの吸収糸を使用されましたが、その理由は?」
「良い質問です」
私は縫合糸を掲げた。
「この太さは、皮膚縫合において最も汎用性が高いものです。太すぎれば針穴が目立ち、細すぎれば強度不足で創離開のリスクが高まります」
「そして吸収糸を選んだ理由は、抜糸の必要がないためです。患者の負担を減らすことができます」
女性医師が満足そうに頷いた。
次々と質問が飛んでくる。
「結び目の種類について」
「針の湾曲の選び方は?」
「深い創の場合はどうするのか?」
「感染リスクの高い創の処置は?」
私はその全てに、淀みなく答えた。
前世の知識と、この世界で学んだことを総動員して。
質疑応答は、三十分以上続いた。
◇
「ありがとうございました、リーゼ先生」
侯爵の言葉で、私の出番は終わった。
万雷の拍手を背に席に戻ると、ヴィルヘルム先生が満面の笑みで迎えてくれた。
「完璧でしたよ、リーゼ先生。いえ、完璧以上です」
先生の目が潤んでいた。
「あ……ありがとうございます」
私は腰を下ろした。
途端、どっと疲れが出た。
全身の力が抜ける。
でも、心地よい疲れだ。達成感が、体を満たしている。
やり遂げた。
王立医学会で、私の技術を認めてもらえた。
隣の先生が、小声で言った。
「リーゼ先生。あなたは今日、歴史を作りました。十二歳で王立医学会で発表した者など、王国の歴史上、一人もいません」
「そう……なんですか」
「ええ。そして、あれだけの拍手を受けた発表も、過去に例がありません」
先生は誇らしげに微笑んだ。
「あなたは、伝説になりましたよ」
その後の医学会も、私は一言も聞き漏らすまいと集中し続けた。
慢心はない。学ぶべきことは、まだ山のようにあるのだから。
◇
閉会後。
侯爵に呼ばれ、別室へ向かった。
豪華な応接室。そこには、王国の医学界を牛耳るような重鎮たちが待ち構えていた。
王立病院の院長、医学院の学長、そして各専門分野の第一人者たち。
総勢十名以上。
全員が、私を見ている。
「改めてご紹介しよう。リーゼ先生だ」
侯爵の言葉に、白髪の老医師の一人が進み出た。
王立病院の外科部長、ヴォルフガング先生だ。八十歳を超えているはずだが、背筋はピンと伸びている。
「リーゼ先生。先ほどの実演、感服いたしました。私は五十年以上外科医をしておりますが、あれほど完璧な縫合は見たことがありません」
「恐縮です」私は深く頭を下げた。
「十二歳とは到底信じがたい。いや、年齢など関係ないですな。あなたは紛れもない名医だ」
ヴォルフガング先生が、そう断言した。
他の医師たちも頷いている。
「そこで、我々から折り入ってお願いがあるのです」
侯爵が真剣な眼差しで私を見た。
「あなたのその技術を、もっと多くの医師に広めてはいただけないだろうか?」
「え……私が、教えるのですか?」
予想外の提案に目を丸くする。
「左様」侯爵が頷いた。「あなたの縫合技術が標準となれば、王国の医療水準は飛躍的に向上するでしょう」
医学院の学長が続けた。
「多くの患者が救われるはずです。術後の合併症が減り、回復が早まり、傷跡も残らない。それがどれほど素晴らしいことか」
「しかし、私はまだ学生ですし、年齢も……」
「実力の前では、年齢など些末なこと」
侯爵はきっぱりと断言した。
「あなたには、教える資格がある。いや、教える義務があると言ってもいい」
その言葉が、胸に重く、温かく響いた。
教えること。
自分の技術を次世代へ——いや、現役の医師たちへ伝えること。
それは、私一人で手術をするよりも、遥かに多くの命を救うことに繋がる。
もし王国中の外科医が、この縫合技術を習得したら。
何千人、何万人もの患者が、より良い治療を受けられるようになる。
それこそが、医師の本当の使命ではないだろうか。
私は顔を上げた。
迷いは消えていた。
「……分かりました」
私ははっきりと答えた。
「謹んで、お受けいたします」
「おお! 素晴らしい!」
部屋中が安堵と喜びに包まれる。
侯爵が握手を求めてきた。私は小さな手を差し出し、侯爵の大きな手と握手を交わした。
「ありがとう、リーゼ先生。王国の医療は、あなたによって新しい時代を迎えます」
こうして、来月から医学院で定期的な技術講習会を開くことが決まったのだった。
月に二回、一回三時間。
対象は、王国中の外科医たち。
参加者は、すでに五十名以上の申し込みがあるという。
◇
王宮を出る頃には、空は茜色に染まっていた。
長い一日だった。
ヴィルヘルム先生と共に帰りの馬車に揺られながら、私は今日一日を反芻していた。
人生で最も長く、最も濃密な一日。
緊張、不安、達成感、そして新たな責任。
様々な感情が、胸の中で渦巻いている。
「リーゼ先生」
先生が静かに言った。
「今日であなたの名は王国中に知れ渡りましたよ。明日には新聞に載るでしょう。『十二歳の天才外科医』として」
「そう……ですね。責任重大です」
私は窓の外を見た。
夕日に照らされた王都の街並み。人々が行き交っている。
あの人たちの中にも、怪我や病気で苦しんでいる人がいるだろう。
私に何ができるだろうか。
「でも、あなたなら大丈夫」
先生が言った。
「その謙虚さがある限り、あなたは決して道を誤らない。私は確信しています」
「ありがとうございます」
私は先生に向き直った。
「先生がいてくださったから、今日の成功があります。本当にありがとうございます」
「いいえ。私は何もしていません。あなた自身の力です」
先生は優しく微笑んだ。
馬車が医学院に到着した。
すでに日は傾き、建物の窓に明かりが灯り始めている。
門をくぐると——
「リーゼちゃん!!」
エリーゼが飛び出してきた。
そして、ルーカス先輩、トーマス先輩、クラウディア先輩も。
みんなが心配そうに、そして期待に満ちた表情で待っていてくれた。
「どうだった!?」エリーゼが私の手を握った。「成功したの!?」
私は笑顔で頷いた。
「うまくいきました」
「やったぁ!」エリーゼが飛び跳ねた。
「それと……来月から、先生たちに講習会を開くことになりました」
一瞬の沈黙。
そして——
「はあ!?」
ルーカス先輩の素っ頓狂な声が響いた。
「お前が先生に教えるのか!? ベテランの先生たちに!?」
「そういうことになります」
「すごすぎる……」トーマス先輩が呆然としている。
「リーゼちゃん、本当にすごいわ!」クラウディア先輩が目を輝かせている。
みんなで笑い合った。
温かい仲間たち。
彼らがいてくれるから、私は頑張れる。
◇
その夜。
自室に戻り、私は窓から満天の星を見上げた。
静かな夜。
遠くで鐘が鳴っている。八時を告げる鐘だ。
「お父様、お母様……」
私は小さく呟いた。
「今日、王立医学会で発表してきました」
星が、優しく瞬く。
「たくさんの先生たちが、私の技術を認めてくれました。そして、その技術を広めてほしいと言われました」
胸が熱くなる。
「お父様とお母様が育ててくれたこの体で、マルタさんが教えてくれた医術で、私はたくさんの人を救えるかもしれません」
あの小さな診療所から始まった私の第二の人生。
それが今、想像もしなかった場所へと広がろうとしている。
王立医学会での発表。
王国の名だたる医師たちからの称賛。
そして、技術を伝える教師としての新たな役割。
「頑張ります。もっと多くの人を救うために」
私は拳を握りしめた。
「前世でできなかったことも、この世界でなら実現できるかもしれません。医療格差のない世界。誰もが平等に治療を受けられる世界」
星が、肯定するように優しく瞬いた。
まるで、お父様とお母様とマルタさんが、空から見守ってくれているようだ。
「おやすみなさい」
私はベッドに横になった。
明日からは、教える側としての新たな挑戦が始まる。
どんな医師たちが来るだろう。
どんな質問をされるだろう。
ちゃんと教えられるだろうか。
不安もある。
でも、同時に期待もある。
私の技術が広まれば、王国中で患者が救われる。
それは、医師として最高の喜びだ。
私は心地よい高揚感を抱きながら、まぶたを閉じた。
今日という日は、私の人生の転換点だった。
そして明日から、新しい物語が始まる。
少女医師リーゼ・フォン・ハイムダルの、挑戦は続く。




