第43話 試練の時
外科学実習から三日——私の名前は医学院中で囁かれるようになっていた。
「エドムント先生が絶賛したらしいよ」「連続縫合を完璧にこなしたって」「十二歳でプロレベルなんて信じられない」
噂は風のように広がり、廊下を歩けば視線が突き刺さる。尊敬の眼差し、好奇の視線、そして——明らかな敵意。
私は何も変わっていないのに、周囲の空気が一変していた。
◇
ある朝、いつものように講義室に入ると、異様な静寂に包まれていた。学生たちがひそひそと内緒話をしているが、私の姿を見ると会話がぴたりと止まる。
まるで私が疫病神でも見つかったかのような反応に、胸がざわついた。
いつもの席に向かおうとした時——
「あら、そこは私の席よ」
冷たい声が背後から響いた。振り返ると、三年生のアーデルハイド・フォン・エステルハーゼが腕を組んで立っている。医学院でも有数の秀才として知られ、常に完璧を求める完璧主義者だ。
「え? でも、いつも私がここに……」
「今日からここは私の席。文句ある?」
アーデルハイドの瞳に宿る冷たい光に、周囲の学生たちがざわめく。でも誰も助けてくれない——むしろ面白そうに見物している。
争いを好まない私は、静かに頭を下げた。
「分かりました。別の席に座らせていただきます」
後ろの方の空席に移る私を見て、アーデルハイドが勝ち誇ったような笑みを浮かべているのが見えた。
一体何が起こっているのだろう——胸の奥で不安がくすぶり始める。
◇
病理学の講義が始まる。ハインリヒ先生が病気のメカニズムを丁寧に説明してくださるが、後方の席からひそひそ声が聞こえてくる。
「子供のくせに生意気よね」「特別扱いされてるだけでしょ」「実力なんてたかが知れてる」
小さな声だが、確実に私の耳に届くよう計算されている。胸が締め付けられるような痛みを感じながらも、授業に集中しようと努める。
講義終了後、ハインリヒ先生が質問を募った。
「何かご質問はございますか?」
いつものように手を挙げる。感染症の潜伏期間について確認したいことがあった。
「はい、リーゼ君」
「先生、感染症の潜伏期間についてですが——」
質問を開始した瞬間、後ろから聞こえてくる。
「またリーゼか……」「いつも質問してるわよね」「目立ちたがり屋……」
言葉が詰まる。こんな空気の中で質問を続けるのは辛い。
「良いご質問ですね。説明いたしましょう」
ハインリヒ先生が優しく微笑んでくださったが、私の心は晴れなかった。
◇
昼食時間、食堂でルーカス先輩とエリーゼが待っていてくれた。
「リーゼ、こっち!」
エリーゼが手を振る。彼女の明るい笑顔に少し救われる思いだった。
「大丈夫? なんだか元気がないみたいだけど」
「はい……少し」
素直に答える。
「最近、周りの雰囲気が変わってしまって」
「ああ……」
ルーカス先輩が複雑な表情を浮かべる。
「実は聞いたんだ。アーデルハイドが君に対して相当な反感を抱いているらしい」
「アーデルハイド先輩が……?」
「彼女は三年生でトップの成績を誇っていた」
ルーカス先輩が説明してくれる。
「でも君が来てから、教師たちの注目が全て君に向いてしまった。それが気に食わないんだ」
「そうなの」
エリーゼが小声で付け加える。
「アーデルハイドには取り巻きもいるの。彼女に同調して、リーゼに冷たく当たってる学生たちがいるのよ」
胸に重いものが沈んでいく。私はただ一生懸命勉強しているだけなのに……。
「気にするな」
ルーカス先輩が力強く言ってくれる。
「嫉妬する奴はどこにでもいる。君は実力で評価されているんだ。堂々としていれば良い」
「ありがとうございます」
少し勇気が湧いてきたが、心のどこかで不安が渦巻いている。
◇
午後の実習時間——今日は皮下縫合の技術を学ぶ。
エリーゼとペアを組み、エドムント先生の実演を真剣に観察する。先生の手技は相変わらず芸術的で、糸が皮膚の下層に美しく隠れていく。
「では実習してください」
私は集中して皮下縫合に取り組む。針を真皮層に刺入し、適切な深度で組織を通す。前世の記憶が手を導き、自然に正確な手技を再現していく。
「リーゼ、完璧よ!」
エリーゼが感嘆の声を上げる。
「本当に美しい縫合ね」
その時——
「先生、ちょっと質問があります」
アーデルハイドの声が響いた。彼女が私の作業台に近づいてくる。
「はい、どうぞ」
「リーゼさんの縫合を見ていたのですが……」
アーデルハイドが私の手技を指差す。
「糸の張力が強すぎませんか? このままでは組織が壊死する可能性があります」
実習室の空気が緊張する。エドムント先生が私の縫合を詳細に観察した。永遠のように感じられる沈黙——私の心臓が激しく鼓動する。
「いえ、これは完璧です」
先生がはっきりと言ってくださった。
「張力は理想的。組織壊死の心配は全くありません」
アーデルハイドの頬が赤くなる。
「でも——」
「アーデルハイド君」
先生が優しく諭すように言う。
「他人を批判する前に、自分の技術を見直すことです。君の縫合は張力が不足しています。これでは創傷離開のリスクがあります」
周囲がざわめく中、アーデルハイドは私を鋭く睨みつけて自分の席に戻っていった。
ほっとすると同時に、彼女の敵意がさらに強くなったのを肌で感じる。
◇
実習終了後、教室を出ようとすると——
「リーゼ」
アーデルハイドが取り巻きを従えて立ちはだかった。まるで女王と家来のような威圧的な構図だ。
「何でしょうか?」
「調子に乗るのもいい加減にしなさい」
彼女の声は氷のように冷たい。
「十二歳の小娘のくせに、偉そうに振る舞って」
「私は偉そうになんて——」
「先生方に気に入られて特別扱いされて、得意になってるんでしょう?」
怒りが込められた声が廊下に響く。
「でも所詮は子供よ。本当の実力なんてないくせに」
その言葉が心に深く突き刺さる。
「私はただ一生懸命勉強しているだけです」
毅然として答える。
「特別扱いなど受けていません」
「嘘ばっかり」
アーデルハイドが鼻で笑う。
「いいわ、それなら証明してみなさい」
「証明……?」
「来週の実技試験よ」
彼女が腕を組む。
「そこであなたの本当の実力を見せてもらうわ。私より良い成績が取れるなら、認めてあげる」
一瞬の沈黙の後、意地悪な笑みが彼女の唇に浮かぶ。
「でも取れなかったら……二度と偉そうな態度は取らないでもらうわよ」
私は深呼吸して決意を固める。
「分かりました。正々堂々と試験を受けさせていただきます」
「ふん、楽しみにしてるわ」
アーデルハイドは取り巻きを連れて去っていく。残された廊下で、私の心臓が激しく鼓動していた。
試験——実力を証明する機会であり、同時に大きなプレッシャーでもある。
◇
部屋に戻り、窓から夕暮れ空を眺める。オレンジ色に染まった雲が美しいが、心は晴れない。
アーデルハイドとの対立、取り巻きたちの敵意、周囲の冷たい視線——全てが重くのしかかる。
「本当に大丈夫なのかな……」
小さくつぶやいた時、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
エリーゼが心配そうな顔で入ってくる。
「リーゼ、大丈夫? アーデルハイドと試験で勝負するって聞いたけど」
「はい……でも正直、不安です」
「大丈夫よ」
エリーゼが私の肩を抱いてくれる。
「リーゼは本当に実力があるもの。私、ずっと見てきたから——授業での鋭い質問、実習での完璧な技術。全てが本物よ」
「ありがとうございます」
「それに一人じゃないわ」
彼女が微笑む。
「私もルーカス先輩もフリードリヒも——みんなリーゼの味方よ。だから自信を持って」
温かい言葉に涙が込み上げそうになるが、ぐっと堪える。
「はい。頑張ります」
「その意気よ! 夕食食べに行きましょう。しっかり食べて、しっかり休む——それが一番の試験準備よ」
◇
夕食後、部屋で徹底的に復習を始める。
ノートを広げ、今まで学んだ全てを確認する——縫合の基本原理、各種止血法、結紮技術、皮下縫合、連続縫合。一つ一つ丁寧に頭に叩き込む。
前世の知識も総動員する——外科の基本概念、無菌操作の重要性、組織の適切な扱い方。全てが今回の試験で活かされるはずだ。
机の上には、今日買った『外科手術技法』も開いている。ページの隅々まで目を通し、重要な箇所にはしおりを挟む。
窓を開けると涼しい夜風が頬を撫でる。満天の星空が広がっている。
「お父様、お母様、マルタさん」
星に向かって静かに語りかける。
「今、私は大きな試練に直面しています。でも負けません。皆さんから教わった全てを使って、必ず実力を証明してみせます」
星々が優しく瞬いている——まるで家族や師匠からの励ましのようだ。
時計を見ると、もう夜中の二時を回っている。明日からの一週間に備えて、そろそろ休まなければ。
ベッドに横たわり、明日からの本格的な準備を思う。
一週間——その間にできることを全てやる。基礎の確認、応用技術の練習、そして何より、冷静さを保つための心の準備。
アーデルハイド先輩は確かに優秀だ。理論的知識では私より上かもしれない。でも私には実戦経験がある。故郷で患者さんを診てきた経験、マルタさんから学んだ実践的な技術——それらが私の強みだ。
「負けるわけにはいかない」
小さくつぶやく。これは単なる成績争いではない。医師としての誇りを守る戦いなのだ。
私が医師として歩んできた道のりを否定されるわけにはいかない。故郷で治療した患者さんたち、マルタさんの教え、家族の愛情——全てを背負って戦わなければならない。
◇
翌朝から、私は早朝五時に起床して基礎練習を開始した。
医学院の実習室が開く前に図書室で理論の復習、実習室が使えるようになったら技術の練習。昼食も手早く済ませて、午後も練習漬けの毎日。
三日目の夜、疲労で手が少し震えていることに気づく。
「これはまずい……」
技術者にとって手の震えは致命的だ。少し休憩が必要かもしれない。
ノックの音が響く。エリーゼだった。
「リーゼ、大丈夫? 最近、食堂でもあまり見かけないし……」
「練習に集中していて、つい……」
「ダメよ、そんなの」
エリーゼが心配そうに私の手を取る。
「手が震えてるじゃない。これじゃ本番で力を発揮できないわ」
彼女の指摘は正しい。オーバーワークは逆効果だ。
「今夜はもう練習はやめ。温かいお風呂に入って、しっかり睡眠を取りなさい」
「でも……」
「でもじゃない」
エリーゼが断固として言う。
「リーゼの技術は既に十分よ。今必要なのは体調管理。分かった?」
彼女の言葉に従うことにした。確かに、疲労困憊では本来の力を発揮できない。
◇
四日目から、練習量を適度に調整した。基礎技術の確認は継続しつつ、十分な休息も取る。
ルーカス先輩とフリードリヒが交代で付き合ってくれ、実戦的な練習相手になってくれた。
「リーゼの技術は本当に安定してるな」
フリードリヒが感心する。
「俺が同じ年の頃なんて、針を持つ手も震えてたよ」
「でもアーデルハイド先輩も相当な実力者ですよね?」
「ああ、理論面では確かに優秀だ」
ルーカス先輩が答える。
「でも君には実戦経験がある。それは大きなアドバンテージだよ」
実戦経験——故郷で診た患者さんたちとの思い出が蘇る。風邪をひいた子供、骨折した農夫、出産を控えた女性。一人一人と真剣に向き合ってきた経験が、今の私を支えている。
◇
試験二日前——
アーデルハイド先輩と廊下で出くわした。彼女も緊張しているのか、いつもより顔色が悪い。
「調子はどう?」
思わず声をかけてしまう。敵対関係とはいえ、心配になってしまった。
「あなたに心配される筋合いはないわ」
冷たく返されるが、その声には疲労が混じっている。彼女も相当な準備をしているのだろう。
「でも……体調だけは気をつけてください。せっかくの試験ですから、お互い最高の状態で臨みましょう」
アーデルハイド先輩が驚いたような表情を浮かべる。
「なぜそんなことを……」
「医学に興味を持つ者同士です。お互いの実力を正当に評価し合いたいじゃないですか」
長い沈黙の後、彼女が小さく頷いた。
「……そうね。体調管理も実力の内よ」
その瞬間、彼女の中の敵意が少し和らいだような気がした。
◇
試験前日の夜——
私は医学院の屋上に向かった。夜空を見上げながら心を整理したかったのだ。
満天の星が輝いている。故郷の夜空と同じ美しさだ。
「マルタさん、明日はいよいよ試験です」
心の中で師匠に報告する。
「あなたから教わった基礎医学、お父様とお母様からもらった愛情、そしてここで学んだ新しい知識——全てを込めて挑みます」
風が頬を撫でていく。涼しくて心地よい。
「結果がどうであれ、全力を尽くします。それが医師としての私の責任ですから」
足音が聞こえる。振り返ると、エリーゼ、ルーカス先輩、フリードリヒが階段を上がってきた。
「みんな……」
「一人で抱え込むなよ」
フリードリヒが笑いかける。
「俺たちも心配で眠れないんだから」
「明日は絶対に大丈夫」
ルーカス先輩が力強く言う。
「君の実力を信じている」
「私たちがついてるもの」
エリーゼが私の手を握る。
「だから安心して」
仲間たちの温かさに、胸が熱くなる。一人じゃない——この事実がどれほど心強いことか。
「ありがとうございます、みなさん」
深々と頭を下げる。
「明日は必ず、みなさんの期待に応えます」
◇
試験当日の朝——
いつもより早く目覚め、窓を開けて深呼吸する。清々しい朝の空気が肺を満たす。
手鏡で自分の顔を確認する。緊張はしているが、目には強い意志が宿っている。
「大丈夫。私には技術がある、経験がある、そして支えてくれる仲間がいる」
制服に袖を通し、医学書を鞄に入れる。最後にもう一度、マルタさんからもらったお守りを握りしめる。
「行ってきます」
部屋を出る。廊下では既に他の学生たちが動き始めている。今日の試験の噂は学院中に広まっており、多くの視線が私に向けられる。
でも気にしない。今日は自分の実力を証明する日。余計なことは考えず、ただ最高のパフォーマンスを発揮するだけだ。
実習室に向かう足取りは、自然と軽やかになっていた。
試練の時——ついに真の勝負の時が来た。
少女医師リーゼ・フォン・ハイムダルの真価が問われる一日が、今、始まろうとしている。




