第42話 外科学実習
休日明けの月曜日——今日は外科学実習の日だった。
朝食を急いで済ませ、実習室へ向かう足取りに緊張が混じる。廊下には独特の重い空気が漂っていた。他の学生たちも同じ方向へ歩いているが、いつもの雑談は聞こえない。みな表情が引き締まっている。
初めての外科実習——失敗すれば患者の命に関わる技術を学ぶ日だ。
「リーゼ、おはよう」
エリーゼが声をかけてきたが、いつもの明るさに影がある。
「おはようございます」
「今日の実習……正直、怖いわ」
エリーゼが不安を隠さずに言う。
「豚の解剖には慣れたけれど、外科手技は全く別物でしょう?」
「少し緊張しますね」
正直に答える。
「でも、楽しみでもあります」
「さすがね」
エリーゼが苦笑する。
「私なんて、手が震えそうよ」
「大丈夫です」
彼女を勇気づけたくて言う。
「基礎をしっかり積み重ねれば、必ずできるようになります」
◇
実習室の扉を開いた瞬間、消毒薬の刺激的な匂いが鼻を突く。広い部屋の中央に複数の実習台が整然と並び、それぞれが白い布で厳重に覆われている——その下に何があるかは想像がつく。
室内は静寂に包まれ、学生たちの緊張した息遣いだけが聞こえる。
教室前方に一人の男性が立っていた。六十代ほどだろうか——白髪が威厳を醸し出し、鋭い眼光の奥に深い知性と経験が宿っている。清潔な白衣を身にまとい、まさに名医という風格だ。
「皆さん、おはようございます」
男性の声が実習室に響く。学生たちが一斉に姿勢を正した。
「私はエドムント・フォン・シュミット。外科学を担当しております」
エドムント先生——王国最高峰の外科医として名を馳せる人物だ。彼の手術は「神の手」と称され、数々の奇跡的な治療を成し遂げてきたという。そんな伝説的な医師が直接指導してくださる。
「今日から外科学実習が始まります」
先生の視線が教室を見渡す。
「外科学とは手術によって病気を治癒させる医学の一分野です。メスを握り、患者の身体を開き、病巣を除去する——それは医師にとって最も重大な責任を伴う行為です」
先生の声に厳格さが込められている。
「一つの判断ミス、一つの手技の誤りが患者の生死を分けます。だからこそ、基礎の一つ一つを正確に、完璧に習得してください」
実習室全体に緊張が走る。隣のエリーゼの手が微かに震えているのが見えた。
「本日の実習は基本的外科手技の習得です」
先生が実習台の布をゆっくりとめくる。その下から現れたのは豚の遺体——既に適切に処理され、実習用に皮膚が部分的に切開されている。
「縫合、止血、結紮。この三つの基本技術を確実にマスターしていただきます」
◇
学生たちが二人一組でペアを組み、各実習台に配置される。
私はエリーゼとペアになった。
「よろしくお願いします、リーゼ」
「こちらこそ」
エドムント先生が実演を始める。
「まず縫合から学びます」
先生が針と糸を手に取る。その動作に一切の無駄がない——長年の経験が生み出す洗練された所作だ。
「縫合とは切開した組織を縫い合わせる技術です。基本は単純縫合——針を組織に刺入し、対側に貫通させ、適切な張力で結紮します」
先生の手が流水のように滑らかに動く。一針、二針、三針——完璧な縫合線が形成されていく。糸の張力は均等で、組織の断端が美しく接合されている。まさに芸術作品のような仕上がりだ。
「重要なポイントは針の刺入角度と糸の張力調整です」
先生が説明を続ける。
「針は組織に対し垂直に刺入します。糸の張力は強すぎれば組織が壊死し、弱すぎれば創傷治癒が遅延します」
学生たちが真剣にノートを取っている。一言も聞き逃すまいという集中力だ。
「では実習を開始してください」
◇
針と糸を手に取る。手のひらに汗が滲んでいることに気づく——緊張しているのか、それとも興奮しているのか。
豚の皮膚には既に実習用の切開が施されている。この創を縫合する。
深呼吸をして集中する。針先を組織表面に当てる——わずかな抵抗を感じながら、垂直に刺入する。組織の感触が針を通じて指先に伝わってくる。慎重に対側へ貫通させ、糸を引く。適切な張力で——強すぎず、弱すぎず。
結紮する。
一針目、完了。
「すごい……」
エリーゼが小さく息を呑む。
「リーゼ、完璧よ。まるでベテラン医師みたい」
「ありがとうございます」
さらに縫合を続ける。二針目、三針目——前世で何百回、何千回と繰り返した手技だ。身体が覚えている。指が自然に正確な動きを再現する。
エドムント先生が私たちの実習台に近づいてくる。その足音に周囲の学生たちの動きが一瞬止まった。
「どれどれ……」
先生が私の縫合を詳細に観察する。沈黙が続く——永遠のように感じられる数秒間。
「素晴らしい」
先生の声に驚きが混じっている。
「完璧な縫合です。針の刺入角度、糸の張力、結紮の強度——全てが理想的。あなた、以前に縫合経験がおありですか?」
「はい」
素直に答える。
「故郷で何度か機会がありました」
「なるほど……」
先生が感心したように頷く。
「実践経験の価値は計り知れません。他の学生の皆さん、このレベルを目標にしてください」
周囲の学生たちが私の縫合を見学しに集まってくる。
「本当に美しい縫合だ……」
「どうしたらこんなに均等に縫えるんだろう」
「手が全然震えてない」
注目を浴びるのは気恥ずかしいが、技術を認められた喜びの方が大きかった。
◇
次は止血技術の実習だった。
「止血は外科手術において生命に直結する重要技術です」
エドムント先生が新たな実演を始める。
「主要な方法として圧迫止血、結紮止血、焼灼止血があります」
先生が一つずつ丁寧に実演してくださる。
「圧迫止血は最も基本的な手法です。出血部位に清潔な布を当て、適切な圧力で数分間圧迫します」
先生が実際に圧迫している間、実習室は静寂に包まれる。学生たちが固唾を呑んで見守っている。
「次に結紮止血。出血している血管を糸で結紮し、血流を遮断します。動脈性出血に特に有効です」
先生の指が見事な手さばきで血管に糸を巻き、確実に結紮する。
「最後に焼灼止血。加熱した器具で小血管を焼灼して止血します。ただし組織損傷を伴うため、適応は慎重に判断します」
熱した金属棒から立ち上る煙が、外科手術の現実的な側面を物語っている。
「それでは実習です。豚の血管を小切開し、各種止血法を実践してください」
◇
小さなメスで血管に切開を加える。血液が滲み出してくる——鮮やかな赤色が現実感を増す。
まず圧迫止血。清潔な布を当て、適度な圧力で押さえる。三分間——時計の秒針が異様にゆっくりと感じられる。布を離すと、出血は止まっていた。
次に別の血管で結紮止血。糸を血管周囲に巻き、慎重に結紮する。前世の記憶が蘇る——無数の手術で培った技術が指先に宿っている。
「リーゼ、本当に完璧ね」
エリーゼが感嘆の声を上げる。
「私はまだ結紮がうまくいかないの。糸が滑ってしまって」
「焦らずゆっくりと」
アドバイスする。
「最初は正確性を重視してください。速度は後から付いてきます」
「そうね。もう一度挑戦してみる」
エリーゼが再度挑戦する。今度は少し改善された。
「できました!」
「素晴らしいです」
人に教えることで自分も学べる——医学教育の真髄を実感する。
◇
午後は高度な縫合技術の実習だった。
「連続縫合を学習します」
エドムント先生が新たな実演を開始する。
「糸を切断せずに連続的に縫合する技法です。迅速性と気密性に優れ、内臓縫合等に使用されます」
先生の手技は芸術的だった。針が波のようなリズムで組織を縫い進む——一針、また一針。糸が美しい軌跡を描きながら創傷を閉鎖していく。
「これが連続縫合です。では実習してください」
挑戦する。
針を刺入する。糸を通す。次の刺入点へ——リズムが重要だ。一定の間隔、一定の張力を維持しながら。
前世で何度も練習した技術。手が記憶している。筋肉が適切な動作を再現する。
十針縫い終える。美しい連続縫合が完成した。
「驚異的です!」
エドムント先生が声を上げる。
「これはプロフェッショナルレベルの技術です。あなた、本当に十二歳なのですか?」
「はい」
少し困惑しながら答える。
「でも……夢で見た技術を真似しているだけです」
「夢?」
先生が興味深そうに眉を上げる。
「はい。よく医療に関する夢を見るんです。そこで学んだ技術を現実で応用しています」
半分真実で、半分方便だ。前世の記憶を説明する適切な方法が見つからない。
「なるほど……」
先生が深く頷く。
「天才とはそういうものかもしれません。神が夢を通じて知識を授けるのでしょう」
周囲の学生たちが畏敬の眼差しで私を見つめている。その視線に複雑な感情が混じっているのを感じ取った——尊敬、驚嘆、そして僅かな嫉妬。
◇
実習終了後、休憩時間にルーカス先輩とフリードリヒと食堂へ向かった。
「リーゼ、今日も圧巻だったな」
ルーカスが感心を込めて言う。
「エドムント先生があそこまで称賛するのは滅多にない」
「そうだ」
フリードリヒも同意する。
「俺も何度も実習を受けているが、一度も褒められたことがない。むしろ厳しく指導されるばかりだ」
「皆さんもとても優秀です」
謙遜する。
「私はたまたま経験があっただけです」
「その『たまたま』がすごいんだ」
ルーカスが真剣な表情で言う。
「我々はまだ見学と基礎練習の段階だ。しかし君は実際の患者治療経験がある。その差は計り知れない」
「でも理論的知識では皆さんの方が上です」
正直に告白する。
「私はまだ基礎学問が不足しています。だからここで学ばせていただきたいのです」
「素晴らしい心構えだ」
フリードリヒが私の肩を軽く叩く。
「互いに学び合おう。君の実践経験と我々の理論知識——融合すればより優秀な医師になれる」
「はい、ぜひ」
こうした仲間がいることの心強さを実感する。しかし同時に、他の学生たちの視線に含まれていた微妙な感情も気になっていた。
◇
その夜、部屋で今日の実習内容を復習した。
ノートに学習事項を整理する——縫合の基本原理、各種止血法、連続縫合の技術。全てが貴重な学びだった。
前世の知識とこの世界の医学技術を融合させることで、さらに高度な医療が実現できる。そんな可能性を感じる。
窓を開けると涼しい夜風が頬を撫でる。夜空には無数の星が瞬いている。
「マルタさん、見守っていてください」
星に向かって心の中で語りかける。
「あなたから教わった基礎医学の上に、さらに高度な技術を積み重ねています。いつか故郷に戻った時、もっと多くの人々を救えるようになっていたいのです」
星々が優しく瞬いている——まるで師匠からの励ましのようだ。
ベッドに横たわり、今日を振り返る。
充実した一日だった。外科学実習での技術習得、同級生たちとの友情深化、そして自分自身の成長実感。全てが明日への糧となる。
しかし、他の学生たちの複雑な視線も忘れられない。優秀すぎることが新たな問題を生むかもしれない——そんな予感もある。
「おやすみなさい」
小さく呟いて目を閉じる。
王都での学びは日々深化している。技術的にも人間的にも成長を続けている。
いつかこの学びを故郷に持ち帰り、もっと多くの生命を救いたい——それが私の変わらぬ目標だ。
少女医師の挑戦は続く。そして新たな試練も、すぐそこまで迫っているのかもしれない。




