第38話 薬理学の試練
二日目の朝。
目覚めると体が軽やかだった。
昨日の緊張が解け、この環境に少しずつ馴染んできたのかもしれない。
窓を開けると爽やかな朝の空気が流れ込む。
薬草園からは様々な植物の香りが漂ってくる——ラベンダー、ローズマリー、タイム。
マルタの薬草園を思い出し、胸が温かくなった。
「今日も頑張ろう」
小さく呟いて身支度を整える。
◇
朝食を終えて教室へ向かった。
今日最初の授業は薬理学——ルーカス先輩が言っていたフリーデリケ先生の授業だ。
教室に入ると、すでに多くの学生が座っていた。
みんな分厚い教科書を開いて予習している。
いつもより緊張した雰囲気だ。
「リーゼ、おはよう」
エリーゼが手を振ってくれた。
「おはようございます」
私はエリーゼの隣に座る。
「今日の薬理学、楽しみ?」
「はい。とても」
正直に答えた。
「薬草はマルタさんから学んだ分野なので」
「それなら得意分野ね」
エリーゼは嬉しそうに言った。
「フリーデリケ先生はとても厳しいけれど、王国で最も優秀な薬理学者よ。きっと新しい発見があるわ」
期待に胸が高鳴る。
その時、教室の扉が開いた。
一人の女性が入ってくる——四十代半ば、長い黒髪を後ろで結び、鋭い眼光。
しかしどこか気品のある美しい女性だった。
学生たちが一斉に静まり返る。
「おはよう」
女性が教壇に立った。
その存在感は圧倒的だった。
「私は、フリーデリケ・フォン・アーレンスベルク。薬理学を担当しています」
フリーデリケ先生——王国一の薬理学者。
その威厳ある佇まいに教室全体が引き締まる。
「薬理学とは、薬物の作用機序、効果、副作用を科学的に解明する学問です」
先生の声は明瞭で力強い。
「医師にとって薬理学は生命線です。正しい薬は患者を救い、間違った薬は患者を殺す。この事実を片時も忘れてはいけません」
教室に緊張が走った。
先生の鋭い視線が教室を巡り、私の目と合った瞬間——
「あなたがリーゼ・フォン・ハイムダル?」
「はい」
立ち上がって答える。
「ヴィルヘルム院長代理から詳しく伺っています」
フリーデリケ先生は私をじっと見つめた。
「疫病封じ込めの際、薬草治療も併用したそうですね。具体的にはどのような処方を?」
試されている——直感的に理解した。
「高熱にはヤナギの樹皮の煎じ薬を」
はっきりと答える。
「咳にはタイムとハチミツの調合薬を」
「下痢にはブラックベリーの根の煎じ薬を」
「脱水症状には塩と砂糖を溶かした経口補水液を用いました」
先生の目に興味の光が宿る。
「それぞれの薬理学的根拠は?」
「ヤナギの樹皮にはサリシンという解熱鎮痛成分が含まれています」
前世の知識を、この世界の言葉で説明する。
「タイムには抗菌・去痰作用のあるチモールが含有されています」
「ブラックベリーの根のタンニンには収斂作用があり、腸管の過剰な蠕動を抑制します」
「経口補水液は電解質バランスを正常化し、脱水状態を改善します」
教室が水を打ったように静まり返った。
学生たちが驚愕の表情で私を見つめている。
フリーデリケ先生は満足そうに頷いた。
「完璧です。成分名まで正確に把握している十二歳など、私も初めて見ました」
先生は教壇に戻る。
「皆さん、今聞いたものが真の薬理学です。単なる暗記ではなく、作用機序の理解。効果だけでなく、なぜ効くのかを知る——それが医師に求められる知識レベルです」
◇
授業が本格的に始まった。
フリーデリケ先生は黒板に精密な薬草の図を描いていく。
その技術は芸術的ですらあった。
「基本薬草から学びましょう。セージ——学名サルビア・オフィキナリス」
先生がセージの詳細図を描く。
葉の形、茎の構造まで完璧だ。
「セージには抗菌、抗炎症、収斂の三大作用があります。口内炎、咽頭痛、消化不良に有効です」
「しかし——」
先生の声が一段と厳しくなる。
「大量摂取は痙攣を誘発する可能性があります。薬は毒にもなる。この原則を忘れないでください」
ノートに書き込みながら、マルタから学んだ内容と照らし合わせる。
基本は一致しているが、より科学的で詳細だ。
「次にカモミール——ジャーマンカモミールとローマンカモミールがありますが、薬用は主にジャーマン種です」
先生がカモミールの花を精密に描く。
「鎮静、抗炎症、鎮痙の作用があります。不眠、不安、胃痛に有効です」
「ただし——」
先生が教室を見渡す。
「キク科アレルギーの患者には禁忌です。重篤な場合、アナフィラキシーショックを起こす可能性があります」
アレルギー——この世界でもアレルギーの概念が確立されているのか。
私は手を挙げた。
「はい、リーゼさん」
「先生、アナフィラキシーについてもう少し詳しく教えていただけますか?」
フリーデリケ先生は少し驚いた表情を見せた。
「優秀な質問ですね」
先生は新しい図を描き始めた。
人体の断面図——血管、気道の構造。
「アナフィラキシーとは、全身性の重篤なアレルギー反応です。血管拡張による血圧低下、気道浮腫による呼吸困難が同時に起こります」
「症状は急速に進行し、処置が遅れれば死に至ります」
先生の説明は前世の医学知識とほぼ完全に一致していた。
この世界の医学水準は想像以上に高い。
「対処法は?」
「即座の血管収縮剤投与と、気道確保です」
先生は真剣な目で教室を見回した。
「薬理学者として、アレルギー歴の確認は絶対的義務です。どんなに有効な薬でも、患者がアレルギーを持てば凶器となります」
その言葉に深く頷く。
前世でも同じことを叩き込まれた——医療の基本原則。
◇
二時間の授業で、十数種類の薬草を学んだ。
それぞれの成分、作用機序、適応症、禁忌——膨大な情報がノートに蓄積されていく。
学ぶことの純粋な喜び——知識が増える充実感、理解が深まる満足感。
この感覚は何物にも代えがたい。
「では、理解度確認のため小テストを実施します」
フリーデリケ先生が突然宣言した。
教室がざわめく。
「え、今日?」「聞いてない……」
学生たちが動揺している。
「安心してください」
先生は冷静に言った。
「今日の授業内容からのみ出題します。集中して聞いていれば答えられるはずです」
先生が問題を読み上げ始める。
「問題一。セージの主要作用を三つ述べなさい」
「問題二。カモミールの絶対禁忌を理由とともに説明しなさい」
「問題三。ヤナギ樹皮の有効成分名と、その薬理作用を述べなさい」
基本問題は順調に解答できる。
マルタから学んだ知識と今日の授業内容の組み合わせだ。
「問題四」
先生の声に緊張が走る。
「十五歳の患者が高熱と咽頭痛を訴えて来院しました。しかし問診で重篤なキク科アレルギーの既往が判明しました。この患者への最適な処方を、薬理学的根拠とともに述べなさい」
教室が静寂に包まれた。
これは応用問題——単純な暗記では解答不可能。
理解と実践的判断力が試されている。
私は冷静に考える。
高熱と咽頭痛——通常ならカモミールやエキナセアを処方する。
しかし患者はキク科アレルギー。
カモミール、エキナセア共にキク科。
使用不可能。
代替薬は何か——
私は解答を書いた。
「高熱に対しては、ヤナギ樹皮煎じ薬を処方します。有効成分サリシンによる解熱鎮痛作用を期待します」
「咽頭痛に対しては、セージ煎じ液での含嗽を指示します。抗菌・抗炎症作用による症状改善を図ります」
「薬理学的根拠:ヤナギはヤナギ科、セージはシソ科に属し、キク科アレルギー患者にも安全に使用可能です」
制限時間が来て、解答用紙が回収される。
◇
十分後——
「問題四を完全解答できた学生は……一名のみです」
フリーデリケ先生が結果を発表した。
教室がざわめく。
「リーゼ・フォン・ハイムダル」
私の名前が呼ばれる。
全員の視線が集中した。
「見事な解答でした」
先生は私の答案を掲げて見せた。
「植物分類学の正確な知識に基づく安全な薬物選択。これこそが臨床薬理学の真髄です」
周囲の学生たちから感嘆の声が上がる。
「やはり実戦経験者は違うな……」
「本物の実力だ」
ルーカス先輩も感心したように頷いている。
エリーゼは嬉しそうに私の肩を叩いた。
「素晴らしいわ、リーゼ!」
照れくさいが、同時に嬉しい。
自分の知識と判断力が正当に評価された実感がある。
「ただし——」
フリーデリケ先生が厳しい表情になった。
「慢心は禁物です。薬理学は奥が深く、常に進歩しています。学び続ける姿勢を忘れないでください」
「はい。肝に銘じます」
深く頭を下げる。
◇
授業終了後、教室を出ようとした時——
「リーゼさん、少しお時間を」
フリーデリケ先生が私を呼び止めた。
「はい」
先生のもとへ向かう。
「あなた、本当に薬理学の素質がありますね」
先生は真剣な眼差しで言った。
「師匠のマルタという方は、相当優秀な薬草師だったのでしょう」
「はい。マルタさんは私の人生を変えてくれた恩師です」
「その基礎があるからこそ、今日のような応用問題も解けるのです」
先生は少し表情を和らげた。
「しかし——」
再び厳格な顔つきになる。
「学ぶべきことはまだ山ほどあります。薬草だけでなく、鉱物系薬剤、動物由来医薬品」
「そして魔法薬理学——魔力による薬効増強理論」
「これら全てを修得して、初めて一人前の薬理学者と言えるのです」
魔法薬理学——この世界独自の分野だ。
興味深い。
「はい。必ず修得します」
「期待していますよ」
先生は優しく微笑んだ。
「次回からは、より高度な内容に進みます。覚悟しておいてくださいね」
◇
昼食時間。
食堂でルーカス先輩とエリーゼと一緒に食事を取った。
「リーゼ、今日も圧巻だったな」
ルーカスが感心したように言う。
「問題四、俺も完全に間違えた。キク科アレルギーのこと、頭から抜けてたよ」
「私もカモミール処方しちゃった」
エリーゼも苦笑いしながら言った。
「アレルギーって、意外に盲点よね」
「皆さんもすぐに理解されたじゃないですか」
謙遜して答える。
「私はたまたま実践で経験があっただけです」
「それが強みなんだって」
ルーカスは真剣な顔で言った。
「教科書だけじゃ、実際の患者は救えない。お前はもう何百人も診てるんだろう? その経験は金では買えない」
その言葉に少し考え込む。
確かに経験は重要だ。
でもそれだけでは不十分——理論と実践、両方が噛み合って初めて真の力になる。
「だからここで学びたいんです」
はっきりと言った。
「経験はあります。でも理論が不足している。ここで両方を融合させて、本当の医師になりたいんです」
「素晴らしい心構えだ」
突然、背後から声がかかった。
振り返ると、ヴィルヘルム院長代理が立っていた。
「ヴィルヘルム先生!」
私たちは慌てて立ち上がり礼をする。
「座ってください」
ヴィルヘルムは穏やかに微笑んだ。
「リーゼ先生、順調に適応されているようですね」
「はい。おかげさまで」
「フリーデリケから報告を受けました」
ヴィルヘルムは隣の椅子に座る。
「あなたの薬理学知識は卓越している。そして実践的判断力も備わっている、と」
「ありがとうございます」
少し照れる。
「ですが、リーゼ先生」
ヴィルヘルムの表情が真剣になった。
「一つ、お願いしたいことがあります」
「はい?」
「明日、診療所で患者を診ていただけませんか?」
その申し出に驚く。
「明日……ですか?」
「ええ。実は困った症例を抱えているのです」
ヴィルヘルムが説明を始めた。
「王都南区の貧困地域で、原因不明の皮膚疾患が集団発生しています。すでに十五名が罹患していますが、既存の治療法では改善が見られません」
私は真剣に聞き入る。
「症状は?」
「激しい痒みを伴う紅斑、丘疹が全身に出現。一部では水疱形成も見られます」
「感染性は?」
「家族内感染が多発していることから、感染性が疑われます。しかし病原体は特定できていません」
複雑な症例だ——しかし、だからこそやりがいがある。
「あなたの実践経験と薬草知識が、突破口となるかもしれません」
ヴィルヘルムの目に期待の光が宿っている。
「お手伝いいただけますか?」
少し考える。
原因不明の皮膚疾患——難しい症例だ。
でも患者が苦しんでいる。
医師として、断る理由はない。
「分かりました」
きっぱりと答える。
「全力で取り組みます」
「ありがとうございます」
ヴィルヘルムは安堵の表情を見せた。
「明日朝一番に、診療所でお待ちしています」
◇
その夜、部屋に戻ってから医学書を読み漁った。
皮膚疾患に関する記述を片端から調べる。
原因不明の皮膚病——可能性は無数にある。
感染症(細菌、真菌、寄生虫)、アレルギー反応、栄養不足、環境要因、自己免疫疾患……
でも必ず原因はある。
病気には必ず原因がある——それを見つけ出すのが医師の使命だ。
ノートに鑑別診断のリストを作成していく。
感染症
・細菌性(ブドウ球菌、連鎖球菌)
・真菌性(白癬菌、カンジダ)
・寄生虫性(疥癬、シラミ)
非感染性
・接触皮膚炎(化学物質、植物)
・アトピー性皮膚炎
・栄養欠乏症(ビタミン、亜鉛)
それぞれの特徴的症状、診断方法、治療法——前世の知識とこの世界の知識を総動員して整理する。
気づけば深夜を過ぎていた。
でもまだ眠気はない。
明日、患者を診る。
その準備に手抜きは許されない。
窓の外で星が輝いている。
同じ星を、故郷でもマルタが見上げているだろう。
「マルタさん、見守っていてください」
小さく呟く。
「明日、あなたから学んだ全てを注ぎ込んで、患者さんを救いたいと思います」
星が優しく瞬いている——まるで励ましてくれているかのように。
ベッドに入り、目を閉じる。
明日に向けて、しっかりと体力を回復させよう。
新しい挑戦が待っている。
困難な症例かもしれない。
でも恐れはない。
私には知識がある、経験がある、そして支えてくれる人たちがいる。
「おやすみなさい」
小さく呟いて、深い眠りについた。
明日は大きな試練の日——少女医師リーゼ・フォン・ハイムダルの真価が問われる。




