第36話 医学院
「では、こちらが講義室です」
ヴィルヘルムが重厚な木の扉を開いた。
広い空間が現れた瞬間、息を呑む。
階段状に配置された座席が円形劇場のように広がり、前方には巨大な黒板。
高い窓からは柔らかな光が差し込み、知の殿堂という言葉がふさわしい荘厳さを醸し出している。
「ここで解剖学、生理学、病理学などの講義を行います」
ヴィルヘルムが説明しながら教壇に立つ。
「座席は約百席。現在、医学院には八十名ほどの学生がいます」
私は驚いた。
それほど多くの学生が——
「一年生が三十名、二年生が二十五名、三年生が二十名、そして四年生が五名」
「四年生が少ないのは……?」
「卒業試験が極めて厳格だからです」
ヴィルヘルムの表情が引き締まる。
「入学は比較的容易です。しかし卒業は困難を極めます。毎年、半数以上が志半ばで去っていく」
その言葉に緊張が走る。
それほど厳しい世界なのか。
「ですが心配は無用」
ヴィルヘルムは優しく微笑んだ。
「あなたには実戦経験があります。疫病を封じ込めた体験は、何年もの座学に勝る価値がある」
少し安心した。
◇
次に案内されたのは図書室だった。
扉を開いた瞬間——圧倒された。
壁一面を覆う本棚が天井まで続き、無数の医学書が整然と並んでいる。
羊皮紙の束、革装丁の分厚い書物、古い巻物——すべてが医学の叡智。
「王国最大の医学書コレクションです」
ヴィルヘルムが誇らしげに言った。
「古代の医学書から最新の研究論文まで、医学の全てがここにあります」
本棚に近づき、背表紙を見る。
『解剖学概論』『薬草学大全』『魔法医療の基礎』『疫病史研究』……
手に取りたくなる本ばかりだ。
「学生は自由に閲覧できます。ただし貴重書は司書の許可が必要」
「ここで、たくさん学びたいです」
正直な気持ちを述べた。
「素晴らしい心構えです。優秀な医師は生涯学び続けるものです」
ヴィルヘルムは満足そうに頷いた。
◇
実習室は、また違った種類の緊張感があった。
広い部屋の中央に白い布で覆われた台が複数並んでいる。
手術台のような、厳粛な雰囲気。
「ここで解剖実習や外科手技の訓練を行います」
ヴィルヘルムが台の一つに近づき、布をめくった。
中には豚の遺体があった。
「実習には主に豚を使用します。人体に最も近い構造ですから、外科技術の習得に適している」
台に近づいて観察する。
確かに人体に似ている。
皮膚の質感、筋肉の層、内臓の配置——前世の医学部を思い出した。
「縫合、切開、止血……」
ヴィルヘルムが手術器具を見せてくれる。
「全ての基本技術をここで修得します」
メス、ピンセット、鉗子、縫合針。
見慣れた器具だが、形は微妙に違う。
この世界独自の発展を遂げている。
「リーゼ先生は既に外科経験をお持ちですね」
「はい……少しですが」
エーリヒの傷の縫合、疫病患者の治療——でも大きな手術はまだ経験がない。
「それなら上級クラスに進むのも時間の問題でしょう」
ヴィルヘルムは自信を持って言った。
◇
実習室を出て廊下を歩いていると、数人の学生とすれ違った。
みんな私を見て驚愕の表情を浮かべる。
当然だろう。
十二歳の少女が医学院にいるなんて。
「あれが噂の……」
「子供じゃないか」
「本当に医師なのか?」
「疫病を治したって本当?」
ひそひそ声が聞こえてくる。
好奇の目、疑いの目、中には明らかに敵意を含んだ視線も。
気にしないようにしたが、やはり緊張する。
ここでは私は異質な存在なのだ。
「気になさらないでください」
ヴィルヘルムが優しく言った。
「最初は誰もが驚きます。しかしあなたの実力を目の当たりにすれば、すぐに認めてくれるでしょう」
「……はい」
◇
次に案内されたのは診療所だった。
医学院の一階、入り口近くにある施設。
「ここで実際の患者を診察します」
ヴィルヘルムが説明した。
広い待合室、複数の診察室が並んでいる。
患者らしき人々が数人座っていた——みな質素な服装で、生活に困窮している様子が見て取れる。
「王都の貧困層が主な患者です」
ヴィルヘルムは静かに言った。
「治療費は無料。学生たちにとっては実習の場、患者たちにとっては命の綱です」
その言葉に胸が熱くなった。
これこそ理想の医療だ。
学びながら人を救う。
金のためではなく、命のために。
「私もここで診療できますか?」
「もちろんです。あなたの経験は他の学生の模範となるでしょう」
診察室の一つを覗いてみる。
中では白衣を着た学生が老人を丁寧に診察していた。
聴診器を当て、真剣な表情で問診している。
ここにいる学生たちも医師を目指している。
同じ志を持った仲間たち——
その時だった。
「失礼します」
診察室から若い男性が出てきた。
白衣を着た学生——だが、私と目が合った瞬間、その表情が変わった。
「君が例の……」
男性は私を上から下まで見回した。
その視線に、明らかな軽蔑が含まれている。
「十二歳の『天才』医師というわけか」
声に皮肉が込められている。
「こちらはアルベルト・フォン・ケーニッヒ」
ヴィルヘルムが紹介してくれた。
「四年生で、学院でも屈指の優秀な学生です」
「はじめまして」
礼儀正しく挨拶したが、アルベルトは冷たい目で見つめるだけだった。
「疫病を治したというのは本当かね?」
「はい」
「ほう。どのような治療法を?」
突然の質問——でも、これは試されているのだ。
「隔離による感染拡大の防止、症状に応じた対症療法、そして——」
「対症療法?」
アルベルトが嘲笑うように言った。
「それは治療ではない。症状を抑えているだけだ。根本的な治癒法があったのか?」
「……いえ、しかし——」
「やはり、子供の浅知恵というわけか」
アルベルトは冷笑を浮かべた。
「疫病が収束したのは、たまたま季節が変わったからだろう。君の手柄ではない」
その言葉に、怒りが込み上げてきた。
あの時の必死の努力、患者たちの苦痛、村人たちの不安——すべてを否定された気分だった。
「アルベルト」
ヴィルヘルムが制止しようとしたが、アルベルトは続けた。
「医学院は遊び場ではない。子供の慰みものでもない。本気でない者は去ってもらいたい」
「私は本気です」
きっぱりと言った。
「医師として、人々を救いたい。その気持ちに嘘はありません」
「気持ちだけでは人は救えない」
アルベルトは冷たく言い放った。
「知識と技術、そして経験が必要だ。君にはそのどれも不足している」
沈黙が流れた。
重苦しい空気の中で、私たちは見つめ合った。
これが——王都の現実なのか。
故郷では疫病を封じ込めた英雄だった私が、ここでは疑われ、軽蔑される存在。
でも負けない。
絶対に負けない。
「ならば」
私は静かに言った。
「実力で証明します」
アルベルトの眉がぴくりと動いた。
「明日から始まる授業で、私の本当の力をお見せします」
「ほう」
アルベルトは興味深そうに言った。
「面白い。期待しているよ、『天才』医師殿」
皮肉たっぷりにそう言って、アルベルトは立ち去った。
◇
ヴィルヘルムが申し訳なさそうに言った。
「すみません。アルベルトは優秀ですが、少し……高慢なところがあります」
「大丈夫です」
私は首を振った。
「むしろ、現実が分かって良かったです」
そう——これが現実なのだ。
故郷では認められていた私も、ここでは一から証明しなければならない。
でも、それでいい。
挑戦があるからこそ、成長できる。
「では、最後に学生寮をご案内しましょう」
ヴィルヘルムが気を取り直したように言った。
学生寮は医学院の敷地内にある三階建ての清潔な建物だった。
「こちらがあなたの部屋です」
205号室——シンプルだが快適そうな個室。
ベッド、机、椅子、本棚、小さな窓。
窓からは医学院の薬草園が見える。
マルタの薬草園を思い出し、胸が温かくなった。
「明日から正式に授業が始まります」
ヴィルヘルムが言った。
「最初の試練は解剖学の講義。アルベルトも同席します」
試練——確かにそうだろう。
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。
ヴィルヘルムが去った後、一人になって窓の外を見つめる。
薬草園では夕日が植物たちを優しく照らしている。
アルベルトの言葉が脳裏に蘇る。
『子供の浅知恵』『本気でない者は去ってもらいたい』
悔しい——でも、それが現実なのだ。
ここでは私はまだ何者でもない。
疫病を封じ込めた実績も、ここでは単なる『まぐれ』と思われている。
でも——
「必ず証明してみせる」
小さく呟いた。
「私の医術を、私の志を」
明日から始まる新しい戦いに向けて、決意を新たにした。
◇
夕方、エーリヒが寮を訪ねてきた。
「リーゼ、どうだった?」
兄は心配そうに聞いてきた。
「……少し、大変でした」
アルベルトとの出来事を話すと、エーリヒの表情が険しくなった。
「そいつ、生意気な奴だな」
「でも仕方ありません。私が証明するしかない」
「そうだな」
エーリヒは私の頭を撫でた。
「お前なら大丈夫だ」
近くの食堂で夕食を取りながら、お互いの一日を報告した。
エーリヒも騎士団で厳しい現実に直面したようだが、負けん気の強い兄は逆に燃えているようだった。
「お互い、頑張ろうな」
「はい」
寮に戻り、一人になって明日への準備を始めた。
医学の基礎知識を復習し、前世の記憶を整理する。
アルベルトのような優秀な学生たちと対等に戦うためには、すべての知識を総動員する必要がある。
夜が更けていく。
明日から始まる本当の挑戦——
私は決して負けない。
リーゼ・フォン・ハイムダルとして、医師として、必ず認めてもらう。




