第35話 王都到着
出発から三日目の朝。
馬車は緩やかな丘を登っていた。
「リーゼ」
エーリヒの声が震えている。
「見ろ」
窓から身を乗り出した瞬間——息が止まった。
丘の向こうに、巨大な街が広がっていた。
王都。
高い城壁に囲まれた壮大な都市。
無数の建物が密集し、煙突から立ち上る煙が朝靄と混じり合っている。
中央には荘厳な王宮がそびえ立ち、その威容は見る者を圧倒した。
「すごい……」
前世の東京も大都市だったが、これは全く違う。
石造りの建物、尖塔、城壁——まるで歴史絵巻から飛び出してきたような光景。
「人口十万を超える、王国最大の都市だ」
エーリヒが誇らしげに言った。
「父上から聞いた話では、城壁の長さは五キロメートル以上。一周するのに馬でも一時間はかかる」
五キロ。
想像もつかない規模だった。
馬車はさらに丘を下り、王都へと近づいていく。
近づくにつれて、その圧倒的な存在感がより鮮明になる。
高い城壁、堅牢な門、そして——
「あれが南門だ」
エーリヒが指差した先には、巨大な門があった。
鉄で補強された厚い木製の扉。
その上には王国の紋章——双頭の鷲が翼を広げた金色の紋章が威厳を放っている。
門の前には長い列ができていた。
立派な馬車から粗末な荷車まで、様々な人々が入城を待っている。
「少し待つことになりそうだな」
エーリヒが馬車を列の最後尾に並べた。
◇
三十分ほど待って、ようやく私たちの番が来た。
「止まれ」
衛兵が手を上げた。
鎧を身に着け、槍を持った屈強な男性。
顔には傷跡があり、歴戦の兵士であることが分かる。
エーリヒが馬車を止める。
「入城の目的は?」
衛兵が警戒した目で尋ねてきた。
その視線は鋭く、嘘を見抜くような厳しさがある。
「王立医学院への入学と、近衛騎士団への入団です」
エーリヒが推薦状を取り出した。
「ハイムダル子爵家からの推薦状があります」
衛兵は推薦状を受け取り、慎重に確認し始めた。
封蝋、署名、内容——全てを入念にチェックしている。
その間、緊張した沈黙が流れた。
「……ハイムダル家か」
衛兵の表情が少し和らいだ。
「疫病を封じ込めた領地だな。評判は聞いている」
私の胸が高鳴る。
王都にまで、あの時の出来事が伝わっているのか。
「問題ない」
衛兵は推薦状を返した。
「医学院は北区、学者街にある。騎士団本部は王宮の西側。初めてなら迷うぞ」
衛兵は簡単な地図を渡してくれた。
「王都は広い。気をつけろ」
「ありがとうございます」
門が、重厚な音を立ててゆっくりと開いていく。
そして——王都の中へ。
馬車が門をくぐった瞬間、私の人生が変わった。
◇
音と匂いと光景が、一気に押し寄せてきた。
圧倒的な喧騒。
無数の人々の声、馬の嘶き、商人の呼び声、車輪の軋む音、子供の笑い声——全てが混じり合って巨大な音の波となっている。
匂いも強烈だった。
焼きたてのパン、馬の匂い、香辛料、汗、煙——人間の生活の匂いが渦巻いている。
そして光景——
石畳の広い道に、人が溢れている。
こんなに多くの人を一度に見たことがない。
絹の服をまとった貴族が、泥だらけの農民の横を素知らぬ顔で通り過ぎる。
商人が大声で商品を売り込み、子供たちが路地を駆け回る。
階級社会の現実が、ここにはむき出しで存在していた。
建物も圧巻だった。
石造りの豪邸、木造の商店、煉瓦造りの工房。
二階建て、三階建て、四階建て——高層建築が立ち並んでいる。
看板も色とりどりで賑やかだ。
「鍛冶屋」「パン屋」「仕立て屋」「薬屋」「酒場」——文字が読めない人のために、絵で描かれた看板も多い。
「馬車、邪魔だ!」
後ろから怒鳴り声が聞こえた。
「すまない!」
エーリヒが慌てて馬車を脇に寄せる。
王都の道は想像以上に混雑していた。
この人の波に飲み込まれそうになる。
馬車はゆっくりと北区へ向かう。
途中、巨大な広場を通り過ぎた。
中央広場——噴水を囲んで露店が並んでいる。
野菜、果物、魚、肉、布、道具——ありとあらゆる商品が売られている。
「新鮮な魚だよ!今朝港で揚がったばかり!」
「りんご、甘いりんご!王都一の味だよ!」
「上質な布地はいかが!貴族も愛用!」
商人たちの声が響き渡っている。
活気がある。
この街は生きている——人々の生活が、欲望が、夢が、ここにある。
◇
北区に入ると、雰囲気が一変した。
中央広場の喧騒とは対照的に、静かで落ち着いた地区。
建物も学術機関らしく品格がある。
石造りの立派な建物が立ち並び、行き交う人々も学者風の服装をしている。
そして一際目立つ建物があった。
白い大理石造りの壮大な建物。
三階建てで、広い敷地に囲まれている。
正面には巨大な看板が掲げられていた。
「王立医学院」
心臓が早鐘を打つ。
これが——私が学ぶ場所。
正門には王国の紋章と医療のシンボル——蛇の巻きついた杖が刻まれている。
門自体も芸術品のように美しく、威厳に満ちていた。
「立派だな」
エーリヒも感嘆の声を上げた。
「ここで、お前は学ぶんだな」
「……はい」
声が震えた。
本当に、私はここでやっていけるのだろうか。
この立派な建物の中で、他の学生たちと一緒に。
不安が胸を締め付ける。
「大丈夫だ、リーゼ」
エーリヒが私の肩を叩いた。
「疫病を封じ込めたお前なら必ずできる。五百人以上の患者を診た実績がある。誰も文句は言えない」
兄の言葉に、少し勇気が湧いてきた。
「……はい」
馬車を降りて、医学院の門の前に立つ。
鉄製の重厚な門。
近くで見ると、その大きさに圧倒される。
門の脇には守衛が立っていた。
品のある初老の男性で、穏やかそうな顔をしている。
「何か御用でしょうか?」
守衛が丁寧に尋ねてきた。
「入学の手続きに参りました」
招待状を取り出した。
「ヴィルヘルム先生からの招待状です」
守衛は招待状を確認した。
その表情が驚きに変わる。
「リーゼ・フォン・ハイムダル様……あの疫病を」
「はい」
「これは……お待ちしておりました!」
守衛は慌てて門を開けてくれた。
「院長室へ、すぐにご案内いたします」
◇
医学院の敷地に足を踏み入れた。
広い中庭には美しく整備された庭園があり、中央には薬草園が設けられている。
ラベンダー、カモミール、セージ、ローズマリー——様々な薬草が整然と植えられている。
マルタの薬草園を思い出し、胸が温かくなった。
建物の中に入ると、廊下は驚くほど広く清潔だった。
白い大理石の床、漆喰の白い壁、高い天井。
窓からは柔らかい光が差し込んでいる。
廊下には学生らしき人々が歩いている。
白衣を着た若者たち——でも、みんな私より年上に見える。
その中を守衛に案内されて歩く。
廊下がざわめいた。
「あの子、何歳?」
「十二歳の医学生なんて聞いたことない」
「本当に疫病を封じ込めたの?」
ひそひそ話が聞こえてくる。
視線が突き刺さる。
好奇の目、疑いの目、中には敵意を含んだ目も。
居心地が悪い。
でも、気にしない。
私は実力で認めてもらう。
三階に上がり、廊下の突き当たりの部屋へ。
扉には「院長室」と書かれた金色のプレートがある。
「こちらです」
守衛が扉をノックした。
「どうぞ」
聞き慣れた声——ヴィルヘルムだ。
扉が開き、私たちは中へ入った。
広い部屋。
巨大な机。
壁一面の本棚には無数の医学書が並んでいる。
そして窓際に立っている人物——
「遂に来たか」
ヴィルヘルムが振り返った。
その目に期待と不安が混じっている。
「君が王都の医療界に与える衝撃を、私は楽しみにしている」
「お久しぶりです、ヴィルヘルム先生」
深く頭を下げた。
「旅は無事でしたか?」
「はい。お兄様のおかげで、問題なく到着できました」
エーリヒも礼をした。
「エーリヒ・フォン・ハイムダル、近衛騎士団への入団を希望しております」
「ああ、お父上から詳しい手紙をいただいています」
ヴィルヘルムは頷きながら、机から封筒を取り出してエーリヒに渡した。
「騎士団本部への推薦状です。これを持参してください」
「ありがとうございます」
エーリヒは封筒を受け取った。
「では、リーゼ先生」
ヴィルヘルムが私に向き直る。
「これから医学院の案内をしましょう。エーリヒ殿は騎士団本部へ」
私とエーリヒは顔を見合わせた。
いよいよ、お別れだ。
「リーゼ、頑張れよ」
エーリヒが私の頭を撫でた。
「夜には宿で会おう」
「はい。お兄様も、頑張ってください」
エーリヒは部屋を出て行った。
一人残された——いや、一人じゃない。
ヴィルヘルムがいる。
そして、これから出会う仲間たちがいる。
「緊張していますか?」
ヴィルヘルムが優しく聞いてきた。
「……少し」
正直に答えた。
「それは自然なことです」
ヴィルヘルムは微笑んだ。
「でも心配は無用。あなたの実力は私が保証します。疫病を封じ込めた実績は、誰もが認めざるを得ないものです」
その言葉に少し安心した。
「では、案内を始めましょう」
ヴィルヘルムは部屋を出た。
私も後に続く。
新しい世界が目の前に広がっている。
王立医学院——ここで私は何を学ぶのだろう。
誰と出会うのだろう。
どんな医師になれるのだろう。
全てが未知数。
でも怖くはない。
期待の方が大きい。
廊下を歩きながら、心に誓った。
「必ず、立派な医師になる。この国の医療を、変えてみせる」
そして新しい一歩を踏み出した。
リーゼ・フォン・ハイムダルの、王都での新しい物語が今、始まる——




