第34話 王都への道
故郷が地平線に消えてから、もう半日が過ぎていた。
馬車の窓から見える景色は、全て初めて目にするものばかり。
広がる草原の向こうに連なる山々、点在する小さな村落——どれも私の知らない世界だった。
医療記録を整理しながら、ふと手が止まる。
この一年半で診た患者たち。
五百人を超える記録。
一人一人の顔が、鮮明に思い浮かぶ。
「相変わらずだな」
御者台からエーリヒの声が聞こえた。
苦笑が混じっている。
「子供の頃から、いつも何かに夢中になって周りが見えなくなる」
「景色も見てますよ」
窓の外を見上げた。
青い空に白い雲。
緑の大地が風に揺れている。
「この世界は、本当に美しいですね」
小さく呟く。
前世の東京では、こんな自然を見る機会は少なかった。
病院の白い壁、蛍光灯の光、消毒液の匂い——それが私の世界のすべてだった。
でも今は違う。
広い空の下、自由に生きている。
◇
昼過ぎ、馬車は賑やかな宿場町に到着した。
「ここで昼食を取ろう」
エーリヒが馬車を止める。
降りると、足が少し痺れていた。
長時間座っていたからだ。
「大丈夫か?」
エーリヒが手を差し伸べてくれる。
「はい。ありがとうございます」
兄の手を取って馬車から降りる。
宿場町は活気に満ちていた。
行商人、旅人、地元の人々——様々な人が行き交っている。
声、笑い声、荷車の音。
生きた街の響き。
「あそこの食堂にしよう」
エーリヒが一軒の店を指差した。
「旅人の休憩所」という手書きの看板が風に揺れている。
店内に入ると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
焼きたてのパン、煮込まれたスープ、炒められた野菜——すべてが食欲をそそる。
「いらっしゃい!」
店主らしき中年女性が、エプロンを手で拭きながら笑顔で迎えてくれた。
「二人かい? こっちの席にどうぞ」
案内された窓際の席に座る。
外では街道を行き交う人々が見えた。
「今日のおすすめは、野菜のシチューとライ麦パンよ。それと——」
店主がメニューを説明し始めた時、隣のテーブルから興味深い会話が聞こえてきた。
「今年の医学院は特別らしいぞ」
行商人らしき男性が声を潜めている。
「王女殿下が直々に関わってるって話だ」
私の手が、無意識に止まった。
王女が?
「へえ、そうなのか」
「ああ。優秀な者には王家が直接支援するらしい。地方からも積極的に人材を集めてる」
「それは良い制度だな」
王女殿下の関与。
王家の支援。
私が向かう医学院は、想像以上に重要な場所なのかもしれない。
「リーゼ」
エーリヒが小声で呼んだ。
「聞いてたか?」
「はい」
「医学院は、かなり本格的な場所らしいな」
頷きながら、少し緊張が走る。
実力主義。
それは良いことだ。
でも同時に、甘い世界ではないということでもある。
「心配するな」
エーリヒが私の不安を見抜いたように言った。
「疫病を封じ込めたお前なら大丈夫だ。五百人以上の患者を診た実績がある。誰も文句は言えない」
兄の言葉に、少し気持ちが落ち着いた。
「ありがとうございます、お兄様」
「俺だって同じさ」
エーリヒは窓の外を見つめた。
「近衛騎士団か……地方の騎士団とは次元が違うんだろうな」
「でもお兄様なら大丈夫です」
兄を見つめる。
「お兄様は強くて、優しくて、正義感があります。きっと立派な騎士になれます」
エーリヒは少し照れたように笑った。
「ありがとう、リーゼ。お互い、実力で這い上がろう。それが、ハイムダル家の誇りだ」
「はい!」
◇
昼食を終えて再び馬車に乗り込んだ。
午後の陽光が心地よく頬を撫でていく。
しばらく進んだところで、前方に人だかりができているのが見えた。
「何だ?」
エーリヒが馬車を減速させる。
近づいてみると、荷車が横転していた。
年配の男性が一人、困った顔で立ち尽くしている。
「大丈夫ですか?」
エーリヒが声をかけながら馬車を止めた。
「ああ、すまない……一人じゃ重くて」
男性は荷車を起こそうとしているが、明らかに無理な様子だった。
「手伝いますよ」
エーリヒは躊躇なく馬車から降りた。
私も様子を見ようと外に出る。
「助かる……」
男性は安堵の表情を浮かべた。
エーリヒと男性が力を合わせて荷車を起こす。
重そうだったが、何とか元に戻った。
「ありがとう、若いの」
男性は深く頭を下げた。
「いえ、当然のことです」
エーリヒはさらりと答えたが、その時私は男性の腕に傷があることに気づいた。
「あの……怪我をされていますよ」
「ああ、これか」
男性は自分の腕を見て軽く笑った。
「荷車が倒れた時に擦りむいただけだ。大したことないよ」
でも、その傷は思ったより深い。
放置すれば化膿する可能性がある。
「手当てさせてください」
馬車から医療道具を持ってきた。
「え、お嬢ちゃん、医者なのかい?」
「はい。見せてください」
男性の腕を診察する。
やはり擦り傷だが、土や小石が入り込んでいる。
「少し痛むかもしれませんが、我慢してください」
清潔な水で傷口を洗い、アルコール度数を調整した消毒液を塗る。
この世界では珍しい、蒸留技術の産物。
傷口の化膿を防ぐ確実な方法として、私が独自に開発したものだった。
「うっ……」
男性が少し顔をしかめる。
「すみません。でも、これで感染を防げます」
丁寧に包帯を巻く。
適度な圧迫で、血流を妨げない程度に。
「……完了です」
「ありがとう、お嬢ちゃん」
男性は感謝に満ちた目で私を見た。
「こんなに丁寧に手当てしてもらったのは、生まれて初めてだ」
「当然のことです」
道具を片付けながら答える。
「あの、お代は……」
男性が財布を取り出そうとした。
「いりません」
きっぱりと断る。
「困っている人を助けるのは、医師の義務ですから」
男性は驚いたような顔をした。
それから、深く深く頭を下げた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
声が震えている。
「あなたのような医者が増えれば、この国はもっと良くなる。きっと、もっと」
その言葉に、胸が温かくなった。
◇
再び馬車に乗り込み出発する。
男性が手を振って見送ってくれた。
私も窓から手を振り返す。
「リーゼ」
エーリヒが言った。
「お前を見てると、俺も頑張らなきゃって思う」
「え?」
「あの男性、本当に嬉しそうだった。お前の優しさが、ちゃんと伝わったんだ」
エーリヒの言葉に少し照れる。
「当たり前のことをしただけです」
「それが当たり前じゃないんだよ」
兄は真剣な顔になった。
「多くの医者は金を優先する。貧しい人は治療を受けられない。でも、お前は違う。困っている人を無償で助ける。それが本当の医者だ」
兄の言葉に、前世のことを思い出す。
アメリカでは保険がないと治療を受けられない人が多かった。
日本でも医療費の問題はあった。
でも私は——
「医師は、人を救うのが仕事です」
はっきりと言う。
「お金のためじゃない。命のために。それが私の信念です」
エーリヒは満足そうに頷いた。
「ああ。その信念を忘れるな。王都でも、絶対に」
街道の向こうから、かすかに鐘の音が聞こえてきた。
規則正しく、荘厳に響く音色。
「王都の鐘だ」
御者が振り返る。
「明日の昼には着きますよ」
胸の奥で、何かが大きく脈打った。
いよいよ、だ。
◇
夕方、馬車は街道沿いの立派な宿屋に到着した。
「今日はここで泊まろう」
「旅人の宿 星空亭」——手の込んだ看板が夕日に照らされて美しく輝いている。
宿の主人に案内され、清潔で快適な部屋に落ち着いた。
「リーゼ、夕食まで少し休め」
「はい」
ベッドに座ると、体の疲れを実感する。
馬車での長旅は思ったより疲れるものだ。
でも悪い疲れではない。
新しい冒険への、心地よい疲れだった。
◇
夕食は宿の食堂で取った。
他の旅人たちの話し声が心地よく響いている。
「今日の特別料理は、鶏肉のローストです」
給仕の女性が料理を運んできた。
湯気と共に香ばしい匂いが広がる。
「いただきます」
一口食べると、肉は柔らかくジューシーで、ハーブの香りが口いっぱいに広がった。
「美味しいですね」
「ああ。この宿は料理が評判らしい」
エーリヒも満足そうに食べている。
食事をしていると、やはり隣のテーブルから会話が聞こえてきた。
「明日、王都に着くんだ」
「そうか。俺も明後日の予定だ」
「王都って、どのくらい大きいんだろうな」
「人口は十万を超えるらしいぞ」
「十万……想像もつかないな」
十万人。
私の領地は数千人程度。
その何十倍もの人々が暮らす街。
どんな場所なのだろう。
「リーゼ、緊張してるのか?」
エーリヒが聞いてきた。
「……少し」
正直に答える。
「でも楽しみでもあります。どんな街なのか、どんな人がいるのか。全てが未知で」
「そうだな」
エーリヒも窓の外を見つめた。
「俺も緊張してる。でも——」
兄が振り返る。
「王都では、俺はただの一兵卒だ。お前を特別扱いしてもらえるとは思うな」
「でも——」
「いや、それでいい」
兄の目に強い決意が宿る。
「お前も俺も、実力で這い上がる。それが、ハイムダル家の誇りだ」
その言葉に、私も決意を新たにする。
「はい。お互い、頑張りましょう」
◇
食事を終えて部屋に戻る。
窓を開けると、涼しい夜風が頬を撫でていく。
空を見上げると——満天の星。
息を呑むほど美しい。
前世の東京では、光害でこんなにたくさんの星は見えなかった。
でもここでは違う。
無数の星が瞬いている。
「お母様、お父様、マルタさん……」
星に向かって小さく手を合わせる。
「みんな、見守っていてください」
前世では神を信じなかった私が、この世界では自然と祈りを捧げている。
変わったのは世界か、それとも私自身か。
星が優しく瞬いているように見えた——まるで答えてくれているかのように。
ベッドに入り、目を閉じる。
明日は王都にさらに近づく。
そして明後日には——新しい人生が本格的に始まる。
期待と不安が入り混じっている。
でも後悔はない。
この道を選んだのは自分だ。
だから、前を向いて進むだけ。
「おやすみなさい」
小さく呟いて、深い眠りについた。
夢の中で、王都の鐘の音が響いていた。




