第33話 旅立ちの日
王都へ行くことを決めてから、一週間が過ぎた。
出発の日が、刻一刻と近づいている。
その日の午後、エーリヒが訓練から戻ってきた。汗をかき、少し息を切らせている。
「リーゼ、話がある」
兄は、いつになく真剣な顔をしていた。
「何ですか、お兄様?」
私は、手にしていた医療記録を置いた。
「俺も、王都に行く」
その言葉に私は驚いた。
「え……?」
「お前を一人で王都に行かせるわけにはいかない」とエーリヒは力強い声で続けた。「十二歳の少女が一人で王都で暮らすなんて心配だ。俺は兄として、お前を守る。それが、俺の役目だ」
兄の言葉に、私は胸が熱くなった。
「でも、お兄様は騎士団の訓練が……」
「王都にも騎士団はある」
エーリヒはすでに決めているようだった。
「実は父上にも相談した。王都の近衛騎士団で修行を積むのも悪くないとのことだ。むしろ、いい機会だと」
そう言って、兄は私の肩に手を置いた。
「リーゼ、お前は妹だが、同時に尊敬する医師でもある。お前が多くの人を救うために王都に行くなら、俺はその道を守る騎士になる」
兄の目は真剣だった。
「お兄様……」私は涙が溢れそうになった。「ありがとうございます」
「礼を言うな」とエーリヒは照れくさそうに私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。「兄妹なんだから、当たり前だろう」
◇
その夜、家族で夕食を囲んだ。
テーブルには、母の作った料理が並んでいる。温かい匂いが、部屋を満たしている。
「リーゼ、エーリヒ」
父が、グラスを持ち上げた。
「お前たちの新しい門出に、乾杯」
私たちも、グラスを持ち上げる。
「乾杯」
グラスが触れ合う音。
それは、別れの音でもあり、新しい始まりの音でもあった。
「母上は、寂しくなるわ」
母が、少し涙ぐんでいた。
「二人とも王都に行ってしまうなんて」
「でも……」
母は、笑顔を作った。
「あなたたちの成長を見られるのは、親として嬉しいことよ。王都でたくさんのことを学んで、たくさんの経験をして、そして立派に成長してちょうだい」
母の言葉に、私とエーリヒは深く頷いた。
「はい」
父も優しく微笑んだ。
「時々は手紙を書くように。様子を知らせてくれ」
「もちろんです」と私は答えた。「必ず、定期的に手紙を書きます」
その夜の食事は、いつもより長かった。
家族四人で、たくさん話した。
昔の思い出。これからのこと。笑い話。真面目な話。
全てが、大切な時間だった。
◇
次の日、私はマルタのところへ行った。
診療所の奥の小部屋。いつもの場所で、二人だけで向き合う。
夏の陽光が窓から差し込み、薬草の香りが部屋に満ちている。
「マルタさん……実は、王都から正式な招待状が届きまして」
私は、手紙を見せながら全てを話した。
ヴィルヘルムの提案。父の言葉。エーリヒの決意。そして、私自身の決断。
マルタは、静かに聞いていた。
そして、優しく微笑んだ。
「やっと、決心がついたのですね」
「……はい」
「リーゼ様、あなたがここ一ヶ月、ずっと悩んでいたことは知っていました」
マルタは、私の手を握った。
温かい手。三十年以上の経験が刻まれた、薬草師の手。
「行きなさい」
マルタの声は、穏やかだった。
「王都で、もっと多くのことを学んできてください」
「でも、マルタさん一人では……」
「大丈夫です」
マルタは懐から手紙を取り出した。
「実は隣町のハインリヒ先生が協力してくれることになったんです。週に一度、こちらに来て診療を手伝ってくれるそうです」
その手紙を見て、私は安堵した。ハインリヒ先生——あの厳しくも誠実な医師が。
「それなら……安心です」
「ええ。だから心配せずに王都へ行ってください」
マルタの目にも、涙が光っていた。
「リーゼ様」
「はい」
「あなたは、私にとって単なる弟子ではありません」
マルタの声が、少し震えている。
「娘のような……いえ、かけがえのない友人です」
その言葉に、胸が熱くなった。
「この一年半、あなたと過ごした時間は」
「私の長い人生の中で、最も輝いた時間でした」
「マルタさん……」
「だからこそ、あなには羽ばたいてほしい」
マルタは、立ち上がった。
「この小さな診療所ではなく、もっと大きな世界で」
「あなたの知識と技術は、もっと多くの人を救えるはずです」
「それを、ここだけに留めておくのは、もったいない」
マルタは、棚から古い巻物を取り出した。
「これを、持っていってください」
黄ばんだ羊皮紙。古い薬草の知識が、丁寧な文字で記されている。
「これは……」
「私の師匠から受け継いだものです」
マルタは、大切そうに巻物を撫でた。
「三世代にわたって受け継がれてきた、薬草の知識」
「そして今、あなたに託します」
「四世代目の継承者として」
私は、巻物を受け取った。
重い。知識の重み。信頼の重み。歴史の重み。
「必ず……必ず、大切にします」
私の声も、震えていた。
「そして、いつか……いつか戻ってきた時、もっと多くの知識を加えて、次の世代に受け継ぎます」
「ええ。それを楽しみにしています」
マルタは私を抱きしめてくれた。温かい抱擁——母のような、師匠のような、友人のような。
私たちはしばらくそうしていた。二人とも泣いていた。別れの涙ではなく、新しい出発への涙だった。
◇
数日後、村で送別会が開かれた。
診療所の前の広場に、多くの村人たちが集まっていた。
夕暮れの光が、皆を優しく照らしている。
テーブルには、村人たちが持ち寄った料理が並んでいる。パン、チーズ、果物、肉料理。
「リーゼ様!」
老人が、杖をつきながら近づいてきた。
「あの時足の怪我を治していただいて……今ではこうして歩けるようになりました」
老人は涙を流していた。
「本当に、ありがとうございました」
「いいえ。元気になって、本当に良かったです」と私は老人の手を握った。
「リーゼ様、寂しくなります」と若い母親が子供を抱いて言った。「この子もリーゼ様に助けていただきました。高熱で苦しんでいた時……」
母親の目も潤んでいる。
「でも王都で頑張ってください。もっと多くの人を、助けてあげてください」
「はい……必ず」
一人、また一人と、村人たちが挨拶に来てくれた。
みんな、感謝の言葉を述べてくれる。
私が治療した人たち。その家族たち。
一年半で、こんなにも多くの人と繋がっていたのだと、改めて実感した。
「皆さん!」
私は、村人たちの前に立った。
夕日が、私の背中を照らしている。
「本当に、ありがとうございました」
私は、深く頭を下げた。
「この一年半、皆さんに支えられて、医師として成長することができました。一人一人との出会いが、私を強くしてくれました」
顔を上げる。村人たちの顔が見える。みんな優しい目で私を見ている。
「私は王都に行きます」と私ははっきりと言った。「もっと学び、もっと成長するために。そしていつか必ず戻ってきます。その時はもっと立派な医師になって、皆さんだけでなく、この国の全ての人を救えるような医療を実現します」
その言葉に、村人たちは拍手と歓声で応えてくれた。
温かい拍手——それは別れを惜しむ拍手であり、新しい門出を祝う拍手でもあった。
夕日がゆっくりと沈んでいく。オレンジ色の光が村全体を包んでいる。美しい。
この景色を、この村の人々を、絶対に忘れない。そしていつか必ず戻ってくる。その時は、もっと多くの人を救える医師になって。
◇
出発の朝。
空は晴れ渡り、清々しい風が吹いていた。
屋敷の前に、立派な馬車が用意されていた。
ヴィルヘルムが手配してくれたものだ。黒塗りの美しい馬車で、四頭の馬が準備万端で待っている。
荷物はすでに積まれていた——私の医療記録、一年半分の貴重な記録。マルタから受け継いだ巻物。衣類や私物。そしてエーリヒの武具。
「準備はできたか?」
父が、屋敷の玄関から出てきた。
「はい」
私とエーリヒは、並んで答えた。
母も、一緒に出てきた。目が少し赤い。泣いていたのだろう。
「リーゼ、エーリヒ」
母が、私たちの前に立った。
「体を大切にしてね」
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝て」
「無理をしすぎないように」
「はい、お母様」
私は、母を抱きしめた。
母の温もり。いつも私を包んでくれた、優しい温もり。
「お母様……ありがとうございました」
「いいのよ。母親なんだから」
母も、私をぎゅっと抱きしめ返してくれた。
エーリヒも、母を抱きしめた。
「母上、必ず立派になって帰ってきます」
「ええ、信じているわ」
父も、私たちの前に立った。
「リーゼ、エーリヒ」
父の声は、いつもより厳かだった。
「お前たちは、ハイムダル家の誇りだ」
「王都でも、その誇りを忘れるな」
「はい!」
私たちは、声を揃えて答えた。
父は、私の肩に手を置いた。
「リーゼ、お前の才能を信じている」
「多くの人を救い、多くの人に希望を与えてくれ」
「はい……必ず」
次にエーリヒの肩に手を置いた。
「エーリヒ、妹を頼む。しかしお前自身の成長も忘れるな。王都で、立派な騎士になれ」
「任せてください、父上」
父は少し目を潤ませていたが、すぐに表情を引き締めた。
「では、行け」
「はい」
私たちは馬車に乗り込んだ。窓から父と母を見る。二人は手を振ってくれている。
「お父様、お母様! 行ってきます!」
私は大きく手を振った。
「いってらっしゃい!」「気をつけて!」
母と父の声が聞こえた。
馬車が動き出した。ゆっくりと屋敷から離れていく。父と母の姿が小さくなっていく。でも二人は最後まで手を振り続けてくれた。私も見えなくなるまで手を振り続けた。
◇
馬車は村を通り過ぎていく。診療所の前を通った。マルタがそこに立っていた。
馬車を止めてもらう。
「マルタさん!」
窓から顔を出して叫ぶ。
「リーゼ様! お元気で!」
マルタも手を振ってくれている。
「必ず、戻ってきます!」
「待っていますよ!」
マルタの笑顔——最後まで、優しい笑顔だった。
馬車はまた動き出した。村を出る。見慣れた風景が後ろへ流れていく。畑、森、小川。全てが私の大切な思い出の場所。
「……さよなら」
小さく呟いた。でもこれは本当の別れじゃない。また戻ってくる。必ず。
馬車の中で、エーリヒが言った。
「リーゼ、泣くな」
「……泣いてません」
「嘘だ。目が赤いぞ」
エーリヒは私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「でも、まあ……俺も少し寂しいけどな」
「お兄様も……?」
「ああ。生まれ育った場所を離れるんだ。寂しくないわけがない」
エーリヒも窓の外を見ていた。
「でもこれは新しい始まりだ。お前も俺も、もっと成長するための第一歩」
「……はい」
私は涙を拭いた。そして前を向いた。
馬車は王都へ向かう街道を進んでいる。空は青く、雲は白く、風は爽やかだった。
新しい人生が始まろうとしている。十二歳の少女医師の、新しい冒険が。
不安もある。でもそれ以上に期待がある。王都で何を学べるのか。どんな人と出会えるのか。どんな医師になれるのか。全てが未知の世界。
でも怖くはない。なぜなら私には家族がいる。支えてくれる人たちがいる。
そして、前世の経験と知識がある。
「今度こそ、正しい道を歩む」
心の中で誓った。
「仕事と人生のバランスを取りながら」
「誰も犠牲にせず」
「多くの人を救う医師になる」
それが、私の目標。
リーゼ・フォン・ハイムダルの、新しい人生の目標。
馬車は、街道を進み続ける。
王都まで、三日の旅。
長い道のりの、始まり。
でも、その先には……。
きっと、素晴らしい未来が待っている。




