第32話 決断の時
疫病の町から戻って、一ヶ月が過ぎた。
窓の外では、夏の陽光が眩しく輝いている。診療所の庭に植えた薬草が、風に揺れて心地よい香りを漂わせている。
私は机に向かい、医療記録を整理していた。
重要な症例を清書した羊皮紙の束——一年半で五百人を超える患者を診た中から選んだ記録が、ここに刻まれている。
一人一人の症状、診断、治療法、経過。
風邪の子供、骨折した農夫、出産の女性、高熱の老人——みんな、私の大切な患者たち。
「リーゼ様、お茶をどうぞ」
マルタが、温かいハーブティーを持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
私はカップを受け取った。
レモンバームの香りが、疲れた心を癒してくれる。
「今日も、よく働きましたね」
マルタは、優しく微笑んだ。
「午前中だけで、十人も診察して」
「まだ慣れません」
私は、正直に言った。
「一人一人と向き合うのは、いつも緊張します」
「それが、良い医師の証ですよ」
マルタは、私の頭を撫でてくれた。
「慣れて、機械的に診るようになったら、それは医師ではなくなります」
その言葉に、私は頷いた。
前世の私はそうだった——患者を症例としてしか見られなくなり、疲労と過労で心が麻痺していた。
今度は、そうならないようにしなければ。
◇
日常に戻っていたが、心の中ではヴィルヘルムの言葉が繰り返し響いていた。
「王都に来ませんか?」
その問いに、まだ答えを出せずにいた。
王都——もっと広い世界、もっと多くの知識、もっと多くの人を救える可能性。
王立医学院で学べば前世の知識をさらに発展させられ、この世界の医学と融合させて新しい医療を作り出せるかもしれない。
でも、ここには大切な師匠のマルタがいて、私を頼ってくれる患者たちがいて、温かい家族がいる。
どちらを選ぶべきなのか。
答えが出せないまま日々が過ぎていく——夜ベッドの中で考え、朝目覚めても考え、診療の合間にも考える。
でも、答えは出ない。
◇
ある夜。
父が書斎に私を呼んだ。
「リーゼ、少し話がある」
父の表情はいつもより真剣で、優しさの中に厳しさも混じっている。
机の上には一通の手紙が置かれており、封蝋には王家の紋章が刻まれていた。
「これは……」
「ヴィルヘルム殿から、正式な招待状が届いた」
父が手紙を私に渡す——重い。
羊皮紙の重さではなく、そこに込められた意味の重さだ。
私は、手紙を開いた。
丁寧な筆跡で書かれた文章。
『リーゼ・フォン・ハイムダル殿
先日の疫病対策における貴女の活躍は、まさに奇跡と呼ぶに相応しいものでした。
つきましては、王立医学院にて研修を受けていただきたく、正式にご招待申し上げます。
貴女の知識は、この国の医療を大きく前進させる力を持っています。
どうか、王都にお越しください。
王立医学院院長代理 ヴィルヘルム・フォン・シュタイン』
王立医学院——この国で最高の医療教育機関で、学び、そして教える機会。
「お父様……」
私は、手紙を握りしめた。
「リーゼ、お前はどうしたい?」
父の問いに、私は言葉に詰まった。
「私は……分かりません」
正直に答えた。
「ここには、マルタさんがいて、私を必要としてくれる患者さんたちがいます」
「家族もいます。お父様も、お母様も、お兄様も」
「この診療所も、私の大切な場所です」
「でも……」
「でも?」
父が、優しく促す。
「もっと広い世界で学びたい気持ちもあります」
私は、正直に言った。
「王都には、この地域にはない知識があるはずです」
「もっと多くの人を救えるかもしれません」
「もっと深く、医学を学べるかもしれません」
父は、深く頷いた。
そして、立ち上がった。
窓の外を見つめながら、静かに言った。
「そうか……正直に言おう」
父が振り返る。
その目は、真剣だった。
「私は、お前に王都に行ってほしい」
その言葉に、私は驚いた。
「お父様……?」
「リーゼ、お前の才能は素晴らしい」
父が私の肩に手を置く——大きくて温かい、いつも私を守ってくれた手。
「しかし、それを最大限に活かすには、より良い環境が必要だ」
「ここでは、お前の成長に限界がある」
父は少し寂しそうに微笑んだ。
「親としては娘を手放すのは辛い。お前が生まれた時から、ずっとそばで見守ってきた」
父の声が、少し震えている。
「小さな手で私の指を握ったこと、初めて歩いた日のこと、初めて『お父様』と呼んでくれた日のこと——全部、覚えている」
私の目から、涙が溢れてきた。
「十歳で高熱に倒れた時は本当に心配した」
父の目も潤んでいる。
「もう助からないかもしれないと何度も思ったが、お前は生き延び、目覚めた時には不思議な力を得ていた」
父は、私の頭を撫でた。
「それは神からの贈り物で、お前に多くの人を救う使命が与えられたのだと思っている」
「だから……」
父は、真剣な目で私を見つめた。
「領主として、そして父親として、お前には大きな舞台で活躍してほしいと思っている。この小さな領地だけでなく、王国全体のために——いや、もっと広い世界のために、お前の才能を使ってほしい」
その言葉が、胸に響いた。
「でも……お父様は、寂しくないですか?」
私は、小さな声で聞いた。
「寂しいさ」
父は素直に答えた。
「毎日が寂しくなるだろう。朝お前の顔を見られないのは辛いし、夕食の時お前がいないのは寂しい」
父は、優しく笑った。
「でも、それ以上にお前の成長を見るのが楽しみだ。王都で学び、多くの人を救い、立派な医師になっていく姿を——想像するだけで、誇らしい」
父の言葉に、私は泣きそうになった。
「お父様……」
「泣くな、リーゼ」
父が私を抱きしめてくれた。
「これは別れではない。王都はそんなに遠くなく、休みの日には帰ってこられる」
「手紙も書ける」
「だから、泣くな」
でも、涙は止まらなかった。
◇
次の日。
母とも話した。
「お母様は、どう思いますか?」
私が聞くと、母は優しく微笑んだ。
「お父様と同じ気持ちよ」
「リーゼには、王都に行ってほしいわ」
母は、私の手を握った。
「あなたは、特別な子」
「神様から、特別な才能を授かった子」
「その才能を、もっと広い世界で活かしてほしいの」
「でも、お母様は……」
「寂しいわ」
母は、正直に言った。
「毎日、とても寂しくなると思う」
「でも、それは母親のわがままね」
母は、私の頬を撫でた。
「子供はいつか親の元を離れる——それが自然なこと。特にあなたのような才能のある子は、早くから自分の道を歩むべきなの」
「お母様……」
「大丈夫」
母は、強く頷いた。
「あなたなら、きっと素晴らしい医師になる。王都でたくさんのことを学んで、たくさんの人を救って——そしていつか帰ってきた時、立派になった姿を見せてちょうだい」
その言葉に、私は強く頷いた。
◇
エーリヒにも話した。
「王都か……」
兄は、複雑な顔をした。
「正直、行ってほしくない」
「え……?」
「だって、妹がいなくなるんだぞ」
エーリヒは、照れくさそうに言った。
「毎日顔を見られなくなり、一緒に食事もできなくなり、診療所でお前が働く姿も見られなくなる——それは寂しいに決まってる」
兄の正直な言葉に、私は胸が熱くなった。
「でも……」
エーリヒは、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「お前の才能を、ここだけで終わらせるのはもったいない」
「俺は騎士だから剣と槍しか使えないが、お前は医者だ——人の命を救える、それもすごい技術で」
兄は、真剣な目で私を見た。
「だから王都に行け——もっと学んで、もっと強くなって、もっと多くの人を救え。兄として、それを望む」
「お兄様……」
「ただし!」
エーリヒは、指を立てた。
「無理はするな。お前、前に倒れただろう? あれは本当に心配したんだぞ。だから体を大切にして、ちゃんと休め」
「ちゃんと食べろ」
「それができないなら、王都になんて行かせない」
兄の言葉に、私は笑った。
「はい。約束します」
◇
最後に、マルタのところへ行った。
診療所の裏手、薬草園でマルタは作業をしていた。
「マルタさん……」
私が声をかけると、マルタは振り返った。
「リーゼ様。決めたのですね」
マルタは、全てを見透かしたように微笑んだ。
「……はい」
私は、頷いた。
「王都に、行きます」
「そうですか」
マルタは、穏やかに答えた。
「良い決断だと思いますよ」
「でも、マルタさんは……」
私の声が、震えた。
「マルタさんと、離れたくありません」
「マルタさんは、私の大切な師匠です」
「ありがとうございます」
マルタは、私の手を握った。
「でも、リーゼ様」
「師匠と弟子は、いつか離れるものです」
「それは、悲しいことではありません」
「弟子が成長して、師匠の元を離れる」
「それは、喜ぶべきことなのです」
マルタの目が、優しく輝いている。
「私は、リーゼ様と出会えて幸せでした」
「こんな素晴らしい弟子を持てて、誇りに思います」
「だから、王都に行ってください」
「もっと学んで、もっと成長して」
「そして、いつか帰ってきた時」
「この老いぼれに、新しい知識を教えてください」
その言葉に、私は涙が止まらなくなった。
「マルタさん……!」
私は、マルタに抱きついた。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
「いいえ。こちらこそ、ありがとう」
マルタは、私の背中を優しく撫でてくれた。
「あなたと過ごした一年半は、私の人生で最も輝いた時間でした」
「だから、後悔はありません」
「堂々と、王都へ行ってください」
◇
その夜、私は決心した——王都へ行く。
もっと学び、もっと成長し、そしていつかこの領地に戻ってくる。
その時は、もっと多くの人を救える医師になって。
机に向かい、返事の手紙を書いた。
『ヴィルヘルム先生
この度は、王立医学院への招待、誠にありがとうございます。
謹んで、お受けいたします。
私は、まだ未熟な医師ですが、王都で多くのことを学ばせていただきたく存じます。
そして、いつの日か、この国の医療に貢献できるよう、精進してまいります。
リーゼ・フォン・ハイムダル』
手紙を封筒に入れ、封蝋を押すとハイムダル家の紋章が蝋に刻まれる。
これで決まった——私は王都へ行き、新しい人生の第一歩を踏み出す。
窓の外では星が輝いていた——まるで私の決断を祝福しているかのように。
「行ってきます」
小さく呟く。
家族に? マルタに? 患者たちに? それとも前世の私に?
誰に向けた言葉なのか分からない。
でも、一つだけ確かなことがある——私は医師として生きていき、この世界で多くの命を救っていく。
それが、私の使命だから。
十二歳の少女医師は大きな決断をした——その決断がこの国の医療を、そして多くの人の運命を変えることになる。
でも、それはまだ誰も知らず、未来はまだ見えない。
ただ一つ言えるのは、この決断に後悔はないということだ。




