第31話 大疫病への挑戦 ⑤
「起きたのか、リーゼ先生」
ヴィルヘルムの声に、私は目を覚ました。
仮眠室として使わせてもらっていた町長の家の客間。窓の外は、もう明るくなっていた。
「はい……」
体を起こしながら答える。一晩しっかり休んだおかげで、昨日よりは体が楽になっている。でも、まだ疲労は残っていて、体が重い。
「昨夜は、あなたを強制的に休ませて正解でした」
ヴィルヘルムは安堵したように微笑んだ。
「あなたはまだ十二歳の子供です。知識と技術は素晴らしいが、体力には限界がある」
「無理をして倒れたら、元も子もありません」
「いえ、気を遣っていただいて……ありがとうございます」
私は顔を洗い、白衣を整えて外へ出た。
◇
朝の診療所は昨日よりも落ち着いており、新規の感染者はここ二日間で明らかに減っている。
隔離と衛生管理の効果が、確実に現れていた。
「リーゼ先生」
ヴィルヘルムが、カルテを整理しながら声をかけてきた。
「少し、話せますか?」
「はい」
私たちは診療所の裏手にある小さな庭に出ると、朝の冷たい空気が心地よく頬を撫でた。
「あなたの治療法は……驚くべきものだ」
ヴィルヘルムは、真剣な目で私を見た。
「隔離病棟の設置、手洗いの徹底、清潔な水の確保、排泄物の分離処理——」
彼は指を折りながら数えた。
「これらは全て王都の医学院でも断片的にしか教えられておらず、ましてやここまで体系的に、実践的に実行した例は聞いたことがない」
ヴィルヘルムの声には、驚きと尊敬が混じっていた。
「あなたの知識は、いったいどこで学んだのですか?」
その質問は何度も受けてきたが、本当のことは言えない——前世で救急医だった、なんて。
「……夢で、見たんです」
私はいつもの説明をした。
「とても長く鮮明な夢の中で、私は医師として生きていました。多くの患者を診て、多くの病気と闘って——そしてその知識が、目覚めた後もはっきりと残っていたんです」
ヴィルヘルムはしばらく黙っていたが、やがて深く頷いた。
「……神の啓示、ですか。確かに、それ以外では説明がつかない」
彼の目には、畏敬の念が浮かんでいた。
「十二歳の少女が、王都最高の医師たちも知らない知識を持っている」
「それは、まさに奇跡と言える」
「私は……ただ、知っていることを実行しているだけです」
私は正直に答えた。
「特別なことをしているつもりはありません」
「それが、あなたの謙虚さだ」
ヴィルヘルムは優しく笑った。
「しかし、その知識は……もっと広く共有されるべきものだ」
彼は、一歩近づいて、真剣な目で私を見つめた。
「リーゼ先生。王都に来ませんか?」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「……え?」
「あなたの知識を、もっと多くの医師たちと共有してほしいのです」
ヴィルヘルムは、熱意を込めて言った。
「王都の医学院で教鞭を執ってもらえれば」
「いや、それだけではない。あなた自身が研究を進め、新しい医療を確立していけば」
「この国全体の医療水準が、飛躍的に向上します」
「王都……」
その言葉は、私の心を揺さぶった。
確かに、魅力的な提案だ。
もっと多くの人を救える。もっと多くの医師を育てられる。前世でできなかった理想の医療を、ここで実現できるかもしれない。
でも……。
「……考えさせてください」
私は、慎重に答えた。
ヴィルヘルムは、理解したように頷いた。
「もちろんです。急ぐ必要はありません」
「ただ……」
彼は、窓の向こうの診療所を見つめた。
「あなたのような才能を、この辺境に埋もれさせるのは、あまりにももったいない」
「多くの命が、あなたの知識を必要としています」
その言葉が、胸に刺さった。
◇
一週間後。
町の状況は、劇的に改善していた。
「新規感染者、ゼロです」
ヴィルヘルムが、報告してくれた。
「三日連続で、新しい患者は出ていません」
「本当ですか……!」
私は、安堵のため息をついた。
「既存の患者たちも、ほとんどが回復傾向にあります」
ヴィルヘルムは、カルテを見せてくれた。
確かに、重症患者の数が大幅に減っている。軽症者の多くは、もう退院できる状態だ。
「……やった」
小さく呟く。
前世では、こんなにはっきりと「勝った」と感じられる瞬間は、少なかった。
救急医として、目の前の命を救うことに精一杯で。
でも、今回は違う。
町全体を、疫病から守ることができた。
「リーゼ先生」
町長が、診療所にやってきた。
彼の目には、涙が浮かんでいた。
「信じられません……本当に、信じられません……」
「町長……」
「もうダメだと思っていました」
町長は、震える声で言った。
「町が全滅すると、覚悟していました」
「家族も、友人も、みんな失うと思っていました」
「でも……」
彼は、深く頭を下げた。
「リーゼ様たち のおかげで、多くの命が救われました」
「本当に……本当に、ありがとうございます」
「まだ、油断はできません」
私は、引き締まった声で答えた。
「完全に封じ込めるまで、衛生管理を続けてください」
「手洗いの徹底、清潔な水の使用、排泄物の適切な処理」
「これらを、町の習慣にしてください」
「そうすれば、今後も疫病の発生を防げます」
「必ず、守ります」
町長は、何度も何度も頭を下げた。
「この恩は、一生忘れません」
◇
二週間後。
疫病は、完全に封じ込められた。
最終的な死者数は、四十人。
もちろん、一人でも多すぎる。一人一人に、家族がいて、人生があった。
でも……。
私たちが到着する前に予想されていた、数百人という被害は避けられた。
それだけは、確かだった。
「リーゼ、準備はできたか?」
エーリヒが、馬車の前で待っていた。
「はい」
私は、荷物を馬車に積み込んだ。
町を発つ日。
多くの町民が、見送りに来てくれていた。
「リーゼ様……本当に、ありがとうございました」
若い母親が、赤ん坊を抱いて頭を下げた。
「この子も、リーゼ様のおかげで助かりました」
「元気に育ってくださいね」
私は、赤ん坊の頭を優しく撫でた。
「リーゼ様は、この町の救世主です」
老人が言った。
「また、いつでも来てください」
「必ず、待っています」
その言葉に、私は複雑な思いを抱いた。
救世主……。
私は、そんな大層なものではない。
ただ、前世で学んだ知識を使っただけだ。
東京の救命センターで、当たり前のように行われていた感染症対策を、ここで実行しただけ。
それだけで、こんなに多くの人を救えた。
ということは……。
この世界には、まだまだ救える命がたくさんあるということだ。
◇
馬車が動き出した。
町民たちが、手を振ってくれている。
私も、窓から手を振り返した。
「リーゼ」
エーリヒが、馬車の中で話しかけてきた。
「お前、すごかったな」
「あんなに多くの人を救って……兄として、誇りに思う」
「お兄様のおかげです」
私は、正直に言った。
「清潔な水を確保してくれなければ、ここまでできませんでした」
「騎士団を動員して、井戸を掘って、水を運んで」
「あれがなければ、衛生管理なんてできなかった」
「いや、俺はただ水を運んだだけだ」
エーリヒは、照れたように首を振った。
「治療をしたのは、お前だ」
「お前の知識が、町を救ったんだ」
マルタも、優しく微笑んだ。
「リーゼ様……ヴィルヘルム先生の提案、考えてみる価値はあると思いますよ」
「マルタさん……」
その言葉に、私は驚いた。
「あなたの才能は、もっと広い世界で活かされるべきです」
「私のような田舎の薬草師の助手では、もったいない」
「そんなことありません!」
私は、強く言った。
「マルタさんは……私の大切な師匠です」
「マルタさんがいなければ、私はここまで来られませんでした」
「薬草の知識も、患者への接し方も、全部マルタさんから学びました」
「……ありがとう」
マルタは、目を細めた。
「でも、リーゼ様」
「いつかは、決断しなければならない時が来ます」
「ここに留まるのか、それとも王都へ行くのか」
「その時、後悔のない選択をしてください」
「私は、どちらを選んでも、リーゼ様を応援します」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
「……はい」
◇
その夜。
馬車は、王都へ向かう街道を進んでいた。
窓から、星空が見える。
私は、その星々を見上げながら考えた。
王都に行くべきか、それとも領地に留まるべきか。
王都へ行けばもっと多くの人を救え、医学院で教えれば多くの医師を育てられ、前世で叶わなかった理想の医療を実現できるかもしれない。
でも、領地を離れたらマルタと会えなくなり、診療所を訪れる患者たちはどうなるのか?
私がいなくなったら、誰が診るんだ?
答えは、まだ出ない。
でも、一つだけ確かなことがあった。
この疫病との戦いで、私は自分の医療が確実に多くの命を救えることを証明した——前世の知識はこの世界でも通用するどころか、大きな力になる。
そして、その責任の重さも痛感した。
知識を持つということは、それを使う責任を持つということだ——多くの人を救える力があるなら、それを使わなければならない。
それが、医師の使命だから。
でも同時に、前世の失敗も忘れてはいけない。
自分を犠牲にして仕事だけに生きて倒れた過去——今度はそうならないよう、仕事と人生のバランスを取り、患者も自分も大切にする生き方をしなければ。
窓の外では月が美しく輝いている——同じ月を、東京でも見上げていた。
過労で倒れる前のあの夜、救急救命センターの屋上で一人夜空を見上げ、「いつまでこんな生活が続くんだろう」と思いながら。
でも、今は違う。
今の私には家族がいる——優しい父と母、頼りになる兄、温かい師匠。
そして守りたい人々がいる——領地の人々、診療所を訪れる患者たち、疫病で苦しんでいた町民たち。
みんな、私の大切な人たち。
「必ず、正しい選択をする」
そう心に誓いながら、私は目を閉じた。
まだ十二歳の幼い少女医師だが、その肩には大きな責任が乗っている。
王都へ行くのか、領地に留まるのか——その決断は多くの人の運命を左右する。
だからこそ慎重に考え、後悔のない、誰も犠牲にしない選択をしなければ。
馬車は静かに揺れ、月明かりの下で街道は続いている。
私の人生もまだまだ続いていく——この先に何が待っているのか、それはまだ誰にも分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
私は医師として生きていき、この世界で多くの命を救っていく。
それが、私の使命だから。
星空が優しく見守っていた——まるで前世の私を知っているかのように。
「今度こそ、正しい道を歩む」
小さく呟いて、私は眠りについた。




