第29話 大疫病への挑戦 ③
ヴィルヘルム医師から、詳しい状況説明を受けた。
「症状は?」
私は質問を続けた——
「高熱、激しい下痢、嘔吐」
ヴィルヘルムが答える。
「脱水症状で衰弱していく患者が多数います」
「特に子供とお年寄りは…」
言葉が途切れる。
その先を言う必要はなかった。
私は即座に診断を下した。
「おそらく、コレラか赤痢です」
「水系感染症ですね」
「水系感染症?」
ヴィルヘルムが顔を上げた。
「汚染された水を飲むことで感染する病気です」
私は説明を続けた。
「まず、清潔な水の確保が最優先です」
「しかし、この町の井戸は…」
町長が絶望的な声で言った。
「すべて汚染されている可能性があります」
私は窓から外を見た——汚水が道に流れ、地下水に染み込んでいる。
井戸水が汚染されるのは時間の問題だ——いや、もう汚染されている。
「川の上流から、清潔な水を引いてくる必要があります」
私は町長に向き直った。
「すぐに人を集めて、上流の清潔な水源を確保してください」
「そして、汚水が流れている道を掃除し、患者の排泄物は適切に処理してください」
「しかし、そんなこと…」
町長が言いかけた時、私は声を張り上げた。
「これをしなければ、感染は止まりません。町全体が危機に陥ります——」
私は息を吸い、言葉を絞り出した。
「すべての住民が感染し、町が死に絶える可能性すらあります」
その真剣な表情に、町長は息を呑み、頷いた。
「分かりました。すぐに手配します」
次に、私はヴィルヘルムとマルタに治療方針を説明した。
「まず、脱水症状を防ぐため、経口補水液を投与します」
「経口補水液?」
ヴィルヘルムが驚いた顔をした。
「水に塩と砂糖を混ぜたものです」
私は具体的な配合を説明した。
「水一リットルに対して、塩を小さじ半分、砂糖を大さじ六杯」
「これで体内の水分と電解質のバランスを保てます」
ヴィルヘルムは真剣な表情で木板にメモを取り始め、カリカリというペンの音が響く。
「そして、抗菌作用のある薬草を投与します」
マルタが頷く。
「ニンニク、ゴールデンシール、ベルベリンを含む植物の煎じ薬ですね」
「はい。これで腸内の細菌を抑えます」
「エーリヒ様」
私は兄に向き直った。
「清潔な水を確保する手伝いをお願いできますか?」
「任せろ」
エーリヒは即座に動き出した。
それから、長い戦いが始まった。
私たちは朝から晩まで、時には夜通し、休むことなく働き続けた。
患者一人一人に経口補水液を飲ませる。
口を開けることすらできない重症者には、スプーンで少しずつ。
「ゆっくり」
「飲めますか?」
「もう少しだけ」
薬草茶を調合し、投与する。
乳鉢でニンニクをすり潰すと、ガリガリという音とともに刺激的な匂いが広がる。
ゴールデンシールの黄色い粉末を加え、苦い匂いが混ざる。
煮立てると、泡立つ黄色い液体ができあがる——
重症者には、特別な看護が必要だった。
定期的に体を拭き、清潔を保つ。
冷たい水で濡らした布を額に当てるが、熱くてすぐに温かくなる。
また冷やし、また当てる——繰り返し、繰り返し。
排泄物を処理して適切に埋め、手を何度も何度も石鹸でしっかりと洗う。
この衛生管理が、感染拡大を防ぐ鍵なのだ——
ヴィルヘルムは最初、私の治療法に懐疑的だった。
「経口補水液だけで、本当に効果があるのですか?」
初日の夜、彼は疑問を口にした。
「はい」
私は確信を持って答えた。
「脱水を防げば、体は自分で病気と戦えます。それが、私の治療の基本です」
……って、本当にそうなのか? 本当に正しいのか?
でも、これしかない。
二日目、変化が現れ始めた。
経口補水液を飲んだ患者たちの顔色が少し良くなり、激しかった下痢も落ち着いてきている。
「信じられない…」
ヴィルヘルムが驚きの声を上げた。
「本当に、効果がある…」
その声には、驚きと希望が混じっていた——
三日目。
私は徹底的な衛生管理を指示した。
「患者に触れた後は、必ず手を洗ってください」
町の広場で、住民たちに説明する。
「石鹸で、しっかりと」
「なぜ、そんなことを…」
住民の一人が不満そうに言った。
「手を洗うだけで、病気が防げるとでも?」
「はい」
私は真っ直ぐに答えた。
「病気は、目に見えない小さな悪いものが体に入ることで起こります。それは手に付着しているので、手を洗うことで洗い流せるんです」
住民たちは半信半疑だったが、従ってくれた。
「排泄物は、必ず埋めてください」
「決して川に流さないで」
「食事の前にも、手を洗ってください」
最初は「そんな手間をかけて…」「昔からこうしてきたのに…」と面倒がる人もいたが、感染者の増加が止まり始めると、皆が協力するようになった。
エーリヒは上流から清潔な水を引くために、昼夜働いた。
「リーゼ、水路ができたぞ」
三日目の夕方、汗だくになって報告に来た。
「ありがとう、お兄様」
「いや、これくらい」
エーリヒは照れたように笑った。
「お前の方が、ずっと大変な仕事をしている」
その言葉に、胸が温かくなる——
四日目。
私は限界を感じ始めていた。
三日間、ほとんど眠っておらず、食事も満足に取れていない。
手は消毒のしすぎで荒れてひび割れ、痛む——でも、止まれない。
まだ、苦しんでいる人がいる——
「リーゼ様、少し休んでください」
マルタが心配そうに言った。
「大丈夫です」
私は無理に微笑んだ。
「まだ、やることが…」
その時、足がもつれた。
「リーゼ様!」
マルタが支えてくれた。
「無理をしすぎです」
「少しでいいから、休んでください」
「でも…」
「リーゼ」
ヴィルヘルムが近づいてきた。
「マルタさんの言う通りだ」
「あなたが倒れたら、誰が指揮を取る?」
「休息も、医療の一部だ」
その言葉に、私はようやく頷いた。
「分かりました…」
マルタに支えられて、仮設の休憩所に向かった。
横になると、意識がすぐに遠のいていった。
疲労困憊——でも、東京の救命センターでは、これが日常だった。
三日間の不眠不休など、珍しくなかった。
あの頃とは違い、今の私には支えてくれる人がいて、心配してくれる人がいる。
その思いと共に、私は深い眠りに落ちた。




