第28話 大疫病への挑戦 ②
「私たちは医療に携わる者です」
マルタの言葉が、まだ胸に響いていた。
「危険を恐れて人を見捨てることはできません」
その決意を胸に、私たちは屋敷へと急いだ——
「お父様、隣町で疫病が発生したそうです」
書斎の扉を開け、私は父に事情を説明した。
父は大きな机の向こうに座っていた。
領主としての書類が、机の上に積まれている。
「私たち、行ってきます」
父の表情が、瞬時に変わった。
険しくなる。
眉間に皺が寄る。
大きな手が、机の縁を強く握りしめた。
「リーゼ…疫病は危険だぞ」
父の声が、低く響く。
普段よりも重い声。
心配と恐怖が混じっている。
大きな手が、机を握りしめている。
その手が、わずかに震えているのが見えた。
「お前も感染する可能性がある」
その言葉には、父親としての深い愛情があった。
娘を失いたくない。
危険な場所に行かせたくない。
守りたい——
「分かっています」
私は頷いた。
父の目を、真っ直ぐに見つめる。
逸らさない。
「でも、放っておけません」
胸の奥から、言葉が湧き上がってくる。
「多くの人が苦しんでいるんです」
「私には知識があります。助けられる可能性があります」
父は長い沈黙の後、深く息をついた。
肩が上下する。
目を閉じ、何かと戦っているようだった。
領主として。
父親として。
二つの立場が、せめぎ合っているのが分かった。
そして——
「分かった」
父が立ち上がった。
「だが、エーリヒを同行させる。護衛としてだ」
その声には、もう迷いはなかった。
「お兄様が…?」
「ああ」
父は書斎の扉を開け、廊下で待機していたエーリヒを呼んだ。
訓練場から来たのだろう。
革の訓練着を着ている。
汗で髪が額に張り付いている。
「万が一のことがあっては困る」
エーリヒが大股で書斎に入ってきた。
訓練着のまま。
腰には剣を差している。
「リーゼ、行くんだろう?」
力強い声。
その目には、迷いがなかった。
「俺も一緒に行く」
その一言が、どれほど心強かったか。
「お兄様…」
声が震えた。
目頭が熱くなる。
「お前一人で行かせるわけにはいかない」
エーリヒは私の肩に手を置いた。
大きな手。
温かい手。
力強く、でも優しい手。
「俺は、妹を守る。それが兄の役目だ」
その言葉に、私は心強さを感じた。
一人じゃない。
支えてくれる人がいる。
守ってくれる人がいる。
共に戦ってくれる人がいる——
「ありがとう、お兄様」
母も、私たちのもとに駆けつけてきた。
廊下を走ってくる足音。
息を切らしている。
「リーゼ…」
母が私を抱きしめた。
強く、強く。
まるで、離したくないとでも言うように。
温かい。
母の香りがする。
ラベンダーとローズマリーの、優しい香り。
「必ず、無事に帰ってきてね」
その声が震えていた。
肩が震えている。
涙を堪えているのが分かった。
「はい、お母様」
私も母を抱きしめ返した。
「必ず、帰ってきます」
この温もりを、忘れない——
* * *
隣町への道は、馬車で半日の距離だった。
エーリヒが御者台に座り、私とマルタは荷台に乗った。
馬車が動き出す。
車輪が地面を転がる音。
馬の蹄が石畳を叩く音。
それらが、規則正しいリズムを刻んでいる。
馬車が揺れる。
上下に、左右に。
窓から見える景色が流れていく。
屋敷が遠ざかる。
村が小さくなる——
春の緑が美しい。
木々の若葉が、陽光を受けて輝いている。
草原に花が咲いている。
黄色、白、紫——色とりどりの花々。
鳥が空を飛んでいる。
雲が流れている。
穏やかな、平和な春の日。
でも、これから向かう町には、死の影が忍び寄っている——
「リーゼ様」
マルタが不安そうに言った。
その声は、小さく震えていた。
「本当に、大丈夫でしょうか」
マルタの手が、膝の上で握りしめられている。
指が白くなるほど、強く。
「私たちも感染するのでは…」
その恐怖は、当然のものだった。
疫病は見えない。
いつ、どこで感染するか分からない——
「大丈夫です」
私は彼女の手を握った。
冷たい。
緊張で血の気が失せている。
でも、この手を温めなければならない。
「感染を防ぐ方法があります」
私は、できる限り落ち着いた声で説明し始めた。
「まず、患者に触れた後は必ず手を洗うこと」
マルタが頷く。
その目は、真剣に私を見ていた。
「石鹸で、しっかりと」
「そして、食事の前にも手を洗う」
「患者の排泄物には直接触れない」
一つ一つ、丁寧に説明していく。
前世の医学で学んだ、基本的な感染防御。
それを、この世界の言葉で伝えていく。
「これを守れば、感染のリスクは大幅に減ります」
マルタは少し安心したように頷いた。
「分かりました」
その声には、まだ不安が残っていた。
でも、以前よりは落ち着いている。
知識があれば、恐怖は軽減される——
午後遅く、隣町に到着した。
馬車が止まる。
車輪の音が止み、静寂が訪れる——
いや、静寂ではない。
呻き声が聞こえる。
泣き声が聞こえる。
苦しむ声が、あちこちから——
そして、私たちは言葉を失った。
馬車から降りた瞬間、その光景が目に飛び込んできた。
想像以上に、深刻な状況だった。
通りには病人があふれている。
道端に倒れている人。
壁にもたれかかっている人。
家の前で苦しそうに呻く人——
どこを見ても、病人だらけだった。
子供を抱いて泣いている母親。
その子供は動かない。
顔色が悪い。
もう——
私は目を逸らした。
でも、目を逸らしても、現実は変わらない——
そして——
悪臭。
鼻を突く、強烈な悪臭。
汚水が道に流れている。
茶色く濁った水。
ヘドロのような、粘ついた液体。
それが、あちこちの側溝から溢れ出ている。
排泄物が処理されず、そこらじゅうに放置されている。
道端に。
壁際に——
ハエが群がり、ブンブンと音を立てている。
黒い塊。
何百、何千というハエ。
それらが、排泄物の上を這い回っている。
そして——
腐敗臭。
死体の匂い。
どこかで、遺体が放置されているのだろう——
「これは…」
マルタも言葉を失っていた。
顔が青ざめている。
手で口を覆っている。
エーリヒが馬車から降りてきた。
そして、顔をしかめる。
「ひどい…」
その声は、怒りと悲しみで震えていた。
私は深呼吸をした。
臭い空気が肺に入る。
でも、冷静にならなければならない。
落ち着け。
冷静になれ。
これは東京の救命センターよりもひどい状況だ——
でも、パニックになっては何もできない。
医師として。
冷静に。
論理的に。
状況を把握し、優先順位をつけ、行動する——
「まず、町長さんに会いましょう」
私は二人に告げた。
声は落ち着いていた。
でも、心臓は激しく打っている。
二人が頷く。
私たちは町の中心部へと向かった。
道を歩く。
病人を避けながら。
汚水を避けながら。
倒れている人々の横を通り過ぎながら——
その一人一人が、助けを求めている。
手を伸ばす人。
目で訴える人。
でも、今はまだ何もできない——
まず、全体の状況を把握しなければならない。
町長の家に案内されると、そこにいたのは——
立派な服を着た、四十代ほどの男性。
知的な顔立ち。
でも、疲労で目の下に深い隈ができている。
頬がこけている。
髪は乱れている。
数日、ほとんど眠っていないのだろう。
「初めまして」
男性が丁寧に頭を下げた。
その動きは、疲労で緩慢だった。
「私はヴィルヘルム・フォン・シュタイナー」
その名前に、私は少し驚いた。
「王都から派遣された医師です」
医師。
王都からの派遣。
つまり、正式な医師だ——
そんな人物が、ここにいる。
でも、その顔には深い疲労と、そして——絶望があった。
「リーゼ・ハイムダルと申します」
私も丁寧に頭を下げた。
「こちらは薬草師のマルタさん。そして兄のエーリヒです」
「ああ、噂は聞いています」
ヴィルヘルムは疲れた目で私を見た。
その目には、もはや懐疑も驚きもなかった。
あるのは、ただ諦めだけ——
「十二歳の天才医師だとか」
その声には、皮肉ではなく、ただ疲労だけがあった。
「天才かどうかは分かりませんが、できる限りのことをしたいと思っています」
私は真っ直ぐに答えた。
「そうですか…」
ヴィルヘルムは深くため息をついた。
長い、長いため息。
椅子に座り込み、頭を抱える。
その背中が、小さく震えていた。
「正直、手に負えない状況です」
その声は、もはや医師としての冷静さを失っていた。
「すでに三十人以上が亡くなり、感染者は百人を超えています」
数字が、重く響く。
三十人——
百人——
それは、ただの数字ではない。
一人一人に、名前があり、人生があり、家族があった——
「そして、今も増え続けている」
その絶望的な声に、胸が痛んだ。
彼も、必死に戦ってきたのだろう。
でも、一人では限界がある——
「症状は?」
私は質問を続けた。
感情に流されてはいけない。
今は、情報を集めなければならない。
「高熱、激しい下痢、嘔吐」
ヴィルヘルムが答える。
その声は、機械的だった。
「脱水症状で衰弱していく患者が多数います」
「特に子供とお年寄りは…」
言葉が途切れる。
その先を言う必要はなかった。
脱水症状。
体液の喪失。
電解質バランスの崩壊。
そして——死。
私は即座に診断を下した。
頭の中で、症状を整理する。
鑑別診断を列挙する——
「おそらく、コレラか赤痢です」
ヴィルヘルムが顔を上げた。
その目に、わずかな光が戻った。
「水系感染症ですね」
「水系感染症?」
彼は聞き返した。
その声には、初めて関心が混じっていた。
「汚染された水を飲むことで感染する病気です」
私は説明を続けた。
できる限り簡潔に。
でも、正確に。
「まず、清潔な水の確保が最優先です」
「しかし、この町の井戸は…」
町長が絶望的な声で言った。
「すべて汚染されている可能性があります」
私は窓から外を見た。
汚水が道に流れている。
それが、地面に染み込んでいる。
地下水脈を汚染している——
井戸水が汚染されるのは時間の問題だ。
いや、もう汚染されている。
この感染者の数を見れば、明らかだ——
「川の上流から、清潔な水を引いてくる必要があります」
私は町長に向き直った。
その目を、真っ直ぐに見つめる。
「すぐに人を集めて、上流の清潔な水源を確保してください」
「そして、汚水が流れている道を掃除し、患者の排泄物は適切に処理してください」
「しかし、そんなこと…」
町長が言いかけた時、私は強く言った。
声を張る。
力を込める。
「これをしなければ、感染は止まりません」
「町全体が危機に陥ります」
「すべての住民が感染し、町が死に絶える可能性すらあります」
その真剣な表情に、町長は息を呑んだ。
顔が青ざめる。
喉が動く。
そして——
頷いた。
「分かりました。すぐに手配します」
その声には、決意があった。
ようやく、動き出す——
……でも、本当にこれで間に合うのか?
私に、本当にこの町を救えるのか?
そんな不安が、胸をよぎった。




