第20話 評判の広がり ②
その日の診療を終えた後、私は一人、机に向かっていた。
木板を広げ、ペンを走らせる。
インクが木板に染み込んでいき、黒い文字を形作っていく。
今日診た患者の記録だ。
「患者番号47。男性、25歳。主訴:歯痛」
一文字、一文字、丁寧に書いていく。
「診断:う蝕による歯髄炎および歯肉炎」
「所見:右下第一大臼歯、う蝕C3。歯髄露出。歯肉腫脹、膿汁滲出」
「治療:クローブオイルによる鎮痛、抗菌薬草によるうがい」
「経過観察必要。一週間後に再診」
ペンを置く。
この習慣は、東京の救命センターで叩き込まれたものだ。
「記録のない医療は、医療ではない」
指導医の言葉が、今も耳に残っている。
厳しい顔で、でも優しい目で、そう教えてくれた。
患者の症状、診断、治療法、経過——すべてを詳細に記録する。
そうすることで、後で振り返り、より良い治療法を見出せる。
パターンを見つけられる。
失敗から学べる。
「リーゼ様、まだ記録をつけているんですか?」
マルタが驚いた顔で覗き込んできた。
手には薬草茶の入ったカップを持っており、湯気が立ち上っている。
温かい香りが顔に当たる。
カモミールの甘い香りだ。
「はい。記録をつけておくと、後で振り返ることができますから」
私は木板を指す。
「どの治療が効果的だったか」
「どの薬草がどんな症状に有効だったか」
「患者さんの経過はどうだったか」
「それを分析することで、医療の質が上がるんです」
マルタは感心したように頷いた。
「なるほど……」
そして、彼女も木板を取り出し、記録をつけ始めた。
「私も、真似させていただきます」
マルタがペンを取り、二人で並んで静かにペンを走らせる。
カリカリというペンの音だけが響く。
この時間が、私は好きだった。
穏やかで、静かで、でも確かに前進している感覚——
一日の終わりの、静かな達成感。
外では夕日が沈んでいき、オレンジ色の光が窓から差し込んでいる。
◇
数日後の午後。
診療所の外から、馬のいななきと慌ただしい叫び声が聞こえてきた。
「誰か! 誰かいないか!」
私とマルタは顔を見合わせ、急いで外に出た。
そこには——
血まみれの馬車が停まっていた。
御者台には若い男が座っている。二十代前半くらい。
上質な服を着ているが、袖や胸元が赤黒く染まっている。
顔は蒼白で、目は恐怖に見開かれていた。
「盗賊に……父が……!」
彼は震える声で叫んだ。
私は馬車の中を覗き込んだ。
そこには中年の男性が横たわっていた。
五十代くらい。
恰幅の良い体格。
立派な髭。
高価そうな衣服——だが、その腹部は血に染まっている。
男性は苦悶の表情で腹部を押さえ、浅い呼吸を繰り返していた。
血の匂いが鼻をつく。
生臭く、鉄のような匂い。
東京の救命センターで何度も嗅いだ、あの匂い。
「中に運んでください! 急いで!」
私は叫んだ。
若い男と、駆けつけた村人たちが、男性を診療所に運び込む。
診察台に横たえると、私は即座に観察を始めた。
顔色——蒼白。唇も白い。
呼吸——浅く、速い。
脈——弱く、速い。
意識——朦朧としているが、ある。
典型的な出血性ショックの初期症状だ。
「服を切ります」
私はハサミを手に取り、血に染まった衣服を切り開いた。
腹部が露わになる。
そして——
「……これは」
右脇腹に、深い刺し傷があった。
長さ約五センチ。
傷口からは、今も血が流れ出ている。
暗赤色の血——静脈性の出血だ。
だが、それだけではない。
傷の奥から、わずかに黄色っぽい液体が滲んでいる。
腸液だ。
腸管が損傷している可能性が高い。
「いつ刺されたんですか?」
私は若い男に尋ねた。
「二刻ほど前です……」
二刻——約四時間前。
腸管損傷から四時間。
腹膜炎が始まっているかもしれない。
「何があったか、簡単に教えてください」
「街道で……盗賊に襲われました」
若い男——息子だろう——は震える声で説明した。
「護衛が応戦している間に逃げましたが、父は……」
「短剣で刺されたのですね」
「はい……」
私は傷口を観察しながら、頭の中で治療計画を立てた。
止血。
腸管損傷の確認と修復。
腹腔内の洗浄。
閉創。
開腹手術が必要だ。
「手術が必要です」
私は真剣に言った。
「傷は深く、内臓に達しています。このまま放置すれば——」
「待て」
弱々しい声が、私の言葉を遮った。
男性が薄く目を開けている。
苦痛に歪んだ顔で、それでも鋭い目が私を見つめていた。
「お前……子供ではないか……」
「はい。私がこの診療所の——」
「ふざけるな……」
男性が呻くように言った。
「わしは……ベルトルト商会の当主……ベルトルト・ヴァイスだ……」
その名に、マルタが小さく息を呑んだ。
王都でも有数の大商会。
その名は、この辺境にまで届いている。
「そのわしが……医学院も出ておらん……小娘に……」
「父上!」
息子が慌てて制止しようとする。
「落ち着いてください。この方は——」
「黙れ……」
ベルトルトは息子を睨みつけた。
「わしは……本物の医者にしか……体を預けん……」
「こんな田舎の……子供の遊びのような……」
その言葉の途中で、彼の体が大きく痙攣した。
「ぐっ……!」
傷口から、さらに血が溢れ出す。
興奮したせいで、出血が増えたのだ。
「父上!」
「お父様、動かないでください!」
私は叫んだ。
「出血がひどくなります!」
「触るな……!」
ベルトルトは私の手を払いのけようとした。
だが、その動きは弱々しかった。
血を失いすぎている。
体力が、急速に失われている。
「わしは……宮廷医師にしか……」
その言葉の途中で、彼の目が虚ろになった。
体から力が抜け、診察台に崩れ落ちる。
「父上! 父上!」
息子が必死に呼びかける。
私は素早く脈を確認した。
ある。弱いが、ある。
意識を失っただけだ。
出血と疲労による失神。
だが、このままでは——
「マルタさん、手術の準備を」
私は低く、でも確実な声で言った。
マルタは一瞬も迷わず、頷いた。
「すぐに」
「待ってください!」
息子が叫んだ。
「父は……治療を拒否しました。それなのに——」
「このままでは、お父様は死にます」
私は息子の目を真っ直ぐに見つめた。
「刃物は内臓に達しています」
「傷口から漏れている液体——あれは腸液です」
「腸に穴が開いている」
「このまま放置すれば、腹の中で腐敗が広がり、高熱が出て、数日で命を落とします」
息子の顔が、さらに蒼白になる。
「そ、そんな……」
「助かる方法は一つだけ」
「今すぐ、傷を開いて、損傷した腸を修復し、腹の中を洗浄することです」
息子の顔に、様々な感情が交錯する。
恐怖。不安。迷い。
そして——希望。
「本当に……助けられるんですか?」
「絶対とは言えません」
私は正直に答えた。
「出血が多い。時間も経っている」
「でも、手術しなければ、確実に死にます」
「手術すれば、助かる可能性があります」
長い沈黙。
息子は父親の顔を見つめた。
蒼白で、苦痛に歪んだ顔。
浅い呼吸。
弱々しい脈動。
このままでは、父は死ぬ。
息子は決断した。
「お願いします」
深く頭を下げる。
「父を……助けてください」
◇
マルタが素早く手術の準備を整えていく。
煮沸消毒した器具。
清潔な布。
止血用の焼きごて。
縫合針と——吸収糸。
「リーゼ様、準備完了です」
私は深呼吸をした。
刺創からの開腹手術——前世では何度も経験した。
救急救命医として、刺し傷の患者は日常だった。
でも、この体では初めてだ。
十一歳の小さな手で。
限られた器具で。
麻酔もなく。
……できるのか?
一瞬、不安がよぎる。
でも、やるしかない。
目の前で、人が死のうとしている。
助けを求められている。
それに応えないで、何が医師だ。
「始めます」
私は静かに宣言した。
まず、傷口の周囲を消毒する。
蒸留酒を染み込ませた布で、丁寧に拭いていく。
次に、傷口を観察する。
刺し傷——入口は狭いが、奥は深い。
このまま縫合しても、中の損傷は治らない。
傷口を広げて、中を確認する必要がある。
「傷を広げます」
メスを手に取る。
金属の冷たさが、手のひらに伝わる。
手が震える。
……いや。
深呼吸。
震えが止まる。
刺し傷に沿って、皮膚を切開した。
傷口が広がる。
視野が確保される。
皮下脂肪。
筋膜。
腹筋。
一層ずつ、慎重に切り開いていく。
出血がある。
小さな血管からの出血。
マルタが素早く布で押さえ、視野を確保してくれる。
腹膜に到達した。
すでに穴が開いている。
短剣が貫通した跡だ。
慎重に広げる。
腹腔内を観察する。
血液が溜まっている。
かなりの量だ。
清潔な布で、血液を吸い取っていく。
「マルタさん、布を」
「はい」
次々と清潔な布が手渡される。
血液を取り除くと、損傷部位が見えてきた。
小腸だ。
回腸——小腸の末端部に、約三センチの裂傷がある。
そこから腸液が漏れ出している。
黄色っぽい液体。
独特の臭気。
これが腹腔内に広がると、腹膜炎を起こす。
幸い、まだ初期段階だ。
「腸管損傷を確認。修復します」
私は吸収糸を手に取った。
自分たちで作った、羊の腸から作った糸。
これが、本当の意味で役に立つ時が来た。
腸管の縫合——前世で何度も行った手技。
アルベルト縫合——腸管の縫合に適した方法。
漿膜と筋層を合わせるように、丁寧に縫合していく。
一針、二針、三針——
腸液の漏出が止まっていく。
裂傷が閉じていく。
五針、六針、七針——
縫合が完了した。
漏れがないか確認する。
大丈夫だ。しっかりと閉じている。
次に、腹腔内を洗浄する。
清潔な水——煮沸して冷ましたもの——を用意する。
本当なら、生理食塩水を使うところだ。
だが、この環境ではそこまで理想的なものは用意できない。
「マルタさん、塩を少し」
私が言うと、マルタはすぐに頷き、小さな袋を差し出した。
煮沸した水に、ほんの少量の塩を溶かす。
刺激を抑えつつ、汚染を洗い流すための、ぎりぎりの代替策だ。
それを使って、腹腔内を丁寧に洗浄する。
血液と腸液を、残らず取り除いていく。
感染を防ぐために。
「洗浄完了」
最後に、閉腹だ。
腹膜を縫合する。
吸収糸で、連続縫合。
筋層を縫合する。
ここも吸収糸。
皮下組織。
そして皮膚。
最後の一針を縫い終えた時——
私の額には、大量の汗が流れていた。
手が震えている。
全身が疲労で重い。
でも、やり遂げた。
「終わりました」
その言葉と共に、部屋に安堵の空気が流れた。
息子が崩れるように膝をついた。
「ありがとう……ありがとうございます……」
涙が頬を伝っている。
◇
手術から三日後。
ベルトルトは意識を取り戻した。
最初は混乱していた。
自分がどこにいるのか、何が起きたのか分からない様子だった。
「父上、分かりますか?」
息子が顔を覗き込む。
「……ここは……」
ベルトルトの目が、ゆっくりと部屋を見回す。
そして、私を見つけた。
「お前は……あの、子供の……」
「リーゼ・ハイムダルです」
私は静かに答えた。
「手術は成功しました。刃物で傷ついた腸を修復し、お腹の中を洗浄しました」
「手術……?」
ベルトルトの手が、自分の腹部に触れる。
包帯が巻かれている。
鈍い痛みがある。
「わしは……死ぬところだったのか……」
「はい」
私は正直に答えた。
「刃物は腸に達していました。あのまま放置していれば、腹の中で腐敗が広がり、高熱が出て——」
「助からなかったでしょう」
ベルトルトは長い間、天井を見つめていた。
そして、深くため息をついた。
「……すまなかった」
その言葉は、小さかった。
でも、確かに聞こえた。
「わしは、お前を……侮辱した」
「医学院も出ておらん小娘だと」
「なのに、お前は……わしの命を救った」
息子が口を開こうとしたが、ベルトルトは手で制した。
「恥ずかしい話だ」
彼は苦笑した。
「わしは商人として、人を見る目には自信があった」
「商品の価値、相手の器量——それを見抜く目には」
「だが、お前を見誤った」
「年齢や肩書きだけで判断した」
「愚かだった」
ベルトルトは私を真っ直ぐに見つめた。
「礼を言わせてくれ」
「命を救ってくれて、ありがとう」
その言葉に、私は静かに頭を下げた。
「当然のことをしただけです」
「目の前で苦しんでいる人がいれば、助ける」
「たとえ、その人に拒否されても」
「それが、医師の務めですから」
◇
一週間後。
ベルトルトは驚くほど順調に回復した。
傷口の経過も良好。
感染の兆候もない。
発熱もない。
吸収糸は、少しずつ体内で分解されている。
「腹の中の糸も、自然に消えるのか」
ベルトルトは感心したように言った。
包帯を替える時、私が説明したのだ。
「はい。体内で数週間かけて分解されます」
「だから、お腹を開けて糸を取り出す必要がありません」
「この糸も、お前が開発したのか?」
「はい。マルタさんと一緒に」
私はマルタを紹介した。
「彼女の薬草師としての知識がなければ、実現できませんでした」
マルタは照れくさそうに頭を下げた。
「リーゼ様の医学知識があったからこそです」
ベルトルトは二人を見比べて、深く頷いた。
「お前たちは……本物だ」
「わしは王都で多くの医師を見てきた」
「宮廷医師と呼ばれる者たちも」
「だが……」
彼は言葉を切った。
「腹を開いて、傷ついた腸を縫い合わせる」
「そんなことができる医師は、見たことがない」
「普通なら、死を待つだけだ」
「それを、お前は——」
ベルトルトは真剣な表情で言った。
「リーゼ殿。いや、リーゼ先生」
「わしにできることがあれば、何でも言ってくれ」
「ベルトルト商会の力を、お前のために使おう」
◇
ベルトルトが旅立つ日。
傷は完全には癒えていないが、馬車で移動できる程度には回復していた。
彼は馬車に乗り込む前に、もう一度私に頭を下げた。
「改めて、礼を言う」
「盗賊に襲われたのは不運だったが——」
「お前に出会えたのは、幸運だった」
そして、言った。
「王都に戻ったら、お前の名を広めよう」
「『リーゼ・ハイムダル』——辺境の天才医師の名を」
「それは……」
私は少し困った顔をした。
「では、一つだけお願いがあります」
「何だ? 何でも言ってくれ」
「私のことを、広めないでください」
ベルトルトは目を見開いた。
「広めない……?」
「はい。まだ、準備ができていません」
私は正直に説明した。
「私の医療が広まれば、きっと反発も起きます。教会や、既存の医師たちからの。今はまだ、静かに患者を救いたいのです」
ベルトルトは考え込んだ。
「……なるほど。お前の言うことも分かる」
そして、頷いた。
「分かった。今は、控えよう」
「だが、いつかお前の準備ができたら——」
彼は真剣な目で続けた。
「その時は、わしがお前の名を広める」
「お前のような医師が、もっと世に知られるべきだ」
「肩書きや年齢ではなく、実力で評価される」
「そういう世の中になれば、もっと多くの命が救えるはずだ」
「それに見合う礼を、させてくれ」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
馬車が動き出す。
息子が窓から手を振った。
「先生、本当にありがとうございました!」
「父を救っていただいた恩は、一生忘れません!」
馬車が遠ざかっていく。
土埃が舞い上がり、やがて見えなくなった。
マルタが私の隣に立った。
「リーゼ様、新しい協力者ができましたね」
「そうですね」
私は微笑んだ。
「でも、これは始まりに過ぎません」
窓の外を見る。
夕日が沈んでいく。
オレンジ色の光が、村を照らしている。
「もっと勉強しないと」
「もっと多くの人を救えるように」
マルタが優しく微笑む。
「一緒に、頑張りましょう」
「はい。マルタさん」
二人で微笑み合う。
新しい出会いと、新しい挑戦。
私の医師としての道は、まだまだ続いていく。
……でも、本当にこれでいいのかな。
私、本当に医師を名乗っていいのか?
でも。
今日、一人の命を救えた。
それだけは、確かだ。




