第3話 子供の遊び
闇の中で、声が聞こえた。
「このままでは、お父様は死にます」
あの少女の声だ。
「刃物は腸に達しています」
「傷口から漏れている液体——あれは腸液です」
「腸に穴が開いている」
「このまま放置すれば、腹の中で腐敗が広がり、高熱が出て、数日で命を落とします」
死ぬ——わしが?
そんな馬鹿な。
◇
「助かる方法は一つだけ」
少女の声が続く。
「今すぐ、傷を開いて、損傷した腸を修復し、腹の中を洗浄することです」
腹を——開く?
そんなことが、できるのか?
「本当に……助けられるんですか?」
ハインツの声が震えている。
「絶対とは言えません」
少女の声は、冷静だった。
「出血が多い。時間も経っている」
「でも、手術しなければ、確実に死にます」
「手術すれば、助かる可能性があります」
長い沈黙。
◇
「……先生」
ハインツの声がした。
「父は……子供に体を預けるなと言いました」
「でも……」
ハインツの声が、震えている。
「父を救えるのは、先生だけなんですよね」
「はい」
少女が答えた。
「私以外に、この手術ができる者はいません」
「……」
「息子さん、決断はあなたに委ねます」
「お父様は意識がありません」
「あなたが、決めてください」
◇
長い沈黙が続いた。
わしは、闇の中で聞いていた。
ハインツは——どうするのだ。
わしは、あの子供を拒絶した。
子供の遊びだと、侮った。
それでも、息子は——
「お願いします」
ハインツの声が聞こえた。
「父を……助けてください」
「分かりました」
少女の声が、静かに答えた。
「全力を尽くします」
◇
夢うつつの中で、わしは見ていた。
小さな手が、わしの腹に触れている。
銀色の髪が、揺れている。
「傷を広げます」
少女の声が、静かに響く。
「メス」
金属の音がする。
そして——
金属が、皮膚を切る感触。
痛い——いや、痛みは感じない。
意識が朦朧としているからか。
◇
「皮下脂肪。筋膜。腹筋」
少女が、淡々と呟いている。
「一層ずつ、慎重に切り開いていく」
何をしている——
この子供は、何をしているのだ——
わしの腹を、本当に開いているのか?
「腹膜に到達しました」
「腹腔内を観察します」
少女の目が、真剣だった。
子供の遊びではない。
本物の——医師の目だ。
◇
「小腸です」
少女が言った。
「回腸に、約三センチの裂傷があります」
「そこから腸液が漏れ出しています」
「腸管損傷を確認。修復します」
マルタという女が、道具を手渡している。
「針と糸」
少女が受け取る。
小さな手。
震えていない。
確かな動きで、何かを縫っている。
◇
「一針、二針、三針——」
少女の声が聞こえる。
「アルベルト縫合で、漿膜を内翻させながら……」
「腸液の漏出が止まっていく」
「裂傷が閉じていく」
これは——夢か?
子供が、わしの腹の中を縫っている?
そんな馬鹿なことが——
「縫合が完了しました」
「漏れがないか確認します」
少女が、腹の中を覗き込んでいる。
「大丈夫です。しっかりと閉じています」
「次に、腹腔内を洗浄します」
◇
水が、腹の中に注がれる。
不思議な感触だ。
「血液と腸液を、残らず取り除いていきます」
「感染を防ぐために」
感染——
そうだ、腹を開けば、腐敗する。
だから、普通は腹を開く手術などできない。
なのに、この子供は——
「洗浄完了」
「残った液体を吸い取って……」
「よし、きれいになりました」
◇
「最後に、閉腹です」
少女の手が、再び針と糸を持つ。
「腹膜を縫合します」
一針、一針、丁寧に。
「筋層を縫合します」
確実な動き。
「皮下組織」
迷いがない。
「そして皮膚」
小さな手が、確実に動いている。
「終わりました」
その言葉と共に——
わしの意識は、再び闇に沈んだ。
◇
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
夢を見ていた気がする。
商人として駆け抜けた五十年の人生。
父から継いだ商会。
苦労して大きくした商売。
そして——ハインツの顔。
まだ、死ぬわけにはいかない。
息子に、すべてを教えなければ。
商会を、次の世代に引き継がなければ。
◇
光が、見えた。
眩しい。
「……」
わしは、ゆっくりと目を開けた。
天井が見える。
木造の、質素な天井だ。
「父上……?」
ハインツの声が聞こえた。
「父上、起きたんですか……?」
「……ハインツ……」
わしは、かすれた声で答えた。
「ここは……」
「ハイムダル領の診療所です」
息子の目に、涙が浮かんでいた。
「父上、良かった……目が覚めて、本当に良かった……」
◇
「わしは……生きているのか……」
「はい」
ハインツが頷いた。
「リーゼ先生が、父上を救ってくれたんです」
リーゼ——
あの、銀髪の少女か。
わしは、自分の腹に手を当てた。
包帯が巻かれている。
鈍い痛みがあるが、あの焼けるような熱さはない。
「あの子供が……わしを……?」
「はい」
ハインツが頷いた。
「腹を開いて、傷ついた腸を縫い合わせて——」
「父上の命を、救ってくれました」
◇
わしは、天井を見つめた。
あの夢は——現実だったのか。
子供が、わしの腹を開き、腸を縫い——
信じられない。
だが、わしは生きている。
それだけは、確かだ。
「ハインツ……」
「はい」
「お前が……手術を頼んだのか」
ハインツは、少し躊躇してから頷いた。
「はい……父上は反対されていましたが……」
「でも、先生を信じました」
「なぜだ」
わしは、息子を見た。
「わしは、あの子供を拒絶した。子供の遊びだと言った」
「それでも、お前は——」
◇
ハインツは、真剣な目で答えた。
「先生の目を見ました」
「目……?」
「父上がいつも言っていたことです」
「人を見るなら、まず目を見ろと」
「……」
「先生の目には、澱みがありませんでした」
「真剣で、自信に満ちていて——」
「本物の医師の目だと、思いました」
わしは、言葉を失った。
息子は——わしの教えを、そのまま実践したのだ。
「だから、先生を信じました」
「父上には悪いと思いましたが……」
「命には代えられないと思って」
◇
わしは、しばらく黙っていた。
そして——
「よくやった」
静かに言った。
「え……?」
「お前の判断は、正しかった」
「父上……」
「わしは……間違っていた」
わしは、天井を見つめた。
「人を見る目に自信があると、偉そうに言っていた」
「なのに、あの子供を——リーゼ先生を、見誤った」
「お前の方が、よほど正しく人を見ていた」
ハインツの目に、涙が浮かんだ。
「父上……」
「ありがとう、ハインツ」
わしは、息子の手を握った。
「わしの命を、救ってくれた」




