第5話 一歩ずつ
治療が始まって、一週間が過ぎた。
◇
「殿下、これが今日の薬草です」
リーゼ先生が、湯気の立つ杯を差し出した。
「飲んでください」
僕は、それを受け取った。
苦い匂いがする。
「正直に言うと、美味しくはありません」
リーゼ先生が、申し訳なさそうに言った。
「でも、効果は確かです」
「分かっている」
僕は、一気に飲み干した。
舌が痺れるほど、苦かった。
「……っ」
「よく頑張りましたね」
リーゼ先生が、水を渡してくれた。
「この薬草は、体の中の炎症を抑えます」
「免疫が筋肉を攻撃するのを、防いでくれるのです」
「なるほど……」
「毎日、朝と夜に飲んでください。欠かさずに」
「分かった」
◇
薬草治療と並行して、リハビリが始まった。
「殿下、今日は足の運動をしましょう」
リーゼ先生が、僕の足を持った。
「私が支えますから、ゆっくり曲げ伸ばしをしてください」
「……分かった」
僕は、足を動かそうとした。
でも、力が入らない。
ほんの少し動かすだけで、息が切れる。
「大丈夫です。最初は、これくらいで」
リーゼ先生が、優しく言った。
「少しずつ、少しずつです」
「……情けないな」
僕は、自嘲した。
「こんな簡単なことも、できないなんて」
「情けなくなんかありません」
リーゼ先生の声が、はっきりと響いた。
「半年間、筋肉を使っていなかったのです。弱るのは当然です」
「でも、筋肉は必ず戻ります。諦めなければ」
僕は、その言葉を胸に刻んだ。
◇
最初の二週間は、地獄だった。
毎日の苦い薬。
動かない体を、無理やり動かすリハビリ。
疲れて、痛くて——
何度もやめたくなった。
「殿下、今日はここまでにしましょう」
「いや、もう少し……」
「無理は禁物です」
リーゼ先生が、首を振った。
「焦らなくていいのです。回復には、時間がかかります」
「でも……」
「殿下」
リーゼ先生が、僕の目を見た。
「焦りは、敵です。一歩ずつ、確実に進みましょう」
「急がば回れ、という言葉があります」
「急がば……回れ?」
「早く目的地に着きたいなら、近道を行くより、遠回りでも安全な道を行け、という意味です」
リーゼ先生が、微笑んだ。
「治療も同じです。焦って無理をすると、かえって遅くなります」
「……分かった」
僕は、深呼吸をした。
「焦らない。一歩ずつ」
「はい。それでいいのです」
◇
三週間が過ぎた。
少しずつ、変化が現れ始めた。
「殿下、手を握ってみてください」
リーゼ先生が、手を差し出した。
僕は、その手を握った。
「……あれ?」
以前より、力が入る気がする。
「良いですね。筋力が戻ってきています」
「本当か……?」
「はい。薬草の効果が出ています」
「炎症が治まって、筋肉の回復が始まっているのです」
僕は、自分の手を見つめた。
ほんの少しだが、確かに力が戻っている。
「治っている……」
「はい。殿下は、頑張っていますから」
リーゼ先生が、嬉しそうに言った。
僕の胸に、希望の火が灯った。
◇
一ヶ月が過ぎた頃——
「殿下、今日は立ってみましょう」
「立つ……?」
「はい。そろそろ、試す時です」
僕は、緊張した。
半年以上、立っていない。
自分の足で、体を支えられるのか。
「大丈夫です。私が支えます」
リーゼ先生が、僕の腕を取った。
「ゆっくり、立ち上がってください」
僕は、ベッドの縁に足を下ろした。
床に、足の裏がつく。
冷たい感触。
「では、立ち上がって」
リーゼ先生に支えられながら、僕は立ち上がろうとした。
足に、力を入れる。
「……っ」
膝が、震える。
体が、重い。
でも——
「立った……!」
僕は、自分の足で立っていた。
ふらふらで、リーゼ先生に支えられているけど。
確かに、立っていた。
「やりましたね、殿下!」
リーゼ先生が、嬉しそうに言った。
「立てました!」
僕の目から、涙が溢れた。
「立てた……僕、立てたんだ……!」
◇
「カール!」
兄上が、駆けつけてきた。
「立っているのか!?」
「兄上……見て」
僕は、震える足で立っていた。
「僕、立てたよ……!」
兄上の目にも、涙が浮かんだ。
「カール……カール……!」
兄上が、僕を抱きしめた。
「よく頑張った。よく頑張ったな……」
「リーゼ先生のおかげだよ」
僕は、リーゼ先生を見た。
「先生が、治してくれたんだ」
「いいえ」
リーゼ先生が、首を振った。
「殿下自身が、頑張ったからです」
「私は、手伝っただけです」
◇
それから、毎日立つ練習をした。
最初は、数秒しか立てなかった。
でも、日を追うごとに長くなっていく。
十秒、三十秒、一分……
「殿下、安定してきましたね」
「うん。でも、まだ支えがないと不安だ」
「大丈夫です。少しずつ、慣れていきましょう」
リーゼ先生は、いつも優しく励ましてくれた。
◇
ある日——
「殿下、今日は歩いてみましょう」
リーゼ先生の言葉に、僕の心臓は跳ねた。
「歩く……」
「はい。一歩だけでいいです」
リーゼ先生が、僕の腕を支えた。
「私が傍にいます。怖くありません」
僕は、深呼吸をした。
右足を、前に出す。
震える足。
重い体。
でも——
一歩。
たった一歩。
でも、確かに——僕は歩いた。
「……歩けた」
声が、震えた。
「歩けた……!」
「はい!」
リーゼ先生が、満面の笑みを浮かべた。
「殿下、歩けましたね!」
◇
一歩が、二歩になった。
二歩が、三歩になった。
毎日、少しずつ。
でも、確実に。
僕の足は、力を取り戻していった。
「殿下、今日で十歩です!」
「本当か……」
「はい。すごい進歩です」
リーゼ先生が、嬉しそうに拍手した。
僕は、自分の足を見つめた。
まだ、ふらふらだ。
走ることなんて、とてもできない。
でも——歩ける。
自分の足で、歩ける。
それだけで、嬉しかった。
◇
「リーゼ先生」
「はい?」
「もっと歩けるようになりたい」
僕は、真剣な顔で言った。
「走れるようになりたい」
「馬にも、乗りたい」
「必ず、なれます」
リーゼ先生が、頷いた。
「殿下は、諦めない心を持っています」
「それが、一番大切なことです」
「一歩ずつ、前に進んでいきましょう」
「ああ」
僕は、窓の外を見た。
厩舎が見える。
シュテルンが、草を食べている。
「待っていてくれ、シュテルン」
僕は、心の中で呟いた。
「もうすぐ、また会いに行けるから」




