第2話 兄の背中
兄上は、僕の五歳年上だ。
物心ついた頃から、兄上は僕の憧れだった。
◇
幼い頃の記憶がある。
「兄上、待って!」
僕は、必死に走っていた。
庭園を駆ける兄上の背中を、追いかけていた。
「遅いぞ、カール!」
兄上が、振り返って笑う。
「もっと速く走れ!」
「待ってよ……!」
どんなに頑張っても、追いつけなかった。
兄上は、いつも僕の前にいた。
大きくて、頼もしい背中。
僕は、その背中を見て育った。
◇
兄上は、完璧だった。
剣術も、馬術も、学問も——何をやらせても、一番だった。
王位継承者として、厳しく育てられた。
でも、兄上は弱音を吐かなかった。
「王子は、民の手本であらねばならない」
父上にそう言われて、兄上は常に努力を続けた。
僕は、そんな兄上を尊敬していた。
いつか、兄上のようになりたいと思っていた。
◇
でも、兄上は厳しいだけの人ではなかった。
「カール、見てみろ」
ある日、兄上が僕を庭園に連れ出した。
「あれは何だと思う?」
兄上が指さした先に、小さな鳥がいた。
巣から落ちたのか、地面でもがいている。
「鳥……?」
「うむ。羽を怪我しているようだ」
兄上は、そっと鳥を拾い上げた。
「可哀想に。このままでは死んでしまう」
「どうするの、兄上?」
「助けるに決まっているだろう」
兄上は、優しく微笑んだ。
「弱っている者を見捨てるのは、王子の恥だ」
◇
それから、兄上は毎日その鳥の世話をした。
傷の手当てをして、餌を与えて。
忙しい公務の合間を縫って、小さな命を守り続けた。
「兄上、鳥はどう?」
「だいぶ良くなったぞ。見てみろ」
数週間後、鳥は羽ばたけるようになっていた。
「すごい……!」
「もう大丈夫だ。自然に帰してやろう」
兄上が、空に向かって手を放す。
鳥は、一度だけ振り返り——そして、青い空へ飛んでいった。
「兄上、寂しくない?」
「少しな」
兄上が、空を見上げながら言った。
「でも、あいつが自由に飛べるようになった。それが一番だ」
その横顔を見て、僕は思った。
兄上は、本当に優しい人だと。
◇
病気になってから、兄上の優しさを、改めて知った。
「カール、起きているか?」
毎日、朝と夜、必ず顔を見に来てくれる。
「兄上……」
「今日は、外が良い天気だぞ」
兄上が、カーテンを開けてくれた。
窓から、陽光が差し込む。
「ほら、見てみろ。庭園の花が咲いている」
「……綺麗ですね」
僕は、力のない声で答えた。
正直、花を見る気力もなかった。
でも、兄上が嬉しそうなので、無理に笑顔を作った。
◇
「カール、本を読んでやろうか」
「……はい」
兄上が、椅子を引いて座った。
手には、冒険物語の本。
僕が好きだった本だ。
「『その日、勇者は旅に出た。故郷を離れ、未知の世界へ——』」
兄上の声を聞きながら、僕は目を閉じた。
かつて、僕も冒険に憧れていた。
馬に乗って、遠くへ行きたいと思っていた。
でも、もう——
「カール? 聞いているか?」
「あ……はい」
「疲れたか? 眠るなら、また明日続きを読むぞ」
「いえ、大丈夫です。続けてください」
僕は、無理に目を開けた。
兄上が、せっかく時間を作ってくれているのに。
眠るわけにはいかない。
◇
ある日、兄上が車椅子を押してくれた。
「外に出よう、カール」
「外……?」
「ずっと部屋にいては、気が滅入るだろう」
兄上が、僕を庭園に連れ出してくれた。
久しぶりの外の空気。
風が、頬を撫でる。
「気持ちいいだろう?」
「……はい」
僕は、複雑な気持ちだった。
嬉しいけど、悲しい。
かつては、自分の足で駆け回っていた場所だ。
今は、車椅子に座って見上げることしかできない。
「兄上」
「何だ?」
「僕の馬、シュテルンは元気ですか?」
「……ああ、元気だ」
兄上の声が、少し曇った。
「毎日、お前を待っているぞ」
「そうですか……」
僕は、遠くの厩舎を見た。
シュテルン——僕が初めて乗った馬。
まだ、覚えていてくれるだろうか。
いつか、また乗れる日が来るだろうか。
……来ないだろう。
僕は、目を伏せた。
◇
夜中に、目が覚めた。
隣の部屋から、声が聞こえる。
「……だから、もっと医者を探せと言っているのだ」
兄上の声だ。
「殿下、これ以上は……王国中の名医を呼びましたが、誰も原因が分からないと」
「ならば、国外からでも呼べ!」
兄上が、声を荒げた。
「あいつは、まだ十歳だ。これからの人生があるのに……」
「殿下……」
「俺は……俺は、弟を救えないのか」
兄上の声が、震えていた。
「王位継承者だと言われても、弟一人救えないなら、意味がない……」
僕は、布団の中で震えていた。
兄上が、こんなにも苦しんでいる。
僕のせいで。
◇
翌朝、兄上はいつも通りの笑顔で部屋に来た。
「おはよう、カール。今日の気分はどうだ?」
「……兄上」
僕は、兄上の顔を見た。
目の下に、隈がある。
昨夜も、遅くまで起きていたのだろう。
「どうした?」
「僕のこと、諦めてもいいですよ」
「……何を言っている」
「兄上には、大切な公務があります。僕のために、時間を使わなくても……」
「黙れ」
兄上の声が、厳しくなった。
「そんなことを言うな」
「でも……」
「カール」
兄上が、僕の手を握った。
「お前は、俺の弟だ。世界で一番大切な存在だ」
「公務も、王位も、お前の命には代えられない」
「兄上……」
「だから、諦めるな。俺も諦めない」
兄上の目が、真剣だった。
「必ず、お前を治す方法を見つける。だから——」
「もう少しだけ、待ってくれ」
僕は、こらえきれずに泣いた。
こんなに僕を想ってくれる兄がいる。
なのに、僕は何もできない。
それが、悔しかった。
◇
日が過ぎていく。
僕の体は、良くならない。
むしろ、少しずつ弱っていく気がする。
医者たちは、首を傾げるばかり。
「申し訳ございません。原因が分からない以上、治療のしようが……」
「対症療法を続けるしかありません」
希望のない言葉ばかりが、繰り返される。
僕は、諦めかけていた。
◇
そんなある日。
兄上が、嬉しそうな顔で部屋に入ってきた。
「カール、良い知らせだ」
「良い知らせ……?」
「新しい医者を見つけた」
兄上の目が、輝いていた。
「今まで誰も治せなかった病を、次々と治している天才医師がいるそうだ」
「天才医師……」
僕は、あまり期待できなかった。
これまでも、たくさんの「名医」が来たが、誰も治せなかった。
「今度こそは違う。俺は、確信している」
「なぜ、そう思うのですか?」
「彼女は——」
兄上が、少し照れくさそうに言った。
「十二歳の少女なんだ」
「十二歳……?」
僕と、そう変わらない年齢。
そんな子供が、医師?
「リーゼ・フォン・ハイムダルという。王都の医学院で学んでいるそうだ」
「若いけれど、その知識と技術は本物らしい」
兄上が、僕の手を握った。
「彼女なら、きっとお前を治せる」
「俺は、そう信じている」
◇
僕は、まだ信じられなかった。
十二歳の少女が、医師?
今まで、何十人もの大人の医者が治せなかったのに。
そんな子供に、何ができるのか。
でも——
兄上の目が、初めて本当の希望を宿していた。
それを見て、僕は思った。
少しだけ、信じてみようと。
兄上のために。
そして——自分のために。
◇
数日後。
その少女が、王宮にやってきた。




