第1話 失われた翼
僕の名は、カール・フォン・ヴィルヘルムシュタイン。
この国の第二王子だ。
◇
「カール、待て!」
「兄上こそ、遅いですよ!」
馬を駆って、王宮の庭園を走り抜ける。
風が顔を撫で、心臓が高鳴る。
この瞬間が、僕は大好きだった。
「くそっ、また負けた」
追いついてきた兄上——アレクサンダー兄上が、悔しそうに笑った。
「お前、本当に馬が上手くなったな」
「兄上が教えてくれたからです」
僕は胸を張った。
「いつか、兄上より速く走れるようになります」
「生意気な弟だ」
兄上が、僕の頭を乱暴に撫でた。
「だが、その意気だ。王子たるもの、何事にも負けてはならない」
「はい!」
僕は、力強く頷いた。
◇
あの頃の僕は、何でもできると思っていた。
乗馬も、剣術も、弓術も——すべてに自信があった。
兄上は、常に僕の目標だった。
五歳年上の兄上は、剣も馬も、僕より遥かに上手かった。
でも、いつか追いつくつもりだった。
追い越してやるつもりだった。
それが、王子としての誇りだった。
◇
異変に気づいたのは、十歳の誕生日を迎えた頃だった。
「殿下、今日の剣術の稽古は……」
「分かっている」
僕は、剣術師範の前に立った。
いつものように、木剣を構える——
「……あれ?」
腕が、重かった。
いつもと同じ木剣なのに、まるで鉛のように感じる。
「殿下?」
「何でもない」
僕は首を振って、稽古を始めた。
しかし——
「殿下、動きが鈍いですぞ」
「体調が優れないのでは?」
師範が、心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫だ。続ける」
僕は、意地になって木剣を振り続けた。
しかし、腕がどんどん重くなっていく。
足も、うまく動かない。
そして——
ガタンッ
僕は、その場に崩れ落ちた。
◇
「カール!」
兄上が、駆けつけてきた。
「大丈夫か!?」
「……すみません、兄上」
僕は、何とか笑顔を作った。
「少し、疲れただけです」
「医者を呼べ!」
兄上の声が、遠くに聞こえた。
僕の意識は、そこで途切れた。
◇
目が覚めると、自分の部屋だった。
「カール、起きたか」
兄上が、心配そうに覗き込んでいた。
「兄上……僕、どうしたんですか」
「倒れたんだ。医者が診察した」
兄上の表情が、曇った。
「原因は……分からないそうだ」
「分からない……?」
「ああ。筋肉が弱っているらしい。だが、なぜそうなったのか——」
兄上は、言葉を詰まらせた。
「休めば、きっと良くなる。心配するな」
しかし、その言葉には確信がなかった。
僕は、不安になった。
◇
一週間が過ぎた。
僕の体は、良くならなかった。
むしろ、どんどん悪くなっていく。
立ち上がることさえ、辛くなってきた。
「殿下、お薬を」
侍女が、薬湯を持ってくる。
でも、飲んでも効かない。
何も、変わらない。
「殿下、お食事を」
食欲もなかった。
体を動かせないから、お腹も空かない。
ただ、ベッドに横たわっているだけ。
それが、僕の日常になっていた。
◇
「陛下、王妃様がお見えです」
母上が、部屋に入ってきた。
「カール、体調はどうですか」
「……あまり、変わりません」
僕は、正直に答えた。
母上の目に、涙が浮かんだ。
「ごめんなさい、カール……私がもっと早く気づいていれば……」
「母上のせいではありません」
僕は首を振った。
「僕が、弱いだけです」
「そんなことはありません!」
母上が、僕の手を握った。
「あなたは強い子です。きっと、良くなります」
でも、その言葉を信じることは、もうできなかった。
◇
一ヶ月が過ぎた。
僕は、ついに歩けなくなった。
「殿下、こちらを」
侍従が、車椅子を持ってきた。
「これで、お部屋の中を移動できます」
車椅子——
僕は、それを見て絶望した。
もう、自分の足では歩けないのだ。
馬に乗ることも、剣を振ることも、走ることも——
すべてが、失われた。
「……ありがとう」
僕は、力のない声で答えた。
◇
車椅子に乗って、窓辺に移動した。
庭園が見える。
騎士たちが、剣術の稽古をしている。
馬たちが、駆け回っている。
かつての僕の姿が、そこにあった。
「僕も、あそこにいたかった……」
涙が、頬を伝った。
なぜ、僕だけがこんな目に遭うのか。
何が悪かったのか。
分からなかった。
ただ、悔しくて、悲しくて、どうしようもなかった。
◇
「カール」
兄上が、部屋に入ってきた。
「何を見ている」
「……庭を」
僕は、目を逸らした。
涙を見られたくなかった。
「そうか」
兄上が、僕の隣に座った。
しばらく、二人で黙って庭園を見つめていた。
「兄上」
「何だ」
「僕は……もう、兄上と競えませんね」
声が、震えた。
「乗馬も、剣術も……もう、何もできない」
「カール……」
「兄上の足手まといです。僕がいなければ、兄上は……」
「黙れ」
兄上の声が、低く響いた。
僕は、驚いて顔を上げた。
兄上の目が、真剣だった。
「お前は、足手まといなんかじゃない」
「でも……」
「俺が、お前の足になる」
兄上が、僕の肩を掴んだ。
「お前が歩けないなら、俺が背負う。走れないなら、俺が連れて行く」
「兄上……」
「お前は、俺の大切な弟だ。足手まといだなんて、二度と言うな」
兄上の目にも、涙が浮かんでいた。
僕は、こらえきれずに泣いた。
兄上の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、兄上……」
「謝るな。お前は、何も悪くない」
兄上が、優しく僕を抱きしめてくれた。
◇
それから、兄上は毎日僕のところに来てくれた。
公務の合間を縫って、必ず顔を見せてくれる。
本を読んでくれたり、外の話を聞かせてくれたり。
「今日は、騎士団の演習があったんだ」
「へえ……どうでしたか?」
「なかなか見事だった。お前にも見せたかったな」
兄上が、少し寂しそうに笑う。
僕は、胸が締め付けられた。
兄上は、僕のために時間を割いている。
王位継承者としての公務を減らして、病人の弟の世話をしている。
それが、申し訳なかった。
◇
ある夜、偶然に会話を聞いてしまった。
「アレクサンダー殿下、最近公務への出席が減っております」
「……分かっている」
「諸侯たちも、心配しておりますぞ」
「弟が病気なのだ。傍にいてやりたい」
「しかし、殿下は次期国王……カール殿下は、医師たちに任せて——」
「任せられん!」
兄上の怒声が響いた。
「あいつらは、何も分かっていない。『原因不明』の一点張りで、治療法すら示せない」
「カールは、日に日に弱っている。俺が傍にいなくて、誰が支えるのだ」
「……しかし……」
「もういい。下がれ」
僕は、震えていた。
兄上が、こんなにも苦しんでいるなんて。
僕のせいで、兄上が——
「ごめんなさい……」
僕は、布団の中で声を殺して泣いた。
「ごめんなさい、兄上……」
◇
十歳の僕は、すべてを失った。
歩く力。走る力。馬に乗る力。
そして、未来への希望。
毎日、ベッドに横たわり、天井を見つめるだけ。
体が弱っていくのを、感じていた。
心も、一緒に弱っていく。
「僕は、このまま死ぬのかな……」
ふと、そんな考えが浮かんだ。
このまま、何もできずに消えていく。
兄上に迷惑をかけ続けながら。
それが、僕の運命なのか。
◇
王宮には、たくさんの医師が呼ばれた。
王国中から、腕利きの医師たちが集まった。
しかし——
「原因は、分かりません」
「このような症例は、見たことがありません」
「おそらく……お体を楽にするしか……」
誰も、治せなかった。
誰も、希望を与えてくれなかった。
僕は、諦めた。
もう、良くならないのだと。
このまま、朽ちていくのだと。
◇
そんな絶望の中で——
一人の少女が、王宮にやってきた。
十二歳の、幼い女の子。
銀色の髪と、紫色の瞳。
彼女の名は——
リーゼ・フォン・ハイムダル。
僕は、まだ知らなかった。
この出会いが、僕の運命を変えることを。
失われた翼を、取り戻してくれることを。




