第2話 女の道
六年が過ぎた。
私は十四歳になっていた。
◇
「お姉ちゃん、また勉強?」
ルーカスが部屋を覗き込んできた。
十歳になった弟は、以前より落ち着いた少年になっていた。
激しい運動はできないが、穏やかに過ごしている。
「ええ、医学書を読んでいるの」
「お姉ちゃん、本当に医学が好きだね」
ルーカスは笑った。
「僕のためでしょ? ありがとう」
「……分かってるの?」
「うん。僕、馬鹿じゃないよ」
ルーカスは、少し寂しそうに笑った。
「僕の病気のこと、調べてくれてるんでしょ」
私は、何も言えなかった。
◇
「でもね、お姉ちゃん」
ルーカスは、窓の外を見た。
「僕のために、お姉ちゃんが苦しむのは嫌だよ」
「苦しんでなんかいないわ」
「嘘だよ」
ルーカスは振り返った。
「お姉ちゃん、最近よく泣いてるでしょ」
「……」
「壁が薄いから、聞こえるんだ」
私は、うつむいた。
確かに、泣いていた。
医学書を読めば読むほど、この病の深刻さが分かってきたから。
◇
ブルーメンタール家の病——
医学書には「血友病」という名前で記載されていた。
血液を固める成分が不足している病。
男児のみに発症し、女性は「保因者」となる。
治療法は——なし。
対症療法のみ。
出血したら、薬草と魔法で止血する。
それしか、方法がなかった。
「治らないの……」
私は、何度も絶望した。
しかし、諦めることはできなかった。
◇
「ルーカス」
私は、弟の手を握った。
「私は、医師になる」
「え?」
「王都の医学院で学んで、本物の医師になる」
「そして、お前の病気を治す方法を見つける」
ルーカスは、目を丸くした。
「でも、お姉ちゃん……女の人が医師になれるの?」
「……難しいわ」
正直に答えた。
「でも、不可能じゃない」
「王立医学院には、女性の入学も認められている」
「数は少ないけど、女性医師もいる」
「私も、なれるはずよ」
◇
その夜、私は父の書斎を訪ねた。
「お父様、お話があります」
「何だ、エリーゼ」
父は、書類から顔を上げた。
「私を、王立医学院に入学させてください」
父の手が、止まった。
「……何と言った?」
「医学院に行きたいのです」
私は、まっすぐ父を見つめた。
「医師になりたいのです」
◇
父は、しばらく黙っていた。
そして——
「馬鹿なことを言うな」
冷たい声で言った。
「女が医師になるなど、聞いたことがない」
「女性医師はいます。数は少ないですが——」
「例外だ」
父は、机を叩いた。
「お前は、男爵家の令嬢だ」
「医師などという下賤な職業に就く必要はない」
「下賤……」
私は、言葉を失った。
◇
「お前の役目は、良家に嫁ぐことだ」
父は、厳しい目で言った。
「ブルーメンタール家の名を汚すような真似は許さん」
「でも、ルーカスは——」
「ルーカスのことは、私が何とかする」
父は、遮った。
「優秀な医師を雇う。金なら、いくらでも出す」
「それで十分だ。お前が医師になる必要はない」
「でも……」
「もう、この話は終わりだ」
父は、再び書類に目を落とした。
私は、絶望的な気持ちで書斎を出た。
◇
部屋に戻り、泣いた。
「どうして……」
私は、枕に顔を埋めた。
「私は、弟を救いたいだけなのに……」
「なぜ、女だからという理由で……」
その時、部屋の扉がノックされた。
「エリーゼ」
母の声だった。
「入っても、いい?」
「……はい」
◇
母が入ってきた。
「泣いていたのね」
母は、私の隣に座った。
「お父様の話を、聞いたわ」
「お母様……」
「エリーゼ、あなたの気持ちは分かるわ」
母は、優しく私の髪を撫でた。
「私も……同じ気持ちだから」
「え……?」
「私も、この『呪い』を持っているの」
母の声は、震えていた。
「ルーカスにこの病を伝えたのは、私の血」
「毎日、自分を責めている」
「息子を救えないことが、辛くて……」
◇
「お母様……」
私は、母の手を握った。
「お母様のせいじゃありません」
「ありがとう、エリーゼ」
母は、涙を拭いた。
「でも、私には医学の知識がない」
「何もできない」
「だから、あなたが医師を目指すと聞いて……」
母は、私の目を見つめた。
「嬉しかったの」
「私の代わりに、ルーカスを救ってくれるかもしれない」
「そう思ったら……」
◇
「お母様」
私は、決意を込めて言った。
「私、諦めません」
「お父様を、説得してみせます」
「……難しいわよ」
「分かっています」
私は、立ち上がった。
「でも、諦めたら終わりです」
「ルーカスを救うために、私は何でもします」
母は、微笑んだ。
「強い子ね、あなたは」
「……お母様に似たのかもしれません」
◇
翌日から、私は父への説得を始めた。
「お父様、もう一度考えてください」
「駄目だ」
「医学院の入学試験を受けさせてください」
「駄目だ」
「合格したら、認めてくれませんか」
「その話は、もうするな」
何度断られても、私は引き下がらなかった。
毎日、父の書斎を訪ね、同じ話をした。
◇
一週間が過ぎた。
「エリーゼ」
父は、疲れた顔で言った。
「お前は、本気なのだな」
「はい」
「なぜ、そこまでして医師になりたい」
「ルーカスを救うためです」
私は、はっきりと答えた。
「そして、同じ病に苦しむ人たちを救うためです」
「金を払えば、優秀な医師を——」
「お父様」
私は、遮った。
「他人に任せて、後悔しないのですか」
「……」
「もし、ルーカスに何かあったとき」
「『自分でできることがあったのに、しなかった』」
「そう思って、後悔しないのですか」
父は、黙った。
◇
「私は、後悔したくありません」
私は、続けた。
「たとえ失敗しても、自分でやれることは全部やりたい」
「それが、家族というものではないですか」
父は、長い間黙っていた。
そして——
「……分かった」
「お父様!」
「条件がある」
父は、厳しい目で言った。
「二年だ。二年以内に、成果を出せ」
「成果が出なければ、諦めて嫁に行け」
「いいな?」
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、お父様」
「必ず、成果を出してみせます」
◇
「エリーゼ」
父は、私を呼び止めた。
「一つ、聞きたいことがある」
「何でしょうか」
「お前は……自分も『保因者』かもしれないと、分かっているのか」
私は、頷いた。
「はい」
「お前が将来、子供を産んだとき……」
「その子が、同じ病を持つかもしれない」
「分かっています」
私は、はっきりと答えた。
「だからこそ、治療法を見つけたいのです」
「私だけでなく、すべての『保因者』と、その子供たちのために」
父は、何も言わなかった。
しかし、その目には——
複雑な感情が浮かんでいた。
◇
王都への出発の日が来た。
「お姉ちゃん、頑張ってね」
ルーカスが、私を見送ってくれた。
「ありがとう」
私は、弟を抱きしめた。
「必ず、帰ってくるわ」
「お前の病気を治す方法を見つけて」
「うん。待ってる」
ルーカスは、笑顔で手を振った。
◇
馬車に乗り込むとき、母が近づいてきた。
「これを」
母は、小さな袋を差し出した。
「私のへそくりよ。困ったときに使いなさい」
「お母様……」
「無理はしないでね」
母は、私の頬に手を当てた。
「でも、諦めないで」
「私たち女性には、男性にはない強さがある」
「それを、忘れないで」
私は、涙をこらえて頷いた。
「はい、お母様」
◇
馬車が動き出した。
窓から、家族の姿が小さくなっていく。
「行ってきます」
私は、小さく呟いた。
王都——王立医学院。
そこで、私は医師になる。
女だからという理由で、諦めたりしない。
ルーカスを救う。
必ず。
◇
十四歳の私は、新しい世界へと旅立った。
待っているのは、想像以上の困難だった。
しかし、私は知らなかった。
王都で、運命を変える出会いが待っていることを。
十二歳の少女医師——リーゼとの出会いが。




